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★フランス | ブルニィ・ダントルカストー提督 1791〜1793 ラ・ペルーズ捜索遠征航海 |
大航海物語★ |
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WALLIS & FUTUNA ラ・ルチェルシュ号とダントルカストー提督 |
PAPUA & NEWGUNIA (・)ダンピール海峡 |
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ウォリス・フツナ 1993/7/12 発行 |
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FIJI |
NOUVELLE-CALEDONIE |
←ニュ-カレドニア島 | |
太平洋と世界地図 フィジー 1977/4/12 発行 |
コルヴェット艦アルクメン号 ニューカレドニア 2002/6/13 発行 |
ブルニィ・ダントルカストー提督はラ・ペルーズの行方を捜して、オーストラリア沿岸から太平洋にかけての捜索航海と科学的探検調査航海をしました。タスマニア島近海で「ブルニイ島」を発見しましたが、2年弱に渡る捜索・探検遠征航海にもかかわらずラ・ペルーズの消息をつかめぬまま、壊血病にかかり、ニューカレドニアの停泊地で亡くなりました。 |
アントーニュ・レイモンド・ジョセフ・ドゥ・ブルニィ・ダントルカストー提督 Admiral Antoine Raymond Joseph de Bruni d'Entrecasteaux(1739〜1793/7/21) ブルニィ・ダントルカストー提督はフランスのブーシュ=デュ・ローヌ県エクス=アン・プロヴァンス(Aix-en-Provence、略称:エクスで、マルセイユから30km程の所)で生まれました。1754年に15才で、父親の勧めでフランス海軍に入隊しました。7年戦争(1754,1756-1763)の初期1757/5/20に地中海のバレアレス諸島の海戦(Battle of Minorca)に従軍し、フランス・スペイン連合海軍がジョン・ビング提督(Admiral John Byng 1704-1757)騎下でのイギリスのミノルカ島救援を阻止して、ミノルカ島を陥落させました。1757年4月にはミネルバ号(La Minerve)に少尉候補生として乗船して海軍々務に精励しました。 1785年に46才のダントルカストー提督はフランス・東インド艦隊に転属しました。そして、インドネシアのモルッカ諸島から、スマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡(Sunda Strait)から中国の広東(Canton、カントン)への新しい航路を開拓しました。それは、南東モンスーンが襲う「嵐の道」を避ける抜け道の航路となりました。その後、フランス領モーリシャス島の総督に任命されました。 ・ダントルカストー提督の大航海:〜 1791/9/28〜1793/7/21。 1791年9月にフランス議会は、1788年にオーストラリアのボタニー湾から出帆して以来、消息を絶っていたラ・ペルーズの捜索を決定しました。ダントルカストーは海軍少将に昇進して、その捜索遠征隊の司令官に任命されました。1791/9/28に52才のダントルカストー提督は3本マストのフリゲート艦”ラ・ルチェルシュ号”(La Recherche、500t、副官デュオウビュゥ(d'Hesmity-d'Auribeau)船長、ロッセル士官(de Rossel)乗組み)に乗船し、同型艦の”ル・エスペランス号”(L'Esperance、ヒューオン・ドゥ・ケマルデック(Huon de Kermadec)船長)と共に、植物学的調査をする科学者をともなってフランスのブレスト港(Brest)を出帆しました。 ニューホランド(現在の西オーストラリア)のリーウィン岬(Cape Leeuwin)から海岸沿いにタスマニア島へと航海しながら、入江を見つけてはボートを降ろして捜索しました。その後はニュージランドの北の岬からトンガ島へと航海。さらに、ニューカレドニア島から、ニューギニアの東に連なるルイジアード諸島(Louisiade Archipelago)へと捜索の航海を続けました。その後は、トレス海峡を通ってニューホランド北部のカーペンタリア湾へと航海しながら捜索活動を続行しました。 1792/1/17に喜望峰のテーブル湾のケープ・タウンで、ジョン・ハンター船長(1737〜1831)が「アドミラルティ諸島の原住民がフランスの服を着てベルトをしていた」と報告していることを聞きました。ダントルカストーはタスマニア島へと航海して、食料と水を補給し乗組員には休養をさせてから、パプアニューギニアのマヌス州にあるアドミラルティ諸島への直行航海を決めました。1792/4/20にタスマニア島を望見しました。3日後にタスマニア島の南東角でルシェルシュ湾(Recherche Bay)と名付けた湾の港に投錨しました。次の5週間、1792/5/28までタスマニア島ルシェルシュ湾に上陸して植物学的調査を実施しました。 乗船していた地理学者ビューテン・ビュール(Beautemps-Beaupre)が1807年に「ブルニィ・ダントルカストーの航海地図」(Atlas du Voyage de Bruny-Dentrecasteaux)を発表しました。その中の詳細なタスマニア島の部分は数年後のイギリスの地図にも影響を与えました。また、その探検を一緒にしていたサーチン士官(Lieutenant Cretin)は、トバイアス・フルノー船長の「1773年の航海」で「アドヴェンチャー湾」を発見したその人でした。 1792/5/16にダントルカストー海峡を抜け、28日までにヒューロン川(タスマニア島で4番目の川)のエスペランス港付近を熟知するに到りました。本土と切り離している海峡に「ダントルカストー海峡」と名付け、その島を「ブルニィ島」と命名しました。 1792/5/28にダントルカストー提督はタスマニア島を離れ、ラ・ペルーズ捜索のため太平洋へと再び出帆しました。6/16にニューカレドニア島南部のパイン島に到着し、西岸沿いに北へと帆走しました。ニューカレドニア・バリア・リーフの北西端で「ダントルカストー珊瑚礁」を発見し、さらに航海を続け、ソロモン群島の北岸と西岸をすり抜けるようにして捜索航海し、さらにニューアイルランド島とニューブリテン島の間のセント・ジョージ海峡を通り抜け、1792/7/28にアドミラルティ諸島を望見しました。3日間に渡って東側と北側の岸に沿って詳しく捜索・調査した後に、あの「テーブル湾で聞いた話」は誤りだったとの結論に達して、アンボン(Amboina)へと向かってアドミラルティ諸島を後に帆走し、そこで補給をしました。 1792/10/14にマルク諸島のアンボン島を出帆、12/6にオーストラリア最西端のリーウィン岬(Cape Leeuwin)近くの土地を「ダントルカストー・ポイント」(D'Entrecasteaux Point)と名付けて、祝宴のパーティをしました。1792/12/5にラ・ルチェルシュ号、ル・エスペランス号でリーウィン岬に到着しましたが、ヴァンクーバーが発見していた「ジョージ3世砂州」の探査は悪天候にはばまれてきませんでした。さらに東へと帆走して、多くの島々と危険な暗礁帯の、彼らが名付けた「ダントルカストー諸島」(現:パプアニューギニアのミルン湾州のルイジアード諸島(Louisiade Archipelago)の危険な海域を通過しているときの1792/12/12に大嵐が襲って来ました。両船はほとんど難破しかかりましたが、幸運にも停泊地を見つけることができました。上陸しましたが飲料水はありませんでしたので、12/1にオーストラリアの西の海岸線を目指して出帆しました。 1793/1/4にニューカレドニア島「ダントルカストー珊瑚礁」の近くの海岸を出帆して、タスマニア島へ直行で向かい、ニューホランドの南海岸の調査を続けました。1/22にルシェルシュ湾に投錨し、5週間の調査をなし、飲料水を補給し、乗組員を休養させました。タスマニアの南東のストーム湾(Storm Bay)で川を見つけて「リヴィエラ・デ・ノード」(Riviere du Nord)川と名付けました。2/28にフレンドリー諸島(トンガ)へとタスマニア島を出帆しました。ニュージーランドから、その北島の北北東約1000Kmに位置している「ケルマディック諸島」のラウル島に到着し、ダントルカストー提督の部下のジャン=ミシェル・ユオン・ド・ケルマデックの名を諸島に名付け、ウォリスフツナ諸島でも捜索をしました。そして、フレンドリー諸島に到着しました。だが、彼は数年後に寄航したクック船長やブライ艦長が思い出される原住民は見つけましたが、ラ・ペルーズの消息はようとして知れませんでした。そこで彼はニューカレドニア島へ戻り、 バラデ(Balade)に投錨しましたが、手がかりが得られなかったので、ソロモン群島のサンタクルーズへと出帆し、ソロモンの南岸から、ダントルカストー諸島(Louisiade Archipelago)の北岸から、ダンピール海峡(ニューブリテン島とウンボイ島の間の海峡)を抜けて、ニューブりテン島の北岸、アドミラルティ島の南岸、ニューギニア島の北からモルッカ諸島へと捜索航海しました。 今回のダントルカストー提督の捜索・探検遠征航海は絶望的でした。というのは、熱病が蔓延して多くの乗組員が苦しみ、ル・エスペランス号のヒューオン・ドゥ・ケマルデック船長は結核(phthisis)を患ってニューカレドニア島のバラデで亡くなりましたし、同地で、1793/7/21にはダントルカストー提督自身が壊血病(scurvy)で54才で亡くなってしまったのです。 その後はデュオゥビュゥ副官(d'Auribeau)が指揮を執って、インドネシアのスラバヤへと航海しましたが、スラバヤに到着してみると、運悪くフランス大革命が勃発していました。共和国政府係官は混乱していたので、1794/2/14にデュオゥビュゥ副官は船をオランダに渡しました。彼は1ヵ月後に亡くなりましたので、ロッセル士官(de Rossel)はジャバからオランダ船で1795/1に出帆し、1795/4に喜望峰テーブル湾に着き、イギリスに捉えられました。 ・アルクメン号の装備:〜 Alcmene、1794
参考HP:〜 ・ミルン湾州の地図 ・ダントルカストー諸島の地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/1/20追記 |