Libya Arab Jamahiriya

国連 1988 発行
 切手で綴るアフリカ大陸一周航海シリーズ No.30
リビア国
State of Libya

大航海物語
  地図編

LIBYA
リビアの地図
地中海


トリポリ→



国連旗→


←ベンガジ



←リビア旗
アルジ
ェリ
エジプ
スーダン
1955 国連1年記念 1956
リビア 1956/12/14 発行
リビアの地図

リビア 1998 発行
R F
FEZZAN-GHDAMES

トリポリタニア、フェザーン、キレナイカの場所地図

(Tripolitania, Fezzan-Ghadames, Cyrenaique)
フランス領リビア 1946/10/29 発行



←セブハ城塞

セブハ城塞
(Fezzan, Ghdames, 1943-1951)

(Fezzan and Ghadames、Fort de Sebha 1946)
トゥルク城塞
(Territoire Militaire, Fezzan-Ghdames, 1943-1951)


(Mosquu, Fort Turk, Mourzouk)
フランス領リビア 1946/10/29 発行

COLONIE ITALIANE
アルテミス女神像
(エフェソス(トルコ)のアルテミス神殿と同一)


(Diana of Ephesus)
古代ローマのガレー船
トリポリ出土


(Ancient Galley Leaving Tripoli)
(Italian Li bya, 1911-1943)
イタリア領リビア 1921 発行

LIBYA
リビア建国の父ムフタールの殉教

(Martyrdom of Omar Mukhtar, 1931-1980)
リビア 1980 発行

カダフィ大佐

レバノンの地図
5/17合意(1983年レバノンイスラエル)の破棄記念
(1984 ABROGATION OF THE MAY 17 TREATY)

リビア 1984 発行

リビア大運河計画

2009年度の完成計画
リビア 1998 発行

大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国
 State of Libya

面積:176万ku(日本378,000kuの約4.6倍)、人口:616万人(2007)、首都:トリポリ、民族:アラブ人、言語:アラビア語、宗教:イスラム教(スンニ派)、1番切手:1912年イタリア切手に”Libia”加刷で発行。

・国名の推移:〜
1551〜1911:オスマン・リビア (Ottoman Tripolitania)
1911〜1943:イタリア・リビア (Italian Libya)
1943〜1951:連合軍の占領 (Allied occupation)
1951〜1963:リビア連合王国 (United Kingdom of Libya)
1963〜1969:リビア王国 (Kingdom of Libya)
1969〜1977:リビア・アラブ共和国 (Gaddafi:Libyan Arab Republic)
1977〜2004:社会主義人民リビア・アラブ国(Gaddafi:Libyan Arab Socialist People's Republic)
2004〜2011:リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国
         (Gaddafi:Great Socialist People's Libyan Arab Jamahiriya)
2011〜2013:リビア、リビア国民評議会 (Libya、National Transitional Council)
2013:〜リビア国 (State of Libya)。

リビアの政体はジャマーヒリーヤ体制(大衆による共同体制の意)、元首:ムアンマル・アル・カダフィ革命指導者(Muammar Al Qadthafi)、全国人民委員会。リビアは人民主権に基づく直接民主制を宣言、ジャマーヒリーヤと呼ばれる独特の政体をとる国家で、成文憲法は存在せず、1977年に制定された人民主権確立宣言が、その機能を果たし、イスラム法も、主要な法の源とされている。

・リビア略史:〜
先史時代、ベルベル人が居住。
古代時代、ギリシャ人、フェニキア人、カルタゴ、ローマ帝国、東ローマ帝国が支配
7世紀、アラブ人のウマイヤ朝が征服、イスラム教が広がる
     イスラム教の浸透とともに住民のアラブ化が進む
16世紀、オスマン帝国が併合
1711年、土着化したトリポリ総督のトルコ系軍人が自立し、カラマンリー朝が成立(-1835)
19世紀初頭、カラマンリー朝は米国第一次バーバリ戦争を繰り広げ、その後イギリス
      フランスによるこの地への干渉が始まったため、オスマン帝国はリビアを再征服
1835年、カラマンリー朝が滅亡
20世紀初頭、伊土戦争により、
1911年、イタリア王国がリビアを植民地化、植民地化後はイタリア人が入植するも、
      サヌーシー教団のオマール・ムフタールやベルベル人による激しい抵抗があり、
      特にフェザーンで激しく抵抗
1932年、イタリアがリビアを完全平定
第2次世界大戦中には連合国(イギリス)と枢軸国(イタリア、ナチス・ドイツ)の間で激戦が繰り
      広げられた(北アフリカ戦線)。イタリアの敗戦により、戦後は英仏の共同統治領となる
1949年、国連の決議により、
1951年、リビアはキレナイカ、トリポリタニア、フェッザーンの三州による連合王国で独立
      リビア連合王国の国王にはキレナイカの首長であり、
      サヌーシー教団の指導者だったイドリース1世が即位
1951/12月、リビア連合王国(イドリース王国)として独立
1963年、連邦制は廃止され、リビア王国が成立
1969/9/01、革命:カダフィ大尉(当時)によるクーデター、リビア・アラブ共和国に改称
      ナセル主義者だった27才のカダフィ大尉と同志の青年将校たちによるクーデターで、
      トルコに滞在中だった国王イドリース1世は退位し、現在のカダフィ大佐を事実上の
      元首とする国家が成立。その後はイスラーム主義や社会主義やナセル主義やカダ
      フィが著した『緑の書』に基づき国家を建設、1970年代から1990年代まで数々のテロ
      支援などでアメリカやイギリスなどの欧米諸国と敵対。後ろにソ連がいたので、米国は
      カダフィ暗殺の空爆しかできず、占領は出来ず
1977/03月、人民主権確立宣言(ジャマーヒリーヤ宣言)発表
        社会主義リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤ国に改称
1986/01月、米国対リビア経済制裁発動
1992/03月、国連安保理、対リビア制裁決議748採択
1992/11月、国連安保理、対リビア制裁強化決議883採択
1999/04月、国連安保理、対リビア制裁停止

2001年の米国同時多発テロ事件以降は米国と協調路線をとる一方、成果を出せない親アラブ
      外交から親アフリカ外交へとシフトし、アフリカ連合内で主導権を握ろうとしている
2003/09月、国連安保理、対リビア制裁解除決議
2003/12月、大量破壊兵器計画廃棄宣言、国際査察団の受け入れ表明
2004/01月、CTBT批准、CWC加入
2004/10月、米国、対リビア経済制裁措置解除
2006/06月、米国、「テロ支援国家」指定解除
2006/08月、IAEA追加議定書締結
2011/8/23、反政府勢力がトリポリに突入後して、陥落寸前となる
2011/8/24、反政府勢力がトリポリを制圧するも、カダフィー大佐の行方は不明2011/9/16、リビア国の新国旗が制定される。
旧国旗

リビアの行政区画(Districts of Libya):〜
シャアビーヤ(Sha'biyah)と呼ばれる州・県レベルの自治体が34存在する。その下にマハッラと呼ばれる自治体が468置かれている(2006年現在)。
No. シャアビーヤ(県) (Sha'biyah) 人口 ku 県都 Captal
1 アジュダービヤー Ajdabiya 165,839 91,620 アジュダービヤ Ajdabiya
2 ブツナン Al Butnan 144,527 83,860 トブルク Tobruk 300,000
3 ヒザン・アカーダー Al Hizam Al Akhdar 108,860 12,800 アビヤー Al Abyar 45,000
4 ジャル・アカダー Al Jabal al Akhdar 194,185 7,800 バイダ Al Bayda' 206,180
5 ジェファラ Al Jfara 289,340 1,940 アジジャ Al 'Aziziyah 4,000
6 ジュフラ Al Jufrah 45,117 117,410 ホウン Houn 35,316
7 クフラ Al Kufrah 51,433 483,510 ジャウフ Al Jawf 17,320
8 アルマジ Al Marj 116,318 10,000 マジ Al Marj 120,000
9 アルマガブ Al Murgub 328,292 3,000 クムス Al Khums
10 アンヌガアルカム An Nuqat al Khams 208,954 5,250
11 アルクバ Al Qubah 93,895 14,722 アルクバー Al Qubah
12 アルワハ Al Wahat 29,257 108,670 アジャビヤ Ajdabiya
13 アルザワヤ Az Zawiyah 197,177 1,520 アルザワヤ Azzaweya 291,000
14 ベンガジ Benghzi 636,992 800 ベンガジ Benghzi 446,250
15 バニワリ Bani Walid 77,424 19,710
16 ダルナ Darnah 81,174 4,908 ダルナ Darnah 50,000
17 ガート Ghat 22,770 72,700 ガート Ghat
18 ガダミス Ghadames 19,000 51,750 ガダミス Ghadames 7,000
19 ガルヤーン Gharyan 161,408 4,660 ガルヤーン Gharyan.
20 ムルズク Murzuq 68,718 349,790 ムルズク Murzuk 7,000
21 ミズダー Mizdah 41,476 72,180
22 ミスラタ Misurata 360,521 2,770 ミスラタ Misurata 550,000
23 ナールート Nalut 86,801 13,300 ナールート Nalut 55,000
24 アルナワヒアルアルバ Tajura Wa Al Nawahi AlArba' 267,031 1,430
25 タルフナ Tarhuna Wa Msalata 296,092 5,840 タルフナ Tarhuna 296,000
26 タラブラス Tarabulus 882,926 400 トリポリ Tripoli 1,682,000
27 セブハー Sabha 126,610 15,330 セブハー Sabha 130,000
28 スルト Surt 156,389 77,660 スルト Sirt
29 サブラサ Sabratha Wa Surman 152,521 1,370 29
30 ワジアルハヤ Wadi Al Hayaa 72,587 31,890 アワバリ Awbari
31 ワジアルサチ Wadi Al Shatii 77,203 97,160 アジリ Adiri
32 ヤフラン Yafran 117,647 9,310 ヤフラン Yifrin
T (計) (District Total) 616万人 1760000

統計修辞が合わへん、誰か教せ〜て!
・参考HP〜リビアの区分地図

独立以前のリビアは農牧業を主産業とする貧しい農業国だったが、独立後の1955年から油田開発が進められ、1959年にリビアは産油国となった。王政時代はオクシデンタル・ペトロリウム社等の国際石油資本により石油開発が進められたが、1969年の革命後に石油は国有化された。リビア政府が起こしたパンナム機爆破事件により1992年から1999年まで国際連合の経済制裁が続き、リビア経済は疲弊した。近年は経済制裁の解除に伴い、一度は撤退したオクシデンタル・ペトロリウムなどの石油関連を筆頭とした外国資本が次々と流入し、それにあわせて経済状況が急激に回復してきたと言われている。

油田の多くはキレナイカに集中しており、石油の埋蔵量はアフリカ最大といわれている。輸出の大部分が石油で、貿易黒字を維持するために輸出量は調節している。リビアは石油が豊富でありながらも人口が少ないために、一人当たりのGDPはアフリカで最上位クラスの比較的裕福な国であり、先進国に並ぼうとしている。2008年のリビアの一人当たりGDPは16,114ドル(15,919、2008:43位説有)で、隣国と比べるとエジプトが2,160ドル、スーダンが1,518ドル、チャドが862ドル、ニジェールが390ドル、チュニジアが3,907ドル、アルジェリアが4,588ドルなのでその格差は歴然で、日本はUS$39,731ドル(2008:17位、米46,380:9位)。独立以前から皮革や繊維、じゅうたん、金属細工などの軽工業が行われていた。独立後、石油収入を基盤に重工業化が進められ、石油精製、製鉄、セメント、アルミ精錬などを行う国営工場が建設されている。 国土の1.2%が耕地となっており、現在でも農業や牧畜に従事する国民も多い。地中海農業やオアシス農業が主な農法であり、1969年革命後の社会主義政権は農業の産業化に力を入れ、深層地下水をパイプラインで輸送して灌漑を進めている(リビア大人工河川)。

リビア大人工河川計画
  Great Manmade River
、リビア人工大運河
1953年にリビアにおける石油探査の際、内陸部のサハラ砂漠の地下深くに1万年以上前に蓄積された大量の地下水が眠っていることが発見された。1984年にその地下水を汲み上げ、海岸部のトリポリやベンガジといった大都市や、トリポリタニア、キレナイカの農耕地帯に供給する大灌漑計画が発表された。25年計画で、2009年度中の完成を目指している。カダフィー大佐はこの計画について「世界の8番目の不思議だ」と述べた。工事は4期に分かれ、1期はクフラ近くのキレナイカ内陸部から地下水を汲み上げ、ベンガジ及びキレナイカ海
リビアの地図
岸部に供給、2期はフェザーンのセブハ近くから水を汲み上げトリポリタニア海岸部及びトリポリに供給、3期はエジプト国境近くの内陸部からトブルク近辺への給水、4期はガダーミス近くからチュニジア国境地方への給水という計画となっている。水路の総延長は4000kmにも上り、深さ500m、1300本以上の井戸から一日あたり6,500,000m3の淡水を供給する計画である。水路の通るほぼ全域が砂漠地帯のため、直径4mのコンクリート管を地下に埋設し、海岸部まで導水する。総工費は250億ドル。1993年にはベンガジに送水開始。1996年にはトリポリに送水が開始された。3期、4期工事は未着工である。問題点は、化石水の過度の汲み上げによる地下帯水層の枯渇により、リビア南部に点在するオアシスへの影響が危惧されている。また、250億ドルもの総工費に見合う利益が上がるのかという声もある。巨費をかけ建設しても、現在地下水の増加は気候的に見込めず、枯渇すれば水路は一瞬にして無用の長物と化すからである。50年間は計画通りの水量で供給できるとされているが、逆に言えば50年を過ぎれば枯渇の可能性があるということでもある。また、工事は技術上の問題や水質の問題、建設費の高騰などにより遅れ気味。

・リビア観光:〜
遺跡マニアにとっては、地中海沿岸の古代ローマ遺跡群は見逃せない所です。首都のトリポリを挟むように東にレプティス・マグナの遺跡、西にサブラータの遺跡が拡がります。北アフリカの地中海沿岸に点在するローマ遺跡の中では、保存状態も良く、規模も大きく抜きん出た存在です。東部の第二の都市、ベンガジ東方にあるキュレーネの遺跡を含め、世界遺産に指定されているのも当然です。そして、リビア観光の最大の目玉は2つ有。サハラ砂漠交易での隊商の中継都市として重要だった”旧都ガダメス”と、長い年月にわたり侵食された奇壁や奇岩が点在する”野外アート博物館と先史時代の岩画群アカクス山塊”。世界遺産にこそなっていませんが、アカクス山塊から続くムルズークの大規模な砂丘群、砂丘の中に忽
アルテミス女神像
然と現れる湖とナツメヤシの木々が拡がるウバリ砂漠も必訪の場所で、日本から気軽に本格的な砂丘群訪問が出来る数少ない国の一つです。リビアは日本の4.7倍という広い国土を持っていますが、残念ながらその内約95%が、不毛な岩の多い平地と砂漠になっています。地中海沿岸から続く内陸部の僅かな地帯が主要耕作地の一つになっています。また、人口もこの地中海沿岸地域辺りに集中しています。リビアは極度に乾燥し真水の水源が少なく、年間を通し水を湛えている河川や水流もありません。政府は、たまに降る雨水を貯めておくダムを各地に建設しています。多くの村落では、井戸を掘り、地中の滞水層から水を得る試みが行われています。最大のトライは、水不足に対処するため、大規模な灌漑計画や大人工河川(GMMR)計画が進められています。リビア南部の砂漠地帯の幹線を車で走ると、オアシス地帯の緑のベルト地帯が切れ目も無く続き、砂漠でありながら水の豊富さを実感します。巨大なスプリンクラーシステムを使った大規模な砂漠式農業も必見です。石油やガス資源だけでなく、サハラ砂漠の地下に眠る豊富な滞留水を最も有効に活用している別のリビアが見えてきます。

<リビアの世界遺産>〜文化遺産5件
・レプティス・マグナの考古遺跡、1982
・サブラタの考古遺跡、1982
・キュレネの考古遺跡、1982
・タドラルト・アカクスの岩絵遺跡群、1985
・ガダミスの旧市街、1986。

フェザーン
  (Fezzan)
フェザーンはリビアの一地域で、トリポリタニアキレナイカとあわせてリビアの三地域を構成。リビア南西部に有って砂漠が広がっています。中心都市はムルズク(Murzuk)、セブハ(Sabha)。西はアルジェリア、南はニジェールチャドと接しています。全地域が砂漠で、常時水の流れる河川はありません。流水のない涸れ川のワジ(Wadi、川の渓谷)が何本か存在するのみです。オアシスが点在し、そこでの灌漑農業が主要な産業です。
フェザーンの地図
紀元前頃からカルタゴ(Ancient Carthage、BC814-BC146)やローマ帝国(Roma antiqua、BC753-476)と、西アフリカのサヘル(Sahel)や中央アフリカの間で行われたサハラ交易のルートとしてオアシスに都市国家が栄えました。ローマ帝国の崩壊や気候変動による砂漠化で中世フェザーンの商業的価値は低下し衰退。13〜14世紀にかけてはカネム帝国(Kanem-Bornu Empire、700-1380)の支配下となるも、その後オスマン帝国に支配されました。伊土戦争(Italo-Turkish War、1911/9/29-1912/10/18)で、1911年初めにイタリアに占領されて植民地となりました。第一次世界大戦(北アフリカ戦線)中、ベルベル人やアラブ人に支持されたサヌーシー教団(Senussi)とイタリアの戦い(サヌーシー戦争:Senussi campaign、1915-1918)が続き、イタリアでファシスト党が政権を掌握した後、1923年頃まではイタリアは十分な支配権を確立することはできず、トゥアレグ族(Tuareg) が、1916〜1917年にかけてのニジェール北部のアイル山地(Air Mountains, 2,022m:世界遺産アイル・テネレ自然保護区)周辺のフランス植民地支配に対するトゥアレグの反乱(Kaocen Revolt, 1916-17)後にイタリアに服属し、第二次世界大戦(北アフリカ戦線)ではイタリア軍と共に戦いました。1943/1/16に自由フランス軍がムルズクを占領するなどフランスの支配下となるも、1951年にフランス軍は撤退し、トリポリタニア主導の集権国家になることを望まないフェザーンはキレナイカ首長国(Emirate of Cyrenaica、1949-1951)と共に連邦制国家の枠組みを支持し、1951年にリビア連合王国に加わりました。

・キレナイカ
  (Cyrenaica)
キレナイカは、リビアの東部地方。古典時代以来、一般的にはバルカ(Barqah)と呼ばれていました。トリポリタニアフェザーンと共にリビアの歴史的な3地域で、1970年代の行政区分でした。語源は古代ギリシャ時代の植民市キュレネ。現在はシャアビーヤと呼ばれる行政区分に分割されて、アジュダビーヤー、ベンガジ、ダルナ、クワフなど、10の州・県レベルの自治体に分かれています。

・トリポリタニア
  (Tripolitania、アラビア語ではタラーブルス)
トリポリタニアは、キレナイカフェザーンと並ぶリビアの歴史的な3地域の一つです。首都トリポリを含む地域で、3地域中最も人口が多く経済力が強いも、 トリポリタニアの大部分は砂漠で、北部の海岸沿いの一部は地中海性気候であり、冬季の降雨を利用してオリーブ、オレンジ、レモンなどの農耕が盛んです。

フェザンガダメスの仏軍事地域
  (French military administration in Fezzan, 1947-1951)
   フェザンガダメスのテリトワールの民兵
フェザンは現在のリビアの南西地域です。
フェザンガダメスの軍事領土は、1947年から1951年のリビア独立まで、フランスが支配していたリビアの旧イタリア植民地の南部の領域で、リビア連合国政権の一部でした。フランス領チャドからの自由フランス軍は1943年に元イタリア南部軍領域だった地域を占領し、彼らのフェザン地域をフランス植民地帝国に行政
フェザンガダメスの地図と民兵
的に併合することを要求して支配するも、行政職員は元イタリアの官僚のままでした。人口の少ないフェザン地方(Fezzan)では、フランスの軍事政権がイギリスの作戦に対応する組織を形成しました。イギリスの承認を得て、1943年1月に自由フランス軍がチャドから領土を支配するために北に移動。フランス政権はサバ(Sebha)に駐在する職員が指揮。リビア国民党主義者はフランスの意図がリビアからのフェザンの最終的な分離という不安を持つもフェザンは、1951/12/24にトリポリタニアとキレナイカに加わり、リビア王国を形成しました。これは国連を通じて独立を達成した最初の国になりました。

フェザンガダメスのセブハ城塞
  (Fort de Sebha, Fezzan-Ghadames)
セブハ(Sabha)は、リビアのフェザーン地方最大の都市で、サブハー県の県都。2011年の人口は約9.7万人。フェザーン地方には他に都市らしい都市は存在せず、唯一の都市として行政機能・商業機能が集積しています。サハラ交易の要衝であり、オアシス都市です。空港があり、トリポリ及びベンガジへ航空便が就航しています。また、リビアのサハラ砂漠観光はセブハを足場として行われます。カダフィ大佐が14才の時にスルトからセブハへ
セブハ城塞
移住し、中学校に入学したので、少年時代をここで過ごしたため、現在も当時のカッザーフィーの家が保存されています。

フェザンガダメスのトゥルク城塞
  (Fort Turk, Fezzan-Ghadames)
オスマン帝国が1551年にリビアを征服したとき、 トルコ人は商人や家族を含む主にアナトリアからこの地域に移住してきました。さらに、多くのトルコ兵がアラブ人やベルベル人の女性と結婚し、その子供たちはクーラウリス(Kouloughlis)として知られていました。今日、彼らの民族性をトルコ人と見なす、またはオスマン帝国の支配中にこの地域に定住したトルコ兵の子孫と認めるリビア人がまだいます。実際、リビアの多くの家族は、姓を通じ
トゥルク城塞
て、その起源を追跡できます。家族が、先祖が移住したトルコの地域に属する姓を持つことは非常に一般的です。たとえば、トカトリ(Tokatli)、エスキシェヒルリ(Eskisehirli)、ムーラリ(Muglali)、イズミルリ(Izmirli )は非常に一般的な姓です。

カダフィ大佐
  (ムアンマル・アル=カダフィ)
  (Muammar Gaddafi 、1942頃-2011/10/20)
  (Muammar Mohammed Abu Minyar al-Gaddafi)
カダフィ大佐はリビアの軍人、革命家、政治家で、大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の最高指導者。称号は「リビア最高指導者および革命指導者」(zaim wa-qaid al-tawrah fi libiya, ザイーム・ワ=カーイド・ッ=サウラ・フィー・リービヤー)、「敬愛なる指導者」(al-ab al-qaid, アル=アフ・ル=カーイド)。1969年のリビア革命で政権を獲得後、2011年に至るまで長期にわたり独裁政権を維持するも、2011年リビア内戦(2011/2/15-10/23:2/17革命、250日)で政権は崩壊、自身も反カダフィ派部隊によって殺害されました。日本では一般にカダフィ大佐という呼称で知られていますが、カッザーフィーとも記述。なお、2011/10/23に国民評議会によりリビア全土の解放が唱えられ内戦終結が宣言されるも、その後イスラム過激派組織の親カダフィ勢力・イスラム国(アイシル、ISIL:Islamic State in Iraq and the Levant、2006/10/15〜)台頭で
カダフィ大佐

Peaple authority declaration 1985
リビア 1985 発行
内戦は継続しています。

5/17合意
  (May 17 Agreement)
1983/5/17の合意は、1982年にイスラエルレバノンに侵攻 、 ベイルートを包囲 した後、1983/5/17のレバノン内戦中にレバノンとイスラエルの間で締結された合意でしたが、レバノンは交渉中、イスラエルとシリアの両方の軍事占領下にありました。この合意は レバノン軍がイスラエルの地位を引き継ぐことを求めるも、レバノンの自由主義政府はライバルの別派によるベイルートでの激しい戦闘で、1984年2月に崩壊して合意を保つことができませんでした。新レバノン議会は新たに選出された議長(フセイン・エル・フセイニ)のリーダーシッ
5/17合意の破棄
プの下で合意を取り消しました(1984/3/5崩壊)。

オマル・アル=ムフタール
  (Omar al-Mukhtar、1862-1931)、リビア独立の父
オスマン帝国ベンガジ近郊のジャンズール村で生まれのムフタールは、故郷のマドラサで教育を受け、16才の時に父が死去。その後はサヌーシー教団の拠点があった、リビア砂漠(エジプトの西部砂漠)でエジプトのシーワ・オアシス(Siwa Oasis)近郷オアシス村ジャグブーブ(Jaghbub)の大学で8年間過ごしました。卒業後は帰郷し、イスラム教指導者イマームとして経典コーランを教えていました。1911年、伊土戦争の勃発でリビアに戦火が及び、10/2にルイージ・ファラヴェッリ提督(Luigi Faravelli、1852-1914)のイタリア海軍艦隊がトリポリに現れ、
スロンタの戦い(ムフタールの殉教)
トリポリに現れ、オスマン軍が降伏を拒否したためイタリア艦隊が砲撃を開始。3日間に渡る砲撃で街は破壊・占領されました。サヌーシー教団はオスマン軍に協力してイタリア軍と戦い、ムフタールも戦闘に参加し、以降20年に渡りイタリア軍と戦うきっかけとなりました。戦闘はイタリア軍の優位に展開し、翌1912/10/18に講和条約が結ばれ、トリポリタニア・フェザーン・キレナイカがイタリア王国に割譲されました。サヌーシー教団はその後もイタリア軍とのサヌーシー戦争(英語版)を継続。1920年にキレナイカの支配権を認められるが、1922年のベニート・ムッソリーニ政権成立により対立が激化し、指導者ムハンマド・イドリースは12/21にエジプト王国に脱出。

ムフタールはイドリースにリビア司令官に任命され、対イタリア運動の指揮を執ることになり、各地の反イタリア・ゲリラを指揮下に置いて、キレナイカの地形と砂漠戦の熟知でイタリア軍と勇敢・果敢に戦いましたが、1931/9/11にムフタールはジャバル・アル・アフダル県スロンタの戦い(Slonta)で負傷し、イタリア軍に捕縛されました。治療後に裁判で死刑判決が言い渡され(9/15)、翌日ベンガジから56km南方のソルーク()にて、民衆の目の前で絞首刑にされました。ムフタールの死後、抵抗運動は衰退し、1932年にリビアはイタリアに平定されましたた。

20年近くに渡り抵抗運動を指揮したムフタールは「リビア独立の父」として尊敬の対象となっており、カダフィ政権下のリビアでは最高紙幣の10ディナール札に肖像が使用されていました(最高指導者であるカダフィの肖像は1ディナール札に使用)。また、カダフィは1981年にアメリカ合衆国・ハリウッドと共同でムフタールとイタリア軍の戦いを描いた映画『砂漠のライオン』を制作し、3,500万ドルを制作費として出資。2011年リビア内戦が勃発すると、ムフタールは自由の象徴として反カダフィ派のポスターや旗に用いられるようになり、「オマル・ムフタール旅団」を名乗る反カダフィ部隊も現れました。反カダフィ勢力のリビア国民評議会が拠点を置いたベンガジでは、1ディナール札の肖像をカダフィからムフタールに貼り換えた偽札が出回りました。クドゥス・アラビー紙は反カダフィ勢力との徹底抗戦を主張するカダフィをムフタールを引き合いに「カダフィはムフタールではなくムッソリーニの同類」と批判しました。

参考HP〜
 ・リビアの地図
 ・リビアの区分地図(3地区)
 ・リビアの場所地図
 ・フェザンの場所地図(1943-1951)

こちらで
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世界遺産の
ヘンダーソン島 (ピトケーン諸島)
ヌビア遺跡エジプト
パルテノン神殿ギリシャ
法隆寺 (日本)
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   10/8/23、2019/12/19
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