★スペイン |
Spain 国連 1988 発行 |
冒険大航海 (Adventure Voyage) ヴィリャロボス 1542 香料諸島に到達 |
大航海物語 スペイン編★ |
NORFOLK ISLAND ヴィリャロボスとサン・ファン号 Villalobos & San Juan 1542〜1545の太平洋航海地図 ノーフォーク 1994 発行 |
PILIPINAS フィリピンの地図 フィリピン 1995/12/27 発行 |
MARSHAL ISLANDS エニウェトック島 マーシャル諸島 1984-85 発行 |
ヴィリャロボスは1542年6隻の船団でフィリピンへ向い香料諸島に到着後、先着のポルトガル人との争いで捕虜となり、同地で獄死しました。彼はフェリペ2世にちなんで「ラス・イシラス・フェリピナス」と名付け、これが「フィリピン」となりました。 |
ルイ・ロペス・ド・ヴィリャロボス (1500頃〜1544/4/4) Ruy Lopez de Villalobos ヴィリャロボスはカステリア王国(現スペイン)のアンダルシア州マラガ県マラガ(Malaga, Malaga Province, Andalusia, Castile)で生まれたこと以外の若い頃の記録は不明です。また、いつ新大陸へ渡ったかも詳しいことは不明。記録に登場するのは1542年に太平洋方面へと出帆した時からです。 ヴィリャロボスは1541年ヌエバ・エスパーニャ(ニュー・スペイン、現メキシコ)植民地の初代総督(副王)アントニオ・ド・メンドーサによって東インド諸島への航海を指揮するよう任命されました。彼は1542/11/1にサン・ファン号に乗船し、 ・サン・ファン号(San Juan) ・サンチャゴ号(Santiago) ・サン・ホルヘ号(San Jorge) ・サン・アントニオ号(San Antonio) ・サン・クリストバル号(San Cristobal) ・サン・マルティン号(San Martin) のガレオン帆船(galleon ships)6隻で船団を組み、メキシコ太平洋岸ハリスコ州バラ・デ・ナヴィダッド(Barra de Navidad, Jalisco)港をフィリピンからインドネシアの香料諸島(モルッカ諸島)へと出帆しました。 1542/12/25にメキシコ西岸マンサニージョの西720kmから870kmに浮かぶレビジャヒヘド諸島(Archipielago de Revillagigedo)に到着。太平洋を西へ航海してサァヴェドラ(Alavaro de Saavedra)のスパニッシュ・ガレオン船ロス・レイズ号(Los Reyes galleon)に出会いました。その数日後に北緯9°、10°付近で彼らがコラレス島(Corrales)と名付けた島々を視認し、そこに停泊しました。さらにハワイ諸島方面から航海を続け、1543/1/6には現在のマーシャル諸島の東でエニウェトック環礁(Eniwetok atoll)かウルシー環礁(Ulithi atoll)と思われる島の付近に有る「10島の緑に覆われた小さな美しい島々」を望見、ロス・ジャルディン諸島(Los Jardines、英:Gardens Islands)と名付けました。そこへは1529年にサァヴェドラが到達していました。1543/1/23迄にマファラ(Gines de Mafra 1493-1546、マゼランの世界一周航海の乗組員)が水先案内をしていたサン・クリストバル号が激しい嵐で船団から離脱、単独でフィリピンのマザウラ島(Mazaua、1521/4にマゼランが停泊した所)に到達しました。そこは現在レイテ島南のリマサワ島(Limasawa, Southern Leyte)として知られています。 1543年にヴィリャロボスの船団は太平洋のミクロネシア南部にあるカロリン諸島のパラオ島を発見しました。1543/2/29にフィリピンのミンダナオ島(Mindanao)のバガンガ湾(Baganga Bay)に到達、そこをマラワ湾(Malaga)と呼んで停泊し、その堂々とした島の様子に感心して、スペイ王カルロス5世に因んでミンダナオ(Mindanao Caesaria Karoli)島と名付けました。そこに32日間停泊して食糧が尽きて、極端な飢餓状態に陥りました。3/31にマゼランの船隊のアントニオ・ピガフェッタが1521年に記録している友好的なマザウラ島(Mazaua)を探しに出帆。嵐に10日間翻弄されて7月の初めにサランガニ(Saranggani)に到着、サン・クリストバル号に出会い救助されて全員大喜びしました。7/4にサン・ファン号とサン・クリストバル号はレイテ島へと出帆。8/7にポルトガル派遣隊にモルッカ総督カストロ(Jorge de Castro)の書簡を渡されました。そこには「何故、ポルトガルの領海に居るのか説明せよ!」と書いてありました。ヴィリャロボスは8/9付返書で「領海侵犯に非ず! トルデシリャス条約の領土内に有」と宣言しました。1543/8/27にサン・ファン号トーレ船長(Bernardo de la Torre)はメキシコへと出帆。9月最初の週にもモルッカ総督の抗議の書簡を受領、侵犯ではないと9/12付で返書。嵐で思うように出発できず、1544/4になってインドネシアのマルク諸島アンボン島(Ambon Island)へと出帆。フィリピンのルソン島の南海岸に達し、続いてフィリピンのサマール島、レイテ島に到達、彼はスペイン皇太子(後のフェリペ2世)を称えてこの島々に「ラス・イスラス・フェリピナス(Las Islas Felipinas)」と命名しました。これが現在の「フィリピン」の国名の由来となりました。 敵意を見せる先住民に島を追い出され、飢えと難破に見舞われ、ヴィリャロボスは島への入植と探検をあきらめました。彼らの生き残りはモルッカへの脱出を試みましたが、先にモルッカ諸島(香料諸島)に来ていたポルトガル人との争いに敗れ、捕虜となりました。ヴィリャロボスは1544/4/4にアンボイナ島(アンボン島)の牢獄の独房で死んだと伝えられています。残った乗組員は生き残り牢獄を脱走して、メキシコに戻ったのでした。 参考HP:〜 ・ハリスコ州観光局の公式HP ・レビジャヒヘド諸島の場所地図 (メキシコ、コリマ州のマンサニージョ市に属しており、 バハカリフォルニア半島南端のサンルカス岬の南西386km、 マンサニージョの西720kmから870km西に有) ・リマサワ島の場所地図 ・フィリピンの地図 こちらで ・スパイス (香辛料) ・コーヒー (嗜好飲料) 世界遺産の ・ピラミッド (エジプト) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・姫路城 (日本) をお楽しみください。 上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2011/7/7追記 |