United Kingdom

国連 1983 発行
調査冒険大航海 (Survey Expedition Voyage)
チャールス・ダーウィン
1831〜1836
ビーグル号航海記

大航海物語
 イギリス編
Cocos (Keeling) Islands
ダーウィン
ビーグル号
1836 ダーウィン寄航150年記念 1986
ココス諸島 1986/4/1 発行

UGANDA
ダーウィン”種の起源”

千年紀年記念ミレニアム切手
(19世紀後半の世界の出来事)
ウガンダ 2000 発行
Tuvalu
ダーウィンとビーグル号

ツヴァル 1977/11/2 発行

MAURITIUS
晩年のダーウィン
ビーグル号の傾船修理
1882 ダーウィン没後100年記念 1982
 モーリシャス 1982 発行

CORREOS DE CHILI
現在の地図

マゼラン海峡の地図
マゼラン海峡地帯拡大地図

チリ 1944/3/2 発行
FALKLAND ISLANDS
ダーウィンが出会った
パタゴニアの民
フェゴ島民(Fuejilian)の一族

フォークランド諸島 1994/12/1 発行

←マゼラン海峡

←フェゴ島

ルマール海峡
ホーン岬
←ドレーク海峡



Cocos (Keeling) Islands
航海地図
ココス諸島




キングジョージサウンド→




オーストラリア


←シドニー

←ホバート
ココス諸島 1980 発行


CUBA
ビーグル号 と 航海地図、1832


ダーウィン生誕、1809
療養のため故郷に戻る、1837
種の起源を出版、1859
1809 ダーウィン生誕200年記念 2009
キューバ 2009 発行


PARAGUAY
ダーウィンの進化論
人類の進化論             クビワヤマセミ

  (Human Evolution)          (Martim pescador grande)
ダーウィン生誕200年記念
パラグアイ 2010 発行

MOCAMBIQUE
ダーウィン生誕200年記念



1809 ダーウィン生誕200年記念 2009
モザンビーク 2009 発行

ダーウィンは831年にイギリスのプリマス港をビーグル号に乗船、出帆して5年にわたる世界周航々海の後に、「ダーウィンの進化論」を発表し、現代科学における進化論の方向性を確立しました。
・チャールズ・ロバート・ダーウィン(1809/2/12/〜1882/4/19)
 Charles Robert Darwin

  博物学者(Naturalist)、地質学者(Geologist)
チャールス・R・ダーウィン博士はイギリスのシュロップシャー州シュルーズベリー(Shrewsbury, Shropshire)で、裕福な医師の父ロバート家(Robert Waring Darwin FRS(王立協会フェロー), 1766-1848)に6人兄弟の5番目の子供として生まれ、母スザンナ(Susannah Darwin, 1765-1817)はダーウィンが8才の時に亡くなり、キャロライン(Caroline Sarah Darwin, 1800-1888)ら3人の姉が母親代わりをつとめました。子供の頃は、貝や昆虫の採集といった当時裕福な市民間で流行した博物学的趣味を好み、シュルーズベリーの寄宿学校にしばらく通ったあと、1825年に父の医業を助けるため親元を離れエジンバラ大学(Edinburgh University)で医学を学ぶも、麻酔の無い時代の外科手術などになじめず、1827年に大学をやめました。この間、黒人の解放奴隷で剥製製作の講師であったジョン・エドモンストーンから動物の剥製製作術を学びました。心配した父はダーウィンを牧師とするために1827年にケンブリッジ大学(Cambridge University)クライスト・カレッジに入れて神学(自然神学:Natural theology)を学ばせました。ダーウィンは牧師なら空いた時間の多くを博物学に費やすことが出来ると考え、父の提案を喜んで受け入れ、必修ではない博物学や自然科学に没頭。ダーウィンは神学の権威ペイリー(William Paley, 1743-1805)の自然神学(Evidences of Christianity, 1794(Natural Theology or Evidences of the Existence and Attributes of the Deity)自然神学または神の存在と属性の証拠)を読み、デザイン論(=全ての生物は神が天地創造の時点で完璧な形でデザインしたとする説)に納得して信じました。でも、同書の言う「神による創造」よりも、生物の多様性や環境への適応のすばらしさに興味を引かれたとも言われています。一年目の1827年夏にはジョサイア2世やその娘で将来の妻になるエマ・ウェッジウッド(Emma Wedgwood, 1808-1896)とヨーロッパ大陸に旅行し、パリに数週間滞在。これは最初で最後のヨーロッパ大陸滞在でした。アレキサンダー・フンボルトの科学的探検旅行の本や自然哲学の目的は観察を基盤とした帰納的推論によって法則を理解することだと記述した新しい本などをを読み、彼らの「燃える熱意」に刺激されて熱帯で博物学を学ぶために卒業のあと同輩たちとカナリア諸島テネリフェ島へ旅行する計画を立て、その準備で近代地質学の創始者のひとりのアダム・セジウィッグ(Adam Sedgwick, 1785-1873)のウェールズでの地層調査に加わりました。

また、1831年にはケンブリッジ大学を卒業すると、植物学者の恩師ジョージ・ヘンズロー(George Henslow、1835-1925)の紹介で、同年末にイギリス海軍の測量船ビーグル号(brig-sloop HMS Beagle)に乗船することになりま した。父ロバートは海軍での生活が聖職者としての経歴に不利にならないか、またビーグル号のような小型のブリッグ船は事故や遭難が多かったことで心配し、この航海に反対でしたが、叔父ジョサイア 2世(Josiah Wedgwood II, 1769-1843)の取りなしで参加を認めました。専任の博物学者は他におり、フィッツロイ艦長の会話相手のための客人としての参加だったため、海軍の規則にそれほど縛られることはなくも、 幾度か艦長と意見の対立があり、後に「軍艦の中では、艦長に通常の範囲で意見表明するのも反乱と見なされかねなかった」と述べています。

1831/7/4にロバート・フィッツロイが艦長に、乗船士官には、ウィッカム(John Clements Wickham 1798-1864)とバーソロミュー・サリヴァンが指名されました。
キャビンボーイ

ジャージー 198 発行
ダーウィンの助手に15才のキャビンボーイ(Sea Cadet Jr)のコンヴィントン(Syms Covington 1816-1861)を雇用、彼は詳しい記録をつけていました。

ビーグル号の大航海:〜(1831/12/27〜1836/10/2)、第1回航海はこちら
1831/12/27 英のプリマス(Plymouth)出帆
マデイラ諸島に寄航
1832/01/06 カナリア諸島テネリフ島のサンタクルーズ港(Santa Cruz de Tenerife)に到着するも
コレラ(cholera)で隔離されて上陸できず、ダーウィンは非常に残念がって、船尾に
プランクトン(Plankton 浮遊生物)網を引いて、1/10にプランクトンを捕獲
その後、ヴェルデ岬諸島サンチャゴ島(St. Jago=Santiago, Cape Verde)の港で
層序学(stratigraphy)調査(層位学的に地層のできた順序(新旧関係)を研究
1832/02/16 ブラジルセントピーター・セントポール岩礁(Saint Peter & Saint Poul Archipelago)
大西洋赤道海域の中心部にあるブラジル領の小さな岩礁群に上陸
1832/02/28 ブラジルのバイーア州都サルヴァドール(Salvador, Bahia)到着
翌日に上陸、奴隷制度(貿易)についてフィツロイ艦長と論争、3/18に調査終了
1832/03/18 頃、ブラジルのアブロルホス岩礁群島(Abrolhos Archipelago)通過
1832/03/20 ブラジルのリオオデジャネイ(Rio de Janeiro)到着
ビーグル号が海岸付近を測量
上陸後にダーウィン博士は博物学者として長期滞在して内陸部を調査
1832/09/22 アルゼンチンのバイアブランカ(Bahia Blanca、ブエノスアイレスの南西500-600km)から
16kmのプンタアルタ(Punta Alta)で化石を発見
1832/10/19 バイアブランカから100kmのモンテヘルモソ(Monte Hermoso)でも化石を発見
ウルグアイのマルドナド(Maldonado, Uruguay)
1832/11月 ウルグアイの首都モンテビデオで家からの手紙と書類などを受領
1832/12/18 アルゼンチンのマゼラン海峡の北のティエラ・デル・フエゴ島到着
ダーウィンは土着のフエゴ島民フュージャン(Fuegian)の天然のままの姿にドキッと驚く
1833/01/23 土着民の案内で調査に出かけたものの失敗して、9日後に船に戻る
1833/03月 フォークランド諸島に到着後、艦長がスクーナー帆船を購入し、
パタゴニア(Patagonia)に戻って船底を銅版で補強しアドヴェンチャー号(Adventure)と命名
1833/08/08 リオ・ネグロ(Rio Negro、Argentina)到着
1833/08/21 プンタアルタを再度訪問
1833/09/01 そこで骨格の化石を発見
1833/10/01 アゼンチン・コルドバ州のカルカラーニャ川(Carcarana River, Cordoba)断崖で、
マストドン(Mastodons)の歯の化石を発見。大型アルマジロ(Armadillo)や馬の骨を発見
パラナ川(Rio Parana ラプラタ川水系最大の川)をボートでブエノスアイレスまで下り、
モンテビデオでビーグル号に合流、乗船
1833/11/25 メガテリウム(Megatherium)の化石を購入するも偽物と解って海へ投棄
1833/12/23 デシード川の港(Puerto Deseado,Patagonia, Santa Cruz Province, Argentina)に到着
1834/01月 サンジュリアン港(Port Sn Julian, Patagonia in the Santa Cruz Province, Argentina)到着
1834/01/26 マゼラン海峡のサン・グレゴリー湾(St. Gregory's Bay)到着。巨人に出会う
1834/03/05 フェゴ島で以前の原住民が結婚しているのに再会
1834/03/16 再度フォークランド諸島に到着
1834/04/13 サンタクルーズ川(Santa Cruz River Argentina)に投錨
1834/04/18 艦長以下35人で3隻のボートでサンタクルーズ川をアンデス付近まで16日間調査
1834/06月 マゼラン海峡を通過
1834/06/28 チロエ島(island of Chiloe)到着、6ヵ月間調査
1834/07/23 南米西岸バルパライソ港(Valparaiso,Chile)到着
馬でアンデス火山調査に向かうも病となり1ヵ月間闘病
シャーガス病(Chagas' disease)と言われる
その後、ペルーのカヤオ(リマ)港へ向かう
1834/10月 アルゼンチンで熱病(fever)にかかる
1834/11月 ダーウィンを待つ間にビーグル号はチョノス群島(Chonos Archipelago)を調査、そこで
アンデスのオソルノ火山(Volcan Osorno、2,652m)の噴火を目撃
1835/01月 ダーウィンはオソルノ火山をビーグルから望見
1835/01/26 マゼラン海峡のサン・グレゴリー湾(St. Gregory's Bay)到着。巨人に出会う
1835/02/08 スペインのヴァルディヴィアが建設したヴァルデヴィア港(Valdivia, Chile)到着
1835/02/20 大地震が発生したのを目撃
1835/03/04 320km北のコンセプシオン(Concepcion, Chile)に到着、やはり大地震で街は荒廃
1835/03/21 バルパライソ港に到着後、リマへ向かうと、そこでは暴動が起こっていた
1835/09/15 囚人島のガラパゴス諸島チャタム島(現サンクリストバル島)到着
病気で約1ヵ月滞在、フローレアナ島(Floreana Island)、火山島のイサベラ島
(Isabela Island, Ecuador)、サンチャゴ島(Santiago Island, Galapagos)で
ダーウィンフィンチ類(Galapagos Finches)発見などを改稿
1835/10/21 タヒチ島へとガラパゴス諸島を出帆
1835/11/09 タヒチ島のあるソシエテ諸島(Iles de la Societe)を望見
1835/12/19 ニュージーランド到着、刺青の原住民(Maori)を見て「汚ならしくて攻撃的」との印象
1835/12/30 ニュージーランドを出帆
1836/01/12 オーストラリアを望見し、シドニー港に到着
タスマニア島のホバート港(Hobart)に到着後、1791年にヴァンクーバーが発見した
南西オーストラリアのキングジョージサウンド(King George Sound)から
スワン川居住地(Swan River Colony)を経て
1836/04/01 ココス諸島(Cocos (Keeling) Islands)に到着、環状サンゴ礁(atolls)創成の標本を採集
モーリシャス島に寄港後
1836/05/31 喜望峰のケープタウン港に到着
1836/07/08 セントヘレナ島(St. Helena)到着、ナポレオンの墓所を散策、6日間滞在
1836/07/19 アセンション島(Ascension Island)、7/23出帆
1836/8月 南米バイーア港に再び寄航、5日間調査旅行帰還後、天候不良で11日後の8/17出帆、
嵐に遭遇してアゾレス諸島に避難で寄航、補給後
1836/10/02 イギリスのコーンウォール州ファルマス港(Falmouth, Cornwall)に到着、帰国
当初の航海予定は3年間なるも、ほぼ5年が経過。

5年にわたる航海から帰国後のダーウィンは原因不明の不定愁訴を生じる病に苦しみ、1837年に療養のため、イングランドのウェスト・ミッドランズ地方シュロップシャーの郡庁所在地の故郷シュールズベリー(Shrewsbury, Shropshire, Cheshire County, West Midlands、North West England)に戻り、1839年1月に年長のいとこで幼なじみのエマと結婚し10人の子供が生まれました。長男の幼児期の観察記録が、後に「幼児の伝記的記述」として発表され、観察という研究法方法の古典として知られています。
・ダーウィンの進化論
1839年にはビーグル号航海の記録フィッツロイ艦長の著作と合わせた3巻本の一冊として出版され好評を博した。これは1843年までに全5巻の「ビーグル号航海の動物学」として独立して出版され、その後も改題と改訂を繰り返した。続いて1842年から「ビーグル号航海の地質学」全3巻が出版されました。

1859/11/24には「種の起源」(On the Origin of Species)を出版、ダーウィンの進化論といわれてベストセラーとなったことは良く知られています。
    ダーウィン
ダーウィンは1882年にケント県ダウン村で73才で亡くなりました。このころには偉大な科学者として広く認められており、王立協会の仲介で、ダーウィン自身は予想もしていなかったウェストミンスター寺院に埋葬されました。

セントピーター・セントポール岩礁
(ブラジルの小さな岩礁群 サンペドロ・サンパウロ群島)

(Saint Peter & Saint Poul Archipelago)
ブラジル 2014 発行

参考HP〜
ビーグル号の航海地図
セントピーター・セントポール岩礁の地図(サンペドロ・サンパウロ群島)
英シュロップシャー州シュルーズベリーの地図

こちらで
レセップス
スエズ運河
を、お楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      08/9/23、令和 R.2/2/20 (2020)
スタンプ・メイツ
Copyright(C):Kosyo
無断転載禁止