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★オランダ | タスマン 1642 タスマニア島発見 |
大航海物語★ |
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NORFOLK ISLAND | NEW ZEALAND | |
タスマン海 ← オーストラリア 大陸南東部と ニュージランド との間の海域 |
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1642〜43年の航海図 ノーフォーク島 1994 発行 |
タスマンの肖像とニュージランド西岸、 乗船へ−ムスケルク号 1642 ニュージランド発見300年記念 1942 ニュージランド 1942 発行 |
船乗り”タスマン”はオランダ東インド会社の命で太平洋の探検航海をなし、地球儀上の残された部分「テラ・アウストラリス」を探検し1642年タスマニア島を発見しました。 |
アベル・ヤンスゾーン・タスマン (1603〜1659) Abel Janszoon Tasman オランダの航海者・探検家で、オランダのフローニンゲン(Groningen)近くの寒村リュティエガスト(Lutjegast)で生まれました。1633年30才でオランダ東インド会社の船長となり、東インド地域におけるオランダの新貿易植民地の首府バタビア(現インドネシアのジャカルタ)に渡り、そこに住みつきました。当時は南方大陸の存在が考えられていたのに、新大陸から太平洋を横断して来たスペインの船乗り達は、それを発見できませんでした。1611年以降に喜望峰を回ってジャワ島へ向かうオランダ船が”嵐の南緯40度線”で東に押し流され、しばしば南の陸地”テラ・アウストラリス”(Terra Australis)の海岸線に接近することがありました。それでバタビア(Batavia)当局は、この”南の陸地”が通商上の意義があるかどうかを調べることにし、1642年に総督ファン・ディーメンはタスマン船長を隊長とする探検隊の派遣を決定しました。 1642年8月へームスケルク号(Heemskerck、60t)とセーハーン号(Zeehaen、100t)とに110人の乗組員と18ヵ月分の物資を用意してバタビアを出帆しました。モーリシャス島から南緯44度を東に向けて航海し、1642/11/24にはオーストラリア南東方でタスマニア島(Tasmania)を発見し、マッカリー・ハーバーの北方で当時のオランダ東インド総督の名にちなんでファン・ディーメンス・ランド(Van Diemen's Land、1856年以降はタスマニア)と命名しました。その後タスマン海を横断し東航して12/13にニュ−ジランド南島の西海岸に達し上陸して、そこをスターテンランド(Staten Land)と命名しました。12/18には黄金湾でマオリ族に襲撃されました。さらにニュージランド北島の西海岸を北上し、バタビアへ帰るためにトンガ方面へと探検航海を続けました。 参考HP〜 ・フローニンゲンの場所地図 |
タスマン 1643 ”フイジー島”のリーフで座礁、上陸 |
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フイジー諸島の地図 | ||
フィジー 1935-55 発行 |
フィジー 1977 発行 |
←リーフ ←ヴァヌアレブ島 Vanua Levu ←ビティレブ島 Viti Levu |
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タスマンは、さらに幻の南方大陸(Great Southern Continent)を求めての探検航海を続け、トンガへは1643/1/21に到着しました。そしてフィジー諸島を通過している時に、フィジー諸島最北端にある珊瑚礁のリーフの暗礁に船が乗り上げて座礁しまたが、なんとか北部のヴァヌア・レヴァ島(Vanua Levu)にたどりつき上陸して船を修理した後に、ニューギニア方面へと航海を続け、ビスマーク諸島などを発見。ニューギニア北岸を通過して、1643/6/15に10ヵ月の航海の後にバタビアへと帰港しました。 なお、タスマンはオーストラリア大陸を一周したものの、海岸線を正確に地図に記入することが出来るほど接近した訳ではありませんでした。 |
トンガへ航海 1644 |
REPUBLIQUE DE DJIBOUTI タスマン船長 ジブチ 2010 発行 |
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1644年にはトンガ諸島に基地を設営するために派遣され、トレス海峡を通過する航路の発見が出来ず南下して、ヨーク岬半島から南回帰線のヴィレム川に至る”ニューオランダ”(オーストラリア)の北西海岸線を調査しました。6ヶ月に渡る航海の後、バタビアに帰港した彼は指令官に昇進しました。タスマンは「地球儀上の残された部分」を発見しましたが「不毛な土地と原始的な生活をする住民」に関する報告を聞いた上官達は失望し、その後ヨーロッパ人は一世紀以上に渡って、ニューオランダへの植民にはほとんど関心を示しませんでした。 1647年にはシャム王への使節団長を勤めました。1648年から49年にかけての対スペイン戦争に際して艦隊の指揮を誤ったために評判を落とし船員達の不満をかって、東インド会社を解雇されました。その後は裕福な商人としてバタビアで暮らし56才で同地で亡くなりました。 参考HP〜 ・タスマンの航海地図。 |
タスマンの大航海 1642〜1643 ”オーストラリア大陸一周航海” |
CISKEI タスマンの航海地図 シスカイ 1993/5/19 発行 |
AUSTRALIA タスマンとヘームスケルグ号 オーストラリア 1963-65 発行 |
Australia オーストラリア地図上に現在の国旗を描く オーストラリア 1981 発行 |
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NEDERLAND | |||
オーストラリアの地図 | オーストラリアの航海地図 1642 1642 タスマンの航海350年記念 1992 オランダ 1992 発行 (200%) |
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ノーザンテリトリー(北部準州) | |||
ウェストオーストラリア→ |
←クィーンズランド ←ニューサウスウェールス ←タスマニア ファン・ディーメンス・ランド |
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サウスオーストラリア州、 ヴィクトリア州 . | |||
オーストラリア100年記念 オランダ 1988/8/30 発行 |
1642/11/24にはオーストラリア南東方でタスマニア島(Tasmania)を発見し、島の西部でジュークス山(Mount Jukes 1,104m)のあるマッカリー港(Macquarie Harbour)の北方で、当時のオランダ東インド総督の名にちなんでファン・ディーメンス・ランド(Van Diemen's Land)と命名しました。1856年にイギリスの植民地となって、以降は「タスマニア」と改名されました。 参考:〜 ・タスマニア島 Tasmania Island オーストラリア南東沖合いに有る島で、周辺の島々を含めてオーストラリアのタスマニア州を構成しています。島の面積は64400平方キロメートル。1642年にオランダ人のタスマンが来航してファン・デ・イーメンスランドと命名。1798年にイギリスの探検家フリンダース船長及びG.バス船長が島であることを確認しました。1820年代からタスマニア島と呼ばれてきました。北海道より少し小さめ(約8割)の島 参考HP:〜タスマニア島の地図 ・タスマン海 Tasman Sea オーストラリア大陸南東部とニュージランドとの間の海域。面積約230万平方キロ、最大水深5257m。東オーストラリア海流(暖流)が流れ、沿岸の気候に影響しています。「ほえる40度線」と呼ばれる暴風地帯にあたり、両国を結ぶ海底電信線が1876年に施設されています。海域中のロード・ハウ島はさんご礁の南限。1642年に来航したタスマンにちなみ1890年に命名されました。海域中のノーフォーク島より北は珊瑚海になります。 参考HP:〜タスマニア海の地図 |
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・タスマン湾 Tasman Bay ニュージランド南島北部にある湾入部で、北へ向けて開口し、東部はデビル島で限られ、西部はセパレート・ポイントでゴールデン湾と分けられています。1642年12月オランダの航海者タスマンが来航し、彼にちなんで名付けられています。湾奥には港湾都市ネルソンが有ります。 参考HP:〜タスマニア湾の地図 |
・タスマン氷河 Tasman Glacier ニュ−ジランド南島、サザン・アルプスの主峰クック山(3764m)と第2の高山タスマニヤ山(3498m)との間にある氷河。ニュージランドにおける最大の谷氷河です。全長29キロ、最大幅9キロ。サザン・アルプスでは年間降水量が約7000ミリにも及び、緯度が比較的低(南緯43度)山もそれほど高くないのに、氷河が良く発達。面積約157平方キロ、末端高度718m。 |
ニュージランド 1992/6 発行 TASMAN GLACIER タスマン氷河 |
・上記々述はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/12/12追記、12/7/26 |