大航海物語 切手で綴る 大航海時代 と 未知の島(幻島)
ファントム・アイランド
Phantom Islands
幻の島

地図

PITCAIRN ISLANDS
幻の孤島

ピトケーン 1969 発行

絶海の孤島

1496 アゾレス諸島発見500年記念 1996
ポルトガル 1996 発行


FAROE ISLANDS
トゥーレ島とフェロー諸島の古地図、1539
怪獣→




シャチ→






クジラ→


. (Tile Island) (Fare(Faroe)Island) (Ambra Island) .
フェロー諸島 2019 発行

オルテリュウスの古地図
世界の舞台(Orbis Terraum, 1570)







アニアン海峡


ジパング






テラ・アウストラリス
1522 マゼランの世界一周航海480年記念  2002
フィリピン 2002 発行

ファントム・アイランド
  (Phantom islands)
  別名:幻島(まぼろしとう)、伝説(神話・仮設上)の島
ファントム・アイランドは、一度はその存在が信じられ、地図にも記載されたものもあるも、後代の調査でその存在が否定された島などのことです。なお、厳密には地図(海図)上に有史以来のある期間(数世紀にわたる場合もある)にわたって記載されるも、後に削除された島(島嶼)のこと。

索 引
@アトランティス Aムー Bレムリア Cカリフォルニア Dオーロラ
Eクロッカー Fブラッドリー Gサンニコフ Hピープス Iサンディ
Jロスジャルディン Kトンプソン Lファタモルガーナラネズ Mベルメハ Nアンティリア
Oバス P中ノ鳥島 Qトゥーレ Rテラアウストラリス Sジーランディア


@アトランティス大陸島
 (Island of the Atlantis continent)
  有ったとされる時期:12,000年以上前(紀元前9000年以前)
  有ったとされる場所:大西洋
アトランティス大陸島は、大西洋にあったとされる広大な島で、伝説上の大陸は今日では一般的に伝説と見なされている過去の記録に登場する大陸および、かつて仮説として提案されているも、今日の科学知見で否定された架空の大陸のことです。さまざまなタイプがあり、また、さまざまな物語が付与されています。伝説上の大陸の上に、古代四大文明の前にあった高度な超古代文明が栄えていたとする物語が典型的なタイプです。また、科学的推論では、伝説上の大陸の存在について科学的に可能性があるとすれば、海水面の上昇による大陸平野部の水没です。最終氷期が終了する時には大量の氷河が溶けて、汎地球的に海水面が100m以上上昇。これで当時の沖積平野の大部分が海面下に水没し、現在の大陸棚となったと考えられ、その時の記憶が、失われた伝説上の大陸として今日まで伝えられていると考える人もいます。なお、古代ギリシアの「アトラス島」アトランティス(Atlantis、island of Atlas)は、古代ギリシアの哲学者プラトン(Plato、BC427-BC347)が著書ティマイオス(Timaeus, BC360c)及びクリティアス(Critias)の中で記述した伝説上の広大な島および、そこに繁栄したとされる帝国のことで、プラトンの時代の9,000年前(12,000年以上前)に海中に没したと記述されています。その大きさは、リビュア(Ancient Libya:北西アフリカのナイル河より西側の地区)とアジアをあわせた大きさよりも大きい島だと述べて、アトランティス人たちは現代人をはるかに凌ぐ文明を持っていて、聡明でテレパシーを使って会話ができ、そのような高度な文明を持っていながらも、物語ではアトランティスが神々の好意を失い、一日と一夜で大地震と津波によって、大西洋に沈むことで終わり、滅んでしまったと述べられています。
参考HP:〜
アトランティス島
(大西洋の中央にアトランティスが描かれたアタナシウス・キルヒャーによる地図。南が上のため、右側がアメリカ、左側がアフリカである。1699年 アムステルダムで出版)

Aムー大陸島
  (Island of the Mu continent)
  有ったとされる時期:12,000年以上前
  有ったとされる場所:太平洋
失われたミステリーのムー大陸(mythical lost continent)島とは、かつて太平洋の南中央部に有るも、天変地異で水没した、と一部の研究者が主張していた空想上の大陸です。現在では複数の海底探査結果で、ムー大陸の所在は学術的に否定されています。イギリス陸軍大佐を詐称したアメリカの作家ジェームズ・チャーチワード(James Churchward、1851-1936)作の「失われたムー大陸、1926・1931」に、ムー大陸が約1万2千年前に太平洋にあったと書かれています。ムー大陸はハワイ諸島やマリアナ諸島、 イースター島など南太平洋上に点在する島々が陸続きになっていた巨大な大陸だというから驚きです。人口は6,400万人を数え、人々は豊かな生活を送っていたと記述。ムー大陸には白人で構成される民族が住み、ラ・ムーという太陽神の化身の王が大陸をおさめて、ムー大陸はアトランティス大陸とほぼ同時期に有って、交流があったと言っているも、アトランティスと同じく、火山噴火と津波で海に沈んで滅んでしまったと述べています。また、イースター島やポリネシアなどの島々は、滅亡を逃れたムー大陸の名残であるとする説もあるも、決定的な証拠となる遺跡遺物などは無く、海底調査でも巨大々陸が海没したことを示す如何なる証拠も見つかっておらず、ムー大陸は伝説や仮設上の大陸であることが分かっています。ムー大陸が有った証拠として、現在のイースター島は資源に乏しいにもかかわらず大規模な石造があることが挙げられるも、かつてのイースター島は森林資源が豊富で森林伐採のあげく文明が滅んだことが現在ではわかっているため論拠にはなりません。
参考HP:〜
ムー大陸島の場所地図

Bレムリア大陸島
  (Island of Lemuria continent)
  有ったとされる時期:5,000万年以上前
  有ったとされる場所:インド洋
レムリア大陸島は、イギリスの鳥類の動物学者でロンドンのリンネ協会員フィリップ・スクレーター(Philip Lutley Sclater、1829-1913)が1874年に提唱したインド洋に有ったとする仮想の大陸です。アフリカのマダガスカル島にはキツネザルが生息しており、この仲間は世界でここにしかいないが、化石種がインドから発見されており、また近縁の原猿類はこの島を挟んでアフリカ中部と東南アジアのマレー半島・インドネシアにのみ生息。このようにインド洋を隔てた両地域には近縁な生物が見られる(隔離分布)。 これを説明するために、スクレーターは5,000万年以上前のインド洋にインドの南部、マダガスカル島、マレー半島があわさった大陸が存在したのではないかと考え、キツネザル(レムール、Lemur)にちなみ「レムリア大陸」と名付けました。また、ドイツで「ダーウィンの進化論」を広めるのに貢献した動物学者エルンスト・ヘッケル(Ernst Heinrich Philipp August Haeckel, 1834-1919)は自著「自然創造史」 (Naturliche Schopfungsgeschichte) でレムリア大陸こそ人類発祥の地であると主張。その他にも一部の地質学者がインド洋沿岸地域の地層の構造が酷似していることから似たような説を提唱。 しかし、インド洋を含め、大洋で隔てられた地域間の生物相の類似については、1912年の気象学者ヴェーゲナー博士大陸移動説によって説明されました。当初はレムリア大陸説をはじめとする陸橋説が優勢なるも、1950年代より大陸移動説が優勢になりました。1968年にヴェーゲナー博士のプレート・テクトニクス理論(ローラシア大陸・ゴンドワナ大陸)の完成で大陸移動説の裏付けが確実なものとなり、レムリア大陸説は否定されました。なお、パシフィス大陸(Pacific)とは、仮想上の大陸の一つで、かつてポリネシアに共通する文化の分布を説明するために、太平洋の中央にあったと仮定されていました。地質学的には大陸の存在した証拠が見出されておらず、存在は否定的です。名称はパシフィック・オーシャン(太平洋)に因んでいます。同じく太平洋上にあったと仮定されているムー大陸説の焼き直し要素が強く、これと同様に環インド洋の生物分布を説明するために仮定された大陸としてのレムリア大陸が有。
参考HP:〜
レムリア大陸島の場所地図

Cカリフォルニア島
  (Island of California)
  有ったとされる時期:16世紀
  有ったとされる場所:メキシコ西、現バハ・カリフォルニア半島
カリフォルニア島は、バハ・カリフォルニア半島が北米大陸本土と陸続きではなく、カリフォルニア湾に浮かぶ大きな島であるという、ヨーロッパ人が長年信じていた誤解のことです。この「幻の島」に関する説は16世紀にさかのぼり、以後も18世紀まで信じられ続けました。
バハカルフォルニア セラ神父

アメリカ 1985 発行
これは史上最も有名な地図製作の間違いのひとつでしたが、様々な探検家がバハ・カリフォルニアは半島であるという証拠を報告し続けたにもかかわらず、17世紀と18世紀にも多くの地図にカリフォルニア島が描かれ世界に伝播されていました。この説には当初、カリフォルニアがエデンの園やアトランティスのような、この世の極楽であるという伝説が影響していました。「カリフォルニア島」の伝説に最初に触れたのは、1510年7月にスペインセビリアで発行されたガルチ・ロドリゲス・デ・モンタルボ(Garci Rodriguez de Montalvo, 1450-1505)著の有名なロマンス小説の物語アマディス・デ・ガウラ(Amadis de Gaula)の続編ラス・セルガス・デ・エスプランディアン(Las Sergas de Esplandian)にてでした。モンタルボの一連の作品は、エルナン・コルテスを初めとした初期スペインのコンキスタドールによるアメリカ大陸探検の動機づけに大きく影響を与えました。
参考HP:〜
カリフォルニア島古地図
カリフォルニア島の場所地図(古地図、アニアン海峡で太平洋とヨーロッパを直結する航路)
 (カリフォルニア湾はアニアン海峡につながる海峡として描写)

Dオーロラ諸島
  (Aurora Islands)
  有ったとされる時期:1762年発見と報告
  有ったとされる場所:大西洋
オーロラ諸島は、大西洋南部で目撃報告のあった幻の島。オーロラ諸島が始めて報告されたのは、ペルーのリマからスペインのカディスへ向かっていたスペイン商船オーロラ号(Aurora)によるもので1762年のことです。オーロラ号による目撃報告は1774年にも有。スペイン船サン・ミゲル号(San Miguel)はその場所を南緯52°37'、西経47°49'と報告。1794/2/20、スペインの測量コルベット艦アトレヴィーダ号マラスピナ艦長による世界一周航海の一環としてオーロラ諸島の確認のために派遣され、その場所をフォークランド諸島サウスジョージア島の中間付近と報告。最後にオーロラ諸島の目撃報告があったのは1856年で、その後も1870年代まで南アメリカの地図に残こっていました。また、アメリゴ・ヴェスプッチが1501年から1502年の航海時にオーロラ諸島を目撃している可能性も有。レイモンド・ラムゼイ(Raymond Ramsay)はオーロラ諸島の目撃報告に対する説明として、巨大な氷山説やシャグ岩礁である可能性、すでに島が沈んでいる可能性などをあげているものの、全て否定しています。島が既に沈んでいる可能性を否定するラムゼイの意見に対し、ステファン・ロイル(Stephen Royle)は消滅したことが知られている火山島が複数あることを指摘しました。
参考HP:〜
オーロラ諸島の場所地図
 (南アメリカの地図、オーロラ諸島(Isles of Aurora)有、1808)

Eクロッカー島
  (Crocker Land)
  有ったとされる時期:1906年発見と報告
  有ったとされる場所:大西洋、北極圏
クロッカー島は、ブラッドリー島より南方で目撃されたとされる陸地で、探検家ロバート・ピアリーが1906年の探検中にアクセルハイバーグ島トマス・ハバード岬 (Cape Thomas Hubbard) から北西のほうに離れた場所で見たとされる陸地。ピアリーはその場所を北緯83度西経100度付近であると推定。今日ではその場所に陸地は存在しないことが判明しており、ピアリーが見たものはファタ・モルガーナ(蜃気楼の一種)だろうとされています。1913年、ドナルド・バクスター・マクミラン (Donald Baxter MacMillan) が探検隊を組織してクロッカー島探索に向かうも、クロッカー島が見つかりませんでした。この探検隊は災難に見舞われ、最初の船は船長が酒に酔い座礁。またイヌイットのガイドの一人が探検隊のメンバーによって射殺されるという事件もありました。最後には探検隊は立ち往生し、救助されるまで4年かかりました。1937年から1938年のマクレガー北極探検により始まった近代的な空からの写真撮影で、クロッカー島の存在は否定されました。
参考HP:〜
クロッカー島の場所地図
 (クロッカー島があるとされた場所、1906)

Fブラッドリー島
  (Bradley Land)
  有ったとされる時期:1909年発見と報告
  有ったとされる場所:大西洋、北極圏
ブラッドリー島は、探検家フレデリック・クック(Frederick Albert Cook、1865-1940)が1909年の探検中に、カナダのヌナブト準州エルズミーア島の西にあるクイーンエリザベス諸島アクセルハイバーグ島(Axel Heiberg Island)北方、北緯85度西経102度付近で見たとされる陸地で、クックの遠征を後援していたジョン・R・ブラッドリー(John R. Bradley)にちなんで命名されました。クック隊長は島を海峡、または窪みで隔てられた2つの陸地としました。陸地の写真を示し、「下の海岸は山と高い谷でアクセルハイバーグ島に似ていて、上の海岸は約1,000フィートの高さで平らで、薄い氷で覆われていると思われる」と述べています。今日ではその場所に陸地は存在しないことが判明しており、クック隊長が見たものは氷山の誤認か作り話だろうとされています。また彼の探検に同行したイヌイットは、写真は実際にはアクセルハイバーグ島沿岸で撮られたと述べました。
参考HP:〜
ブラッドリー島の場所地図
 (ブラッドリー島があるとされた場所、1909)

Gサンニコフ島
  (Sannikov Land)
  有ったとされる時期:1809年発見と報告
  有ったとされる場所:大西洋、北極海
サンニコフ島は、北極海に有るとされた幻の島で、ロシアの19世紀の幾分伝説的な伝承を根拠に、20世紀なかばまでは有ると考えられているも、航空機を用いた徹底的な探索でも発見されず、現代ではその存在が完全に否定されています。初期の探索では19世紀初頭にロシア帝国が、シベリアの北極海沖合でアジアとヨーロッパの最短航路になりうる「北東航路」を探すと同時に、自国周辺の島々を他国に発見・領有されることを恐れ、未発見の島々を自国領に編入すべく、盛んに探検隊を派遣していました。そうした探検隊のメンバーだったロシア商人ヤコフ・サンニコフ(Yakov Sannikov、1749-1825)とロシア官吏マトヴェイ・ゲデンシュトロム(Matvei Matveyevich Gedenschtrom、1780頃-1845)は、1809〜1810年のノヴォシビルスク諸島(Novosibirskiye Islands:現New Siberian Islands)の地図作成のための探検途中で、この島を目撃したと主張しました。サンニコフ商人はこのコテリヌイ島(Kotelny Island)の北方の「新島」を1811年に最初に報告した人物でした (このため「サンニコフ島」と呼称)。サンニコフは過去に新島発見の実績を持っており、実直な人格者でもあったため、その報告は広く信用されました。1886年、ロシア軍のバルト・ドイツ人探検家エドゥアルト・フォン・トル(Eduard Von Toll, 1858-1902) は、ノヴォシビルスク諸島への探検の途中で、ぼんやりとした陸影を観測したことを報告。1901年にフォン・トルにより実施された別の探検の「ロシア極地探検」 (The Russian Polar Expedition, 1900-1902) で、ロシアの北極観測船(砕氷船)ザーリャ号( polar steam ship Zarya, 450t, Crew 20m, 1873)は、伝説のサンニコフ島を探して、ラプテフ海を横切る進路をとっていると、間もなくノヴォシビルスク諸島の流氷に阻まれました。1902年、ザーリャ号が定着氷に捕まっているにもかかわらず、探検隊はデロング諸島の向こうにあると考えられたサンニコフ島の探索を続けようとしました。1902/6/5、本隊を船に残してフォン・トルと3人の同僚は海氷上をサンニコフ島の探索に出発。8月初めに、ベネット島(Bennett Island)に到着し、しばらく滞在した後、10/26にベネット島を出発してノバヤ・シビリ島(Novaya Sibir:現New Siberia)を目指して緩い氷盤 (ice floe) 上を南へ向かい、1902/10/26までの行動はベネット島に残された手記で判明しているも、それ以降の彼らの一切の消息は不明で、遭難したと推測されました。
参考HP:〜
サンニコフ島の場所地図
(デロング諸島とノヴォシビルスク諸島)
(サンニコフ島はコテリヌイ島・ベネット島・ノバヤシビリ島を結んだ三角形の中のどこかと推察)

Hピープス島
 (Pepys Island)
  有ったとされる時期:1683年発見と報告有
  有ったとされる場所:大西洋、フォークランド諸島の北
ピープス島は幻島の島で、バイロン艦長が1764年に探査して発見できなかったと報告しました。ピープス島は、かつてフォークランド諸島の北約230海里(260マイル:430km)の南緯47度にあると言われていました。ピープス島は現在、フォークランド諸島の誤認であると考えられています。
絶海の孤島

ピトケーン 1969 発行
ピープス島の最初の報告は、1683年12月にイギリスのバッカニアー海賊アンブローズ・カウレ(corsair buccaneer William Ambrose Cowle, 生年没年不詳)が、大西洋の南緯47度で発見して、海軍大臣サミュエル・ピープス(Samuel Pepys FRS, 1633-1703)にちなんで、「ピープス島」と名付けました。航海中にカウレの仲間ダンピール船長が望見し、セバルディナス諸島(Sebaldinas Islands)と報告し、それは当時のフォークランド諸島の別名であると考えられました。なお、海賊カウレは1684年にガラパゴス諸島を発見して世界最初の海図を作成・報告しました。
参考HP:〜
ピープス島(ウィリアム・ハッケによるイラスト、1699)
マゼラン海峡付近の古地図(右に:Pepys Island, Folkland Island, Roche Islandが有)
(18世紀地図上のピープス島・ロシュ島(現サウスジョージア島、R.W. Seale、1745年頃)
カウレのガラパゴス諸島古地図(右に:Pepys Island, Folkland Island, Roche Islandが有)

Iサンディ島
  (Sandy Island, New Caledonia)
  別名:セーブル島(Sable Island)
  有ったとされる時期:1792年発見と報告有
  有ったとされる場所:太平洋
サンディ島はニューカレドニア島北端から西北西約400km、チェスターフィールド諸島の東の珊瑚海にあって、フランス領海内にあるとされていた幻の島です。この島がはじめて文献に登場するのは1792年、ダントルカストー提督によるもので、ニューカレドニアの沖合にて航海中に発見した幾つかの小島の1つとして報告されました。1876年には、捕鯨船が南緯19度14分・東経159度56分および、南緯19度50分・東経158度51分にある「島」と「環礁」を報告。これがその時代の地図製作者によって「1792年に発見された島が再確認された」と誤認され、地図に記載されたと考えられています。アマチュア無線家が2000年4月に無線局が無い所へ遠征する「DXペディション」を行って、島が無いという報告をするも、その時は大きな話題にはなりませんでした。この問題が再び提起されたのは2012年で、オーストラリアの調査船サザーン・サーヴェイヤー号(Southern Surveyor, 1,600屯)の海洋調査で、地図によってこの島が載っているものと載っていないものがあることを地質学者が気づき、この島を調査することになりました。調査結果では、島は見つからず、島が存在するとされていた場所は「水深1,400mの海底」であることが明らかになりました。虚構記事の一種で、地図上に描かれた架空の道路であるトラップストリート(Trap street) の例のように、架空の島をわざと記載することで著作権を侵害した地図を炙り出すための「著作権トラップ」(罠)だったのではないかという説が出るも、オーストラリア海軍水路部の担当者は海図において著作権トラップは一般的ではなく、単なる人為的なミスだろうとしました。
参考HP:〜
サンディ島の場所地図 (古地図)
ニューカレドニア島付近の詳細地図 (現在 "Ile de Sable"は無)

Jロス・ジャルディン諸島
  (Los Jardines Islands)
  別名:ザ・ガーデンズ(The Gardens)、ジャルディネス(Jardines)、マーシャル諸島
  有ったとされる時期:18世紀前半のスペイン海図
  有ったとされる場所:大平洋
ロス・ジャルディン諸島は小笠原諸島の南鳥島と、マリアナ諸島(パラオのあるカロリン諸島など有)の間にあるとされた幻の島。1529年5月にサアベドラ船長(Alvaro de Saavedra Ceron, ?-1529)がモルッカ諸島ティドレ島(Tidore Island)からヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)へ向かう途中、島々を発見してロス・ブエノス・ハルディネス (Los Buenos Jardines)と命名。この島は16世紀の文献では北緯10度あたりとされており、マーシャル諸島のどこかだろうと思われました。それが18世紀前半のスペイン製海図で間違いが発生して、後の海図などでは北緯21〜22度あたりの島のない場所に移りました。1543/1/6にヌエバ・エスパーニャから比島ミンダナオ島へ向かう途中のビリャロボス船長が北緯9〜10度付近でロス・ハルディネス諸島を目撃と報告。1788年7月にジョン・マーシャル(John Marshall、1748-1819)のスカボロー号とトマス・ギルバート(Thomas Gilbert, 18世紀イギリスの船乗り)のシャーロット号の2隻の船がロス・ジャルディン諸島を探すも発見できませんでした。それにもかかわらず「ジャルディン諸島」と書かれた海図が作成されました。これが別名マーシャル諸島の由来になりました。1900年7月にコルベット艦 金剛(2,250屯)が、1926年に通報艦 満州(3,916屯)がロス・ジャルディン諸島捜索を行うも発見されませんでした。1933年にアメリカ海軍の測量艦ラマポ号(USS Ramapo, AO-12,16,800tn) がこの海域を調査するも、島の存在は確認できず、アメリカ海軍ではこの島を海図から削除しました。日本の海図から削除されたのは、1972/11/18付けの水路通報によってでした。翌年、国際水路局もこの島を海図から削除しました。
参考HP:〜
ロス・ジャルディン諸島の場所地図 (古地図)
ロス・ジャルディン諸島の場所地図 (詳細古地図)

Kトンプソン島
  (Thompson Island)、南大西洋、1825発見
  有ったとされる時期:1825年発見と報告有
  有ったとされる場所:大西洋
トンプソン島は、南大西洋にあるとされた幻の島。スミソニアン協会プロジェクトの世界火山学プログラム(Global Volcanism Program)によると、亜南極にある絶海の孤島ブーベ島(ノルウェー領)の北北東約70kmの所にあったとされました。トンプソン島が最初に報告されたのは1825年のことで、捕鯨船スプライトリー号(British sealing ship Sprightly, London)船長のジョージ・ノリス (George Norris)によるものでした。その後、1893年まで目撃報告がなされましたが、1898年にドイツ帝国の測量船ヴァルディヴィア号( German survey ship SS Valdivia, 1886, 2,179tn)がブーベ島の場所を確定させた時に、併せてトンプソン島の場所を確定させるべくトンプソン島があるとされた海域を調査したものの、結局発見できませんでした。これは、1890年代に起こった火山活動で島自体が海底に沈んでしまったものであると推測されました。1997年に行われた水深調査の結果によれば、トンプソン島があったとされる海域の水深は2,400m以上もの深さがあり、火山活動の存在も不確かなものとなりました。1898年時点で発見されなかったトンプソン島が、結局一部の地図では1943年の版まで記載され続けました。
参考HP:〜
トンプソン島の地図 (古地図)

Lファタ・モルガーナ・ラネズ島
  (Fata Morgana Landed)
  有ったとされる時期:1907年発見と報告有
  有ったとされる場所:大西洋、グリーンランド海
ファタ・モルガーナ・ラネズ島は、北極のデンマーク領グリーンランドとノルウェー領スヴァールバル諸島の間のグリーンランド海(Greenland Sea)北端にあると推定されていた幻の島。デンマーク遠征探検隊がグリーンランド北東への遠征航海(1906〜1908)で、3人の探検隊の主要メンバーが亡くなるという悲劇的な状況にもかかわらず、広大な地域を探索して未知の海岸線とフィヨルドの正確なチャートを描き、多数の地理的特徴に名前を付け、豊富な科学データを収集することに成功した探索航海で、1907年に初めてファタ・モルガーナ・ラネズが北緯80度00分・西経10度00分付近にあったと報告しました。さらに1935年にペーター・フロイヘン(Lorenz Peter Elfred Freuchen. 1886-1957)、1937年にイヴァン・パパニン(Ivan Papanin)らが目撃を報告。ところが、噂された目撃例を確かめに行ったラウゲ・コッホ(Svend Lauge Koch, 1892-1964)は1938年にスヴァールバル諸島から飛行艇で遠征を行なうも、その痕跡すら見つけることが出来ませんでした。後に、その島は1993年になってようやく正確な場所が確定された岩ばかりのトビアス島(Tobias Island)である可能性が高いと考えられました。
参考HP:〜
グリーンランドの地図 (ファタ・モルガーナ・ラネズ島は右上・赤印の付近にあったと推定)

Mベルメハ島
  (Bermeja Island)
  有ったとされる時期:1539年のスペインの地図
  有ったとされる場所:メキシコ湾のユカタン半島の北海岸
ベルメハ島は、16〜20世紀の地図の幾つかで、メキシコ湾ユカタン半島の北海岸に記載されている幻の島。1997年の調査ではその場所に島が見つからず、メキシコ元老院の要請でメキシコ国立自治大学(UNAM)が2009年に実施した広範な調査でも発見できませんでした。この島が実在するなら、メキシコ湾のホヨス・ド・ドナ(ドーナツの穴:いずれの国の排他的経済水域にも含まれない海域)における石油の採掘権の境界がメキシコ側に有利なように決定することから、2008年後半からこの島への関心が高まりました。この島は、1539年にマドリードで出版されたアロンソ・デ・サンタ・クルス(Alonso de Santa Cruz)によるこの地域の島の一覧(El Yucatan e Islas Adyacentes:ユカタンと周辺の島)で初めて示されました。その正確な場所は、アロンソ・デ・シャーベス(Alonso de Chaves)によるエスペホ・デ・ナベガンテス (Espejo de navegantes:航海士の鏡、セビリア、1540年頃)に記載。シャーベスは、遠くから見た島の様子として、赤みを帯びた(ス語ベルメハ:bermeja)小さな島と記載しました。フランス系メキシコ人の作図家ミシェル・アントチウ・コルファ(Michel Antochiw Kolpa)の、1844年のイギリスの地図に、島が約60ファゾム(約108m)沈没したと記載しました。現在、島が見つからない理由として、初期の地図製作者が存在しない島を誤って観察し記載したという説、海底の地形の移動で場所が変わったという説、海面の上昇で水没したという説の他、米国に割り当てられる経済水域を拡大するために”CIA”が島を破壊したと主張する陰謀説などもあると言われています。
参考HP:〜
ベルメハ島の場所地図 (古地図)

Nアンティリア島
  (Antillia Island)
  有ったとされる時期:15世紀
  有ったとされる場所:大西洋
アンティリアは、15世紀の大航海時代にポルトガルスペインのはるか西の大西洋にあると言われた幻の島。島はまた、7つの都市の島(ポ:Ilha das Sete Cidades、ス:Isla de las Siete Ciudades、シボラの七都市)との名前で呼ばれていました。これは、イスラム教徒によるヒスパニアの征服中に設定された、古いイベリアの伝説に端を発しています。 714年にイスラム教徒の征服者から逃げようとして、7人のキリスト教西ゴート族の司教が
シボラへの航海

アゾレス 発行
船に乗り込み、西に向かって大西洋に出帆し、最終的に島(Antilha)に上陸して7つの集落を造りました。この島が最初に描かれた海図は、1424年のツアンピッツィガーノの羅針儀海図で大きな長方形の島としてはっきりと示されました。その後、15世紀のほとんどの海図に日常的に登場しました。 1492年以降、北大西洋が定期的に航海され、より正確にマッピングされるようになると、アンティリアの描写は徐々に消えていきました。それにもかかわらず、それはカリブ海のスペイン領アンティル諸島にその名前を残しました。15世紀の海図にこのような大きな「アンティリア」が日常的に出現することで、それがアメリカの陸地を表しているのではないかという憶測が生まれ、コロンブス以前の大洋横断接触に関する多くの理論が煽られてきたといわれています。
参考HP:〜
アンティリア島
アンティリア島の場所地図

Oバス島
  (Buss Island)
  別名:ブッセ島(Busse Island)
  有ったとされる時期:1578年発見と報告有
  有ったとされる場所:グリーンランド近くの大西洋
バス島は北大西洋の幻の島でした。1578年9月のフロビシャー船長の第3回遠征航海中に、ブリッジウォーター(Bridgwater)のエマニュエル号(ship Emanuel、別名バス号:Busse) の乗組員によって発見されたと記録され、アイルランドと神話上(1560-1660)のフリスランド(Frisland)の間に北緯57度にあることが地図に示されました。その後、発見者が使用した船にちなんで「バス島」と名付けられました。フロビシャー船長はグリーンランドをフリスランドに、カナダ北東部バフィン島(Baffin Island)をグリーンランドと間違え、帰国して推測航法でグリーンランド近くの北緯62度付近の光学効果(optical effects)を、新しい土地と間違えたと考えられました。大西洋の交通量が増えるにつれ、島の存在は不確実になり、想定される島の大きさは大幅に縮小されました。1745年までに、主張された場所に島がないことが明らかになり、想定される地域が比較的浅かったため、サンクンランド(バス島の沈没地:Sunken Land of Buss)と改名されました。島またはサンクンランドの場所は、19世紀まで海図に残っていました。その場所でのその存在は、1818年にジョン・ロス船長のイザベラ号北極探検で最終的に深さ180ファゾム(330m)まで反証されるも、発見できませんでした。
参考HP:〜
ブッセ島 (古地図)

P中ノ鳥島
  (Nakanotorishima Island)
  別名:ガンジス島(Ganges Island)
  有ったとされる時期:1908〜1943年日本領土
  有ったとされる場所:日本の東南東の太平洋、小笠原諸島の島を誤認か?
中ノ鳥島は、北緯30度05分 東経154度02分にあったとされていた幻の島で、実在しません。近傍には「ガンジス礁」もあったとされていました。日本の領土として正式に認定されていた時期があったので、世界各地の「伝承における幻の島」「伝説の島」とはちょと違います。 1907年(明治40年)8月、東京市小石川区諏訪町(現在の東京都文京区後楽)の長野市選挙区衆議院議員・山田禎三郎(1871-1930)なる人物が、東京府小笠原島から560浬の所に島嶼を発見・上陸して探検・測量まで試みたとしました。これより以前に、日本の南東海上に、未確定ながら「ガンジス島」なる島があるとの情報があり、当時の海軍省水路部が記した「日本水路誌」にも「其ノ位置ニハ多少ノ差異アルニ依リ他日確定スルノ必要アルヘキ」の注記付ではあるも、北緯30度47分・東経154度15分に島があるとしていました。山田なる人物は、発見した島を「ガンジス島」とし、1908年(明治41年)5月に小笠原庁へ、島の地図を添えて発見の報告をしました。 この報告をもとに、東京府知事阿部浩から内務大臣原敬に宛てて提出された「新島嶼ノ行政区割ニ関シ上申」に付属する「小笠原島所属島嶼発見届」によると、島は外周1里25町(約6.67km)、面積64万3700坪(約2.13ku)、サンゴ礁と思われる植生も有。また、島には鳥の糞が積もってできる燐鉱石で覆われており、これは当時、火薬原料や肥料として重要視されるものでした。なお、山田なる人物の発見届には、島の場所(北緯30度5分、東経154度2分であるとする)と島から小笠原諸島までの距離が一致しない、アホウドリの飛来しない時期だったのにアホウドリが数百万羽いたとするなど可笑しな点が多々有り。山田なる人物はこの島を開発するため日本による領有を訴え、1908年(明治41年)7月22日に閣議決定により「中ノ鳥島」と名付けられ、日本領に編入されました。
小笠原諸島

日本 2012 発行 小笠原島

アホウドリ

日本 1975 発行
しかし、中ノ鳥島はそれ以来、再び発見することができず、特に大正時代には周辺海域を大規模に探索するも、未発見でした。1913年に「吉岡丸」なる船が中ノ鳥島の開拓に向かうも、島を発見できずに終わりました。1927年9月には通報艦 満州丸(3,916屯)による調査が行われるも、島は発見されませんでした。こうして暗黙のうちに実在しないということでガンジス礁と共に1943年(昭和18年)に大日本帝国海軍(Imperial Japanese Navy、1872(明治5)-1945)水路告示で日本海軍の機密水路図誌から削除されました。第二次世界大戦後の1946/1/29に連合国軍総司令部から「日本」の範囲についての訓令(SCAPIN第677号)が出されるも、第3項に「中ノ鳥島」が含まれており、アメリカ側では未確定のままとしました。
参考HP:〜
中ノ鳥島の場所地図 (拡大有)

Qトゥーレ島
  (Tile island, Thule island, など)
  有ったとされる時期:2000年以上前
  有ったとされる場所:英グレートブリテン島の北東沖
        北部諸島オークニー諸島の北西
トゥーレ島は、20世紀初頭以来、アイスランドとノルウェーの島であると論争されてきましたが、2010年にベルリン工科大学の研究者チームは、古代ローマ帝国(BC27-1453)の地理学者プトレマイオスの世界地図で、ノルウェーのスメラ島(Smola islands, Norway)がトゥーレ島の可能性のある場所であると発表したことで、この議論は終わりました。ももと、トゥーレ島は古典文学の中で語られる伝説の地で、通常は島でした。古代ヨーロッパ(古代ローマ:BC753-476)の説明や地図ではトゥーレ島は遥か北の恐らくオークニー諸島やシェトランド諸島、
トゥーレ島
スカンジナビアにあるといわれていて、中世後期やルネサンス期(14世紀-16世紀)にはアイスランドグリーンランドにあると考えられていました。またそれとは別に、バルト海のサーレマー島(Saaremaa island)のことだという考え方もありました。中世地誌におけるウルティマ・トゥーレ(Ultima Thule)は「既知の世界の境界線」を越えた世界の最果てを意味することもありました。
なお、デンマーク領グリーンランドにテューレ島が有。また、英領サウスサンドウィッチ諸島にはテューレ島(Thule Island、現モレル島:Morrell Island)があって、南極地域を除くと、世界で最も南にある島。モレル島は米国アザラシ漁船々長で探検家ベンジャミン・モレル(Benjamin Morrell、1795-1839)に由来。アルゼンチンの領有権主張が有。
参考HP:〜
トゥーレ島の古地図
グリーンランドのテューレ島

GREENLAND THULE
グリーンランド 1935 発行


Rテラ・アウストラリス大陸島
  (Terra Australis、南方大陸)
  別名:メガラニカ(Magallanica)、マガラニカ
  有ったとされる時期:古代ギリシアのBC6世紀頃(2,500年以上前)に知見有
  有ったとされる場所:南極中心の南半球大部分
古代ギリシア時代の地球々体説(紀元前6世紀頃)で、南半球に巨大な陸地が存在するという考えがあったのが南方大陸テラ・アウストラリスの最初の説だったといわれています。
テラ・アウストラリスは、かつて南極を中心として南半球の大部分を占めると推測された仮説上の大陸のこと。テラ・アウストラリスは後にオーストラリア大陸を指すようになり、未発見であることを強調してテラ・アウストラリス・インコグニタ(Terra Australis Incognita、未知の南方大陸)とも呼ばれました。マゼラン船長がフエゴ島を発見して、南方大陸の一部と思って「メガラニカ」(Magallanica)と命名しました。17世紀の中国で作られたマテオ・リッチ坤輿万国全図や、宣教師ジュリオ・アレーニ(Giulio Aleni, 1582-1649)の「万国全図」で「メガラニカ」が使われていたため、日本では「テラ・アウストラリス」よりも広く知られました。 坤輿万国全図

イタリア 2002 発行
大航海時代に突入すると、その一部と思われる陸地が、1520年にマゼランの艦隊が水平線上に垣間見た陸地(アルゼンチンの現フエゴ島)こそ、南極まで続く未知の大陸の最北端だと思われました。フエゴ島と南アメリカ大陸の間のマゼラン海峡は大西洋と太平洋を結ぶ唯一の水路だとされ、当時の地図の多くにもそのように描かれ、南方大陸をメガラニカと名付けられました。1578年にドレーク船長ホーン岬ドレーク海峡を発見し、フエゴ島が島であることを明らかにしました。1526年に発見されたパプアニューギニアのニューギニア島も、メガラニカの一部と考えられていました。1606年にバレンツ船長がニューオランダ(現在のオーストラリア大陸)西海岸を、1646年にタスマン船長ニュージーランドを発見すると、ついにメガラニカが発見されたと考えられました。ところが、クック船長の第1次航海中の1769年、タスマン船長の発見以来、白人が寄航していなかったニュージーランドに寄港してニュージーランドを船で一周し、これが島であることを証明しました。さらに1770年、ニューオランダの東海岸を発見。ニューオランダがメガラニカの一部である可能性はほぼ消滅しました。こうしてメガラニカはふたたび未発見に戻るも、さらに高緯度にメガラニカが存在すると考える人は多くいました。クック船長はイギリス王立協会からメガラニカの発見を依頼され、第2次航海をおこない、南半球中高緯度を周遊し、1773年には南極圏にまで到達。南ジョージア島、南サンドウィッチ諸島、クック諸島ニューカレドニア島ニウエ島など多数の島を発見し、巨大な氷山を見たものの、大陸は発見できませんでした。こうしてメガラニカの存在は完全に否定されました。その後もニューオランダはテラ・アウストラリスと呼ばれ続け、さらに変化したオーストラリアという呼び名がフリンダース船長によって広められました。
参考HP:〜
テラ・アウストラリス大陸島の古地図
テラ・アウストラリス大陸島の古地図

Sジーランディア大陸島
  (Island of the Zealandia continent)
  別名:タスマンティス(Tasmantis)
  有ったとされる時期:約2300万年以上前に海没
  有ったとされる場所:ニュージーランドニューカレドニア周辺地域
ジーランディア大陸島はニュージーランドとニューカレドニア周辺地域に現存する海底の大陸地殻。9割以上が海面下に有。ジーランディアという呼称は、1995年にアメリカの地球物理学・海洋学者で、現在は
ロード・ハウ島

オーストラリア 2007 発行
カリフォルニア大学サンタバーバラ校の海洋地球物理学の名誉教授ブルース・P・ルイエンディク博士(Bruce P. Luyendyk, 1943,NY生-)がプレートテクトニクスのゴンドワナ大陸の断片化モデルの中でニュージランドを含んだ大陸の総称として提案した名です。ジーランディアは約1億3000万年前〜8500万年前に南極大陸と分裂。さらに約8500万年前〜6000万年前にオーストラリア大陸と分裂。その後、そのほとんどが海面下に没したと考えられています。現在のようにジーランディアがほぼ完全に海面下に沈んだのは約2300万年前と推定されています。現在、ジーランディアの約93%は太平洋に沈んだままです。ジーランディアのほとんどが海面上には現れないのは、ジーランディアの下の地殻が一般的な大陸地殻よりも薄いからで、ジーランディアの地殻の厚さは約20kmほどしかないために、地球のマントルの上では、現在の海水面よりも上に顔を出せるほど高くは浮かび上がることができません。
海面上に出た部分としてロード・ハウ島近くに岩のボールズ・ピラミッド島が有。2006年に中新世に生育していた哺乳類の顎の化石が発見されて、その大陸の実在が証明されました。2021/3/6にMBSのTV「世界ふしぎ発見!」でジーランディアの放送があって、化石の発見でペンギンの実在が証明されたとて、天敵がいなくて160cm以上のペンギンがいたと実物大模型で紹介されていました。この大陸こそペンギンの発祥の地だと言ってました!(^^♪ ペンギン

トリスタンダクーニャ 1974 発行

ロード・ハウ島
  (Lord Howe Island, NSW)

参考HP:〜
ジーランディア大陸島の場所地図
ジーランディア大陸島の場所地図(航空写真での海底)
ロード・ハウ島の場所地図
ロード・ハウ島の航空写真
ボールズ・ピラミッドの写真(ロード・ハウ島の南東16kmに有)
孀婦岩の航空写真
孀婦岩の場所地図(伊豆諸島の最南端)

などがあります。

<フェロー諸島発行の小型シート>
FAROE ISLANDS
トゥーレ島とフェロー諸島の古地図、1539
怪獣→



シャチ→




クジラ→




. (Tile Island) (Fare(Faroe)Island) (Ambra Island) .
トゥーレ島(Thule Island、タイル:Tile Island)はノールウェーのスメラ島(Smola Island)と判明、2010
オラウス・マグヌス(Olaus Magnus, 1490-1558)による1539年の
地図カルタ・マリーナ(Carta Marina)のタイル島としてのトゥーレ島の古地図

フェロー諸島 2019 発行
こちらで
アメリカ領ヴァージン諸島
フェルディナンド・マゼラン
シボラの七都市
スパイス (香辛料)
コーヒー (嗜好飲料)
世界遺産の
ピラミッド (エジプト)
パルテノン神殿 (ギリシャ)
姫路城 (日本)
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。#0123 令和 R.3/4/21 (2021)
スタンプ・メイツ
Copyright(C):StmpMates
無断転載禁止