Spain

国連 1988 発行
切手で綴る スペインの大航海 (Adventure Voyage)アステカ帝国征服(IV-1
コルテス
1521
アステカ帝国征服

大航海物語
 スペイン編

ESPANA
エルナン・コルテス、アステカ征服
船を焼く

メキシコ人
スペイン 2001 発行

ESPANA
エルナン・コルテス

スペイン 1948/7/15 発行
MAGYARORSZAG
コルテスのアステカ征服

1492 コロンブスのアメリカ発見500年記念 1992
ハンガリー 1992 発行

MEXICO
ヌエバ・エスパーニャ古地図、1579
ニュースペイン(メキシコ)


カリフォルニア半島

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キューバ

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ベリーズ
グアテマラ

ホンジュラス

メキシコ 1979 発行

コルテスは19才で大西洋を渡り新世界へ往き、1519年(34才)アステカ帝国皇帝モンテスマ2世とテノチティトランで会見しました。1521年アステカ帝国を征服後、1522年スペイン国王にヌエバ・エスパーニャ総督に任命されました。生涯に4回大西洋を横断し、新世界で広大な領地を得て莫大な富を勝ち取りましたが、総督を解任され失意の内に、スペインにて62才で亡くなりました。

エルナン・コルテス
 Hernan Cortes(1485頃〜1547)
 エルナン・コルテス・ド・モンロイ・イ・ピサロ・アルタミラノ、初代オアハカ谷侯爵
 Hernan Cortes de Monroy y Pizarro Altamirano, 1st Marquess of the Valley of Oaxaca
エルナン・コルテスは、スペイン南西部エストラマドゥラ州バダホス県の寒村メデジンで多少の土地を持つ下級貴族の両親のもとに生まれました。サラマンカ大学でラテン語を学んでいましたが、新世界の噂を聞いて、じっと学問をしていられなくなり、2年間で学問の道を止めました。

1504年に19才で大西洋を渡り、イスパニョ−ラ島に腰を落ち着けました。そして1511年の探検隊(イスパニョーラ島総督補佐官ディエゴ・ヴェラスケスのキューバ征服遠征隊)に加わりキューバ島へ渡り、エンコメンデロとしてサンチアゴに腰を落ち着け、公職にも就き、キューバ総督になったベラスケス総督と親交を深めました。秘書官になったとの説もあります。ベラスケス総督が第3次メキシコ探検隊の派遣を決めた時、コルテスを司令官に任命しました。ところが、コルテスが大胆不敵ではあるが反骨精神にあふれる人物で、探検の任務を超えてメキシコ征服を企て、一攫千金を狙う野心家のコンキスタドール(征服者) イスパニョーラ島

ドミニカ共和国 1900 発行
であることを恐れたベラスケス総督はその任命を取り消しました。しかし、それより早くコルテスは“富める帝国”目指し東キューバのサンチアゴを出帆し、西キューバで人員と食料、装備を調達しました。

1519/2/8ヴェラスケス総督の中止勧告を無視して、エルナン・コルテスの率いるメキシコ遠征隊が、11隻の船にスペイン人6百人、原住民2百人、馬16頭、鉄砲50丁、大砲などを準備して、キューバ島ハバナ港を出帆しました。

船隊はまずユカタン半島に着き、ついでメキシコ海岸沿いに現在のベラクルス近くまで航行しました。そこで上陸し、1549/4月に後にメキシコ征服の基地となる“ピリャリーカ・デ・ベラ・クルース”(真実の十字架)の町を建設ました。そしてコルテス自ら指名した構成員による「市参事会」によって総司令官兼主席判事に任命され、ベラスケス総督の手を離れ国王直属となる法的措置が講じられました。べラクルスへは4ヵ月留まり周辺の部族と同盟の交渉を行い忠誠を取り付け、アステカ帝国 (Aztec Empire, 1519-1521)に関する情報を入念に集めました。コルテスは 周辺部族が強力なアステカの戦士への恐れはあるが、ウィツィロポチトリ神(太陽神信仰)に捧げる”いけにえの儀式”に抵抗していたことに目をつけ、 強力な武力と巧みな外交交渉で少数ではあるが馬と鉄砲を持っているスペイン人に味方する方を選ばせました。
新大陸には馬がいなかったため、鹿に乗っていると思われたり、ケンタウルス(半獣半人)のような怪物と思われてもいました。1519/8月半ばスペイン人600人とセンポアルテカ族からの食料などの支援のもとにアステカへとベラクルスを出発しました。アステカへ向かう途中、コルテスはアステカ族と対立していたトラスカラ族の領土に入り、3度戦ってトラスカラ族を降服させ、巧みな外交交渉で同盟軍としました。 ケンタウルス(23)

イフニ 1968 発行
アステカには”ケツァルコアトル”という神が海のかなたからやって来るという古い伝説がありました。都の”テノチティトラン”では宮殿が火事で独りでに燃えたり、巨大な水星が現れたりしてアステカ帝国第11代皇帝モンテスマ2世は不吉な予感におびえていました。そこへスペイン人のコルテスが大きな船に乗って上陸
してきたので、モンテスマはコルテスを”ケツァルコアトル”と勘違いして、 使者を送り友好のしるしとして金銀財宝を贈りました。その財宝の素晴らしさは“富める帝国”の実在を思わせて、スペイン人の欲望を益々刺激したと伝えられています。コルテスはこれらの財宝の大部分を仲間の同意を得た上でスペイン国王に送りました。その中には”アステカの絵文書”も有りました。そこで、アステカ帝国へ進軍しょうと決め、仲間にもその決心をさせるため、乗ってきた船を全て焼き払い、帰るに帰れないから進むほか無しと背水の陣をひいて進みしました。 船を全て焼き払う

ピトケーン 1989 発行

1519/11月初めコルテス一行は、テスカカ湖上の島に建設された壮大なアステカ帝国の都テノチティトランへ到着しました。コルテス達スペイン人の眼前に現れたテノティチトランは、スペイン人が目を疑うほどの大都市が湖の中の島に築かれ、20万人以上の人々が生活していました。モンテスマ皇帝に”ケツァルコアトル神”と間違われたコルテス一行は平和裡に客人としてテノチティトラン市内へ入り皇帝と会見しました。数日の後、コルテスはスペイン人の安全のためモンテスマの身柄を拘束、スペイン人の管理下におきました。

1520/6/30、キューバ総督ベラスケスはパンフィロ・ド・ナルバエスを指揮官とするコルテス討伐軍を派遣しました。この知らせを受けたコルテスはペドロ・ド・アルバラードを指揮官として守備隊をテノチティトランに残し、海岸地域でナルバエス軍を打ち破りました。そしてナルバエスの部下の大半はコルテス軍に合流しました。テノチティトランに戻ってみると、アステカ人の儀式を反乱と錯覚したスペイン人がアステカの貴族数人を殺したため、アステカ人全体がスペイン人に暴動を起こしていました。 その後、皇帝モンテスマの弱腰ぶりに業を煮やしたアステカの人々がコルテス不在の隙をついてスペイン軍に反乱をおこし、捕えられたスペイン人捕虜が例の太陽神の生贄にされたりしていました。コルテスは暴動を鎮めるため、モンテスマに民衆の前で「自分はスペインの友人である」と民衆を説得させましたが、人々が投げた石がモンテスマにあたり、モンテスマが治療を拒否したため死んでしまいました。全住民を敵にしたコルテスは、テノチティトランからの脱出を図りますが、湖の中の島からの脱出で甚大な損害を被りました。1520/6/20の「悲しき夜」と呼ばれる脱出作戦でしだ。追ってくるアステカ人にオトゥンパで反撃し友好的なトラスカラへと逃れました。

コルテスは後続のスペイン人や原住民の同盟軍と軍を建て直し、1521年春テノチティトランへ進撃を開始しました。トスカラ族の協力で建造しテスカカ湖で組み立てた小帆船による水軍は湖の上から攻撃しテノチティトランへの補給を絶ちました。5月からの75日にもおよぶ包囲攻撃、激しい市街戦でテノティチトランは徹底的に破壊され陥落しました。このときヨーロッパからもたらされた伝染病天然痘が流行し、 モンテスマの後継者の皇帝クイトラワックも犠牲者の一人となりました。1521/8/13アステカ最後の皇帝クアウテモックが降服し”太陽の帝国アステカ”は滅亡しました。アステカ帝国とその宗教は一掃され、スペインの規則と制度が絶対的なものになり、キリスト教の布教が始りました。アステカ征服戦に勝利したコルテスはスペイン国王カルロス1世(カール5世)により、1522/10/15付でヌエバ・エスパーニャ総督兼軍司令官に任命されました。これによりコルテスは政治的手腕を発揮し、メキシコシティをテノチティトランの上に再建し、副官を四方の地域に派遣して周辺部族の恭順を取り付け、短期間でメキシコ中部と南部の諸地方がスペインの支配下に入りました。また、ヨーロッパから農産物や家畜を積極的に取り入れ、原住民の生活物資への配慮をしました。コルテスはトラスカラ人を奴隷として売ることは許さず、国王カルロス1世に書簡を送り、進貢の義務を免除するように要請しました。

コルテスは国王に宛てて5通の手紙を書いています。第1書簡は1519/7/16に2人の使者に、それまでに集めた財宝と報告書と書簡を持たせてスペインに向かわせました。現存しませんが、キューバ総督からの独立とメキシコ植民の許可を求めたものといわれています。第2書簡は1520/10/30付テノチティトラン入城から報復戦の準備までが書かれています。第3書簡は1522/5/15付テノチティトラン攻囲戦が中心。第4書簡は1524/10/15付事態収集、他部族の征服、周辺地域の情報と太平洋への進出計画。第5書簡は1526/9/3付ホンジュラス北岸で反乱を起こしたクリストバル・ド・オリ−ド鎮圧のための大遠征の報告。

1523年にはコルテスは副将ペドロ・ド・アルバラードグァテマラ征服を命じました。12月にアルバラードはグァテマラに入り、マヤ系のカクチケル族とキチェ族の抗争に乗じてウタトラン、アティトランを占領し、1524/7月グァテマラ市を建設しました。

1524年コルテスはクリストバル・ド・オリード(Cristobal de Olid, 1487-1524)をホンジュラス北岸に植民地を造るために派遣しましたが、オリードは現地で反乱を起こしたため、コルテスは自ら1隊を率いてユカタン半島の基部を横断しホンジュラスへ向かいました。フランシコ・ド・コルドバの活躍で、ホンジュラスではすでに事態は治まっていました。ところが、526年メキシコ市にコルテスが戻ったときには国王からの査察使が派遣されて来ていてコルテスは総督を解任され、反コルテス派が優位にたっていました。

1528年コルテスはスペインに戻り、カルロス1世に訴えました。国王はコルテスを「南海の軍事総司令官兼アデランタード」という名誉職に任命し、コルテスのメキシコでの領地にちなんで「オアハカ谷侯爵」という貴族の称号を与えましたが、総督職という政治的実権はコルテスには戻りませんでした。2年間スペインに滞在した後、1530年コルテスはメキシコに戻りました。メキシコに戻ったコルテスは所領の経営にあたりながら総督職への返り咲きを夢見ながら探検事業を実施し、探検隊を派遣しました。

1533年には船隊を派遣して南部カリフォルニアを発見し、1535年には自ら航海に参加し、カリフォルニア半島の南東部にラ・パスの町を建設。1539年にはコルテスがフランシスコ・ド・ウリョア(Francisco de Ulloa, 1540没)の船隊を北米西海岸方面に 派遣し、カリフォルニアが半島であることを確認しました。

1535年にはヌエバ・エスパニャ初代副王アントニオ・ド・メンドーサが着任し、コルテスの行動はさらに制約されるようになりました。1540年にはコルテスは国王カール5世(カルロス1世)に権利請願のためスペインに帰りましたが、富(メキシコでの広大な領地)と名誉(侯爵)は得たものの総督への復帰はならず失意のうちに、1547年コルテスはアンダルシア州セビーリャ近くで62才頃亡くなりました。遺体は遺言によりメキシコシティにコルテスが建てたへスース病院内の礼拝堂に安置されました。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。11/7/21追記、13/7/10、14/4/20、2017/2/27、令和7年 2025/5/20
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