Portugal

国連 1989 発行
切手で綴る 冒険旅行(Adventure Travele)
ペロ・ダ・コヴィリャン
1487
香料と伝説の大王を求めて東方へ冒険旅行


大航海物語
ポルトガル編

PORTUGL
伝説のプレスター・ジョン大王


プレスタ|


ョン


ペロ
・ダ

コヴ
ィリ
ャン
1488 ペロ・ダ・コヴィリャンの東方旅行500年記念 1988
Journey of Pero da Convilha to the East 500th Anniv.
ポルトガル 1988/2/3 発行 (画像:300 %)

KENYA
ポルトガルからインドへの地図

ケニヤ 1998 発行
SULTANATE of OMAN
アフリカ・アラビア・インドの地図

オマーン 1981/11/23 発行

UAR
シナイ半島の地図

シナイ半島の開発(緑化)記念
エジプト 1966/7/23 発行
ADEN
←アデン
英領アデン 1963 発行
K.S.A.
アラビア半島の地図
紅海→

メディナ→

ジェッダ→
メッカ→

紅海→



カマラン島→

←ペルシャ湾

←ホルムズ海峡

←オマーン湾





アデン湾

サウジアラビア 1981 発行
IRAN
ペルシャ湾とイランの地図
ペルシャ湾 ←ホルムズ島
ホルムズ海峡
←オマーン湾


イラン 1967 発行

ペロ・ダ・コヴィリャン
  Pero da Convilha (1460頃-1530頃)
ペロ・ダ・コヴィリャンは1460年にポルトガルのコビリャンで生まれ、1530年にエチオピアで亡くなったポルトガルの外交官(diplomat)で探検家(Explorer)でした。なお、コヴィリャンはポルトガルのリスボンにある”発見のモニュメント”に「発見者の群像」の一人として記念されています。
参考HP:〜コビリャンの石像

コビリャンは18才でスペインのセヴィリアへ行き、カスティーリャ王国の大貴族でサンルーカル・デ・バラメダ領主のグズマン公爵の弟ドン・フアン・デ・グズマン公の部隊に入隊しました。その後、カスティーリャ王国とポルトガル王国の間で戦争(1475-1479)が起こった時、彼は自分の国ポルトガルに戻って、最初は馬丁(groom)として、後に従者(squire)として、ポルトガルのアフォンソ5世とその後継者であるジョアン2世に仕えました。1485年にはジョアン2世の命で友好平和条約の締結のためにモロッコフェズとアルジェリアのトレムセンへ旅しました。

・東方旅行
  (Mission to the East)
1486年にジョアン・アフォンソ・デ・アヴェイロ(Joao Afonso de Aveiro)に伴われてポルトガルの宮廷を訪れたナイジェリア南部の海岸地帯にあったベニン王国(Benin Empire, 1170-1897)の使者は、ベニンから約1,400km離れた場所の都を治めるオガネー王(King Ogane)の存在をポルトガルに伝えました。ベニンの使者が述べたオガネー王はヨルバ人(Yoruba people)のオヨ王国(Oyo Empire, 1400-1905)の王だといわれており、オガネー王は近隣の首長に対して「錫の十字架」を授与するなど教皇のように振る舞っていたと言われ、ポルトガル王ジョアン2世はオガネー王がプレスター・ジョンの正体だと考えました。ベニンからの使者の報告を受け取ったジョアン2世は、地中海方面からの東方と西アフリカ方面からのプレスター・ジョンの国とインドへの到達を目的とする探検隊を派遣しました。マリトンブクトゥガーナのテクルル(Takrur, 800頃-1285存在)など西アフリカ内陸部の街にも探索隊が派遣されました。

1487年にはジョアン2世がバーソロミュー・ディアス船長へは西アフリカ沿岸の更なる南下を命じ、「海路からアフリカ大陸の終焉と、インドへの海上ルートとを探索し、プレスター・ジョンの王国を見つけよ」 と命じました。また、ペロ・ダ・コヴィリャンへは地中海方面から東方諸国へアフォンソ・デ・パイヴァと行き、「香料のシナモンその他のスパイスを探すと共に、伝説(幻の救世主)の大王プレスター・ジョンの王国を発見せよ」 と命じました。2人は、まずイスラム教国のマムルーク朝(Mamluk Sultanate of Egypt, 1250-1517)が支配するエジプトへ向かいました。

コヴィリャンはパイヴァと共に東方旅行へとサンタレンを出発。出立に際して、世界中の全ての国々の信用状と、スペインのカルサディージャ司教ディオゴ神父と、ロドリゴ医師(doctors Rodrigo)とモイセ医師(doctors Moises)が編集した世界の地図を準備しました。ディオゴ司教とロドリゴ医師は国王の諮問会の委員で、1483年にクリストファー・コロンブスの提案を拒否するよう勧告していました。

(1)コヴィリャンの東方旅行:インドへ (1487/5/7〜1490)
1487/05/07、サンタレン(ポルトガル)出発
1487/06/14、バルセロナ(スペイン)到着
   ?   、バルセロナを出帆
1487/06/24、ナポリ(Naples、イタリア)上陸
   ?   、通貨を交換、コジモ・デ・メディチ銀行(sons of Cosimo de' Medici)
   ?   、ナポリ出帆
1487/07/04、ロードス島(Rhodes、ギリシャ)上陸、蜂蜜を100樽購入
   ?   、ロードス島でポルトガル人2人と合流して滞在
         ポルトガル人2人はモロッコのフェズとアルジェリアのトレムセンから来島
   ?   、ロードス島出帆
   ?   、アレクサンドリア(Alexandria、エジプト)上陸
         ナイル熱(Nile fever)に感染して重体となり蜂蜜を盗られるも金貨で取り返す
   ?   、カイロ(Cairo)到着
   ?   、ロゼッタ(Rosetta)到着、アラビア語で香料が取引されている事を見分
         シナイ半島へ行くキャラバン隊に加わる
   ?   、スアキン(Suakin、スーダン北東部の町)到着
   ?   、スエズをキャラバン隊で通過
   ?   、シナイ山(Mount Sinai, エジプト)到着
   ?   、エルトール(El Tor, シナイ半島西岸スエズ湾南部の砂漠のオアシス町)到着
   ?   、ジェッダ(Jeddah, サウジアラビア)到着
   ?   、メッカ(Mecca)到着
   ?   、メディナ(Medina)到着
1488/?  、アデン到着、モンスーン(Monsoon)で風待ちとなる
   ?   、パイヴァはカイロでの再会を約してエチオピア
   ?   、カナノール(Cannanore、インドのケーララ州:現カンヌール(Kannur)上陸
1488/11/?、カリカット(Calicut、ケーララ州:現コーリコード(Kozhikode)上陸
   ?   、ゴア(南インド)上陸
1489/12/31、ホルムズ(イラン)上陸
   ?   、マリンディ(Malindi、 ケニア)上陸
   ?   、キルワ(Kilwa、タンザニア)上陸
   ?   、ソファラ(Sofala、モザンビーク)上陸
   ?   、紅海(Red Sea)通過
1490/12/31、カイロ到着、上陸

コヴィリャンはカイロに着いて、パイヴァがアレクサンドリアかスーダンのスアキン(Suakin)にて病気で亡くなっていたことを聞きました。ジョアン2世がコヴィリャンとパイヴァへの手紙を持たして派遣した使者、ポルトガルのユダヤ人2人、ラビ・アブラハムと、ラメーゴの靴職人ホセ・サパテイロ(Jose Sapateiro)に会いました。そして彼らに国王からの諮問に答えて、インドのスパイスはカリカットでシナモン、コショウクローブの取引ができることと、インドへの航海ルートが 「南アフリカ回りのマダガスカル島からカリカットに到達することができる航路」 があるとのインド旅行の報告書を託して、プレスター・ジョン捜索のためエチオピアへ向かいました。

(2)コヴィリャンの東方旅行:ソマリアへ(1491〜1493)
1491/?  、カイロ出発
    ?  、アデン到着
    ?  、アデン出帆、サンバク船(sambuk)乗船
    ?  、ホルムズ上陸
    ?  、ジェッダ到着
    ?  、エル・トール到着、出帆
    ?  、紅海を航海、通過
1493/?  、ゼイラ(Zeila, Awdal, ソマリアの港町)上陸
サンバク船

英領アデン 1939 発行

コヴィリャンはゼイラからプレスター・ジョンの王国と思うキリスト教国(エチオピア正教会)のエチオピア内陸の王都シェワ(Shewa,、現:アディスアベバ:Addis Ababa, Ethiopia)へ向かいました。1494年シェワに着いて、エチオピアの皇帝エスケンダーに謁見すると、厚いもてなしで厚遇を受けました。1494/5月コヴィリャンが帰国の準備をしているとエスケンダー皇帝が急死。弟で後継者の皇帝ナードは帰国を許しませんでしたが、土地を与えました。1508年にナード皇帝が亡くなると子息(後のダウィト2世)が幼かったので、妻で摂政のヘレナ女王はコヴィリャンへ爵位を与えて顧問にするも、やはり帰国を許しませんでした。この間、コヴィリャンとポルトガル本国との連絡は途絶えましたが、ヘレナ女王にポルトガル大使の招請を進言しました。

(3)コヴィリャンの東方探検旅行:エチオピア(シェワ(Shewa, Ethiopia)へ、1494〜1530)
1494/?  、プレスター・ジョンの王国と思うエチオピアの王都シェワ到着
1494/05/07、コヴィリャンが帰国準備中に皇帝エスケンダーが急死し出発できなくなり
         ポルトガル本国との連絡もできなくなって、本国では行方不明扱いとなる
1507/?  、ジョアン・ゴメス神父がシェワに到着、コヴィリャンに出会う
1508/07/31、ナード皇帝が亡くなる
    ?  、コヴィリャンがヘレナ女王の顧問となり、ポルトガル大使招請を進言
    ?  、ヘレナ女王の使節がポルトガルに到着
    ?  、ジョアン2世の命でエチオピア大使マテウスがポルトガルを出発
1515/?  、フランシスコ・アルヴァレス神父がマッサワ上陸に失敗、マテウス大使と帰国
1520/04/09、マテウス大使とアルヴァレス神父一行がマッサワに到着
    ?  、マテウス大使一行がシェワ到着後、コヴィリャンに出会う
         コヴィリャンは喜びのあまり涙を流す
    ?  、コヴィリャンは東方旅行の経験をアルヴァレス神父に懺悔などで全て話す
    ?  、マテウス大使一行がダウィト2世に謁見
1520/5/? 、マテウス大使が帰途で行方不明になる
1520/10/09、ロドリゴ・デ・リマ外交官がダウィト2世に謁見
1530/?  、コヴィリャンがエチオピアで亡くなる
1526/?  、6年間エチオピアに滞在した使節団がシェワ出発
1527/?  、使節団がリスボン到着、帰国。

1520年にマテウス大使とアルヴァレス神父のポルトガル使節団に出会ったコヴィリャンは、ポルトガルを出てから37年、エチオピアでは何処へも行けずまるで国家の囚人のように暮らした期間が25年以上にもなっていたので、使節団の人々の目の前で喜んで泣いたと伝えられています。コヴィリャンはキリスト教徒、イスラム教徒など全べての話し言葉に通じて、異邦人の通訳者としてポルトガル使節団にとって貴重な存在になりました。また、エチオピアからの要請を受けて派遣されたドン・ロドリゴを団長とするマテウス大使の使節団はエチオピアでコヴィリャンを発見し、エチオピアをプレスター・ジョンの国、当時のエチオピア王ダウィト2世(レブナ・デンゲル)をプレスター・ジョンとしてポルトガル本国に報告。ドン・ロドリゴがコヴィリャンと再会した1520年以後、ポルトガルはエチオピアの王を「プレスター・ジョン」として認定。使節団に随行した司祭フランシスコ・アルヴァレス神父はエチオピアの見聞録を「プレステ・ジョアンの国」の記録として記し、1540年にリスボンで「アルヴァレスの見聞録」として刊行しました。

参考地図HP:〜
コビリャン船長の探検地図
 (緑の線)コヴィリャンとパイヴァのリスボン〜アデン冒険旅行ルート地図
       (Pero da Covilha and Afonso de Paiva common route to Aden 1487-1488)
・(オレンジ)コヴィリャンのインドへの冒険旅行ルート地図
       (Covilha travel to Goa 1489-1490)
・(青の線)コヴィリャンのエチオピア(1490-153)への冒険旅行ルート地図
       (Covilha travel to Ethiopia 1490-1530)
・(黒の線)ヴァスコ・ダ・ガマのインドへの冒険旅行ルート地図
       (Vasco da Gama travel 1497-1499)

コビリャンの場所地図(ポルトガル)
ベイラ地域の場所地図(ポルトガル)
セントロ地方の場所地図(ポルトガル)

スーダンの地図(日本語、スアキン有)
ホルムズ海峡の場所地図日本語:ホルムズ海峡&オマーン湾&アデン湾&ジェッダ有
ホルムズ島の場所地図(ペルシャ湾&ホルムズ海峡&オマーン湾が有)
ジッダの場所地図(Aden有)
シナイ山の場所地図(El Tor有)
ゼイラの場所地図(Gulf of Aden有)

シェワの場所地図(エチオピアの”Shewa”、古代エチオピアの区分地図)
エチオピアの区分地図現在のエチオピア区分地図、シェワは北・西・東とアジスアベバに分離

参考HP:〜
・カスティーリャ王国とポルトガル王国の戦争
  第二次カスティーリャ継承戦争
  (War of the Castilian Succession, 1475-1479)
カスティーリャ王国の王位を要求したフアナ・ラ・ベルトラネーハ(Joanna la Beltraneja, 1462-1530)は叔父でポルトガルのアフォンソ5世と1475年に結婚し、翌1476年にカスティーリャへ侵攻するも、トーロの戦い(Battle of Toro, 1476/3/1)で、叔母のカスティリャ王国イサベラ女王と夫フェルナンド5世(後のアラゴン王フェルナンド2世)連合軍に敗退。アフォンソ王はフランス王ルイ11世と同盟の交渉をするも、失敗。1479年にアフォンソ王はカトリック両王(イサベラ女王と夫フェルナンド2世)の王位の正統性を認める和議に調印。ほどなくアフォンソ王とフアナ女王の結婚は、ローマ教皇シクストゥス4世により、近親婚を理由に無効とされ、正統性を否定されたフアナ女王は修道院に送られ、リスボンで没しました。
参考HP:〜
第二次カスティーリャ継承戦争の関連地図(Western Europe in 1470)


<地名>
---ポルトガル---(Portugal)
オポルト
  ポルトガル北部の港湾都市で、首都リスボンに次ぐポルトガル第二の都市
  (Oporto, Porto District, Grande Porto Subregion, Norte Region, Portugal)
コビリャン
  セントロ地方コバ・ダ・ベイラ準地域カステロ・ブランコ県コビリャン村
  (Convilha, Castelo Branco District, Cova da Beira Subregion, Centro Region)
サンタレン
  アレンテージョ地方レジリア・ド・テージョ準地域サンタレン県サンタレン市
  (Santarem, Santarem District, Leziria do Tejo Subregion, Alentejo Region)
カステロ・ブランコ
  セントロ地方カステロ・ブランコ県カステロ・ブランコ
  (Castelo Branco, Castelo Branco District, Centro Region, Portugal)
ベージャ
  ポルトガルのサンタレンの隣のベージャ県にあるユダヤ人共同体の町ベージャ
  (Beja, Beja District, Baixo Alentejo Subregion, Alentejo Region)
ラメーゴ
  ノルテ地方ドゥーロ準地域ヴィゼウ県ラメーゴ
  (Lamego, Viseu District, Douro Subregion, Norte Region)
リスボン
  ポルトガルの首都で最大の都市
  (Lisbon, Lisbon District)、リスボン都市圏(Lisbon metropolitan area)
  旧エストラマドーラ州リスボン (Lisbon, Estremadura province)
マフラ
 (Mafra, Lisbon District, Portugal)
  マフラはポルトガル西海岸リスボン県にある都市で、首都リスボンの北西28kmに有。

---スペイン---(Spain)
・アラゴン王国
(Kingdom of Aragon 1035-1715)、略

マドリード、スペインの首都、
 マドリード州の州都で、州の唯一の県マドリード県の県都
(Capital city of Madrid, Kingdom of Spain)

バルセロナ、(州都)、スペインでマドリードに次ぐ第二の都市O
 現:スペイン王国カタルーニャ地方(州)バルセロナ県バルセロナ市
マドリードのスペイン広場

スペイン 1964 発行
(Barcelona City, Barcelones Comarca, Barcelona Province, Catalonia)
 旧アラゴン王国カタルーニャ州バルセロナ県バルサルネス郡バルセロナ市
(Barcelona, Barcelona Province, Catalonia Region, Aragon)。

カスティーリャ王国
 (Kingdom of Castile 1035-1715)
 1217、王になったフェルナンド3世が、父の没後の1230年にレオン王となって
     レオンとカスティーリャは同君連合となり、カスティーリャ王国と呼ばれる
 1474、イサベラ1世が即位
 1479、カスティーリャとアラゴン(フェルナンド2世王)が同君連合となる。

 1482、イサベラとフェルナンドが対グラナダ戦争を開始
 1492、グラナダは陥落、レコンキスタは終結
 1504、イサベル没後、娘フアナが女王に即位
    フェルナンド5世が摂政となる
 1515、ナバラ王国を併合
    イベリア半島はスペイン王国とポルトガル王国の2ヵ国となる。

パロス・デ・ラ・フロンテラO
(Palos de la Frontera)、(旧カスティーリャ王国)
 スペイン王国アンダルシア州ウエルバ県パロスの漁村
O印 パロスの場所地図

スペイン 1988 発行
(Palos town, Huelva Province, Andalucia Region, Kingdom of Castilla)
サンルーカル・デ・バラメダ
セヴィリア、
Oバルセロナの場所地図

Oカディス
スペイン 1988 発行
セヴィリア、(州都、旧カスティーリャ王国O
 スペイン王国アンダルシア州セビリア県セヴィリア市
(Seville City, Seville Province, Andalusia, Castilla)
セビリアはスペイン中南部グアダルキビール川(Guadalquivir, 657km)で大西洋に繋がっている歴史的な港湾都市でもあり、スペイン南部の政治・経済・文化の中心地。
サンルーカル・デ・バラメダ、(旧カスティーリャ王国)O
 スペイン王国アンダルシア地方カディス県グアダルキビル川
(Guadalquivir river, 657km)の河口
 アンダルシア州カディス県サンルーカル・デ・バラメダ
(Sanlucar de Barrameda city, Cadiz Province, Andalucia Region)
カディス、(県都)、(旧カスティーリャ王国)O
 スペイン王国アンダルシア州カディス県、スペイン南西部の港湾都市
(Cadiz port, Cadiz Province, Andalusia Region, Spain)

カルサディージャ、(旧カスティーリャ王国)
 スペイン王国エストレマドゥーラ州カセレス県カルサディージャ
(Calzadilla, Caceres Province, Extremadura Region, Castilla)
 参考HP:〜
 ・カルサディージャの場所地図(Google Earth)。

--その他--
フェズ
 モロッコ王国フェズ=メクネス地方フェズ=ダル=ドゥビベ州フェズ県フェズ市
 (Fez,Fez District, Fes-Dar-Dbibegh province, Fes-Meknes region, Morocco)
トレムセン
 アルジェリア民主人民共和国トレムセン州トレムセン県トレムセン市
 (Tlemcen, Tlemcen district, Tlemcen province, Algeria)
マッサワ
  (Massawa, Northern Red Sea Region, Eritrea)
  マッサワは紅海に面したエリトリアで、マッサワ海峡に面し、
  セメナウィ・ケイバハリ地方マッサワ地区に属す港湾都市。人口24,419人(2005)。

<人名>
グズマン公爵
  (Don Enrique de Guzman, 2nd Duke of Medina Sidonia、在位1468-1492)
  メディナ・セドニア第2公爵エンリケ・デ・グズマン
グズマン公
  (Don Juan de Guzman、在位1526-1569)
  ドン・フアン・デ・グズマン公
ディオゴ神父
   (Bishop Diogo、Diogo Ortiz de Villegas, 1457-1519)
  天文学者で司祭ディオゴ・オーティズ・デ・ビジェガス司教
  生:スペインのエストレマドゥーラ州カセレス県カルサディージャ
   (Calzadilla, Castile province, Extremadura, Spain)
  没:ポルトガルのサンタレン地区アルメイリン
   (Almeirim, Santarem District, Leziria do Tejo Subregion, Ribatejo Region, Portugal)
エスケンダー皇帝
  (Emperor Eskender, 在位1478-1494/5/7)
  エチオピアのソロモン王朝(Solomonic dynasty, BC900-1974/9/12)の21代皇帝
・アムダ・セヨン
  (Amda Seyon II, 1487-1494/10/26)、エチオピア22代皇帝、即位6ヵ月後急死
ナード皇帝
  エスケンダー皇帝の弟(Naod, 1494-1508/7/31)、23代皇帝
ヘレナ女王
  ナード皇帝の妻でダウィト2世の摂政(regent Queen Eleni, 1522没)
ダウィト2世
  エチオピア24代皇帝でナード皇帝とヘレナ女王の長男,幼名(Lebna Dengel)
  (Dawit II,別名ワナグセガード(Wanag Segad),1496頃-在位1507/8/13-1540/9/2)
バサン提督
  サンタ・クルス侯爵アルバロ・デ・バサン提督
  (Alvaro de Bazan y Guzman, Marques de Santa Cruz, 1526-1588)

アロンソ・ペレス・デ・グスマン将軍
 (Alonso Perez de Guzman, 1550-1615)
アロンソ・ペレス・デ・グスマンは第7代メディナ・シドニア公で、スペイン陸軍の将軍でした。ところが、前任者で「スペイン海軍の父」と称されるバサン提督が1588/2/9に急死したため、2/24に後任として無敵艦隊の総司令官に任命されました。彼には海戦の経験が無くも、イギリス上陸が前提だったため任命されました。この人事には世間も彼自身も驚愕しました。辞令を受け直ちに、海戦の経験がなく「船酔いする」ことや、情報不足などを理由に、着任辞退の書簡をしたためるも受理されませんでした。結果は、アルマダの海戦スペイン無敵艦隊が壊滅し、後世まで臆病者・優柔不断・無能と評価されることになりました。なお、初代の無敵艦隊総司令官はペドロ・メネンデス提督(1519-1574)でした。

アフォンソ・デ・パイヴァ
 (Afonso de Paiva, 1443頃-1490頃)
アフォンソ・デ・パイヴァは、ポルトガルのカステロ・ブランコ生まれ、アレクサンドリアで没したポルトガルの外交官で探検家でした。1487/5/7にペロ・ダ・コヴィリャンと共にサンタレンを出発。ポルトガルのリスボン、スペインのバレンシアバルセロナ、イタリアのナポリ、ギリシャのロードス島へ旅行。その後、商人になり、アレクサンドリアに渡り、そこでカイロ、スエズ、トロ(Toro, アラビア)に向かいました。その後、彼らはアデンへと出発しました。1488年にアデンに着くとカイロでの再会を約し、インドへ行くコヴィリャンと別れ、エチオピアへ向かいました。パイヴァはアレクサンドリア到着時にナイル熱(Nile fever)に感染し、高熱を発して亡くなりました。

ジョアン・ゴメス神父
 (Joao Gomes, 生年没年不詳、15世紀のポルトガルの宣教師、探険家)
1445年にアンタン・ゴンサルヴェス船長と西アフリカを探検航海。リオデオーロやギニア海岸で黄金と奴隷の貿易をしました。1506年、トリスタン・ダ・クーニャ船長がコヴィリャンの捜索のため、ジョアン・ゴメス神父、ジョアン・サンチェス神父(priest Joao Sanches)、シド・モハメッド(Sid Mohammed)を派遣。だが、アデン湾(マリンディ(Malindi)ケニア説有)を横切れず、アルプケルケ将軍が攻め落としていたソコトラ島へ戻りました。そしてソコトラ島からソマリアのラス・フィルク岬(Ras Filuk、現:グァルダフィ岬:Cape Guardafui)へ渡ってソマリアに上陸。1507年のアルプケルケ将軍のソコトラ島攻撃時に、トリスタン・ダ・クーニャ船長の乗船に便乗してソコトラ島からソマリアのラス・フィルク岬へ渡ってソマリアに上陸し、ゼイラからシェワへ行きコヴィリャンに会いました。

ラビ・アブラハム
 (Rabbi Abraham of Beja、生年没年不詳)
  ポルトガルのベージャ県にあるユダヤ人共同体の町ベージャ出身
  15世紀の言語学者(Linguist)で旅行家(Traveler)
ラビ・アブラハムはラメーゴのユダヤ人靴職人ホセ・サパテイロ(Jose Sapateiro)と共に、ジョアン2世が東方旅行中のコビリャンへ派遣した使者で、1491年頃カイロでコビリャンに出会いました。サパテイロと共に、コヴィリャンがアラブとインドの船乗りから収集してきたインドへの航海ルート発見に関する有益な情報の報告を得た後、カイロからキャラバン隊でスエズからホルムズへ行き、そこから引き返して、シリア北部のダマスカスやアレッポ(Aleppo)に到達。その後、ポルトガルに帰国してポルトガルのインド航路発見に貢献しました。

マテウス大使
 (Matthew the Armenian, (Ethiopian ambassador Mateus), 1520/5没)
  アルメニア生れのポルトガルのエチオピア大使、エチオピアで没
アルメニアのマテウスはエチオピアのヘレナ女王の要請でポルトガル王マヌエル1世が派遣したエチオピア大使で、ペロ・ダ・コヴィリャンの捜索とオスマン帝国の偵察とを命じられていました。1506年、トリスタン・ダ・クーニャ船長がエチオピア大使マテウス使節団派遣とコヴィリャンの捜索のため、ジョアン・ゴメス神父、ジョアン・サンチェス神父(priest Joao Sanches)、シド・モハメッド(Sid Mohammed)を伴って、エリトリアのマッサワ港(Massawa, Eritrea)へ向かいました。ところが、アデン湾(マリンディ:Malindi説有)を横切れず、アルプケルケ将軍が攻め落としていたソコトラ島へ戻りました。1508年にポルトガルのエチオピア大使マテウスがマッサワ上陸後、シェワに行きヘレナ女王に謁見。そしてコヴィリャンを探しましたが見つからず、「ジョアン・ゴメス神父とコヴィリャンがシェワからの帰途で行方不明で殺害されたかもしれない」 とポルトガル王へ手紙を書き送りました。帰途のゼイラで盗難にあい、南インドのカルナータカ州ビジャープル(Bijapur)で拘束された後、ダブル(Dabul)着。1512/12月ゴアに到着すると、エチオピア大使としてインド副王アルプケルケ将軍に歓待されました。1513年にマヌエル1世はローマ法王レオ10世(Pope Leo X, 1475-1521)へマテウス大使のインド到着を報告。ところが、アルブケルケ将軍への告げ口でイスラムのスパイ嫌疑をかけられ、カンナノール(Cannanore、現:カンヌール:Kannur)へ送られ、強制送還となりました。1514/2月にフランシスコ・アルヴァレス神父と共にリスボンに帰国。マテウス大使はヘレナ女王の親書(1509) と聖なる十字架を国王へ提出。哲学者ダミアン・デ・ゴイス(Damiao de Gois, 1502-1574)が、その有名な「プレスター・ジョアン親書」をラテン語に翻訳。その頃、アルブケルケ将軍はアデンから紅海へ遠征、マッサワをポルトガル基地にしました。

1515/4/7にマテウスは再度エチオピア大使として豪華な引出物を持参して、随行員に老外交官ドゥアルテ・ガルヴォーネ(old Duarte Galvao、1446ポルトガルのエヴォラ生〜1517/6/9イエメンのカマラン島没)、フランシスコ・アルヴァレス神父とを伴う使節団と共に、新インド総督アルベリガリア船長の艦隊に乗船して、インドのゴアへとリスボンを出帆し、ゴアに到着。1516年、アラビアのジェッダ攻撃に向かうアルベリガリア船長のポルトガル艦隊がゴアを出帆し、1517/2月にイタリアの探険家アンドレアス・コルサーリ(Andrea Corsali, 1487-?)が合流。コルサーリの記述によると、アデンからソコトラ島に停泊。紅海に向かうもアルベリガリア船長は悪天候でダフラク諸島(Dahlak Archipelago)に接近できす、それ以上の航海をやめてマッサワを通過したので、マッサワ上陸はできませんでした。マテウス大使はマッサワからコンタクトを受けるも、数週間後にガルヴォーネ老外交官が紅海のイェーメン西海岸沖カマラン島(Kamaran Island)で亡くなったことで、マッサワ上陸は中止されソコトラ島へ戻りました。マテウスとアルヴァレス神父は、アルプケルケ将軍派遣のディオゴ・ロペス・デ・セケイラ船長(Diogo Lopes de Sequeira, 1465-1530)がガルヴォーネ老外交官の後継者のロドリゴ・デ・リマ大使の新使節団を伴って到着するまでソコトラ島で待ちました。1520/4/9にマテウスとアルヴァレス神父と新使節団がマッサワに着き、ダウィト2世の宮廷に到着しました。アルヴァレス神父の記述によると、そこでコヴィリャンや二コラ・ブランカラン(Nicolo Brancaleon, 1460頃ヴェネチア生-1526以降没) など数人の欧州人と出会いました。その時、コヴィリャンはポルトガルを去ってから40年、エチオピアでは国家の囚人であったのが30年以上でしたので、仲間のポルトガル人と出会い、その目の前で喜んで泣きました。1520/5月にマテウス大使は妻と義理の弟、および召使を連れての帰途で行方不明になり、殺害されたと思われました。使節団は6年間そこに滞在して、1526年に出発。1527年にリスボン到着、帰国しました。

フランシスコ・アルヴァレス神父
 (Francisco Alvares, 1465頃コインブラ生(Coimbra)-1536(1541)頃ローマ(Rome)没)
  ポルトガルの宣教師で探険家
1515/4/7に、フランシスコ・アルヴァレス神父はポルトガルのマテウス大使がエチオピアへ赴任する使節団の一員としてアルベリガリア船長の艦隊に乗船し、ゴアへとリスボンを出帆、ゴアに到着。

1516年、アラビアのジェッダ攻撃に向かうアルベリガリア船長のポルトガル艦隊がゴアを出帆し、1517/2月、アデンからソコトラ島に停泊。紅海に向かうも、アルベリガリア船長は悪天候で紅海のダフラク諸島に接近できす、それ以上の航海をやめてマッサワを通過したので、マッサワ上陸はできませんでした。数週間後にガルヴォーネ老外交官が紅海のカマラン島で亡くなったことで、マッサワ再上陸は中止されソコトラ島へ戻りました。マテウス大使とアルヴァレス神父は、アルプケルケ将軍派遣のディオゴ・ロペス・デ・セケイラ船長がガルヴォーネ老外交官の後継者のロドリゴ・デ・リマ外交官と新使節団を伴って到着するまでソコトラ島で待ちました。1520/4/9にマテウス大使とアルヴァレス神父と新使節団がマッサワに着き、エチオピア皇帝ダウィト2世の宮廷(シェワ)に到着しました。そこでコヴィリャンや二コラ・ブランカラン(Nicolo Brancaleon, 1460頃ヴェネチア生-1526以降没) など数人の欧州人と出会いました。その時、コヴィリャンはポルトガルを去ってから40年、エチオピアでは何処へも行けない「国家の囚人」同然だった期間が30年以上でしたので、仲間のポルトガル人と出会って、その目の前で喜びのあまり落涙しました。アルヴァレス神父は、コヴィリャンが鮮明な描写力で、メッカとメディナにも行ったことや、これまでの旅や生活の様子、彼の人生の全てを話すのを聞き、懺悔の時も詳しく聞きました。彼はキリスト教徒、イスラム教徒など、すべての話し言葉を理解しており、使節団にとって異邦人の通訳者として大いに役立ち貴重な存在でした。コヴィリャンはよく世話されるも、死ぬまで国を出ることは許されませんでした。

アルヴァレス神父はエチオピアに6年間留まり、1526年か1527年にリスボンに戻って、「ヴォルデディエラ・インフォメーション・オブ・テラス ・オブ・ プレステ・ジョアン・ダス・インディアス(英:“True Information about the Lands of Prester John of the Indies”、ポ語:“Verdadeira Informacao das Terras do Preste Joao das Indias”、「インディーズのプレスター・ジョンの土地の真の関係:"A True Relation of the Lands of Prester John of the Indies"」)と題する報告書を執筆して、リスボンで1540年に出版しました。

ロドリゴ・デ・リマ外交官
 (Dom Rodrigo de Lima)
1520/4/9にポルトガルのエチオピア大使付きロドリゴ・デ・リマ外交官がマッサワに到着。エチオピア高原を旅して1520/10/9にダウィト2世に謁見したとフランシスコ・アルヴァレス神父が報告。

こちらで
プレスター・ジョン大王
世界遺産の
ラスコー洞窟の岩絵 (フランス)
クレムリン(ロシアのモスクワ)
アトス共和国 (ギリシャ)
ヌビア遺跡 (エジプト)
ペトラ遺跡 (ヨルダン)
パルテノン神殿 (ギリシャ)
法隆寺 (日本)
をお楽しみください。

上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     2018/7/18、令和 R.2:2020/6/15
スタンプ・メイツ
Copyright(C):Kosyo
無断転載禁止