Spain

国連 1988 発行
切手で綴る 冒険大航海 (Adventure Voyage)
アレッサンドロ・マラスピナ艦長
1786-1788、世界一周航海
1789-1794、太平洋の探検航海


大航海物語
 スペイン編
序 章世界一周科学遠征隊アトレビダ号乗組員ユジオメタ航海日誌

R. ARGENTINA
マラスピナ船長

アルゼンチン 1992 発行

コルベット艦アトレビーダ号
R. ARGENTINA

アルゼンチン 1992 発行
ESPANA

スペイン 1964 発行

マラスピナ科学遠征隊の大航海
U S A ESPANA
アラスカ州の地図 アラスカ南部のシトカ

アメリカ 1959 発行




←シトカ→

スペイン 1976 発行

ESPANA
ヌトカのスペイン入植地 北アメリカ西海岸

スペイン 1976 発行

スペイン 1967 発行



バンクーバー島

ヌトカ・サウンド (Nootka Sound)

1778 クック船長ヌトカ砂洲発見200年記念 1978
カナダ 1978 発行

スペイン 1976 発行

カナダの現地人集落

カナダ 1971 発行
カナダ太平洋岸の現地人

カナダ 1974 発行

イタリア生まれのマラスピナ提督は、1786〜1788年の間に世界一周航海をなし、1789〜1794年には太平洋を横断する科学探検隊(マラスピナ遠征隊)をひきいて、北西航路の探索で南北アメリカの海岸を調査して地図を作成しました。1795年に提督に昇進するも、翌年に反逆罪で階級を剥奪されて逮捕され、1802年まで投獄され、スペインを追放されて故郷イタリアのムラッツォに戻り、流行中の黄熱病の検疫を組織したりなど故郷に貢献しました。1807年に病に倒れ、3年後に治療の甲斐もなく55才で亡くなりました。
提督アレッサンドロ・マラスピナ艦長
 Admiral Captain Alessandro Malaspina (1754/11/5〜1810/4/9)

 リアルアルマダ艦隊准将(Real Armada Fleet-Brigadier, 1795/3/24-1796/4/20)
▼生い立ちの記
アレッサンドロ・マラスピナ艦長は、イタリアの小さなパルマ公国(Duchy of Parma, 1545-1802)領主マラスピナ侯爵(Carlo Morello, Marquis of Malaspina)の三男としてムラッツォ(Mulazzo, Massa and Carraraag Province, Tuscany region, Italy:現イタリア共和国トスカーナ州マッサ・カッラーラ県ムラッツォ村)で生まれました。その後、パルマ公国は神聖ローマ帝国(Holy Roman Empire, 800/962-1806)のトスカーナ大公国(Grand Duchy of Tuscany, 1569-1860)の一部になりました。

マラスピナ船長は、1765〜1773年の間ローマのクレメンタイン大学(Collegio Clementino)で学び、1773年にマルタ騎士団に入り、マルタ島に約1年間住み、そこで帆走(Sailing)の基本を学びました。

マラスピナ船長は1774年にスペイン海軍に少尉候補生(グアルディアマリーナ:スGuardiamarina、英Midshipman)で入隊しました。1774〜1786年の間には多くの海戦に従軍して、次々と昇進しました。それは、1775/1月にフリゲート艦サンタテレサ号(Frigate Santa Teresa, 20-guns)に乗組み、モロッコ人に包囲されたメリリャを救済する遠征航海に従軍し、准尉(アルフェレス:Alferezde Fragata、英Warrant Officer)に昇進。1775/7月にアルジェリアのアルジェ包囲(Invasion of Algiers, 1775/7/8)に従軍して、1776年に少尉(Alferezde Navio、英3rd Lieutenant)に昇進。

1777〜1779年の間フリゲート艦アストレア号(Frigate Astrea, 26-guns)に乗組み、喜望峰回りでフィリピンへ往復航海しました。航海中に中尉(Teniente de Fragata、英:2nd Lieutenant)に昇進。1780/1月にサンタマリア岬の戦い(Battle of Cape St. Vincent, Portugal, 1780/1/16)に参加。そして大尉(Tenientedenavio、英1st Lieutenant)に昇進しました。ジブラルタル包囲戦中(Great Siege of Gibraltar, 1779/6/24-1783/2/7)の、1782/9月には 浮き砲台(Floating Battery)を務めました。同年12月、サン・フスト号(San Justo)に乗組み、スパルテル岬での戦闘(Battle of Cape Spartel, Morocco, 1782/10/20)に従軍し、少佐(Capitande Fragata、英Navy Major)に昇進。1782年にキリスト教への異端(Heresy)の嫌疑でスペイン異端審問(Spanish Inquisition)にかけられるも、逮捕はされませんでした。 スペインの異端審問

イスラエル 1992 発行

1783/3月〜1784/7月の間、中佐(Second-in-Command)でフリゲート艦アスンシオン号(Frigate Asuncion)に乗組み、フィリピンへ航海しました。フィリピンへの彼の最初の航海と同様に、ルートは往復とも喜望峰を回遊しました。1785年、スペインに戻ってブリガンティン船ヴィーヴォ号(Brigantine Vivo)に乗組み、スペイン沿岸の水路調査と地図作成に従事しました。同年、カディスのガーディアマリナス中佐(Lieutenant of the Company of the Guardiamarinas of Cadiz)に任命され、カディスのガーディアマリナス会社(Guardiamarinas of Cadiz Co.)の幹部に登用されました。

◆マラスピナ艦長の大航海:〜
(1)世界一周航海(西回り)、1786/9/15〜1788/5/18
  ・フリゲート艦アストレア号(Frigate Astrea, 26-guns)
1786〜1788の間に王立フィリピン会社(Royal Philippines Co.)の依頼で、フリゲート艦アストレア号で世界一周航海しました。スペインを出帆、ホーン岬を回って、1787/2月にチリのコンセプシオンに寄港。そこで、1786/3月にラ・ペルーズ遠征隊がコンセプシオンを訪れた時に、太平洋の遠征航海の話を聞いていた陸軍々事総督(Military Governor)の初代オソルノ侯爵アンブロジオ・ベルナルド・オ’ヒギンス(Ambrosio Bernardo O'Higgins, 1st Marquess of Osorno, 1720頃-1801、アイルランド生)と会談して、スペインもフランスのラ・ペルーズ船長とイギリスクック船長が率いるものと同様の太平洋への遠征隊を組織することを勧められました。その後に喜望峰を回って1788年にスペインに帰港しました。

スペインに戻った後、マラスピナ船長は太平洋岸北西部遠征航海の提案を作成して、1788/9/10にスペインの海洋大臣に提出、1ヵ月後にカルロス3世(Charles III of Spain, 在位1735-1759)によって承認されました。それは、ロシアが北太平洋へのムロフスキー遠征(Mulovsky expedition)を準備しているというニュースが伝わり、スペインが主張していたヌトカ湾周辺の領土主張(太平洋岸北西部)ともあいまって、マラスピナの提案が迅速に受け入れられ、1788/10/14に太平洋探検航海「マラスピナ科学遠征航海計画」が決定されました。
※(注)ムロフスキー遠征は露土戦争(Russo-Turkish War, 1787-1792)の勃発で実現しませんでした。

(2)太平洋探検航海、1789-1794(マラスピナ科学遠征隊航海
・コルベット艦アトレビーダ号
  艦長:アレッサンドロ・マラスピナ大佐
・コルベット艦デェスキュビエータ号
  艦長:ホセ・デ・ブスタマンテ・イ・ゲラ 大佐
マラスピナ科学遠征航海隊は、遠征隊のために同時に建造されたアトレビーダ号とデェスキュビエータ号の両艦で、1789〜1794年に太平洋を横断する科学探検航海を行い、南北アメリカの海岸を探索して地図を作成しました。その航海で、スペインからホーン岬をへて、アメリカの西海岸からアラスカのアラスカ湾に向かい、ヌトカ紛争の余波で太平洋岸北西部に対するスペインの主張を強化するのに貢献しました。北西航路の探索では航路を発見できずバンクーバー島西岸ヌトカ・サウンドなどを調査。太平洋を横断してグアムとフィリピンを調査。その後、探検と外交偵察を行い、中国も調査し、ニュージーランドオーストラリアトンガなどに寄港しました。

・マラスピナ遠征隊の大航海:〜
1789年夏にカディスを出発、カナリア諸島に停泊してウルグアイのモンテビデオに向かいました。1790年、南アメリカの海岸を地図に描き、植物学と先住民の文化を研究し、ホーン岬を回航して太平洋へ出ました。1791年の冬、メキシコのアカプルコに到着して修理しました。夏を過ごして北西海岸に向かいアラスカ湾に立ち寄り、ヌトカのスペイン入植地に滞在して北西航路を調査し、アカプルコに戻りました。1792年に再びアカプルコを出発し、太平洋を横断してスペイン領フィリピンへ向かいました。その後、ペルーのカヤオに戻る前に、ニュージーランドとオーストラリアだけでなく、複数の島々を訪れました。1793年、ティエラデルフエゴを経由して帰路につき、フォークランド諸島やトリニダードなどのさまざまな島に立ち寄りました。遠征隊はついに1794年に政治的混乱と保守的な新君主治世中のスペインに帰着しました。遠征隊は5年以上海で過ごし、スペインによる唯一の真の科学的遠征航海を完了しました。

遠征隊は1794/9/21にカディスに帰港しました。マラスピナは直ぐに遠征航海記を出版するために大量の資料を整理して、編集作業に取り掛かりました。12月、マラスピナはカルロス4世(Charles IV of Spain、在位1788-1808)とマヌエル・デ・ゴドイ首相(Manuel de Godoy y Alvarez de Faria、1767-在任1792-1797&1801-1808-1851)と会談しました。最初はすべてが順調で、1795/3/24に海軍のリアルアルマダ艦隊准将(Fleet-Brigadier)に昇進しました。

▼政治的論争と亡命
スペイン植民地の政治情勢を調査したマラスピナは、スペインが植民地を解放し、国際貿易に拘束される国家連合を形成することを提案しました。1795/9月、彼はそのような提案でスペイン政府に影響を与えようとしはじめました。残念ながら、マラスピナは航海前に宮廷で受けていた支援を失い、フランス革命の影響もあり、政治情勢はとても変わりました。マラスピナはゴドイ首相にだまされて、ゴドイ暗殺の陰謀の一味として、1795/11/23に国家に対する陰謀の罪で逮捕されました。1796/4/20の裁判の後、カルロス4世はマラスピナの階級を剥奪し、ガリシアのラ・コルーニャにある孤立したサンアントン要塞(Fortress of San Anton, La Coruna, Galicia)に投獄することを命じました。マラスピナは1796年から1802年まで刑務所に留置されました。投獄中、彼は美学、経済学、文芸批評などのトピックに関するさまざまなエッセイを書きました。政治家で知人のフランチェスコ・デリルを通して、ナポレオンはマラスピナの解放のために助力しました。1802年の終わりにようやく解放されましたが、スペインから追放され、故郷のムラッツォに向けて出発。1803/3月にジェノヴァ港で下船してムラッツォに向かい、ムラッツォ近くのポントレモリ(Pontremoli., Mulazzo, Genoa port)に定住しました。

▼その後
それまでに短命のエトルリア王国(Kingdom of Etruria, 1801-1807)の一部のポントレモリにいたマラスピナは、1803/12月のリボルノでの黄熱病流行中に、ナポレオン・イタリア共和国(Kingdom of Italia, 1805-1814)とエトルリア王国の間で検疫を組織しました。1805年にイタリア王国々務院の「顧問監査役」の称号を授与されました。1806/12月に宮殿でエトルリア女王に謁見しました。その後まもなく、アドメスティカートの称号でフィレンツェのコロンバン協会に招聘されました。

1807年に不治の病にかかり、1810/4/9にポントレモリにて55才で亡くなりました。

コルベット艦アトレビーダ号の装備:〜:
  Corbeta Atrevida
、1789
船 型 スペイン・コルベット艦(Spanish Navy Corvette) アトレビダー号
帆 柱 3本マスト
重 量 306屯
長 さ 33.3m
吃 水 8.7m
乗 員 104人
武 装 16門(6ポンド砲14門、4ポンド砲2門 )
進 水 1789/4/8、スペイン・カディス(La Carraca shipyard, Cadiz, Spain)
最 後 英軍のモンテビデオ港侵攻の妨害で火をつけ焼払い自沈、1807
※マラスピナ遠征隊の乗組員:〜
  (Malaspina Expedition Crew)
@コルベット艦アトレビーダ号
  (大胆号:Corvette Atrevida)
  ・艦長:アレッサンドロ・マラスピ大佐
  (Colonel Alessandro Malaspina, 1754-1810)
Aコルベット艦デェスキュビエータ号
  (発見号:Corvette Descubierta)、@と同型艦
  ・艦長:ホセ・デ・ブスタマンテ・イ・ゲラ大佐
  (Colonel Jose de Bustamante y Guerra, 1759-1825)
・アントニオ・デ・トヴァ・イ・アレドンド大尉、天文学者・地図製作者、@副艦長、1793A副艦長
  (1st Lieutenant Antonio de Tova y Arredondo, 1760-1825)一等航海士 (First Mate)
  カンタブリア州アソンアグエラ県アレドンド郡リヴァデルエスガ生、カンタブリア州ラレド没
  (Riva de Ruesga, Arredondo, Ason-Agueera, Cantabria, Spain)Laredo, Cantabria
・ピロト・フアン・デ・インシアテ少尉
  (Junior Officer Piloto Juan de Inciarte)@乗組
・ディオニシオ・アルカラ・ガリアーノ中尉
  (Lieutenant Dionisio Alcala Galiano, 1762-1805コルドバ生)@航海士
   水路学・天文学・地図作成に従事、1805年トラファルガーの戦い
   1792夏(?)、ガリアーノはスクーナーBスーチル号(Schooner Sutil)で
      バルデスはスクーナーCメキシカーナ号(Schooner Mexicana)で
      ファン・デ・フーカの北西航路(アニアン海峡)探索に
      バンクーバー島を一周航海して、北西航路が存在しないことを証明
      途中でバンクーバー船長と出会い協力
・ケイターノ・バルデス・イ・フローレス・バザン中尉
  (Lieutenant Cayetano Valdes y Flores Bazan, 1767-1835)A航海士
   セヴィリア生・カディスで提督(Captain General of Cadiz)没
・ルイス・ニー
  (Botanist Luis Nee, 1735-1807)
  フランス生まれのスペインの植物学者・薬剤師で、薬用植物とその応用家
・アントニオ・ピネダ
  (Botanist Antonio Pineda, 1751-1792)海兵隊中尉除隊、植物学者
  ヘンケとルイス・ニーなど博物学チームのリーダー、グアテマラシティ生・フィリピン没
・サダウス・ヘンケ
  (Botanist Thaddeus Xaverius Peregrinus Haenke, 1761-1816)植物学者、チェコのフンボルト
  ボヘミアのクライビッツ村(現チェコ共和国フジブスカー)生・ボリビアのコチャバンバ毒殺没
・トーマス・デ・スリア
  (Tomas de Suria、1761スペイン生-1835メキシコ没)A医師・彫刻家
・マヌエル・アントニオ・ホセ・カルデロ、当初Aキャビンボーイ
  (Artist Manuel Jose Antonio Cardero, 1766-1811頃)画家、Cでバンクーバー島一周航海に同行
  アンダルシア州セビリア県エシハ(Ecijs)生
・ホセ・ギオ
  (Artist Jose Guio)科学的な絵の画家、航海中健康不良
・フェルナンド・ブランビラ
  (Painter Ferdinando Brambilla, 1763-1834)画家(Lombard, Cassano d'Adda, Italy)
   イタリア・ロンバルディア州ミラノ県カッサーノ・ダッダ生、イタリア没
・シリアコ・ゼヴァロス
  (Aastronomer Ciriaco Zevallos)天文学者
・ホセ・エスピノサ・イ・テッロ
  (Aastronomer Jose Espinosa y Tello)天文学者
・ホセ・デル・ポゾ
  (Artist Jose del Pozo、1757頃セヴィリア生-1821頃リマ没)画家、1790カヤオ下船ペルー在住
※ロレンゾ・フェレール・マルドナド
  (Lorenzo Ferrer Maldonado、スペイン生-1625没)冒険航海家
  1601年フェリペ3世に、1588年北西航路(アニアン海峡)を
  東から西に航海したとする文書を提出
※フランチェスコ・メルツィ・デリル
  (Francesco Melzi d'Eril, 1753-1816)政治家
  ナポレオン・イタリア共和国 (Reino de Italia, 1805-1814)建設時に、フランチェスコ副大統領候補が
  マラスピナに共和国のアドリア海沿岸の検査・防疫線の設置などを委託。

遠征隊は1794/9/21にカディスに帰港して、マラスピナは直ぐに出版するために大量の資料を整理して、編集作業に取り掛かりましたが、スペインで政府を転覆させるための陰謀へのマラスピナの関与の嫌疑で逮捕・投獄。そして最終的には追放になり、遠征航海で集められた資料のほとんどは片付けられ、20世紀後半まで再び光を見ることはありませんでした。マラスピナの遠征に関連する広範な資料のほとんど全てが今もマドリッド海事博物館に収蔵・保管されています。

・ユージオメーター
  (Eudiometer)
ユージオメーターは、物理的または化学的変化に続くガス混合物の体積の変化を測定する実験装置で、水の電気分解により生じる酸素および水素の容積を測定し、電気量を求める装置。目盛り付きガラス管の一端を閉じて白金電極を封入したもの。水(みず)電量計。発生した気体の体積を求めるために教育用の目的で使われることが多いもの。1791年、マラスピナ遠征隊の科学者たちは、空気が悪いと病気を引き起こす可能性があると考えていたため、乗組員の健康を維持するためにユージオメーター実験を実施しました。実験結果は、良好な空気が95%以上で、例外は保管されていた食料が煙を発していたスチュワードの部屋が悪い空気に汚染されていただけでした。

参考HP:〜
マラスピナ遠征隊の航海地図(1789-1794)
アラスカ湾の地図(Sitka有)
プリンス・ウィリアム・サウンドの場所地図
ヤクタット湾の場所地図(アラスカ湾の奥)
アラスカの地図
ヌトカ・サウンドの地図(カナダ・バンクーバー島西)
プリンスオブウェールス島の場所地図(カナダ)
リオ・デ・ラ・プラタの場所地図(アルゼンチン)
チリの州別地図

★遠征隊の航海日誌:〜
<マラスピナ遠征隊>
(Malaspina Expedition 1789-1794)





マラスピナ遠征艦隊








現地人
マラスピナ船長






マラスピナ遠征隊の画家
1492 コロンブスの新大陸発見500年記念 1992
アルゼンチン 1992 発行
・マラスピナ科学遠征隊航海日誌
  (The Malaspina Scientific Expedition Voyage Journal)
1789
07/30 カディス出帆
--?-- カナリア諸島
--?-- ラプラタ川(La Plata River, 290km)河口(幅約270kmの三角江)北側着、ウルグアイ
09/20 モンテビデオ着、ウルグアイ、7週間滞在
--?-- モンテビデオ沖プエルト・デセアド(Puerto Deseado)でクロノメーター時計を検証
11/15 プエルト・デセアドを出帆
ラプラタ川河口の調査
--?-- ブエノスアイレス着、ラプラタ河口の南側、ブラジル
12/17 フォークランド諸島のジェイソン島(Jason Islands)望見
12/18 ポート・エグモント(Port Egmont)着、フォークランド諸島サンダース島(Saunders Island)
士官が上陸、飲料水を確認、廃墟桟橋近くの小川で、ワイルド・セロリ(Wild Celery)とユーロピアン・スカービー・グラス(European Scurvy Grass)は抗スコルベット剤(Anti Scorbutic:抗壊血病薬)のため収穫して船に積込み。桟橋近くに携帯型天文台を設置、クロノメーターを調整、場所確認の天文学的観測で士官が残留、三角測量の測量場所マークを港の周囲に設置
12/20 乗組員に上陸を許可すると、火の不始末で泥炭の山が大火事・生態系を破壊損傷
ルイス・ニーが植物標本を採集、ネイティブ・パンジー(Native Pansy)、イエロー・バイオレット(Yellow Violet)、スカービー・グラス(Scurvy Grass)、アロー・リーブド・マリーゴールド(Arrow-leaved Marigold)など新種6発見、ホセ・ギオが写生
12/24 ポート・エグモント出帆
南アメリカ海岸を調査・地図作成、植物標本の収集、現地人を調査
1790
--?-- ホーン岬、回航
--?-- チロエ島着、チリのロス・ラゴス州
--?-- タルカワノ島(Talcahuano)着、ビオビオ州
--?-- コンセプシオン着、コンセプシオン州
--?-- ファン・フェルナンデス諸島のプエルト・サンカルロス着、バルパライソ州
--?-- サンフェリックス島(San Felix)着、バルパライソ州デスベントゥラダス諸島
03/17 バルパライソ着、チリ
--?-- サンチャゴ着、チリ・首都州サンティアゴ県
05/21 カヤオ着、ペルー・リマ、4ヵ月滞在
--?-- リマ・ペルー副王と会談
10月 グアヤキル着、エクアドル、10月のほとんどを此処で過ごす
11/16 パナマ着、パナマ
--?-- レアーレホ着、ニカラグア
悪天候続きでアカプルコに到着するのに2ヵ月以上かかる
1791
1月 両船アカプルコ着、メキシコ
首都メキシコシティを陸路で訪問、ニュースペイン副王と会談
04/21 ベテラン将校2人がスペインからアカプルコに到着・遠征航海に参加
重力を決定する観測を行うための特別な振り子(Pendulum)を持参
--?-- アカプルコでスペインからの命令2通を受領
(1)1588年ロレンゾ・マルドナド発見の北緯60度で太平洋に開く海峡「北西航路」探索命令
(2)バンクーバー島北西海岸ヌトカ湾のヌトカ危機後の調査命令
05/01 アカプルコ出帆
05/08 天候の急激な変化で嵐を避難
航海中は規律を維持するため脱走と欠勤という2つの問題へ柔軟に対処
清潔とユージオメーターの測定実験の両方について話し合い、乗組員の健康への懸念に対処
05/10 ボートを降ろし、大砲の訓練、水夫の訓練を繰り返し、規律を維持
武器を積み込み、取扱い方法を訓練
05/17 敵対的なインディアンから水夫を保護するため部隊編成を見直し、訓練を繰り返す
05/19 通常、北への航海で遭遇するあらゆる種類の伝染病を予防する目的で、船の3回掃除を命じ、
換気させ、水夫の衣服を洗濯させるなど、船上で最善の予防措置を講じる
05/20 避難港を出帆、アラスカ南部海岸スペイン基地シトカ北方のポート・モルグレイブ(Port Mulgrave, Yakutat Bay, Alaska、現ヤクタット湾)から北西海岸へ向かう
5/20、5/22、6/3、6/9に再び船上でのユージオメーターの測定値と継続的な清掃について話し合い。スリア医師は艦長が命じた継続的な行動が乗組員の健康を維持するのに効果的であると常に積極的に述べて、乗組員の健康を維持するための艦長の努力を認め感謝
05/21 両船が会合、次の会合の場所をポートモルグレイブに変更
05/22 、23、医師と科学者がユージオメーター実験、結果は良好
05/23 両船が臨時に会合、デェスキュビエータ号の壊れたクロノメーターを修理
05/29 武器の取扱いを確実にする訓練実施
05/30 「キリスト昇天祭」休日に乗組員へワインを許可
05/31 医師と科学者がユージオメーターを実験
上陸時の戦いに備えて、武器(銃と大砲)訓練実施
06/03 、6/9、医師と科学者がユージオメーター実験、結果は良好
06/23 陸地を目撃
06/24 北西航路の探索でカナダのフェアウェザー山(Mt Fairweather, 3,961m)を望見
06/26 アラスカ南海岸のヤクタット湾(Yakutat Bay, Alaska)に到着
06/27 ヤクタット湾からポート・モルグレイブ(Port Mulgrave)への進入路を発見
ポート・モルグレイブに停泊、上陸して7/5まで滞在(2ヵ月?)
ヤクタット湾は北緯約60度で、氷に遮られた湾口を見つけ、北西航路を探索
ヤクタット湾でトリンギット族と接触、民俗学者が部族を研究して社会的慣習・言語・経済・戦い方法・埋葬慣行の情報を記録。カルデロが部族達の肖像画とトリンギットの日常生活を絵に記録。ルイス・ニーが数多くの新植物を収集。ヤクタット湾とアイシー湾の間の氷河は、後にマラスピナ棚氷(Malaspina Glacier)と命名される
07/03 北西航路を調査するも航路は無く
入江をプエルト・デ・デセンガノ(Puerto de Desengano、幻滅の港)と命名
07/05 現地人から飲料水と薪を入手して、ヤクタット湾を出帆
--?-- プリンス・ウィリアム・サウンド(Prince William Sound)着
プリンス・ウィリアム・サウンド西のアラスカ海岸を詳細調査
08/12 ヌトカ湾ヌトカ・サウンド(現ワシントン州バンクバー島)着
バンクバー島のスペインの小さな前哨基地フレンドリーコーブの施設に停泊
08/13 乗組員へワインを許可
ヌトカ危機(Nootka Incident、1789/5/5-1790/10/28)余波で現地人と対立するも解消して
現地人ヌトカ族と友好をきずき、調査・研究、ヌトカ湾付近の地図作成
天文班が天文観測と振り子観測のために上陸
科学者が先住民の習慣を観察・植物標本を収集・周辺の内水を調査・クロノメーターを調整
ヌトカ湾で1ヵ月を過ごし、ヌトカ族を研究
夏、鞭打ち刑無しで過ごす
09/03 ヌトカ湾フレンドリーコーブ出帆
09/12 モントレー(Monterey)着、米カリフォルニア州、船の修理
サンブラスの海軍施設に連絡して、物資を入手
10/19 アカプルコ着、2か月の滞在
--?-- メキシコのメキシコシティのニュースペイン副王へ使者を派遣
--?-- フアンデフーカ海峡とジョージア海峡の北西航路調査にスクーナー船2隻BCを派遣
12/20 アカプルコ出帆、太平洋横断へ
1792
--?-- グアム
フィリピン中部のさまざまな島々に寄港
03/26 マニラ沖に停泊、8ヵ月以上停泊
--?-- ブスタマンテはマニラのポルトガル人入植地へ
--?-- 科学者たちはルソン島を調査のため遠征行へ
--?-- 両船はルソン島の西海岸を調査後、10日間の休憩
--?-- アトレビダ号を中国マカオへ派遣
06/23 アントニオ・ピネダが植物調査旅行からマニラ帰着後に疲労と栄養失調で病没
11/15 マニラ沖出帆
ニュージーランド南島南西端のダスキーサウンド(1773クック帰航)で重力観測へ向かう
--?-- 嵐で変更
--?-- バウザ島ダウトフル・サウンド(Doubtful Sound, Bauza Island)着
ニュージーランド南島南西端フィヨルド調査
--?-- ポートジャクソン、オーストラリアのニューサウスウェールズ東海岸へ向かう
1793
4月 シドニーコーブ着、豪ポートジャックソン湾
英犯罪有罪判決者の入植地で暖かく歓迎され、1ヵ月滞在
サダウス・ヘンケバンクス卿へ調査を報告
--?-- ポートジャクソン湾出帆
5月 トンガ北端にあるヴァヴァウ諸島で10日間過ごす
--?-- ヴァヴァウ着、トンガ北の群島、1ヵ月滞在
太平洋を横断
7/23 カヤオ着、ペルー
沖の錨泊地に両艦は約3ヵ月間滞在
--?-- サダウス・ヘンケは植物調査で、陸路ブエノスアイレスに向かうため、ボリビアのコチャバンバへ向かう、ヘンケは1794秋に再び艦隊に加わる計画なるも実現せず
--?-- タルカフアンコ、チリ南部のフィヨルド、マッピング
11月 タルカワノに滞在、チリ
--?-- タルカワノで両艦が別れる
デェスキュビエータ号はフォークランド諸島バークレーサウンドのプエルト・デ・ラ・ソレダッドへ向かう、両艦が会合後そこでのスペイン人の入植について報告
--?-- タルカワノ出帆、フォークランド諸島ポートエグモントに向かい、さらなる重力実験へ
タルカフアンコ付近のチリ南部フィヨルドをマッピング
--?-- ホーン岬、回航
1794
--?-- フォークランド諸島着、ポートエグモントへ向かう
01/02 ポートエグモント着
アザラシ漁(オイルと皮)でフォークランド諸島にいる多くのアメリカ船と出会う
到着すると、乗組員の多くは非常に衰弱しており、海岸でのレクリエーションとリラクゼーションで軽減できることを望み、乗組員が食事をしたり避難したりできる上陸場所として停泊地近くに日よけ小屋を建設。壊血病対策で野生のセロリを集め、釣り組は大量の「タラ」(おそらくフォークランド諸島のボラ)を捕獲して食事を改善し、乗組員の健康状態は徐々に改善
重力実験のため、振り子実験で可能な限り最高の精度を達成するように、偏西風にさらされにくい前の場所から約400ヤード離れた港の端に天文台を作る、クロノメーターを調整
01/09 ポートエグモントで、米マーキュリー号の小スクーナー船の救助要請で食料を提供
(Brig Mercury:Providence, Rhode Island, Cpt. William Barnet, 80t)
マーキュリー号はウェストポイント島沖で14ヵ月間停泊していた
01/20 ポートエグモント出帆
朝、正午までに港の入り口から離れ、レックリーフとポートエグモントケイズの間を通過
この停泊地を調査し、重力観測
パタゴニア海岸を調査
2/14 パタゴニア海岸のサンタエレナ着
2/16 プエルト・デ・ラ・ソレダッドのスペイン人入植地からデェスキュビエータ号が帰着
艦長ブスタマンテが乗船・会談
--?-- モンテビデオ着、ラプラタ沖停泊
--?-- フランスとの戦争が勃発、フランス革命戦争第一次対仏大同盟
4ヵ月間ラプラタ沖に留まる
--?-- スペインに戻る商船団に加わる
--?-- トリニダード
09/21 カディスに帰着、5年2ヵ月(62ヵ月)の航海を完遂
1795
03/24 リアルアルマダ艦隊准将(Real Armada Fleet-Brigadier)に昇進
11/24 初代大臣のマヌエル・ゴドイにファウルされ、
ラコルーニャ港のカスティージョ・デ・サンアントンで逮捕・投獄される
1807
03/15 スペインに二度と足を踏み入れないことに同意して釈放される
1810
04/09 イタリア北部の小さな町ポントレモリの出身地からそう遠くない場所にて55才で亡くなる。

こちらで
ファン・デ・フーカ船長 (伝説のアニアン海峡を発見?)
アニアン海峡 (大西洋と太平洋を繋ぐ幻の天然運河)
セルバンテス (ドン・キホーテの作者)
アルマダ (スペイン無敵艦隊)
世界遺産の
ピラミッドエジプト
パルテノン神殿ギリシャ
姫路城 (日本
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和 R.3/1/20 (2021)

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