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★ダンピール物語 | 第1回 | ウィリアム・ダンピール船長 1699 ダンピール海峡を発見 |
大航海物語 イギリス★ |
第2回 | |||
第3回 | |||
第4回 | |||
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ガラパゴス諸島の地図 | ダンピ|ル船長 | |
エクアドル 2006/12/29 発行
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CHRISMAS ISLAND ダンピール船長 クリスマス島 1977/4/30 発行 |
NORFOLK ISLAND ダンピール船長とシグニット号 1699年の太平洋航海地図 ノーフォーク島 1994 発行 |
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イギリス生れのダンピール船長はイギリスの私掠船(海賊)船長、作家、博物学観察者で、ニューホラント(オーストラリア)、ニューギニアを探検した最初のイギリス人。また世界一周を4回成し遂げた最初の人物。そして地図製作ではニューホランド(オランダ領オーストラリア)とニューギニアの地図を製作した最初の人物でもありました。生涯に4度の世界一周航海をなし、最初の世界一周は私掠船(海賊船)を乗り継ぎ乗組んだ航海となりましたが、12年ぶりに帰国した後に著作「新世界周航記」を発表しました。それがイギリス海軍に認められて第2回目の世界一周航海でローバック号に乗船、オーストラリア探検に出帆し、1699年ダンピ−ル海峡を発見しました。帰路にローバック号はアセンション島で難破しましたが、イギリス船に救助されて帰国しました。第3回目はセント・ジョージ号遠征隊を率いて出帆しましたが、ジャワ島のバタビアで捕えられ命からがら帰国しました。その後、ロジャーズ船長のデューク号遠征隊でパイロット(水先案内人)となって、3年間に渡る世界一周航海をなし、母国イギリスに帰国しました。
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ウィリアム・ダンピール (1652/3〜1715/3) William Dampier ▼初めに ダンピールはイギリスのサマーセットシャー州、ヨーヴィル近くのイーストコーカー(East Coker, Yeovil, Somerset, England)の農家で1652/3月に生まれ、1652/6/8に洗礼を受けました。父親は1662年(10才)に亡くなり、その6年後の1668年(16才)に母親が亡くなりました。両親は彼に商売をさせたかったので、ヨーヴィルの小学校に通わせました。1669年(17才)にウェイマス(Weymouth, Dorset, England)の水夫長の所で年季奉公(seven years apprenticeship)に出て、一緒にフランスやニューファウンドランドに航海しました。ところが彼が厳しい寒さを嫌ったために、契約満了前に解雇されました。1671年初頭に水夫としてイギリス東インド会社(English East India Company 1600-1874)のイースト・インディアマン号(East Indiaman)に乗組んで、東インド海域のバンタムへ航海して、第3次英蘭戦争直前の1672/3月に帰国しました。1年後に司令官・提督エドワード・スプラグ卿(Admiral Sir Edward Spragge 1620-1673)の青色艦隊(Blue Squadron)の旗艦プリンス・ロイヤル号(Prince Royal 100guns)に水夫で乗組みました。オランダ侵略戦争(Franco-Dutch War 1672-1678)で、1673/5/28の海戦と、1673/6/4のスホーネヴェルト海戦(Battle of Schooneveld 1673/6/7-14)にも従軍しました。その後、不運にも発病して傷病兵と共に夏に上陸。数ヵ月後にイースト・コーカーの領主ヘリャー大佐からジャマイカ島で、農場の手伝いをしないかと勧誘され、新大陸のジャマイカ島に渡りました。 1674年からバッカニーア海賊船に乗り込みカリブ海を荒らしまわりました。メキシコ・ヴェラクルス南方のカンペチェを2度にわたって襲撃したのは確実と伝えられています。1678年に僅かの間、帰国した時にグラフトン公爵(Duke of Grafton 創設:1675)夫人家の家政婦ジュディスと結婚、アーリントン邸に残し、1679年初頭にジャマイカに戻りました。1679末〜1688/5月ヴァージニアに滞在、それ以外は海賊と共にいました。1679年ダリエン湾のイスマス(Isthmus)でスペイン船を襲撃し、太平洋に出てペルー方面を急襲してカリブ海へ戻ったりしました。1683年にはアメリカのヴァージニアでクック船長に加わって、スペインのガンボア船長が砦を築いて以来、封鎖されているマゼラン海峡を避けて、ドレーク船長が発見したホーン岬周りで太平洋へと回航し、太平洋岸のスペイン領ペルー各地、ガラパゴス島、ニュー・スペイン(メキシコ)各地を1年にわたって襲撃しました。この海賊遠征隊は一度に10隻の海賊船(私掠船)を集めた船団(艦隊)となっていました。 1683/8月にヴァージニア沖でデライト号(36-gun Delight)を分捕って、海賊船(Bachelor's Delight)に仕立ててジョン・クーク船長(John Cooke、Pirate)が指揮を執り、ホーン岬を回航して、スペイン領のペルーからメキシコの太平洋岸の街々を荒らし回りました。1684年にクーク船長がメキシコで死亡した後は乗組員が選んだデイヴィス(Edward Davis 1680-1688)が船長として海賊船デライト号の指揮を執りましたが、ダンピールは1686/3/31(35才)にスオン船長(Charles Swan ?〜1690殺害)のシグニット号(privateer Cygnet)に乗りかえて東インドへ向かいました。太平洋のグァム島(Guam)からミンダナオ島(Mindanao)に到着し、そこでスワン号と別れました。フィリピン(レイテ島)に向かいマニラ(Manila)に6ヵ月滞在して、ヴィエトナム(Pulo Condore)、中国のトンキン(東京)から、香料諸島(Spice Islands)、そしてオーストラリア(New Holland)へと航海して、その間の極東海域で、航行中の船舶を襲って略奪を働きました。 1688年にダンピールはシグニット号でインドネシアからココス諸島に向かう時、東に流され28日後にクリスマス島を望見し、島の西岸に上陸してみると人影は見えず、初めて無人島であることが分かりました。1688年の夏を西オーストラリアのキング湾で過ごしたあと、ダンピールはベンガル湾にある22の島々からなるニコバル諸島(Nicobar)の島に置き去りにされてしまいました。しかし彼は原住民のカヌーでスマトラのアチェン(Acheen)に渡り、ベンクレーン(現ベンクル)で、しばらく砲手として働きました。1691年一文無しでイギリスに帰国しました。彼は航海関係のデータと共に、この間の驚くべき冒険談を詳しく詳細に日記に記録していましたので、帰国後の1698年「新世界周航記」(New Voyage Round the World in 1697)を発表して大好評を得て儲けることが出来ました。1699年には続編「航海とその記録」を出版。この航海記録がきわめて正確な地理学的・気象学的観察に富むことから、ダンピールは科学的探検のパイオニア(先駆者)と成りました。 ・ダンピール船長の大航海:〜 第1回:〜私掠船(Privateer)を乗り換え乗組んで第1回世界一周航海 ・東西インディーズへの私掠船航海:1679/初頭〜1691/9/16ロンドン着 (バッチェラーズ・ディライト号&シグニット号遠征 Indease Privatier Expedition:Voyage To New World) 第2回:〜ローバック号船長で第2回世界一周航海 ・第2回世界一周航海:1699/1〜1701/4、司令官、備砲12門船ローバック号船長 (ローバック号遠征隊 Roebuck Expedition) 第3回:〜セント・ジョージ号船長で第3回世界一周航海 ・第3回世界一周航海:1703/9〜1707/末、司令官、セント・ジョージ号船長(1703/4/30) (セント・ジョージ号遠征隊 St George Expedition)アイルランドから出帆 第4回:〜ロジャース船長のパイロットで第4回世界一周航海 ・第4回世界一周航海:1708/8〜1711/11、ウッズ・ロジャース船長の水先案内人 (ロジャース遠征隊 Rogers Expedition)
2月、メキシコ南東部カンペチェ湾岸の木材ロッグウッド伐採業者の所で働く 6月、フィラリア(糸状虫症)のギニア虫や暴風雨にやられた後、私掠船に加わり、 11〜12ヵ月間、メキシコ湾南東部のカンペチェ湾沿岸を巡航 1677年、10〜12ヵ月間、ロッグウッド伐採に従事(通算3年) 1678年 5月、ジャマイカに戻る 8月、 ロンドン着、ジュディスと結婚 1679/春、28才のダンピールはジャマイカ行きの船に船客として乗船
Xmas頃、ファン・フェルナンデス諸島に到着 Xmas後、ファン・フェルナンデス諸島を出帆、北へと航海 1681年 (ダンピールは私掠船シャープ船長に乗組) 1月、カロライナ地方へ短い航海 1/06、衆議一決でシャープ船長解任、 新船長ジョン・ワットリングは1ヵ月後アリカで戦死の説も有 1/30、ペルー中部のアリカの港町の襲撃に向うも、会合合図の狼煙方法が敵に漏れて、 スペイン船3隻の追跡を受け、交戦するも敗戦、死傷者多数で敗退 1月、ジョン・ワトリング船長がモスキート族をファン・フェルナンド島に置き去りにし、 ダンピールが1684/3/23に3年間暮らしていたモスキート族を救出 1月末、ワトリング新船長が戦死 2月、スペイン船に見つかり、ワットリング船長に取って代わったシャ−プ船長が ファン・フェルナンデス島に原住民モスキート族ウィルを取り残して逃げ去る説も有 4月中旬、ラ・プラタ島望見 4/17、ラ・プラタ島沖でシャープ船長達と別れる (ダンピールは太平洋岸からパナマ地峡地帯を陸路で横断してカリブ海へ) ダンピール達はロングボート(ランチとカノア舟(Canoe)の2隻)に武装白人44人、 スペイン系原住民1人、モスキート族原住民2人、南太平洋で獲得の奴隷5人が乗船、 サン・ミゲル湾サンタ・マリア川を目指し出帆 4/18、バサオ岬の小湾で小型バーク型帆船を捕獲 4/24、ゴルゴニア島着。傾船修理後、スペインの追撃を恐れて夕刻に出帆 4/25、カノア舟を1隻喪失 4/27、順風で南西へ航海 4/28、2隻の大型船を発見 4/29朝、サンミゲル湾口近くガラチナ岬に投錨、上陸整備 4/30、サンミゲル湾入り口到着 5月 (ダンピールはダリエン地峡を横断して北の海への陸路の旅) 5/01、上陸後に船を沈め、ダリエン地峡を懐中コンパスで北東に向かう 5/03、斧1丁で1日の道案内原住民を得て山の向うの奥地へ 5/04、コンゴ川畔を出発、夜は掘立小屋を組んで過ごす 5/06、コンゴ川を東へ渡河 5/07、奴隷が逃げて1人になる 5/10、奴隷が逃亡 5/23、南の海から北の海へ陸路23日で約117km走破を達成 5/24、コンセプション川口ラ・サウンズ島停泊のフランス人トリスティアン船長の私掠船で宿泊 5/25、フランス人トリスティアン船長の私掠船に乗船・出帆 5/26、サンバラス諸島ラ・サウンズ島を北西のスプリンガーズ島へ出帆 スプリンガーズ島の私掠船団8隻(後にトリスティアン号が合流):〜 ・4隻のイギリス人私掠船 ・コクソン号、乗員100人、砲10門 ・ペイン号、乗員100人、砲10門 ・ライト号、バルカロンガ艇、乗員40人、砲4門 ・ウィリアム号、小型バルカロンガ艇 ・4隻の船長・乗組員フランス人私掠船 ・アルチェンボー号、乗員40人、砲8門 ・タッカー号、乗員70人、砲6門 ・ローズ号、バルカロンガ艇 ・1隻の船長オランダ人・乗組員連合の私掠船 ・ヤンキー号、バルカロンガ艇、英仏蘭人乗組員60人、砲4門、船長蘭人 1681/5月〜1682/7月 (ダンピールは私掠船トリスティアン船長に乗組) 北海の西インド海岸を巡航:〜カリブ海を荒らしまわりました。 1681/8月末、ダンピール乗組の私掠船トリスティアン号がラ・サウンズ島着、 そこにいた船医ライオネル・ウェーファと4人の元隊員と再会 1682/2月初め(31才)、アヴェス島出帆 1682/7月、ヴァージニアに上陸、13ヵ月滞在(1682/夏〜1683/夏)、 この1682/夏〜83/夏は詳細が記録されていない不明の時期 ・この頃、セントクリストファー生まれクリオールの クーク船長(John Cooke ?-1684/7月FF島で発病後船上病死)が ヤンキー船長の操舵長から捕獲船の船長になる 1683年 (ダンピールの乗組船は不明) 1/19、南緯37度でアメリカ海岸からの大熱風ブルーム陸風に遭遇後、雷雨となる 4月、3隻の捕獲船がヴァージニア着 1683/8/23〜1688/5/16 「私」ダンピールはデイヴィス船長(Eward Davies ?)やクーク船長(John Cooke)と リヴェンジ号やバッチェラーズ・ディライト号に乗船 8月、 (ダンピールは私掠船バッチェラーズ・ディライト号クーク船長に乗組) 8/23、「私」は備砲18門船バッチェラーズ・ディライト号クーク船長、乗組員70人で ヴァージニア・アコマック半島アチャマックを南海へと出帆 カーボ・ヴェルデ諸島に到着、 サル島に寄航 セント・ニコラス島(サン・ニコラウ島)に寄航 マヨ島に寄航 シェラレーネのシャーボロ川河口に着、数日間停泊 11/中旬、シャーボロ川河口を出帆、 年末、アフリカ海岸で私掠船活動後、 マゼラン海峡へ向かう 1684年 (ダンピールはバッチェラーズ・ディライト号クック船長に乗組)(1リーグ=4.8km) 1/18、南緯36度に到達 1/20、船医1人が亡くなり、船医はライオネル・ウェーファーだけとなる 1/24、シグニット号スワン船長、ニコラス号ジョン・イートン船長がマゼラン海峡入り口で
警告されていた木材運搬船を捕獲
カルデラ湾をイートン船長と捕獲船の3隻で出帆、リア・レハへ向かう (ダンピールは私掠船バッチェラーズ・ディライト号デーヴィス船長に乗組) 7/23、ニカラガのリア・レハ島の港沖に着、マンジェラ島を調べる 7/26、アラバマ島の湾で係船修理の準備 8/04、スワン船長の商人がハリス船長に売り払い代金の£5000ポンドを取得 9/02、イートン船長がアラバマ島の湾を出帆 麦粉半分を積んだ捕獲船を現地人に譲り、マンジェラ島とアラバマ島間を抜けて、 ペル-へ向かう、度々トルネード嵐に見舞われる 9/20、ラ・プラタ島着、南米を一周して元の所に来る 9/21、イートン船長が来て、横に投錨、同行を求めるがデーヴィス船長が断る 9/22、朝、イートン船長が南へと出帆 デーヴィス船長とダンピールがサンタ・ヘレナ岬へと出帆 9/23、サンタ・ヘレナ岬沖着、バーク型船を捕獲 9/26、ラ・プラタ島沖着 9/27、マンタの原住民集落に上陸 9/28、ペルーのラ・プラタ島に上陸 10/02、ロンドンからチャールス・スワン船長のシグニット号が ピーター・ハリス船長の小型バーク船とラ・プラタ島に到着 10/03、捕獲バーク船を偵察に出す 10/05、捕獲バーク船が木材満載の400屯船をグワヤキル湾で捕獲してくる スペインがフリゲート艦10隻の準備中の情報に接する 10/06、捕獲バーク船20人乗組をイートン船長探しにリマ海岸かロボス諸島へ派遣 10/19、本船2隻の整備清掃を終える 10/20、2隻と火船に改造のバーク船がロボス諸島へと出帆 10/23、サンタ・ヘレナ岬沖を通過 10/25、グワヤギル湾沖を南下 10/30、グワヤギル湾南岸ブランコ岬海岸を迂回 11/02、南下継続してペルーのビウラ市外港バイタ着 11/03、先遣隊110人がバイタの町の南方に上陸、丘上の砦を占領 11/06、バイタの町を焼討、船足の遅いバーク船を焼却して、ロボス諸島へ出帆 11/10、船影を認め追跡するも見失い、南のロボス・デ・ラ・マール島へ急ぐ 11/14、北のロボス・デ・テラ島を望見、夜に沖に投錨 簡単に捕れるアザラシ、カツオドリ、ペンギンを久し振りの肉食とする 11/15、ロボス・デ・テラ島を出帆 11/19、ロボス・デ・ラ・マール島に着、スワン船長が自船を修理補強する 11/21、モスキート族2人に海亀漁を命じ、大漁で全員が肉を食す 11/26、夕刻にバーク船を見かける グワヤキル河口周辺は古くインカ時代からカカオなどが産する豊かな土地 11/28、船隊の整備、グワヤキル河口のブナ島奇襲を決定 11/29、朝、グワヤキル湾へと出帆、 河口から遡上した所にあるグワヤキル街襲撃に道不案内で失敗 12/09、朝ブナ島着、黒人男女奴隷1000人乗船のバーク船3隻を捕獲 12/12、カノア報告で本船隊はアレナ岬に停泊中と判明、略奪物資を分ける。デーヴィス船長 とダンピール達が黒人奴隷40人とキート布積載バーク船をデーヴィス船長はさらに 14人、スワン船長15人をとり、残りは解放。 ダンピールは奴隷を解放せず、パナマ湾へ流入するサンタマリア川の奥28.8kmの サンタ・マリア金鉱山で働かせたらよかったと述懐 12/13、アレナ岬を、捜索に出したバーク船と会合のためラ・プラタ島へと出帆 12/16、ラ・プラタ島着、バーク船は見当たらず 12/17、飲料水補給で本土へ向かう途中、バーク船と会合。ラ・プラタ島へ戻り、捕獲バーク船 の布地を山分け、船はスワン船長の付属艇となる。デーヴィス船長の現地人ストライ カ−がラ・プラタ島の海亀漁で豊富な肉食を賄い、スワン船長にも分けてやる。 船隊はパナマ湾パナマ市南西のラベリア行きを決定 12/23、ラ・プラタ島を中米西のパナマ湾へと出帆 12/24、朝、バサオ岬沖を通過 12/26、サンチャゴ川探索にカノア4隻を派遣 12/27、サンチャゴ川支流着、上流を探査して逃げた現地人の小屋で豚と鶏を 調理して昼食とする。川から戻り、夕刻に河口着 12/28、サンチャゴ川を後にトマコ川へ 12/29、トマコ川着、トマコ川上流を探索、スペイン人を捕える 12/31、トマコ川河口に集結 1685年 (ダンピールはバッチェラーズ・ディライト号デーヴィス船長に乗組) 1/01、トマコ川からガロ島へ向う、パナマからリマへ向かう郵便船を捕獲、ガロ島着 1/06、スペイン公文書を破棄して郵便船を釈放 1/07、朝、ガロ島を出帆、 5隻の船団構成:〜 ・軍艦デーヴィス船長、ダンピール乗船 ・付属艇のバーク船 ・軍艦スワン船長、1等航海士ティート ・付属艇のバーク船 ・バーク船改造の火船 1/08、トルヒロからリマに向う90屯の麦粉積載船を捕獲、ゴルゴニア島へ 1/09、無人島のゴルゴニア島西岸着、真珠貝の多い所、水を補給後、多数の捕虜を解放 1/13、キング諸島へ向け、6隻の船団が出帆 1/16、コリエンテス岬沖を通過 1/21、ガラチナ岬を望見、 ガレラ島に投錨、キング諸島(別名:真珠諸島)の探索に船を出す 1/25、キング諸島南東端セント・ポール島の湾へ係船修理のため進入 1/27、バーク船2隻に20人づつ乗船、パナマ市前面の巡航に出帆 1/31、バーク船が食料(トウモロコシ、塩漬け牛肉、鶏など)積載船を捕獲して帰還 2/14、傾船修理完了、船の清掃作業、水を補給、薪の積載も終える 2/15、キング諸島外の本土との水路に投錨 2/16、パチェケ島沖に投錨 2/17、パナマへ向う
200)混成部隊と出会う、英は両船に配属、仏へはバーク船を与える、プチ・グワーヴ総 督の委任状(コミション:別名:復讐許可状)をグロニエ船長からデーヴィス船長が貰う スワン船長はヨーク公のがあると断る。 3/02、ペリカをサン・ミゲル湾へタウンリー船長の捜索へと出帆、 同日夜パチェケ島に再度投錨 3/03、パチェケ島を出帆、サンミゲル湾へ スワン船長はタウンリー船長の捜索 キング諸島の南東端入江から出てくるパナマ行き バーク型船2隻(酒類満載)を捕獲したタウンリー船長の2隻に出会う キング諸島で酒類入れのツボを空にして水を入れるため皆で1500-200本飲み干す 3/10、グワヤギル発小型バークを捕獲するも積荷無 3/12、サンタ・マリア川河口から出てきた現地人に、北海から陸伝いに 英仏混成部隊が来ることを聞く。ローズ、ピカール、デアレーらの一隊40人 3/15、数人のイギリス人乗船ウィリアム・ナイト船長配下捕獲バーク船と会合 イギリス人のバーク船ヘンリー・モア船長と出会う、 スワン船長がバーク船をハリスに与える、モア船長達はスワンの船へ ハリス船長はサンタ・マリア川へ地峡越えの一隊の消息を探りに行く 3/21、給水でガラチナ岬着、乾季の終わり頃で飲料水無く 3/25、ポルト・ピナス着 3/26、ガラティナ岬へ向う、途中でグワヤキル発カカオ満載の小艇を捕獲 3/29、ガラティナ岬着、カカオを分配 3/30、給水のためタバゴ島へと9隻の船団で出帆 4/01、キング諸島北端のパチェケ島に給水で投錨、カノア4隻をタバゴ島偵察へ派遣、 チョコレート作りの砂糖確保にカノア4隻を本土に派遣、調理用大窯3個を持ち帰る バーク船ハリス船長をタバゴ島南南西のオトケ島プランティン農園の鶏、豚確保に派遣 途中でリマからスペインへの財宝輸送プラタ船団出帆情報を積載の郵便船を捕獲 4/10、タバゴ島を出帆、キング諸島へ向う 4/11、キング諸島の前に傾船修理した所に投錨、 再度のサンタ・マリア川探索行で地峡越えしてきた一隊を連れてきたハリス船長と合流 4/19、カノア15隻に250人乗船をチーボ町襲撃にチーボ川へ進撃させる 4/21、整備修理のハリス船長以外の全船団がチーボ川へ進撃 4/22、小さなチェペリオ島北岸着、島はチーボ川の真正面にある パナマ湾内の本土から1リーグ沖(パナマ市から7リーグ)のアボガドなど果樹園の島 4/24、町中が逃げた後だったので、陸戦隊が何の得物も無く引き上げてくる 4/02、ハリス船長が合流、10隻で1000人となる 4/28、タバゴ島着、 捕虜を訊問してパナマ市の防備が鉄壁に近く固いことが判明、島の集落を焼く 5/4、タバゴ島を出帆、キング諸島へ 5/12、デーヴィス船長とグロニエ船長が諸島北端のパチェケ島へ 残りはキング諸島南端のセント・ポール島に投錨 5/13、デーヴィス船長隊がパチェケ島で捕虜を訊問 パナマ市が食糧難に陥り、まからのプラタ船団到着まじかまじかになっていること、 イギリスでチャールス2世が亡くなりヨーク公爵が即位したことなど判明 5/27、スワン船長とタウンリー船長が合流 5/28、雨季の到来で大雨となる、 ベリアゴ船随伴のスペイン艦隊14隻をパチェケ島西北西3リーグで発見
直接リマからプラタ船団で来た者数千人有、財宝はパナマでは無くラベリアへ (7/5合流のナイト船長の情報) ・ギリス私掠船団(ダンピール側)の編成:〜
・スワン船長の従属艇、乗員8人 ・小型バーク船改造の30屯火船、カノア要員が乗組、以上合計960人 私掠船団は風上から攻撃を開始するも、翌朝に形勢逆転し逃げる 5/29、パナマ湾内を逃げ回ったあげく元のパチェケ島に投錨、ハリス船長は見当たらず 5/30、スペイン艦隊はパナマ方面へ去る 6/01、私掠船団はギボ諸島の会合地へと出帆 6/03、パチェケ島南南西4リーグのパナマ湾内諸島最西端のチュチェ(セノバ)島沖を通過 ブランリー船長のバーク船主檣柱が折れ船を捨て、乗員36人はデーヴィス船長に乗船 スワン船長(シグニット号)のメーン・マストが折れるも修理で船団から離れる 6/10、ラベリア海岸の高い山モロ・デ・ポルコス(豚の山)を望見 6/15、ギボ島着、ハリス船長と会合 6/17、スワン船長が到着、両船長が協議、 ニカラガ湖とレア・レホ中間のレオン市襲撃が決定され、カノア(丸木舟)造りとなる 6/24、プエブラ・ノバへ食料調達部隊150人が空荷バーク船を捕獲し帰還するも、調達ならず 7/05、ナイト船長が合流 7/18、グロニエ船長のフランス人ジョン・ロースと14人がカノアで到着、デーヴィス配下となる 7/20、ギボ島を8隻に640人で出帆、レオン市外港レアレホへ向う デーヴィス、スワン、タウンリ、ナイト船長の4隻と火船1隻、従属艇3隻 8/08、噴煙を上げるヴェーホ火山を望見 8/09、朝、船団投錨地から520人がカノア31艚で上陸地へ向う 8/10、夜、陸地に接近、 8/11、夜明けに上陸、59人残留、470人が城壁へと進撃、タウンリー船長80人と先陣、 スワン船長100人、デーヴィス船長170人、最期がナイト船長 レオン市総督が白旗を掲げる、 8レアアル銀貨(スペインドル)30万枚と1000人4ヵ月分食料要求を1日延ばしにする 8/14、レオン市を焼討して退却 8/15、捕虜交換、釈放スペイン人捕虜が牛肉をレア・レホに届けると約束 8/16、カノアでレア・レホへ 8/17、レア・レホ着 150頭分の牛肉がリオン市から届き、船積み 8/24、レア・レホの町を焼いて出発 8/25、エドワード・デーヴィス船長と別れる デーヴィス船長はナイト船長とハリス船長とペルー海岸へ向い、 ダンピールはスワン船長と行を共にしタウンリー船長の2隻と西方へ向うことになる 8/27、デーヴィス船長はバーク船、火船、ナイト船長バーク船の4隻で出帆 残留隊に街で観戦の熱病々人が続出、犠牲者が多数でる (ダンピールは私掠船シグニット号スワン船長に乗組)
9/26、北風に乗り船を海岸沿いに西方へ進める 10/2、タウンリー船長一行が手ぶらで船団に戻り、出帆 グアトゥルコ港に到達、病状の重い熱病のスワン船長らを上陸させる 10/06、タウンリー船長とダンピールと140人が上陸 10/14、8日後戻る 10/10、カノア4隻を西方のポート・エンジェルズへ先行させる 10/12、病人も回復したので私掠船団もグアトゥルコ港を出帆 風向き悪くグアトゥルコの西1リーグの無人小島サクリフィシア島に投錨 10/18、サクリフィシア島出帆 10/22、西方へ先行したカノア2隻が港を見つけられずに船団に戻る 途中で牛の放牧を発見、上陸に失敗して転覆1人溺死、他の2隻は不明 10/23、ポート・エンジェルズに到達、100人で上陸、牧場へ向う 管理人不在で2日滞在し肉にありつくも遠すぎて少量しか持ち帰れず 10/26、牧場へ行った者が一人ずつ肉を背負って戻る 10/27、ポート・エンジェルズを出帆 10/28、残りのカノア2隻がアカプルコから戻る、途中でスペイン人と交戦するも干し魚を発見 カノアで12人を干し魚取りに向かわせるも2日2晩戻らず 10/31、銃声を聞きタウンリー船長ら救援に行き交戦後に救出して帰還 11/02、アルガトロス岩礁を通過 11/03、かなり大きな川河口のスペイン胸檣(砦)沖に投錨 11/04、胸檣の近くに上陸、砲撃を受けるも上陸、敵兵は逃亡 捕虜ムラート情報でアカプルコにリマからの船が入港中と判明 タウンリー船長が乗っ取りに向かう計画に多数が同調 マニラ・ガレオン船(千屯級以上で7月マニラ発、翌2月迄にアカプルコ着)到着を待つ 11/05、午後アカプルコへと出帆 11/07、午後アカプルコを望見、 タウンリー船長がカノア12隻140人で備砲20門リマ船乗っ取りに向かう 11/10、堅固な守りで追い返された疲労困憊のタウンリー船長らが戻る 11/11、順風の陸風に乗って西へ航海、外洋に直接面する砂浜は大波で近寄れず 11/13、ペタプラン山(北緯17度30分)沖を通過、北西側で170人が上陸 11/14、夜明け前エスパタ村に上陸、 前日聞いた麦粉輸送60頭ラバ隊を探し出し食料を没収して戻る 安全でタウンリ船長らが上陸して放牧牛18頭を塗擦して戻る 捕虜の道案内ムラート混血女と子供2人に衣類を与えて釈放、 スワン船長が泣き叫ぶ母親から男子を残し育てることにする 11/18、チェケタン着、傾船修理 11/21、夕刻に順風に乗って出帆、西へと順調に公開 11/25、タネイタイトロ山沖に到達、北緯18度8分 11/26、スワンとタウンリー両船長が200人でコリマ町探索にカノアで上陸 11/28、町は見つからず疲れ果てて戻る、コリマ火山(4268m)望見 11/29、再度両船長がカノア分乗200人で上陸地を探すもスペイン兵を見るが失敗、翌日戻る
12/24、上陸部隊の37人が1スペイン人50人と遭遇・交戦、戦死4人・重傷2人で撃退後戻る 12/25、カノアでのモスキート族ストライカーのジューフィッシュ漁でクリスマスを祝う 12/28、タウンリー船長の上陸隊が1週間ぶりにトウモロコシを担いで戻る 1686年 (ダンピールは私掠船シグニット号スワン船長に乗組) 1/01、コリエンテス岬沖を巡航、バルデラス警告の放牧牛を盗るため湾奥に投錨 1/06、獲物狩りを続け、2ヵ月分以上の塩漬け肉を船積み。タウンリー船長がリマ船捕獲で アカプルコ航海を強行したので、食料の準備ができず、マニラ・ガレオン船をコリエン テス岬沖での待ち伏せや、キャヴェンディッシュ船長の様にバハ・カリフォルニア半島の サン・ルーカス岬沖待ち伏せができずに好機を逃す。 タウンリー船長はペルー海岸への航海を希望し、スワン船長は金鉱山を求めて 北方への航海をとることになり、別行動になる 1/07朝、ダリエン地峡から道案内の現地人酋長をタウンリー船長に託して、両船長共に出帆 1/14、イザベラ島を望見、島に夕刻投錨、翌朝出帆を繰り返す
2/13、捕虜現地人の案内でスワン船長170人がカノア8隻で出発 2/14、カノア隊が上陸、23人を残し、サンタ・ペカケ町へ向うとスペイン人は逃亡 2/17、57人が捕えた馬でトウモロコシをカノアへ運搬、スペイン人と交戦 2/18、捕虜の現地人からサンチャゴ街にスペイン部隊千人駐屯と聞く 2/19、スワン船長は直ぐ引上げようとするも、食料獲得優先の大勢に押され、 54頭の荷駄隊が先発、スペインの待ち伏せで全滅、戦死54人の大損害を蒙る 2/20、水槽を満タンにしてバハ・カリフォルニア半島のサン・ルーカス岬へと出帆 3/06、連日の強風で難渋する 3/07、マリア(現トレスマリアス)諸島中央マリアマグダレナ島東端に投錨 3/08、そこで傾船修理、 スワン船長が東インディーズ行きを提案し決定 ・シグニット号スワン船長、乗員100人と奴隷4人 ・バーク船ティ−ト船長、乗員50人と奴隷3人などと食料を配分 ダンピールは熱病の浮腫治療で暑い砂浜に首まで埋めテントで発汗を繰り返して治癒 3/26、修理完了で、乾季での給水でバルデス湾へ航行 3/28、バルデス湾奥のバルデラス川に投錨するも塩分有で、 コリエンテス岬寄りの小島に移動、投錨 3/29、新鮮な水32屯を船積み ダンピールはメキシコのアカプルコとカンペチェ湾のベラクルス、ペルーのパナマと ポルトベロでは海運利用をしていると思い込んでいたのが思い違いで、メキシコ 海岸で利益を上げるどころか、疲労・苦労・その上に損失に出会っただけで、殆ど 得るところがなかったと述懐。乗員はマニラでの私掠活動による運試しを期待するも、 スワン船長にはその意図はなく、帰国を願っていました。 3/31、メキシコ中部西海岸コリエンテス岬を後に東インディーズへと出帆 最初の寄港地ラドロネス(アリアナ)諸島のグアム島までの長い航海に乗員は怖気づき 尻込み、少々のトウモロコシと塩漬け魚で一日分として60日はもたないと見積もられて いる食料も船内のネズミ被害が甚大となる。スワン船長はキャヴェンディッシュ船長も ドレーク船長も50日で航海しており、船は当時より良くなっているので、40日で着けると 説明して乗員を勇気づける。またマニラ・ガレオン船は積荷を満載で60日の航海で 運試しと説明(C=44日、D=68日で太平洋横断) 4/20、先行のバーク船が岩礁地帯を通過、グアム島近しと報告 5/11、順風の貿易風に乗ってグアム島に無事到達、夜11時沖合に投錨。 出帆後3日で塩漬けジューフィシュを食べつくし、後はトウモロコシを匙に8杯で20日 経過後、乗員の不満で10杯となり、それも残り3日分のみとなる、水は病後の「私」は 1昼夜3回あるも、乗員は12日間水無の者も有。 ダンピールの計算で(イタリア・マイル=1477.5mかな?) 4/17まで西へ進んだ距離:2283マイル(約3670km)、経度:39度5分 その後の西へ進んだ距離:5040マイル(約8110km)、経度:86度6分 合計の西へ進んだ距離:7323マイル(約11800km)、経度:125度11分 グアム島の緯度は北緯13度付近、経度は13度2分(アラビア・マイル=1975.5m)。 島はマニラ・ガレオン船の中継地で総督の下に30人程のスペイン兵が駐屯。大柄屈強 で陽気な島民は反スペイン感情を持っており友好的で、ブロア型帆船を乗りこなす。 偵察に来た修道士を人質に船内に残して総督に手土産と共に書簡を渡す。翌日昼頃 土産のブタ6頭、大きいメロンとスイカを12個ずつと友好的な返書が届く。その後毎日、 焼立てパン木の実、果物など食料が届けられ、代価に火薬・弾丸・小火器などを渡す 5/30、総督最後の贈り物、豚数頭、塩漬マンゴー、極上塩漬魚、上等ラスク(ビスケット)が それぞれ1壺、コメ6,7袋が届き、島の食料事情が悪いのでこれで出帆しては、また西 からモンスーンが接近中ですと言上なので、マスコットのイギリス犬を乗員の不満 あるも進呈、マニラ駐在商人への紹介状も届く。総督へ謝意を伝えて、かの修道士に 大きな真鍮時計、アストロラーベと大型望遠鏡を進呈して釈放すると、豚7頭、 ジャガイモ3,4積み、ブッシェルとマニラ・タバコ50ポンドを返礼に届けてくれる。 ココヤシの実を積めるだけ塩漬け豚は50頭、コメも十分に備蓄。 6/02、グアム島をイスラム教徒の島ミンダナオ島へと出帆
11月中旬、船底がフナクイムシにやられているのに気付く 12月初め、船底板の取り換え修理が完成 12/10、出帆準備は整うも、将軍の狩猟のお供をする 12/20、サルタン配下将軍ラージャ・ラウトの狩猟のお供人員に乗船命令 12/25、岸で暮らしていた全員が乗船するも、スワン船長は今後の方針を明らかにせず 1687年 (ダンピールとスワン船長達はミンダナオ島で暮らす) 1/11、スワン船長の航海日誌に綴られた乗員非難の文言が発覚したのを機に、 ティート船長がスワン船長の体罰の意趣返しに反乱を企て乗船中の全員が加わる 1/12、船から船医を呼びに来たので、ハーマン・コピンジャー船医助手と「私」は船に戻る 1/13、本船は抜錨して、空砲1発を撃つ スワン船長はネリー1等航海士を寄越す、船長への不平不満を聞いたネリー航海士は 船長と商人に聞いてくるので、出帆を1日待つように言うので、再び投錨して待つ 1/14、ハーソップ商人が乗船、仲直りを進められるも聞かずに使者を差し向け、午後2時まで 待つと通告。船長も誰も来なかったので、そのまま出帆。 置き去りにされし者は船長と36人となる。当地での埋葬者16人は現地人に乱暴したり して毒を盛られた連中、逃亡者8人となる。 (ダンピールは私掠船シグニット号リード船長ティート航海長ヘンリー・モア操舵手に乗組)
2/10、作業が終わり出帆 2/18、ミンドロ島北西端沖に投錨、途中のパナイ島で多数の狼煙を望見。現地人カノアから マニラには中国船15隻、ポルトガル船、スペイン側の船など常時2,30隻が停泊と聞く 2/21、出帆 2/23、朝ルソン島の南東端沖に着、スペイン側バーク船を捕獲するも空船で放す さらに同じくマニラ行きの米と綿布満載スペイン側バーク船を捕獲 2/26、捕獲船乗員を解放して、捕獲船と2隻で好天下東北東強風に乗ってルソン島出帆 3/13、メコン河南微東約20リーグ沖(バシー諸島)のコンドール島(Pulo Cndore)を望見 3/14、正午頃に同島北側沖に投錨、水を補給(4月には川は泥池になる) ダンピールは上陸して野生マンゴーと野生ニクズクを見つけ、島の男はペグー、 シャム、コーチシナ、カンボジア、トンキン、アフリカのギニア海岸などと同じく、 自分の妻や娘を勝手気ままに扱い船に連れてきて提供したりし、 僅かな金額で受けておくと何かと便利だったと回想 3/16、傾船修理に適した港湾に入り準備、捕獲船の綿布で新帆を縫い上げる 友好的な現地人から捕獲船の米で食料を調達、毒を盛られていた2人が亡くなる 4/16、船底を厚板に取り換える大規模な修理を終える、多くの積荷を残し捕獲船を放棄する 4/17、出帆、水の補給に最初の投錨地へ向かうも川が干上がり池となり竹筒で運ぶ 4/21、シャム湾への現地人水先案内人を雇いプロ・コンドールを出帆 4/23、プロ・コンドール西方40リーグのウビ島着、ヴェトナム最南端バイブング岬沖 カンボジアの米満載バーク船が給水で寄港の2隻を見つける 4/24、シャム湾へ進入、湾中央の島々着、リード船長と上陸するも手ぶらで戻る 5/13、無風所歌が続き、本日プロ・ウビに着、補給で東側に投錨、暴風となる 米と塗料のウルシを積んだチャンパ人の小型帆船2隻乗員描く40人が投錨中 5/20、暴風がようやく収まり始める 5/21、プロ・コンドールに戻るため出帆 5/24、プロ・コンドールに投錨、 途中で会ったスマトラ島パレンバンからの胡椒満載のジャンクも投錨、ジャンクから スマトラのシラバル(現シラバールー近郷)にイギリス入植地が有ることを聞く。停泊中 のマレーの小型バーク船にカノアを出すと、乗員が船内へ上がり戦いとなり、5,6人が やられる。生き残りが戻るとマレー船へ攻撃をかける、すると船を沈めて20人程が 逃げ去る。暴風で10日も足止めを食い、コピンジャー船医が逃亡するも連れ戻される 6/04、船を整備し、水槽をみたし薪を積み、順風でプロ・コンドールを出帆、マニラに向う シャム行きジャンクは風待ちで残るが、ポルトガル混血乗員を土地案内のため雇う 6/25、中国広東州南岸のセント・ジョン(シャンチョワン)島陸地を望見、北東端に投錨 7/03、出帆するも殆ど風がない 7/04、午後4時頃から北東の強風となり、夜には暴風雨となり、カノア舟2隻を切り離す 7/06、夜の大檣頂コーパス・サント放電現象も止み、順風となる 7/20、フォルモーサ島(台湾)と本土の中間のピスカドーリス諸島(北緯23度付近)を望見 島の間を縫って航行、穏やかな湾に投錨、タタール人の城塞都市が見える カノアを差し向けると総督の尋問を受ける、物資の調達は許可され、上陸は許されず 7/29、嵐で足止めを食って、本日バシー海峡のバタン諸島へと出帆 8/05、バタン諸島に着、 5島をオレンジ公の島、グラフトン公の島、モンマス公の島、ヤギ島、バシー島と呼ぶ 8/06、目指す5島の北端の東沖に投錨、鉄クギなどで食料を調達 8/13、帆の補修のため天幕を岸に張る 9/26、暴雨風となり船が流され、6人を取り残す 9/27、風は収まるも豪雨となる 9/28、ようやく好天となる 9/29、風が南西に転じあので、バシー島へ向う 9/30、西風で島々を望見するも日没前に接岸できず 10/1、元の場所に戻り、取り残した乗員6人を送ってくれた現地人カノア舟から収容 1687年 (ダンピールは私掠船シグニット号リード船長に乗組) 10/3、バシー諸島を出帆。 ティート航海長の提案でインド最南端コモリン岬に行くことになり、 マラッカ海峡ではなく、香料諸島からティモール島周りのインド洋遠回りルートへと南へ 10/14、ミンダナオ島南東端東方の島沖を通過 10/15、北東の風。ミンダナオ島へ進路をとる 10/16、ミンダナオ島南東端を望見、サランガニ諸島の2つの小島の間に投錨 傾船修理で入江に入り準備、大工達は大木を伐採に上陸、バウスプリット(第1斜 檣)、フォアヤード(前檣帆桁)、フォアトップマスト(前檣中檣)、水揚げポンプを取 換える大作業となる。ミンダナオ近隣島の王子が来船して自分達の島へ連れて 行って欲しいと願い出て、スワン船長達の消息を語る。それによると、皆元気でミン ダナオ市に住み、サルタン弟ラージャ・ラウト将軍の配下になってアルフール族との 戦いで手柄を立てて、サルタンからも重要視されていること。スワン船長はマドラス市 へ行く船を金40オンスで買う交渉中だが、戦いが終わるまで離さないだろうとマレー 語で語ってくれた。王子が下船時に3日後に戻るまで待つことを約束するも、留守居 役で船に残っていた「私」は、不本意に反乱に加わらされていたので、仲間にスワン 船長を迎えに行こうと提案すると、下船中のリード船長とティート航海長に告げ口され て、急遽出帆となる。スワン船長達のその後は聞いた話で、長くミンダナオ島にいた が、そこでハーソップ商人とスミス商人など亡くなった者もおり、中にはオランダの スループ船でテルナーティ島へ渡航した者がローフィとネリーの他かなりいて、さらに ヴァタヴィアへ渡ってイギリスへ戻ったこと。スワン船長と船医はヨーロッパ行きの オランダ船に乗船を頼みにゆく途中のカノア舟で、待ち伏せの島民に殺害され黄金も 何もかも奪われたことを聞く 11/2、北西風の中を出帆、南西へ進路をとる、セレベス島を望見後に西微南風で西へ向う 11/9、セレベス島北東端沖に到達 11/22、南緯1度20分に達する 11/23、大型ブロア船60人と小型ブロア舟6隻に遭遇、ブラオは何事もなく島へ戻る 11/24、セレベス島沖の砂浜の湾で南緯1度50分に投錨 1隻になったカノア造りで大木を伐採に上陸、蔓と豚脂で軟膏を作る 11/29、北東風で出帆、南南西へ向う 11/30、スパウト竜巻が発生、恐怖を味わうも被害無 12/01、プトン島を望見、モスキート族狩猟掛が夜明けに巨大海亀を捕ってくて現地人を捕獲 12/02、現地人情報で正午にセレベス南東端付近のブトン島東岸の良好な港湾着 12/06、美しく飾り護衛兵士付ブロア舟でサルタンが来船、5発の祝砲を打つ 12/07、リード船長がサルタンに招かれる 12/08、サルタンが再度来船、少年を提供 12/12、出帆するも、岩礁地帯で難渋する 12/20、アロール島沖を通過 12/29、ティモール島を望見、ニューオランダへ向うことにする 12/31、南緯13度20分から南へスコット岩礁など岩礁地帯を通過、
04/19、無人島のナソー島南西端着 04/20、ココヤシの生い茂る別の島に投錨、カノア舟4隻分のココヤシの実を補充 04/21、スマトラ島西岸沿いに北へと航海 04/25、赤道を越える 04/28、ホッグ島沖を通過 04/30、スマトラ島北西端アチンからのブロア舟4人乗を捕獲、 積荷のココヤシの実と油を盗って、脱走者に使用させないように舟は沈める 05/04、夕刻ニコバル諸島の小島(グレートニコバル島)を望見 05/05、ニコバル島北西端の入江に投錨、 傾船修理の準備にかかる (ダンピールはシグニット号を下船・上陸) 05/06、出帆準備ができた時、「私」はリード船長にここで降ろして欲しいと申し出て許される カノア舟で送ってもらうと、後でロバート・ホール、アムブローズ、アチンからの捕虜 4人、プロ・コンドールで加わった混血ポルトガル人もくる(シグニット号を下船) 05/08、現地人の空家で1夜を明かして早朝に家の持ち主がくる。驚きながらも友好的に 食料を古着と交換、斧とカノア舟を交換。トランクと寝具類を舟に積込み8人全員が 乗船、漕ぎ出すも転覆。ほうほうの体で岸に泳ぎ着く。ずぶ濡れの衣類と特に 「航海日誌と地図」を焚火で乾かす作業で3日を過ごす。その間にアチン人は カノア舟をに両舷アウトリガーと繋ぎ合せたマット帆を取付けて全面改装 05/12、カノアにパン塊のメロリー、ココヤシ酒トディー、ココナッツなどを積み、 私は東インディーズ海図を調べ私掠船から密かに持ち出したコンパス持参で出発 (ダンピールはカノア舟に乗る) 05/15、食料を平和的に得ながらニコバル島を後に8人でカノア舟でアチンへと出発 05/16、夕刻に順風でオール4本から帆走にする 05/17、強い潮流で夜間に元のニコバル島付近へ後戻り、スマトラ島影は見えずガッカリする 05/18、正午に太陽が隠れ位置確認の天測できず、 太陽の周りに暈が出て暴風雨の予兆となる 05/19、強風雨が荒れ狂う荒天夜が明けずぶ濡れで震えながら、ウェイ島を望見、歓喜雀躍 05/20、スマトラ島ピュサンガン川河口パサンジ・ジョンガに到達、 アチンは近し、が全員が高熱を発症 6月初め、高熱でもパサンジ・ジョンガを村人用意の大型カノアで出帆、 重病アチン人3人残留、漕ぎ手4、舵取り1、アチン役所に報告の村長の11人乗船 3昼夜でアチン到着、 イギリス東インド会社交易事務所の世話で在所長官の尋問を受け釈放 3日後ポルトガル人没、アムブロ−ズも間もなく没、ホールも衰弱していた バウリー船長の厄介になって高熱は微熱となる(1年後回復) 7月頃、フォート・セント・ジョージからのカルテーナ号ウェルデン船長でトンキンへ航海 1689年 (ダンピールはカルテーナ号ウェルデン船長に乗組) 1月、ソンコイ川(紅川)で帰国予定ロンドンのレインボー号プール船長のバーロウ航海士に ロンドンへの報告書を託す 9月末、トンキン出帆、マラッカへ航海 12/25頃、(クリスマスの少し前)アチンに戻る コマンデル海岸コモリン岬近くのデンマーク入植地トランケバー港でデンマーク船の 航海士となるシグニット号乗組モルガンと出会う。紅海へ向ったロンドン商人資本の シグニット号消息を聞く。それによるとニコバル島をプルシャ湾へ向け出帆、セイロン 島へ向うもモンスーン風でコロモンデル海岸に寄航・補給、途中で半数の乗員が下 船、モルガンとコピンジャー船医はデンマークのトランガムバーへ、モルガンは航海 士に雇用されカルテーナ号の船長にもなる。その他の3,40人はムガール帝国の傭 兵になった後、一部は強盗になった者もいたそうだ。リード船長はセイロン島近くで ポルトガル船を略奪、風向きで紅海行きを止めてマダガスカルへ向い、そこでリード 船長はニューヨークの奴隷船にこっそり乗船。シグニット号はティート船長となり、西 インディ−ズからブリガンティン船ナイト船長が到着し、一緒に紅海へ向うも、 コモロ諸島のアンジュワン島で、夜アチンへ向ったナイト船長に逃げられる。 シグニット号は難破したアン号フリーク船長達が乗船してコロモンデル海岸へ行き、 ティート船長達はムガールの傭兵になる積りで下船。フリーク船長はシグニット号で イギリスに向うもマダガスカル島南西端セント・オーガスティン湾で沈没。 1690年 初め、フォート・セント・ジョージ(マドラス)へ渡る 5ヵ月滞在、スマトラ西岸の東インド交易事務所のあるベングーリへ戻る その後そこでガンナー(砲術長)を5ヵ月務める 4月頃、マドラス滞在中にミンダナオから丁子の樹皮満載商船ミンダナオ号が入港。 その船にミナダナオ島に置き去りにされた3人(1687/1)と、 ムーディー貨物長がメアンギス島のジェオリー王子と母を連れて乗船していた 7月、ムーディーとインドラポールへ向うも、強風でベンクーリー着、 そこの総督から砦ガンナー(砲術長)に雇われ、また インドラポールへ向うムーディーからジェオリー王子と母を引き取る 総督の悪逆非道ぶりを「私」が伝え、帰国を願望するようになる 1691年 1/02、東インド会社ディフェンス号ヒース船長が入港。船を見ると帰国許可が取り消された ので、王子の半分の権利を譲られたゴダード1等航海士に王子を乗船させて匿う様 に要請、ある夜に砦を抜け出し海岸で待つボートでディフェンス号に乗船して隠れる (1/2にベングレーンを密かに抜け出す) 1691年 (ダンピールは東インド会社商船ディフェンス号ヒース船長に乗船) 1/25、ディフェンス号に乗船して喜望峰へと英交易拠点ベンクーリーを出帆、スマトラ島を去る 喜望峰迄に飲料水汚染で船員30人が病没、水葬に付す
していること、オランダ東インド会社が酒類にバカ高い税金をかけるので酒は非常な 高値になって、しかも酒の買える居酒屋は3軒しかないことなどを見分。 またダンピールは現地人のホテントット族についても見分して記録。 05/23、ディフェンス号はジェームス&メアリー号とジョサイア号の3隻でケープを出帆 06/20、イギリス人の町のあるセント・ヘレン島に着 壊血病治療のため上陸して新鮮な果物などで栄養をつける 07/02、ディフェンス号はプリンセス・アン号、ジェームス&メアリー号とジョサイア号の4隻で 喜望峰のセント・ヘレン島を出帆、母国へ向って航海 09/16、テームズ河ダウンスに投錨、 12年ぶりにイギリスに帰国しました。ジェオリー王子についはテームズ河で下船、 「私」の懐具合が悪かったので半分の権利を手放した後、珍しい刺青の見世物として あちこちへ連れていかれたすえ、天然痘にかかりオックフォードで亡くなったと聞きま したと記録しています。これでダンピール26才から39才迄の12年半に渡る時期の記 録が終わりました。帰国後の1691/秋〜1697春の6年間は不明ですが、1694/7月に スペイン北西端ラコルニャ投錨に南風の大熱風ブルーム陸風に遭遇後雷雨となると の記録が一つだけ有ります。 1697年に「最新世界周航記」として出版されたダンピアの手記は、イギリス海軍省に注目されました。1698年春にダンピール船長は学士会のチャールス・モンターギューに捧げるとして最初の第1巻を出版しました。大成功で数ヵ月間に4回も版を重ねる程の売れゆきをしめしました。モンターギューの推薦で、1697/8/28に税官吏に週給8ポンド15シリングで採用されました。 1697/6/30にロンドンで貿易・農業委員会にてウィリアム・パターソン指揮のダリエン地峡に移住するスコッチ・イースト・インディアン会社の計画に関して取り調べを受け、また同年7/2にライオネル・ウェファーと共に委員会に出席して、ダリエン地峡地帯及び同地峡とポート・ベロ間の国のことを陳述しました。9/22に委員会でいぼ右方の東方の海賊退治に艦隊を差し向けるようにとも述べました。26日に委員会から、イギリスからマダガスカルへは何日かかるかとの質問を受け、1698/9/27付文書で以下の通り解答しました:〜(1)3ヵ月かかる。(2)マダガスカルから紅海へは何日かかるかは覚書を見て返答するが、マダガスカル海岸では1月末から5月末まで風は北東、北北東で、逆風になり、2ヵ月以内に航海するのは得策ではない。(3)紅海からコモリン岬へは、ひとへに西方モンスーンの関係で、紅海ではだいたい5月にモンスーンが吹くので、その時は1ヵ月かかる。という訳で、11月にイギリスを出帆すると、2月中旬にマダガスカルに到着、4月中旬に紅海に到着する。そこで1ヵ月モンスーンを待つと6月中旬にコモリン岬に着くと予想されるが、但し2週間はモンスーン次第で変化する、と述べました。1698〜99年迄は海軍の慣習を知らなかったと1702年の軍法会議で供述しました。 参考HP:〜 ・コンドール島(Pulo Cndore)の場所地図(メコン河流域地図) ・ニコバル諸島のある地図 ・第1回のカリブ海とパナマ地峡地帯の地図 (Map from "A New Voyage Round the World", published in 1697 by William Dampier) ・ニカラガのモスキート族地域のある地図(Mosquito Coast) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 08/12/12追記、10/1/23、11/9/11、12/9/11 |
★ダンピール物語:第1回、第2回、第3回、第4回、海峡
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