Peru 国連 1989 発行 |
切手で綴る 南アメリカ諸国(South American
Countries)
ペルー Republic of Peru |
大航海物語 地図編★ |
ペルーの地図 熱帯雨林ハイウェイ地図 ペルー 1989/1/27 発行 |
コロンビア→ エクアドル→ ←ペルー → チリ→ |
↓ヴェネズエラ ペルー 1997/12/18 発行 |
←ブラジル ←アルゼンチン |
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日本郵便 NIPPON 日ペルー外交関係樹立150年記念 |
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ナスカの地上絵 |
マチュピチュ |
日本 令和5年 2023/8/21 発行
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CORREOS PERU スペインの町リマの遺跡 ペルー 52-53 発行 |
CORREOS PERU インカ遺跡・クスコの段々畑 ペルー 52-53 発行 |
CORREIOS DE PERU リャマ ペルー(慶応2ー3)1866-67 発行 |
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PERU | ESPANA | |
の地図 | インカの伝令 ”チャスキ” Chasqui | |
ペルー 19 発行 | ペルー 1977 発行 | スペイン 1966/10/12 発行 |
ペルー共和国 Republic of Peru ペルーは面積:128万5,215ku(日本の役3.4倍)。人口:27.9百万人(2007)。首都リマ。人種:先住民45%、混血40%、欧州系15%、東洋系等1%。言語:スペイン語(他にケチュア語、アイマラ語)。宗教:カトリック教(89%)、1番切手:1857/12/1発行。ペルーの国土は三つの地形に分けられ、砂漠が広がる沿岸部のコスタ(、国土の約12%)、アンデス山脈が連なる高地のシエラ(国土の約28%)、アマゾン川流域のセルバ(国土の約60%)である。このように三つに分けられる地形に加え、さらにコスタとシエラでは北部、中部、南部の違いがあり、それも大きなペルーの地域性の違いとなっている。 ペルーではインカ帝国がクスコを首都とし、16世紀中頃まで栄えていましたが、 1533、フランシスコ・ピサロが率いるディエゴ・ド・パレデスなどのスペイン侵略者たちが 13代インカ皇帝アタワルパを絞首刑し、インカ帝国を征服 1533、マンコ2世がクスコで戴冠式を挙行 1535、ピサロが海岸近くに新しい都リマを建設 12月にマンコ2世が反乱するもビルカバンバに後退し、スペインの植民地化が確定 1538、ディエゴ・ド・アルマグロがピサロ軍に敗れ捕えられ処刑される 1541、アンデス山脈東のシナモン探検にゴンザーロ・ピサロの副官でオレリャ−ナが参加 6/26にピサロがアルマグロの残党にリマで暗殺される 1541、副王ペドロ・デ・ラ・ガスカがリマに到着 1543、副王ガスカがインディアス新法(旧法)を公布してエンコミエンダの新設と世襲を禁止 1570、ペルー副王フランシスコ・ド・トレドがワンカヨ市を建設 1579、ガンボア船長がメキシコから来たる 1569、ドン・フランシスコ・ド・トレド副王がリマに到着 1571、副王トレドがインカ最後の皇帝トゥパク・アマル2世を処刑、インカ帝国滅亡 1579、聖トリビオ・アルフォンゾ・ド・モグロヴェジョ神父がリマに到着 1743、ボデガ・イ・クァドラ船長がリマで生まれる 1761、マヌエル・ド・アマット・イ・ユニェントがペルー総督でリマに到着 植民地下のペルーでは金銀などの鉱物の搾取が宗主国スペインによって行われ、ヨーロッパから持ち込まれた伝染病(天然痘など)や、鉱山開発に酷使された先住民の多くは苦役の末に死亡し、その数は100万人とも言われています。 1821、サン・マルティンの指導のもと独立を宣言 1824、シモン・ボリーバルがアヤクチョの戦いでスペイン軍を撃破し、スペイン勢力を一掃 1867、ラモン・カスティージャ大統領(Ramon Castilla 1797-1867、4回1844、45、55、63)没 1879、スペインがペルーの独立を認める 1879、ペルーはボリビアと同盟してチリと戦争を起こし、硝石鉱山を争い敗北 貴重な資源だったグアノ(海鳥のフンからなる硝石資源)の鉱山荒廃 19世紀、豊富な地下資源に着目したアメリカ合衆国や英国の経済支配が進むも、 インディオ知識人層ら「アメリカ人民革命同盟」を設立 1901、ワタ属に「綿立枯れ病」が流行してペルー中に蔓延し、綿花生産が打撃を受ける 1908、支配下階層の分裂の間隙にレギア政権が誕生。20年にわたる独裁 1911、綿立枯れ病の病害に強いワタ属の種「タンギス綿」が開発される 1920代、アヤ・デ・ラ・トーレがアメリカ人民革命同盟で政権奪取を狙うも軍部に阻まれ失敗 以降同同盟は民族主義路線を放棄し、支配体制に組み込まれる その後何度かの政変を経験した 1947/4/28、ノールウェイのヘイエルダールが帆走筏「コンチキ号」でカヤオ港を出帆 1954、アメリカのウィルス船長が筏でカヤオ港からサモアへの単独太平洋横断の大航海へ出帆 1963/7/3、アメリカのウィルス船長が筏でカヤオ港からオーストラリアへの大航海へ出帆 1968、軍事政権が登場(〜1980年) ベラスコ将軍が軍事クーデターを起こし、反米と自主独立を旗印に 「アメリカ人民革命同盟」の標榜した路線を推進していき、「ペルー革命」、 外国資本の国有化や第3世界外交が展開されるも 1975、ベラスコ将軍が経済政策の失敗で失脚 1980、民政のベラウンデ・テリー政権が誕生するも、災害や不況で 政権運営は多難を極め、センデロ・ルミノソなどのゲリラ勢力が力をつける 1985、ベラウンデが退陣 ガルシア大統領を首班とする「アメリカ人民革命同盟」の政権が発足、 国民の支持を背景に民族主義を掲げ、外交では強硬な路線をとる一方で、 内政では貧困層の救済に尽力するも、 1990、ガルシア大統領がインフレの発生と治安悪化を理由に退陣 1990、大統領選挙で日系アルベルト・フジモリが勝利、南米初の日系大統領となる インフレ抑制と財政赤字の解消による経済政策で経済の改善を図る 1995、フジモリ第2期政権 1996(平成8)/12/17(現地時間)、ペルー首都リマの駐ペルー日本大使公邸の 天皇誕生日のパーティ中に起きたテロリストによる襲撃・占拠で600人以上が人質 1997/4/22、ペルー警察突入で犯人14人全員射殺、4ヵ月間以上かかって事件解決 2000、フジモリ第3期政権、同政権退陣、パニアグア暫定政権 2001、トレド政権 2006、ガルシア政権。 24の県(Region)とカヤオ特別区で編成:〜 ・北部地方 1.ロレート県 (Loreto Region)〜イキトス市(Iquitos) 1750年にスペインのイエズス会宣教師が建設 1890年頃に天然ゴムブームで人口増加するも、 1910年代に天然ゴムブームがマレーシアに移り沈静化、 現在は主にコーヒー、タバコ、綿花、木材の生産と観光産業で発展中 2・ピウラ県 (Piura)〜ピウラ市(Piura)、1532年にパナマから上陸したスペインの 征服者フランシスコ・ピサロが建設したペルー最初の都市 3.カハマルカ県 (Cajamarca)〜カハマルカ市(Cajamarca)、標高2750m 4.アマソナス県 (Amazonas)〜チャチャポヤス市(Chachapoyas)、標高2,235m 5.ランバイエケ県 (Lambayeque Region)〜チクラーヨ市(Chiclayo) 6.サン・マルティン県 (San Martin)〜モヨバンバ市(Moyobamba)、 愛称:蘭の街(City of Orchids) 1540/7/25にスペインのファン・ペレス(Juan Perez de Guevara)が建設 ・中部地方 7.リマ県 (Lima)〜ワウラ郡ワウラ市 (Huacho) 1571/8/24建設 8.パスコ県 (Pasco)〜パスコ郡セロ・デ・パスコ市(Cerro de Pasco)、標高4,380m 9.アンカシュ県 (Ancash)〜シワス郡シワス市(Huaraz)、標高3,052m 1574/1/20にスペインのアロンソ・デ・シワス(Alonso de Huaraz Santoyo)が建設 10.ワヌコ県 (Huanuco)〜ワヌコ郡ワヌコ市(Huanuco) 11.ラ・リベルター県 (La Libertad)〜トルヒーリョ郡トルヒーリョ市(Trujillo) 1534/12/6にディエゴ・ド・アルマグロがトルヒーリョ市を建設 12.フニン県 (Junin Region)〜ワンカヨ郡ワンカヨ市(Huancayo)、標高3350m 1570年にペルー副王フランシスコ・トレドがワンカヨ市を建設 13.ウカヤリ県 (Ucayali)〜プカルパ市(Pucallpa ケチュア語で「赤い土」の意) 1534年にスペインが入植 14.ワンカベリカ県 (Huancavelica)〜ワンカベリカ市(Huancavelica) 1572/8/5にスペインが建設、水銀を産出しポトシで銀の製錬に利用された 15.イカ県 (Ica)〜イカ市 (Ica) 1563年にスペインのルイス・デ・カブレラ(Geronimo Luis de Cabrera)が建設 16.アヤクーチョ県 (Ayacucho)〜ワマンガ郡アヤクーチョ市(Ayacucho)、標高2761m 1539年にスペインのフランシスコ・ピサロが建設(旧名:ワマンガ) 17.アプリマク県 (Apurimac)〜アバンカイ郡アバンカイ市(Abancay)、標高2378m 1540年にスペインが入植する前からインカより前の先住民”Chankas”がいた 18.クスコ県 (Cuzco)〜クスコ市(Cusco;Qusqu)、標高3600m、 1100年にインカが建設し帝国の首都となる 1532年にインカ帝国の首都をスペインのフランシスコ・ピサロが征服 1983年に世界遺産(文化遺産)登録 19.マードレ・デ・ディオス県 (Madre de Dios)〜マルドナード市(Puerto Maldonado) 1902/7/10建設 (県:Madre de Dios Region、郡:Tambopata Province) ・南部地方 20.アレキパ県 (Arequipa)〜アレキパ市(Arequipa)、標高2,335m インカ帝国第4代皇帝マイタ・カパックの命によって建設 1540/8/15にピサロの命でカルバヤル(Garci Manuel de Carbajal)が建設 21.モケグア県 (Moquegua)〜モケグア市(Moquegua) 1541/11/26にペドロ・カンシーノ(Pedro Cansino)が建設、標高1410m 22.プーノ県 (Puno)〜プーノ市(Puno)、標高3827m 1668年にペルー副王カストロ(Pedro Antonio Fernandez de Castro)が建設 チチカカ湖の西岸の街で、浮島ウロス島が有る 23.タクナ県 (Tacna)〜タクナ市(San Pedro de Tacna) 1572年建設、1929年にチリからペルーに返還 24.トゥンベス県 (Tumbes)〜トゥンベス市(Tumbes) パナマから上陸したフランシスコ・ピサロが1528年にペルーに初上陸した所 25.カヤオ特別区 (Callao、Provincia Constitucional del Callao)中部地方 参考:〜 ・コスタは 太平洋から東に向けて標高500mまでの地点を指し、この幅50kmから150km程の狭い地域にペルー国民の半数以上が居住している。砂漠であるものの、フンボルト海流の影響で緯度の割には気温は一年を通して過ごしやすく、最も暑い2月の平均気温が22℃、最も寒い8月の平均気温も14℃であり、灌漑を行えば通年で農耕が可能な土地である。ただし、後述するように海流の関係で霧が発生し、湿度は非常に高い。人が住めるのは古代からずっと砂漠の間を通る川の流域や、湧き水で出来たオアシスの周囲のみであり、前インカ期からこうした地域に古代文明が栄えていた。なお、こうした河川はコスタに50以上ある。 ・シエラは コスタの終わるアンデス山脈の西斜面の標高500m以上の地域から、東斜面の標高1,500m程までの地域を指し、その標高によってシエラ内でも幾つもの地域に細分化されている。標高2,000m以下の暑い地域をユンガといい、この地域ではコーヒー、果物などの亜熱帯作物が育つ。標高2,500mから3,500mまでの温暖な地域をケチュア(キチュア)といい、タワンティンスーユの中心だったクスコもこの範囲内にあった。この地域ではジャガイモが育つ。標高3,500mから4,100mの冷たく涼しい地域をスニといい、リャマやアルパカの放牧に適している、4,100m以上の人間の居住には適さないぐらい寒冷な地域をプーナと呼ぶ。 シエラの農村部では、インディヘナ(ペルーでは公式にはカンペシーノ=農民と呼ばれる)の農民が、インカ帝国時代とあまり変わらない形態の農業を続けており、アイユと呼ばれる村落共同体の伝統が未だに重要な経済単位となっている。 ・セルバ(モンターニャ)は アンデス山脈東斜面の標高2,000m以下の地域を指す。標高2,000mから500mがセルバ・アルタとなり、豆やバナナなどの熱帯作物が育つのはこの地域である。標高500m以下はセルバ・バハとなり、かつてゴムや砂金のブームが起きたのはアマゾンのこの地域である。 ペルーの太平洋沿岸には寒流のペルー海流(フンボルト海流)と暖流が流れており、二つの海流がぶつかることによってペルー沖は好漁場となっている。 ・山は ペルーの国土を南北にアンデス山脈が貫いており、アンデス山脈は西部のオクシデンタル山脈、中央部のセントラル山脈、東部のオリエンタル山脈に分かれる。国内最高峰はオクシデンタル山脈のウアスカラン山(6,778m)である。 ・河川は アンデス山脈から多くの川が東西に流れており、西に流れる川はコスタの砂漠を潤す役割を果す。アマゾン川の源流もアンデス山脈にあり、アマゾン川はペルー最大の河川となっている。また、北部を流れるプトゥマヨ川はペルーとコロンビアの国境線を形成している。 ペルーとボリビアの国境地帯のティティカカ湖は両国最大の湖となっている。 ・マンコ・カパック (1200年頃) Manco Capac (Manqu Qhapaq)、(ケチュア語で「素晴らしき礎」の意) マンコ・カパックはインカ神話によるクスコ王国の初代国王で、マンコ・カパックの出自については複数の伝承が伝えられている。
ビラコチャ伝説によると、マンコ・カパックはビラコチャの子供で、クスコの25km南にあるパカリ・タンプ(Paqariq Tanpu')という所で兄弟姉妹達と暮らしていた。マンコ・カパックは、彼の兄弟であるアヤ・アンカ(Ayar Anca)、アヤ・カチ(Ayar Kachi)、アヤ・ウチュ(Ayar Uchu)、姉妹であるママ・オクリョ(Mama Ocllo)、ママ・ワコ(Mama Waqu)、ママ・ラウア(Mama Rawa)、ママ・クラ(Mama Cura)と、途中で遭遇した他の部族の人々を統合しながら旅を続け、クスコの谷の部族を征服しようとした。この時、支配者の象徴である金の杖が父ビラコチャによりマンコ・カパックに与えられたとされるが、一説には若きマンコ・カパックは嫉妬深く、兄を裏切り殺してクスコの支配者になったとされる。 その後:〜 およそ40年間クスコ王国を統治し、法の規定を整備し、人身御供を廃止したと考えられている。 法規上は、人が自分の姉妹と結婚するのを禁じていたが、彼が姉妹であるママ・オクリョと結婚したため、これらの法はインカの貴族には適用されなかった。彼女との間には、次のインカ皇帝となったロカ(シンチ・ロカ)という息子がいた。 一説では1107年に死亡したとされているが、一般的には1230年頃まで支配したと考えられている。 なお、インカ皇帝(Sapa)の称号が制定される前に統治していたため、彼の称号は『カパック』(およそ将軍という意味か)である。
1947/4/28にペルーのカヤオ港より漂流を開始した。コンティキ号はフンボルト海流に乗って、ヘイエルダールらの予想通りに西進し、102日後の1947/8/7にツアモツ諸島のラロイア環礁で座礁した。航海した距離は約6920km(4,300mils)に及んだ。なお、フンボルト海流は乗りきれずにアメリカの軍艦に曳航してもらったという説もあり、このことにより南アメリカ大陸からの「西進」しての筏での太平洋横断は無理だとされている説も有。コンティキ号は現在オスロの”Kon-Tiki Museum”に展示されている。ヘイエルダールは1948年にコンティキ号探検記を書いた。その本には漂流航海の模様が生き生きと綴られている。ヘイエルダールたち6人のクルーとコンティキ号の航海を描いた長編ドキュメンタリー映画「Kon-Tiki」は、1951年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した。 参考HP:〜 ・ペルーの地図 ・ペルーの県区分地図 ・マチュピチュ世界遺産の場所地図 ・ナスカの地上絵の世界遺産の場所地図 ・阪急交通社ペルー観光ガイド こちらで ・クスコの段々畑 ペルーの世界遺産:〜 ・マチュピチュ ・ナスカ ・アレキパ ・サクサイワマン ・チャンチャン ・クスコ など。 ・蘭英戦争(1652-1674)
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/6/30、10/7/1追記 令和5年 2023/10/20 |