Spain 国連 1988 発行 |
切手で綴る 冒険大航海 (Adventure Voyage)
アレッサンドロ・マラスピナ艦長
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大航海物語 スペイン編★ |
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序 章・世界一周・科学遠征隊・アトレビダ号・乗組員・ユジオメタ・航海日誌 |
R. ARGENTINA マラスピナ船長 アルゼンチン 1992 発行 |
コルベット艦アトレビーダ号 | |
R. ARGENTINA アルゼンチン 1992 発行 |
ESPANA スペイン 1964 発行 |
マラスピナ科学遠征隊の大航海
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ヌトカ・サウンド (Nootka Sound) | |
1778 クック船長ヌトカ砂洲発見200年記念 1978 カナダ 1978 発行 |
スペイン 1976 発行 |
カナダの現地人集落 カナダ 1971 発行 |
カナダ太平洋岸の現地人 カナダ 1974 発行 |
イタリア生まれのマラスピナ提督は、1786〜1788年の間に世界一周航海をなし、1789〜1794年には太平洋を横断する科学探検隊(マラスピナ遠征隊)をひきいて、北西航路の探索で南北アメリカの海岸を調査して地図を作成しました。1795年に提督に昇進するも、翌年に反逆罪で階級を剥奪されて逮捕され、1802年まで投獄され、スペインを追放されて故郷イタリアのムラッツォに戻り、流行中の黄熱病の検疫を組織したりなど故郷に貢献しました。1807年に病に倒れ、3年後に治療の甲斐もなく55才で亡くなりました。 |
提督アレッサンドロ・マラスピナ艦長 Admiral Captain Alessandro Malaspina (1754/11/5〜1810/4/9) リアルアルマダ艦隊准将(Real Armada Fleet-Brigadier, 1795/3/24-1796/4/20) ▼生い立ちの記 アレッサンドロ・マラスピナ艦長は、イタリアの小さなパルマ公国(Duchy of Parma, 1545-1802)領主マラスピナ侯爵(Carlo Morello, Marquis of Malaspina)の三男としてムラッツォ(Mulazzo, Massa and Carraraag Province, Tuscany region, Italy:現イタリア共和国トスカーナ州マッサ・カッラーラ県ムラッツォ村)で生まれました。その後、パルマ公国は神聖ローマ帝国(Holy Roman Empire, 800/962-1806)のトスカーナ大公国(Grand Duchy of Tuscany, 1569-1860)の一部になりました。 マラスピナ船長は、1765〜1773年の間ローマのクレメンタイン大学(Collegio Clementino)で学び、1773年にマルタ騎士団に入り、マルタ島に約1年間住み、そこで帆走(Sailing)の基本を学びました。 マラスピナ船長は1774年にスペイン海軍に少尉候補生(グアルディアマリーナ:スGuardiamarina、英Midshipman)で入隊しました。1774〜1786年の間には多くの海戦に従軍して、次々と昇進しました。それは、1775/1月にフリゲート艦サンタテレサ号(Frigate Santa Teresa, 20-guns)に乗組み、モロッコ人に包囲されたメリリャを救済する遠征航海に従軍し、准尉(アルフェレス:Alferezde Fragata、英Warrant Officer)に昇進。1775/7月にアルジェリアのアルジェ包囲(Invasion of Algiers, 1775/7/8)に従軍して、1776年に少尉(Alferezde Navio、英3rd Lieutenant)に昇進。
1783/3月〜1784/7月の間、中佐(Second-in-Command)でフリゲート艦アスンシオン号(Frigate Asuncion)に乗組み、フィリピンへ航海しました。フィリピンへの彼の最初の航海と同様に、ルートは往復とも喜望峰を回遊しました。1785年、スペインに戻ってブリガンティン船ヴィーヴォ号(Brigantine Vivo)に乗組み、スペイン沿岸の水路調査と地図作成に従事しました。同年、カディスのガーディアマリナス中佐(Lieutenant of the Company of the Guardiamarinas of Cadiz)に任命され、カディスのガーディアマリナス会社(Guardiamarinas of Cadiz Co.)の幹部に登用されました。 ◆マラスピナ艦長の大航海:〜 (1)世界一周航海(西回り)、1786/9/15〜1788/5/18 ・フリゲート艦アストレア号(Frigate Astrea, 26-guns) 1786〜1788の間に王立フィリピン会社(Royal Philippines Co.)の依頼で、フリゲート艦アストレア号で世界一周航海しました。スペインを出帆、ホーン岬を回って、1787/2月にチリのコンセプシオンに寄港。そこで、1786/3月にラ・ペルーズ遠征隊がコンセプシオンを訪れた時に、太平洋の遠征航海の話を聞いていた陸軍々事総督(Military Governor)の初代オソルノ侯爵アンブロジオ・ベルナルド・オ’ヒギンス(Ambrosio Bernardo O'Higgins, 1st Marquess of Osorno, 1720頃-1801、アイルランド生)と会談して、スペインもフランスのラ・ペルーズ船長とイギリスのクック船長が率いるものと同様の太平洋への遠征隊を組織することを勧められました。その後に喜望峰を回って1788年にスペインに帰港しました。 スペインに戻った後、マラスピナ船長は太平洋岸北西部遠征航海の提案を作成して、1788/9/10にスペインの海洋大臣に提出、1ヵ月後にカルロス3世(Charles III of Spain, 在位1735-1759)によって承認されました。それは、ロシアが北太平洋へのムロフスキー遠征(Mulovsky expedition)を準備しているというニュースが伝わり、スペインが主張していたヌトカ湾周辺の領土主張(太平洋岸北西部)ともあいまって、マラスピナの提案が迅速に受け入れられ、1788/10/14に太平洋探検航海「マラスピナ科学遠征航海計画」が決定されました。 ※(注)ムロフスキー遠征は露土戦争(Russo-Turkish War, 1787-1792)の勃発で実現しませんでした。 (2)太平洋探検航海、1789-1794(マラスピナ科学遠征隊航海) ・コルベット艦アトレビーダ号 艦長:アレッサンドロ・マラスピナ大佐 ・コルベット艦デェスキュビエータ号 艦長:ホセ・デ・ブスタマンテ・イ・ゲラ 大佐 マラスピナ科学遠征航海隊は、遠征隊のために同時に建造されたアトレビーダ号とデェスキュビエータ号の両艦で、1789〜1794年に太平洋を横断する科学探検航海を行い、南北アメリカの海岸を探索して地図を作成しました。その航海で、スペインからホーン岬をへて、アメリカの西海岸からアラスカのアラスカ湾に向かい、ヌトカ紛争の余波で太平洋岸北西部に対するスペインの主張を強化するのに貢献しました。北西航路の探索では航路を発見できずバンクーバー島西岸ヌトカ・サウンドなどを調査。太平洋を横断してグアムとフィリピンを調査。その後、探検と外交偵察を行い、中国も調査し、ニュージーランド、オーストラリア、トンガなどに寄港しました。 ・マラスピナ遠征隊の大航海:〜 1789年夏にカディスを出発、カナリア諸島に停泊してウルグアイのモンテビデオに向かいました。1790年、南アメリカの海岸を地図に描き、植物学と先住民の文化を研究し、ホーン岬を回航して太平洋へ出ました。1791年の冬、メキシコのアカプルコに到着して修理しました。夏を過ごして北西海岸に向かいアラスカ湾に立ち寄り、ヌトカのスペイン入植地に滞在して北西航路を調査し、アカプルコに戻りました。1792年に再びアカプルコを出発し、太平洋を横断してスペイン領フィリピンへ向かいました。その後、ペルーのカヤオに戻る前に、ニュージーランドとオーストラリアだけでなく、複数の島々を訪れました。1793年、ティエラデルフエゴを経由して帰路につき、フォークランド諸島やトリニダードなどのさまざまな島に立ち寄りました。遠征隊はついに1794年に政治的混乱と保守的な新君主治世中のスペインに帰着しました。遠征隊は5年以上海で過ごし、スペインによる唯一の真の科学的遠征航海を完了しました。 遠征隊は1794/9/21にカディスに帰港しました。マラスピナは直ぐに遠征航海記を出版するために大量の資料を整理して、編集作業に取り掛かりました。12月、マラスピナはカルロス4世(Charles IV of Spain、在位1788-1808)とマヌエル・デ・ゴドイ首相(Manuel de Godoy y Alvarez de Faria、1767-在任1792-1797&1801-1808-1851)と会談しました。最初はすべてが順調で、1795/3/24に海軍のリアルアルマダ艦隊准将(Fleet-Brigadier)に昇進しました。 ▼政治的論争と亡命 スペイン植民地の政治情勢を調査したマラスピナは、スペインが植民地を解放し、国際貿易に拘束される国家連合を形成することを提案しました。1795/9月、彼はそのような提案でスペイン政府に影響を与えようとしはじめました。残念ながら、マラスピナは航海前に宮廷で受けていた支援を失い、フランス革命の影響もあり、政治情勢はとても変わりました。マラスピナはゴドイ首相にだまされて、ゴドイ暗殺の陰謀の一味として、1795/11/23に国家に対する陰謀の罪で逮捕されました。1796/4/20の裁判の後、カルロス4世はマラスピナの階級を剥奪し、ガリシアのラ・コルーニャにある孤立したサンアントン要塞(Fortress of San Anton, La Coruna, Galicia)に投獄することを命じました。マラスピナは1796年から1802年まで刑務所に留置されました。投獄中、彼は美学、経済学、文芸批評などのトピックに関するさまざまなエッセイを書きました。政治家で知人のフランチェスコ・デリルを通して、ナポレオンはマラスピナの解放のために助力しました。1802年の終わりにようやく解放されましたが、スペインから追放され、故郷のムラッツォに向けて出発。1803/3月にジェノヴァ港で下船してムラッツォに向かい、ムラッツォ近くのポントレモリ(Pontremoli., Mulazzo, Genoa port)に定住しました。 ▼その後 それまでに短命のエトルリア王国(Kingdom of Etruria, 1801-1807)の一部のポントレモリにいたマラスピナは、1803/12月のリボルノでの黄熱病流行中に、ナポレオン・イタリア共和国(Kingdom of Italia, 1805-1814)とエトルリア王国の間で検疫を組織しました。1805年にイタリア王国々務院の「顧問監査役」の称号を授与されました。1806/12月に宮殿でエトルリア女王に謁見しました。その後まもなく、アドメスティカートの称号でフィレンツェのコロンバン協会に招聘されました。 1807年に不治の病にかかり、1810/4/9にポントレモリにて55才で亡くなりました。 ・コルベット艦アトレビーダ号の装備:〜: Corbeta Atrevida、1789
(Malaspina Expedition Crew) @コルベット艦アトレビーダ号 (大胆号:Corvette Atrevida) ・艦長:アレッサンドロ・マラスピ大佐 (Colonel Alessandro Malaspina, 1754-1810) Aコルベット艦デェスキュビエータ号 (発見号:Corvette Descubierta)、@と同型艦 ・艦長:ホセ・デ・ブスタマンテ・イ・ゲラ大佐 (Colonel Jose de Bustamante y Guerra, 1759-1825) ・アントニオ・デ・トヴァ・イ・アレドンド大尉、天文学者・地図製作者、@副艦長、1793A副艦長 (1st Lieutenant Antonio de Tova y Arredondo, 1760-1825)一等航海士 (First Mate) カンタブリア州アソンアグエラ県アレドンド郡リヴァデルエスガ生、カンタブリア州ラレド没 (Riva de Ruesga, Arredondo, Ason-Agueera, Cantabria, Spain)Laredo, Cantabria ・ピロト・フアン・デ・インシアテ少尉 (Junior Officer Piloto Juan de Inciarte)@乗組 ・ディオニシオ・アルカラ・ガリアーノ中尉 (Lieutenant Dionisio Alcala Galiano, 1762-1805コルドバ生)@航海士 水路学・天文学・地図作成に従事、1805年トラファルガーの戦い没 1792夏(?)、ガリアーノはスクーナーBスーチル号(Schooner Sutil)で バルデスはスクーナーCメキシカーナ号(Schooner Mexicana)で ファン・デ・フーカの北西航路(アニアン海峡)探索に バンクーバー島を一周航海して、北西航路が存在しないことを証明 途中でバンクーバー船長と出会い協力 ・ケイターノ・バルデス・イ・フローレス・バザン中尉 (Lieutenant Cayetano Valdes y Flores Bazan, 1767-1835)A航海士 セヴィリア生・カディスで提督(Captain General of Cadiz)没 ・ルイス・ニー (Botanist Luis Nee, 1735-1807) フランス生まれのスペインの植物学者・薬剤師で、薬用植物とその応用家 ・アントニオ・ピネダ (Botanist Antonio Pineda, 1751-1792)海兵隊中尉除隊、植物学者 ヘンケとルイス・ニーなど博物学チームのリーダー、グアテマラシティ生・フィリピン没 ・サダウス・ヘンケ (Botanist Thaddeus Xaverius Peregrinus Haenke, 1761-1816)植物学者、チェコのフンボルト ボヘミアのクライビッツ村(現チェコ共和国フジブスカー)生・ボリビアのコチャバンバ毒殺没 ・トーマス・デ・スリア (Tomas de Suria、1761スペイン生-1835メキシコ没)A医師・彫刻家 ・マヌエル・アントニオ・ホセ・カルデロ、当初Aキャビンボーイ (Artist Manuel Jose Antonio Cardero, 1766-1811頃)画家、Cでバンクーバー島一周航海に同行 アンダルシア州セビリア県エシハ(Ecijs)生 ・ホセ・ギオ (Artist Jose Guio)科学的な絵の画家、航海中健康不良 ・フェルナンド・ブランビラ (Painter Ferdinando Brambilla, 1763-1834)画家(Lombard, Cassano d'Adda, Italy) イタリア・ロンバルディア州ミラノ県カッサーノ・ダッダ生、イタリア没 ・シリアコ・ゼヴァロス (Aastronomer Ciriaco Zevallos)天文学者 ・ホセ・エスピノサ・イ・テッロ (Aastronomer Jose Espinosa y Tello)天文学者 ・ホセ・デル・ポゾ (Artist Jose del Pozo、1757頃セヴィリア生-1821頃リマ没)画家、1790カヤオ下船ペルー在住 ※ロレンゾ・フェレール・マルドナド (Lorenzo Ferrer Maldonado、スペイン生-1625没)冒険航海家 1601年フェリペ3世に、1588年北西航路(アニアン海峡)を 東から西に航海したとする文書を提出 ※フランチェスコ・メルツィ・デリル (Francesco Melzi d'Eril, 1753-1816)政治家 ナポレオン・イタリア共和国 (Reino de Italia, 1805-1814)建設時に、フランチェスコ副大統領候補が マラスピナに共和国のアドリア海沿岸の検査・防疫線の設置などを委託。 遠征隊は1794/9/21にカディスに帰港して、マラスピナは直ぐに出版するために大量の資料を整理して、編集作業に取り掛かりましたが、スペインで政府を転覆させるための陰謀へのマラスピナの関与の嫌疑で逮捕・投獄。そして最終的には追放になり、遠征航海で集められた資料のほとんどは片付けられ、20世紀後半まで再び光を見ることはありませんでした。マラスピナの遠征に関連する広範な資料のほとんど全てが今もマドリッド海事博物館に収蔵・保管されています。 ・ユージオメーター (Eudiometer) ユージオメーターは、物理的または化学的変化に続くガス混合物の体積の変化を測定する実験装置で、水の電気分解により生じる酸素および水素の容積を測定し、電気量を求める装置。目盛り付きガラス管の一端を閉じて白金電極を封入したもの。水(みず)電量計。発生した気体の体積を求めるために教育用の目的で使われることが多いもの。1791年、マラスピナ遠征隊の科学者たちは、空気が悪いと病気を引き起こす可能性があると考えていたため、乗組員の健康を維持するためにユージオメーター実験を実施しました。実験結果は、良好な空気が95%以上で、例外は保管されていた食料が煙を発していたスチュワードの部屋が悪い空気に汚染されていただけでした。 参考HP:〜 ・マラスピナ遠征隊の航海地図(1789-1794) ・アラスカ湾の地図(Sitka有) ・プリンス・ウィリアム・サウンドの場所地図 ・ヤクタット湾の場所地図(アラスカ湾の奥) ・アラスカの地図 ・ヌトカ・サウンドの地図(カナダ・バンクーバー島西) ・プリンスオブウェールス島の場所地図(カナダ) ・リオ・デ・ラ・プラタの場所地図(アルゼンチン) ・チリの州別地図
こちらで ・ファン・デ・フーカ船長 (伝説のアニアン海峡を発見?) ・アニアン海峡 (大西洋と太平洋を繋ぐ幻の天然運河) ・セルバンテス (ドン・キホーテの作者) ・アルマダ (スペイン無敵艦隊) 世界遺産の ・ピラミッド (エジプト) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・姫路城 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和 R.3/1/20 (2021) |