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★イタリア | マテオ・リッチ 1582〜1610 マカオから中国へ行き布教 |
大航海物語★ |
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票郵国民華中 マテーオ・リッチと アストロラーペ 、万里の長城 マテーオ・リッチ到着 450年 記念 中華民国 1983/4/3 発行 |
マテーオ・リッチ(利瑪竇)はイタリア出身のイエズス会宣教師で、同会最初の中国伝道者。ゴア・マカオを経て、1583年中国に入り、1601年、北京に滞在を許されました。明の高官、徐光啓と協力して、宣教と西洋の諸学問の伝授に活躍。北京で亡くなりました。 |
マテーオ・リッチ Matteo Ricci (1552/10/6〜1610/5/11) リッチは中国名=利瑪竇(Li Mdou りまとう)といい、イタリア人イエズス会員・カトリック教会の司祭でした。イタリアのパパル(Papal )州マチェラータ(Macerata)で生れ、ローマのイエズス会神学校で神学と法律を学びました。1577年イエズス会に入会後インドでの宣教を志して、1578年に26才でポルトガルのリスボン港から出帆し、彼の旅が始まりました。同年8月ポルトガル領のゴア港に上陸しました。4年後中国への旅へ出帆し、1582年マカオ港に上陸しました。マカオで中国宣教団の一員となるべく、中国語と中国文化を学びました。中国南部の都市を転々としながら、順応政策(アジア人を野蛮人と見てヨーロッパ式を押し付けるのでなく、現地の文化を尊重するという姿勢)にしたがって、中国の儒者の服を着て中国式の生活をしながら中国文化の研究に励みましだ。やがて彼の学識、特に科学知識が有名になるにしたがって、徐々にキリスト教改宗者が増え1598年、北京(Beijing)にたどりつきましたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592-1593文禄の役,1597-1598慶長の役)のあおりを受けて南京へ移りました。1601年に再び北京入りして高級官吏の紹介を受けて、万暦帝(Wanli Emperor 1563-1620)の宮廷に入ることに成功しました。 リッチは順応政策を実践し、中国名を利瑪竇と名乗り、ラテン語デウス(神)の漢語訳として「天帝」を用いました。また、キリスト教を真に中国文化と適応させるため、中国人の祖先崇拝(儒教など)の習慣を受け入れました。これが後に典礼論争として論議を生み、結果的に中国におけるキリスト教の禁止にいたることになりました。 リッチはフランシスコ・サビエルが志し半ば倒れた(1552)後を受けて、中国の布教に苦労のすえ成功し、明朝宮廷において活躍。中国にヨーロッパの最新技術(自動巻きの柱時計(?)や世界地図など)を伝えると共に、ヨーロッパに中国文化を紹介し、東西文化の架け橋となりました。中国で、キリスト教の教えを説いた「天主実義」(1595年)、世界地図である「坤輿万国全図」(1602年)、ユークリッド幾何学の中国語訳である『幾何原本』(1607年)などを刊行し、その文化に多大な影響を与えるとともに、中国文化をヨーロッパ社会へ好意的に紹介し続けました。当時、ヨーロッパの大学では、オラーレと呼ばれる口答試問が主流でしたが、リッチらの伝えた中国の科挙制度が筆記試験を普及させていく契機になったともいわれています。また、『坤輿万国全図』が日本に伝わっていることからもわかるように、彼のもたらした新知識の多くは漢語に訳されたおかげで、日本へも影響を与えることになりました。 中国文化に精通し、人格者であったリッチは中国知識階級に影響を及ぼし、『農政全書』を著した徐光啓や李之藻といった多くの知識人がキリスト教徒となりました。彼は北京にて1610年に58才で亡くなり、万暦帝によってその墓が作られ、その後ゴアに葬られました。彼の業績と順応政策はアダム・シャール(湯若望)、フェルナンド・フェルビースト(南懐仁)、ヨアキム・ブーヴェ(白進)、ジュゼッペ・カスティリオーネ(郎世寧)といった明・清の皇帝たちに仕えたイエズス会宣教師たちに引き継がれていきました。 アメリカ合衆国の雑誌「ライフ」は第二千年紀(1000-1999)の最も偉大な百人の一人としてマテオ ・リッチを選んでいます。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 |
「坤輿万国全図」 1602 マテオ・リッチの古地図・中国へ |
マテーオ・リッチ Matteo Ricci (1552/10/6〜1610/5/11) リッチは中国名=利瑪竇(Li Mdou りまとう)といい、イタリア人イエズス会員・カトリック教会の司祭でした。イタリアのパパル(Papal )州マチェラータ(Macerata)で生れ、ローマのイエズス会神学校で神学と法律を学びました。1577年イエズス会に入会後インドでの宣教を志して、1578年に26才でポルトガルのリスボン港から出帆し、彼の旅が始まりました。同年8月ポルトガル領のゴア港に上陸しました。4年後中国への旅へ出帆し、1582年マカオ港に上陸しました。マカオで中国宣教団の一員となるべく、中国語と中国文化を学びました。中国南部の都市を転々としながら、順応政策(アジア人を野蛮人と見てヨーロッパ式を押し付けるのでなく、現地の文化を尊重するという姿勢)にしたがって、中国の儒者の服を着て中国式の生活をしながら中国文化の研究に励みましだ。やがて彼の学識、特に科学知識が有名になるにしたがって、徐々にキリスト教改宗者が増え1598年、北京(Beijing)にたどりつきましたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592-1593文禄の役,1597-1598慶長の役)のあおりを受けて南京へ移りました。1601年に再び北京入りして高級官吏の紹介を受けて、万暦帝(Wanli Emperor 1563-1620)の宮廷に入ることに成功しました。 |