切手で綴る 冒険大航海 (Adventure Voyage) | ||
United Kingdom 国連 1983 発行 |
ジョン・バイロン艦長 1765 トケラウ諸島のアタフ島発見 |
大航海物語 イギリス編★ |
ST.HELENA
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Folkland Islands ドルフィン号とバイロン艦長 フォークランド 1935/9/23 発行 |
FOLKLAND ISLANDS Dependencies 南極からフォクークランド の位置を示す地図 フォークランド諸島 1946/2/1 発行 |
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Gilbert Islands ドルフィン号とバイロン艦長 ギルバート諸島 1977/6/1 発行 |
Tokelau Islands ドルフィン号 と 太平洋のアタフ島地図 トケラウ 1970 発行 |
FIJI ドルフィン号で世界一周航海 太平洋 と 世界地図 フィジー 1977/4/12 発行 |
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リーワード諸島・小アンティール諸島 | |||
Kiribati バイロン と ドルフィン号 キリバス 2002/3/25 発行 |
アンギラ島 セント・クリストファー島 アンティグア島 モンテセラト島 ドミニカ島 セント・ルシア島 セント・ビンセント島 バルバドス島 グレナダ島 トバコ島 トリニダッド島 |
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西インド諸島連邦結成記念 英領ドミニカ 1958 発行 |
バイロン艦長は1741年南米パタゴニアで乗船が難破・遭難してボートで漂流中にスペイン船の捕虜となり、その経験談を「大冒険」物語として出版して大好評をはくしました。1764〜1766年のドルフィン号による探検航海では世界一周をなしとげ、多くの島々を発見しました。アメリカ独立戦争中にはイギリス西インド艦隊の総司令官として、フランスのデェスタイン提督と戦い、海戦は勝負がつきませんでしたが、結果としては勝利を勝ち取りました。 |
・白色艦隊海軍中将 ジョン・バイロン艦長 (Vice admiral Captain John Byron, RN、1723/1/18〜1786/4/10) バイロン艦長はバイロン男爵(4th Baron)の次男としてイギリスで生れました。イギリスの海軍々人で海軍の提督になりましたが、不運にも良く悪天候に見舞われたため、悪天候ジャック(ファウルウェザー・ジャック:Foul-weather Jack)とマスコミから呼ばれました。 ・ウェイジャー号の遭難 イギリス海軍に入隊して、折から勃発したオーストリア継承戦争(War of the Austrian Succession 1740-1748)に際してアンソン提督の世界一周航海6隻編成艦隊の1隻”ウェイジャー号”(Sixth rate HMS Wager, 28-guns, 160men)に、1740年(17才)少尉候補生(midshipman)として乗組み、スペイン艦隊を打破するべく南米方面から世界一周航海へとイギリスを出帆しました。ところがその内の半数の3隻が失われることとなりました。バイロンが乗組んでいた”ウェイジャー号”はチリ・パタゴニアの海岸で、1741/5/14に難破・遭難しました。生存者は2チームに分かれ、1チームはブラジルのリオデジャネイロへとボートで向かい救出されましたが、もう1チームは北へとボートで帆走しているうちに、不運にもスペイン船と出会って捕虜となりました。その時の経験をもとに「ジョン・バイロンの大冒険」物語として出版し、好評をはくしました。 ・レスティグーシュの海戦 1760/7月(37才)にはイギリス艦隊によるフランス領カナダ・ルイスバーグ(Louisbourg, Quebec, Canada)の包囲攻撃(Siege of Louisbourg, 1758)を艦隊司令官として戦いました。それは、後にフレンチ・インディアン戦争として知られるようになった、1754年に始った、七年戦争中、1760年にバイロンは2年前にイギリス軍に占領されていたケベック州ルイスバーグの要塞を救援するために送られたフランス小艦隊を撃破するために派遣された英国艦隊の司令官として、1760/7月にレスティグーシュの海戦に勝利しました。
・世界一周探検遠征航海 1764/6〜1766/5月の間、ジョン・バイロン艦長は ・フリゲート艦”ドルフィン号” (HMS Dolphin、24-gun、508 tons 、sixth-rate frigate)艦長で、 ・スループ艦タマール号(sloop HMS Tamar)と ・補給艦フロリダ号(supply ship Florida)を随伴して探検遠征航海をなし、世界一周航海を達成しました。そのドルフィン号には31才のカートレット大尉が乗組んでいました。
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1769年には、ニューファンドランドの総督(知事、1769-1771)に任命されました。 ・アメリカ独立戦争 1778〜1779年のアメリカ独立戦争中、バイロン提督はイギリス西インド派遣艦隊の最高司令官になりました。1777年ボストン港を出帆したフランスのデェスタイン提督の艦隊は、同年11/4に西インド諸島に到着して、イギリスのバリントン提督(Rear Admiral Samuel Barrington RN, 1729-1800)と小規模な戦闘の後に、イギリスに占領されていたサンタ・ルシア島を取り戻し、セント・ヴィンセント島とグレナダ島を占領しました。こうしたフランスの動きに対して、1779/7/6にバイロン提督の艦隊はカリブ海の島々を奪回せんとて”グレナダの戦い”(Battle of Grenada)で、デェスタイン提督の艦隊と激しい砲撃戦を戦いましたが勝負がつかず、バイロン艦隊はセント・クリストファー島へ退避しました。デェスタイン提督は優勢なる艦隊を保持していたのに同島の停泊地の攻撃はせず、サバンナ(Savannah, Georgia, USA)攻撃へと向かいました。こうしたフランス艦隊の試みにもかかわらす、町はイギリス艦隊の攻撃で重大な損害を出し、フランス艦隊も撃退されましたので、デェスタイン提督は辞任に追い込まれ、バイロン提督の勝利となりました。 ・その後 1780/9/1に白色艦隊海軍中将(Vice admiral of the white)に昇進して、北アメリカ艦隊(1745-1976)司令官(Commander-in-Chief, North American Station)を拝命しました。その4年後、1786/4/10にバイロン提督は63才でイギリス・ロンドンのボルトンロウ(Bolton Row, London)の自宅にて亡くなりました。 ・バイロン岬:〜 (Cape Byron, New South Wales, Australia) オーストラリアのニューサウスウェールズ州最東端にある ケープ・バイロン(岬、南緯 28°37′58″、東経 153°38′20″)、 クック船長がバイロン艦長にちなんで1770/5/15に命名。 参考HP:〜 ・太平洋の島々の地図 こちらで世界遺産の ・ピラミッド (エジプト) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・姫路城 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。#0121 2007/2/25, 令和 R.3/2/11 (2021) |