Chile 国連 1984 発行 |
切手で綴る 絶海の孤島(Lonly Island) No.9
世界遺産(チリ)1995年、登録 イースター島 Special territory of Chile |
大航海物語 世界遺産編★ |
CHILE イースター島 チリ 2001/6/25 発行 |
U N イースター島モアイ像 国連の世界遺産シリーズ(切手帳)より 国連NY 2007 発行 |
CORREOS DE CHRILE モアイ像 チリ 1965-69 発行 |
POLYNESIA FRANCAISE マオリ族 と イースター島 マオリ族移住者の定住地シリーズ ポリネシア 1990 発行 |
REPUBLIQUE DE TCHAD イースター島モアイ像 チャドの世界遺産シリーズ チャド 2000 発行 |
イースター島 Easter Island 別名:パスクア島(Isla de Pascua) 現地ラパ・ヌイ語名:ラパ・ヌイ(Rapa Nui) 面積:163.6ku(北海道利尻島とほぼ同じ)、人口:3,791人(2005年)、通貨:ペソ。 イースター島はチリ領の太平洋上にある火山島。現地語名はラパ・ヌイ(ラパ・ヌイ語:Rapa Nui)。正式名はパスクア島(スペイン語:Isla de Pascua)で、"Pascua"は復活祭(イースター)を意味する。 モアイ(Moai Statue)の建つ島として有名。ポリネシア・トライアングルの東端に当たる。チリの首都であるサンティアゴから西へ3,700km、タヒチから東へ4,000kmの太平洋上に有、周囲には殆ど島らしい島が存在しない絶海の孤島である。「ラパ・ヌイ」とはポリネシア系の先住民の言葉で「広い大地」という意味。先住民のポリネシア人が4世紀頃から、同じポリネシアのマルケサス諸島から渡ってきた人が、イースター島に暮らすようになったといわれている。1995年に世界遺産登録。 1722年にオランダの海軍提督ヤコブ・ロッヘフェーン(Jacob Roggeveen、1659-1729)が発見。発見した日がイースター(Easter Sunday)であったため「イースター島」と名前が付いたといわれている。1774年にイギリス人探検家のジェームス・クックが上陸。クックの上陸当時は島のモアイの半数ほどがまだ直立していたという。なお、伝承では1840年に最後のモアイが倒されたとされる。 18世紀から19世紀にかけて、住民らが奴隷として連れ出されたり、ヨーロッパ人などにより外部から持ち込まれた天然痘が猛威を振るったりした結果、島の人口はさらに激減し、先住民は絶滅寸前まで追い込まれた。1872年当時の島民数は、僅か111人であった。1888年にチリ領になり現在に至る。 ・モアイ像 (Moai Statue)
モアイは比較的加工しやすい素材である凝灰岩を、玄武岩や黒曜石で作った石斧で製作されたと考えられており、デザインも時代につれ変化した。第1期は人の姿に近いもので下半身も作られており、第2期は下半身がなく細長い手を腹の辺りで組んでいる。第3期は、頭上に赤色凝灰石で作られた、プカオ(ラパヌイ語で髭あるいは髪飾り)と呼ばれる飾りものが乗せてある。第4期になって、いわゆる一般にモアイといって想像する形態(全体的に長い顔、狭い額、長い鼻、くぼんだ眼窩、伸びた耳、尖った顎、一文字の口など)を備えるようになった。18世紀になって西欧人が訪れるまで、島には銅器や鉄器の存在は確認されていない。当時作られたモアイや墳墓、石碑といった、考古学的に極めて重要な遺跡が数多く残されているが、この時期までが先史社会と考えてよく、ラパヌイ社会はこのあとヨーロッパ人の到達などで転換期をむかえる。 よく、モアイは「海を背に立っている」と言われているが、海沿いのものは海を背に、内陸部のものは海を向いているものもあり、正確には集落を守るように立てられている。祭壇の上に建てられたものの中で最大のものは、高さ7.8m、重さ80屯にもなる。 西洋人により立っている像が最後に記録されたのは1838年で、1868年の記録には立っている像はなくなっていた。1840年頃にすべての像が倒されてしまったという口承がある。この倒された像の一部は、20世紀以降に考古学者や地元の人の手によっておこされた。現在はおよそ40体の像が復元されている。 香川県高松市に本社を置く株式会社タダノが、1992年からクレーンなどをイースター島に持ち込んで、島南部のアフ・トンガリキ(Ahu Tongariki)にある15体の像の復元・修復などを行い、使用後のクレーンなどをイースター島に寄贈している。これはTBSの「日立 世界・ふしぎ発見」で1988年の秋にイースター島を特集した時、「クレーンがあれば、モアイを元通りにできるのに」という知事の声を放送したところ、解答者である黒柳徹子が「日本の企業が助けてあげればいいのに」という内容の発言をし、それをタダノの社員が見ており、社長が話に乗ったのがきっかけである。クレーンの運搬にはチリ海軍の協力を得ている。費用も全額タダノが出費している。 それは、島の東端にある島最大の遺跡アフ・トンガリキ(アフの長さ100m)の上には、高さ5mを超える15体のモアイが立ち並んでいるが、これも1994年に周辺に倒れていた15体の像を、考古学者のクラウディオ・クリスティーノが日本のクレーンメーカー・タダノの協力を得て、55屯の重量に耐えるクレーンを使って立て直したものである。 過去には、島にはもともと、巨大な像を作って動かす技術や知識がなく、モアイは南米からやって来た人々の力で建てられたという説が有力だった。しかし島民の遺骨のDNAには、島外起源の遺伝情報は見つかっていない。最近の研究により、モアイは島民が自力で建設し、移動させたことがわかっている。考古学者のヘイエルダール博士が現地住人の協力を得て行った実験では、横倒しにした像を木の「ころ」に乗せ、大勢が縄で引っ張り設置場所まで移送させ、木の棒と大小の石を積むことで立たせるという方法で、当時の人口・技術力でも運搬が可能であったことを証明している。 島民の入植から17世紀までの間、モアイは作られ続けたが、18世紀以降は作られなくなり、その後は破壊されていった。平和の中でのモアイ作りは突然終息する。モアイを作り、運び、建てるためには大量の木材が必要で、伐採によって森が失われた。ジャレド・ダイアモンド(Jared Mason Diamond, 1937-、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)社会科学部地理学科の教授)らは、こうした人為的な自然破壊が究極的にイースター島文明の崩壊を呼んだとする説を述べている。それによれば、人口爆発(僅か数10年の間に4〜5倍に膨れ上がり、1〜2万人に達したという)と共に森林破壊が進んだ結果、肥えた土が海に流出し、土地が痩せ衰えて深刻な食糧不足に陥り、耕作地域や漁場を巡って部族間に武力闘争が生じた。モアイは目に霊力(マナ)が宿ると考えられていたため、相手の部族を攻撃する場合、守り神であるモアイをうつ伏せに倒し、目の部分を粉々に破壊した。その後もこの「モアイ倒し戦争」は50年ほど続き、森林伐採は結果として家屋やカヌーなどのインフラストラクチャー整備を不可能にし、ヨーロッパ人が到達したときは島民の生活は石器時代とほとんど変わらないものになっていた。 ただし異説もあり、テリー・ハントは、まず、森を破壊した主因はネズミによる食害だとしている。天敵が居ない環境にネズミが持ち込まれると、その急激な繁殖に伴って森林が破壊され、これを駆除すると森林が再生する様子は太平洋の他の島々の歴史上でも見られて来た。イースター島でも発掘された植物の種子の多くにネズミにかじられた跡が見られた。文明の崩壊についても、そもそもイースター島の人口が1万5千人以上などに達した証拠はなく、森林破壊が進んだ状態でも人口は安定的に推移しており、最終的に崩壊をもたらしたのは自然破壊ではなく西洋人との接触だと唱えている。イースター島民の人口が減ったのは、ヨーロッパ人による奴隷狩りが原因である可能性が高まっている。苛烈な奴隷狩りにより、島民の人口は100人前後まで減り、やがて疫病(天然痘など)の流行で絶滅したとされる。 ・ヨーロッパ人到達後 1722年の復活祭(イースター)の夜、オランダ海軍のヤーコプ・ロッヘフェーン提督が、南太平洋上に浮かぶ小さな島を発見する。発見した日にちなみ島名が付けられたとされている。この島に上陸したロッヘフェーン提督は、1,000体を超えるモアイと、その前で火を焚き地に頭を着けて祈りを捧げる島民の姿を目の当たりにする。1774年には、イギリス人探検家のジェームズ・クック船長も上陸しているが、倒れ壊されたモアイ像の数々を目にしたものの、半数ほどはまだ直立していたと伝えている。そして山肌には作りかけのモアイ像が、まるで作業を急に止めてしまったかのように放置されていた。伝承では1840年頃に最後のモアイが倒されたとされる。 18〜19世紀にかけてペルー副王領政府の依頼を受けたアイルランド人のジョセフ・バーンや、タヒチのフランス人の手によって、島民が奴隷として連れ出された。1862年に襲ったペルー人による奴隷狩りでは、数ヵ月間内に当時の島民の半数に当たる約1,500人が島外に拉致された。また外部から持ち込まれた天然痘や結核が猛威を振るった結果、人口は更に激減し島民は絶滅寸前まで追い込まれ、1872年当時ではわずか111人であった。この過程でロンゴロンゴ文字を初めとする文化伝承は断絶した。1888年にチリ領になり現在に至るが、1937年に軍艦建造の財源捻出目的で、サラ・イ・ゴメス島とともに売却が検討され、日本に対して打診があった。日本は主に漁業基地としての有用性を認めたが、在チリ国公使の三宅哲一郎がアルトゥーロ・アレッサンドリ・パルマ大統領と面会したところ、アメリカ合衆国及びイギリスにも売却が打診されているとの説明がなされたため、しばらく静観するのが得策であるとの意見が出されている。独立運動も起こったとされている。 ・新説 巨大石像のモアイ像で知られる最果ての孤島イースター島では、かつてこの島に住んでいた先住民が、内部の抗争や天然資源の枯渇で自らの社会を自滅させたというのが長年の定説だった。だがその定説とは全く異なる説が、2018年の学術誌に発表された。石像の製作に使われた石器を調べた結果、同島の先住民は高度かつ協調的な社会を形成していたことが分かったとしている。論文の筆頭筆者でオーストラリア・クイーンズランド大学の研究者デール・シンプソン氏は「イースター島の競争と崩壊に関する説は誇張だった可能性がある」と述べ「石像彫刻産業は、家庭や工芸団体の間の協力関係を裏付ける確固たる証拠」だと指摘。 イースター島は南米のチリから約3,700kmの距離にある。ポリネシア系の先住民は、900年ほど前に現地の言葉でラパ・ヌイと呼ばれるこの島にたどり着いた。やがて島の人口は数千人に膨れ上がり、ラパ・ヌイの重要な祖先を表すモアイ像を建造した。像は1,000体近く存在していたが、多くは時の経過とともに地中に埋まった。像の高さは最も大きいもので、20mを超す。その大きさや数の多さは、複雑で高度な社会が形成されていた証しだとシンプソン氏は解説。「古代のラパ・ヌイには首長や聖職者、漁業や農業、モアイ製造のギルドがあった。1,000体近い像をつくるためには一定レベルの高度な組織が必要だった」と指摘する。 研究チームは近年発掘された像4体と、像の製作に使われた火山岩の玄武岩石器について詳しく調べた。発掘作業では1,600個ほどの石器が見つかり、このうち17個の断片については化学分析や質量分析を行った。その結果、石像の製作に使われた石器は、ほとんどが1ヵ所の採石場から採取した石でつくられていたことが分かった(Dale Simpson Jr/University of Queensland)。「誰もが1種類のみの石を使うためには協力しなければならない。これほど大きな成功の理由は、彼らが協力して働いたことにあった」とシンプソン氏は語る。 この説は、住民が天然資源を使い果たし、互いの抗争によって滅びたというこれまでの説とは矛盾する。「遠く離れた絶海の孤島のイースター島は、多くの謎に満ちている。しかし島には昔も今も、多大な交流が存在する」。「ラパ・ヌイには今も数千人の人たちがいる。その社会は滅びていない」とシンプソン氏は話している。 参考HP:〜 ・イースター島の地図 ・イースター島の場所地図 (Rapa Nui) こちらで ・スパイス (香辛料) ・ヌビア遺跡 (エジプト)世界遺産 ・パルテノン神殿 (ギリシャ)世界遺産 ・法隆寺 (日本)世界遺産 をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2008/11/11、 2017/9/9、令和 R.2/3/30 (2020) |