Spain 国連 1988 発行 |
E S P A N A (V) 切手で綴る スペインの大航海 (Conquist Voyage) コンキスタドール 16世紀、Conquistador 新世界のスペイン人征服者 |
大航海物語 スペイン編★ |
PANAMA 新世界へ航海するスペインの船隊 パナマ 1968/5/7 発行 |
ECUADOR 南アメリカの地図 エクアドル 1961/2/27 発行 |
ノンブレデディオス→ パナマシティ→ サンタマルタ→ サンミゲル→ ツマコ→ |
矢印→ペルラス諸島 |
←トリニダード島 |
サンタマリ・ラ・アンチグゥア・デル・ダリエン 1510、サン・セバスチャン・デ・ウラバー 1509 |
1492年コロンブスの新世界発見以来、スペインからドット大勢の人々が新世界へと船出して、大西洋を越えて新世界を征服しました。中には貧乏貴族の失業軍人や食い詰め者やならず者などがいて、新世界で乱暴狼藉を働き、現地人から金銀財宝や食糧などを奪い取り、絶滅に追いやり、また一攫千金の夢が破れて母国に帰ることもなく、新世界の露と消えた者もいましたが、彼らは征服者 「コンキスタドール」と呼ばれました。 |
・無名のスペイン新世界征服者コンキスタドール列伝:〜16世紀 | ||||
アギーレ | アルカンタラ | アルマグロ2世 | アルヴァラード | アンダゴヤ |
アルヴァレス | ボバディージャ | F カルヴァハ−ル | I カルバハ−ル | カストロ総督 |
センターノ | ディエゴ・コロン | ダヴィラ総督 | エンシソ | エスピノザ |
フェダーマン | ギロン | グリハルヴァ | ルーケ | メンデス |
モリーナ | メンドーサ副王 | ナルヴァエス | ニクエサ | テハーダ |
オルガネス | エルナンド・ピサロ | フワン・ピサロ | ペドロ・ピサロ | リオス |
ロハス | ルイス | サラヴィア総督 | テハーダ | ヴェラ副王 |
ヴェラスケス | . | . | . | . |
・各地の総督列伝:〜 ティエラフィルメ総督、ダリエン総督、パナマ総督、ペルー総督・副王 |
・ロペ・ド・アギーレ (1510頃〜1561/10/27) Lope de Aguirre ナバラ王国バスク生、ベネズエラのララ州々都バルキシメト51才頃没 (near Arantzazu, Onati, Araotz Valley, Gipuzkoa province, Basque region, Spain) (1510/11/8〜1561/10/27, 説有) アギーレはスペイン北部バスク地方にあったナバラ王国(Reino de Navarra, 824-1512、後カスティーリャ・アラゴン連合王国)現ギプスコア県で周囲を山に囲まれたデバ川(Deba River)のアラオツ谷盆地オニャーティ(Onati, Araotz Valley, Gipuzkoa)のアラントゥザス聖地(Arantzazu)近郷で生まれました。20才の時にスペイン南部の都市アンダルシア州セビリア県のグアダルキビール川(Guadalquivir, 657km)で大西洋に繋がっている港湾都市セビリア(Sevilla, Reino de Castile)に住んでいたアギーレは、新世界から戻ってきたピサロの話を聞いて、一攫千金を夢見てピサロのペルー遠征に参加しました。1536年頃にペルーに到着。クスコで馬の調教責任者になりました。1544年にヴェラ副王軍に加わりました。1544年にパナマのサン・ロレンゾ島(San Lorenzo Island)に幽閉されていたヴェラ副王の脱獄に聴訴官アルヴァレスとメルチョール・ヴェルデュゴ(Melchor Verdugo)と共に加わって、副王を自由の身にしました。ヴェラ副王はゴンサロ・ピサロに反撃するも、1546/1/18にヴェラ副王がゴンサロ・ピサロ軍のカラバハール将軍とアニャキートの戦いで敗戦して戦傷後に斬首されると、アギーレはヴェルデュゴと33人でトルヒーリョ(Trujillo, Peru)から出帆して、ニカラグアへ逃亡しました。ヴェルデュゴはロドリゴ・ド・エスキヴァル(Rodrigo de Esquivel)とヌーノ・ド・グスマン(Nuno de Guzman, 1490-1558)を大佐に、アギーレを下士官の曹長(sergeant major)に、ヘナオ(P. Henao)を士官(コンタドール:Contador)にしたので不満を持ちました。1554年エルナデス・ギロンの反乱で、アルバラードが味方する兵士には恩赦を与える募集をしたので、アルバラード軍に加わって、ペルー南部アヤクーチョ州チュキンガの戦い(Battle of Chuquinga, Ayacucho)でギロン軍と戦い、重傷を負って足を引きずるようになって仲間から見放され、追放されました。1559年アギーレとヘナオは「アマゾンの奥地に黄金郷・エルドラード(El Dorado)があるという伝説」を信じて、パナマに居たペドロ・ド・ウルスア(Pedro de Ursua 1526(ナバラのバスダン:Baztan生)-1561)の「エルドラードを求める」アマゾン熱帯雨林(Rainforest)探検隊のオマグア(Omagua)遠征に参加しました。
・1972年制作のドイツ映画〜 「アギーレ、神の怒り」(Aguirre, der Zorn Gottes、英:Aguirre, the Wrath of God) 1560年にスペインからの探検隊がキトーからアンデス山にわけ行って、ゴンサロ・ピサロ 指揮で、彼らは伝説の都市エル・ドラードの発見に向かったというもの: YouTube:- Aguirre, la ira de dios: ”http://www.youtube.com/watch?v=pVrD-jfpRzU&feature=related”。 ・1987制作のスペイン映画〜 エル・ドラード(El Dorado)、カルロス・サウラ監督(Carlos Saura, 1932- )。 参考HP:〜 ・アマゾン河水系の地図 (南米の地図、Lima、Napo・Maranon・Ucayali・Amazon、Orinoco川有) ・フランシスコ・マルティン・ド・アルカンタラ (1500〜1541) Francisco Martin de Alcantara カスティーリャ王国エストレマドゥーラ州トルヒージョ生、リマ41才没 マルティン・ド・アルカンタラはスペインのエストレマドゥーラ州カセレス県トルヒージョ村(Trujillo Villa, Provincia de Caceres, Extremadura Region. Reino de Castile(1035-1715)カスティーリャ王国)生れで、ゴンサロ・ピサロの異母兄(half-brothers)でした。1530年にフランシスコ・ピサロがインカ遠征の勅許を得るため一時帰国して参加者を募集したのに応募。ピサロ3兄弟と共に新世界へ渡航して、フランシスコ・ピサロのインカ征服に参加。インカ征服後はペルーのリマ(Lima)の壮大なピサロ屋敷に妻と共に住んで、フランシスコ・ピサロと1534年に与えられていたインカお姫様の夫人との間にできた子供達の教育係をしていました。ピサロ夫人はワイナ・カパックの娘でアタワルパの姉妹キスペ・シサ(Quispe Sisa, 1518-1559)、洗礼名イネス・ワイラス・ユパンキ(Ines Huaylas Yupanqui)でした。1541/6/26にリマの屋敷がエル・モゾとアルマグロの残党に襲撃された時、アルカンタラはフランシスコ・ピサロと共に殺害されて亡くなりました。 ・ディエゴ・ド・アルマグロ2世 (1520〜1542/9/16) Diego de Almagro II 別名:エル・モゾ(El Mozo) パナマ生、クスコ41才没 エル・モゾは父アルマグロ1世とパナマ現地人の娘との間に誕生した息子で、パナマで生まれました。1531年に父のペルー遠征に参加。1532/11/16のカハマルカの戦いにて、僅かスペイン兵
・アロンゾ・ド・アルヴァラード・モンタヤ・ゴンザレス・ド・セヴァロス・イ・ミランダ Alonso de Alvarado Montaya Gonzalez de Cevallos y Miranda (1500〜1556) カスティーリャ王国エストレマドゥーラ州バダホス生、リマ56才没 アロンゾ・ド・アルヴァラードはスペインのエストレマドゥーラ地方バダホス(Badajoz, Extremadura, Spain)の下級貴族の家に生まれ、サンティアゴ騎士団騎士(knight of the Order of Santiago)で、レコンキスタと呼ばれる国土回復戦争を戦い、戦争が終わると大西洋を渡ってペドロ・ド・アルバラードのキューバ島征服、ユカタン半島探索隊へ参加し、1518年にエルナン・コルテスの遠征隊に合流して参加後、フランシスコ・ピサロのインカ征服に参加しました。インカ征服後に、 1536年マンコ2世の反乱サクサイワマンの戦いでのリマ攻撃で、リマに籠城。 1537年アルマグロとのアバンカイの戦いでのリマ攻撃で、リマに籠城。 1538年アルマグロとのラスサリナスの戦いで、アルマグロ軍と対戦。 1542年エル・モゾとのチュパスの戦い、アルマグロ2世軍と対戦。 1548年エル・モゾとのサクサワナの戦いで、アルマグロ2世軍と対戦。 1556年にリマ(Lima)で亡くなりました。 ・ファン・アロンゾ・アルヴァレス聴訴官 (生年不詳〜1546) oidor Juan Alonso Alvarez カスティーリャ王国ヴァリャドリード生、キトー没 ペルー副王領リマの最高裁判所アウディエンシアの聴訴官 アルヴァレス聴訴官はスペインのカスティーリャ・イ・レオン州ヴァリャドリード県ヴァリャドリード市(Valladolid city, Valladolid province, Castilla y Leon region)で生まれたと伝えられています。 1543年ペルー副王領(Virreinato del Peru)のアウディエンシア(Real Audiencia de Lima、王立大審問院(聴訴院)最高裁判所)の最初の聴訴官(oidor)4人の一人として、テハーダ、セペダ(Diego Vasquez de Cepeda)らと共にヴェラ副王の遠征艦隊で新世界に渡航しました。ダリエン湾東方のティアラフィルメ(Tierra Firme)から、パナマのノンブレデディオス(Nombre de Dios)を経て、ペルーのリマに到着しました。1544/9/13にリマで起こったイリャン・ド・カルバハール刺殺事件の目撃者になりました。それはリマの副王宮殿で、ヴェラ副王の側近だったカルバハールが新法反対派を擁護する発言をなし、副王の怒りに触れて副王に剣で刺殺された事件でした。1544年ゴンサロ・ピサロとパナマの王立大審問院アウディエンシアがベラ副王を解任して、パナマを経て本国強制送還のため、1544/9/18にパナマのサン・ロレンゾ島(San Lorenzo Island)に幽閉しました。1544/9/24にサン・ロレンゾ島をスペインへと出帆後、アルヴァレス聴訴官が船長を金貨8.000ドゥカート(ducados)で懐柔して副王派となし、ベラ副王を助けました。こうして脱走に成功したベラ副王はその船でトゥンペスに向かい、エクアドルに本拠を構え反撃体制に入りました。1546/1/18のアニャキートの戦いではヴェラ副王軍と共に参戦するも、敗れて副王は重傷を負って捕虜となり、その後に斬首されました。アルヴァレス聴訴官は戦斧で頭を打たれて3ヵ所の傷を負いましたが、一命はとりとめました。戦後にキトーで夕食に招待され、何の疑いもなく出席して食べた食事に毒がもられていて、痛みに苦しんだ挙句に亡くなり、何の栄誉も与えられずにひっそりとキトーで葬られたと伝えられています。 ・パスクアレ・ド・アンダゴヤ (1495〜1548/7/18) Pascual de Andagoya ナバラ王国バスク生、クスコ53才没 パスクアレ・ド・アンダゴヤはスペインのバスク地方(Spanish Basque)アラバ県 (Province of Alava)にあったナバラ王国(824-1620)のカルタゴ谷のアンダゴヤ村(village of Andagoya, valley of Cuartango (Alava), Spain)で生まれました。1514/4/11に19才でペドラリアス・ダヴィラの船隊22隻に2,000人が乗船した遠征隊に参加して中央アメリカの新世界へ渡航しました。
・フランシスコ・ド・ボバディージャ総督 (生年不詳〜1502/7/11) Francisco de Bobadilla アラゴン王国アラゴン生、モナ海峡没 インディアス総督(Governor of the Indies、1499-1502) フランシスコ・ド・ボバディージャはアラゴン王国(Kingdom of Aragon, 1035-1715)で生れ、スペインで初めて設立された戦闘騎士団カラトラヴァ騎士団(Orden de Calatrava)の騎士になりました。1499年にスペインの新領土の西インド諸島の第2代総督(在任1499-1502)として、カトリック両王
・フランシスコ・ド・カルヴァハ−ル (1464〜1548/4/10) Francisco de Carvajal カスティーリャ王国サラマンカ生、クスコ84才没 フランシスコ・ド・カルヴァハ−ルはスペイン西部のカスティーリャ・イ・レオン州サラマンカ県リャガマ村(Ragama, Provincia de Salamanca, Castilla y Leon)で生れました。カスティリア歩兵軍で国王カルロス1世のイタリア戦線で戦い、1527年には騎兵士官になってローマの反乱でローマに突撃・勝利して、金銀財宝の分け前に預かって蓄財しました。その資金で、1535年にヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)副王アントニオ・ド・メンドーサ(Antonio de Mendoza)が赴任する船隊に参加して、新設されたペルーのリマ市に渡航しました。そして、1536/5月にインカ軍の包囲攻撃をフランシスコ・ピサロと共に戦い、勝利。1541/6/26にピサロ屋敷の襲撃でピサロが暗殺され、1542/9/16のチュパスの戦いで、ゴンサロ・ピサロ軍と共にアルマグロ2世軍と激突・勝利。ゴンサロの腹心として行を共にして、その猛将の勇猛な戦い振りは敵を圧倒して撃退・勝利。アルマグロ2世は捕虜となり、リマ市の広場で斬首されました。ペルーでの内戦が終わると、今度はペルー副王との戦いが起って、1546/1/18にアニャキートの戦いでヴェラ副王軍が敗北、ヴェラ副王は戦傷後に斬首。その後、キトーからカハマルカ州サン・ミゲル(San Miguel, Cajamarca)、リマ(Lima)からグアマンガ(Guamanga)、そしてリマに戻ってアヤクーチョ州ルカナス(Lucanas, Ayacucho)からクスコ、プーノ州カヤオ(Collao, Puno)からアレキパ州アレキパ(Arequipa)、アレキパからボリビアのポトシ州チャラカス(Charcas)へと転戦しました。1547/3月にギアリーナの戦いでは、両軍がハキハグアナで対戦ゴンサロ軍の敗戦。勝利したラ・ガスカ軍はクスコへ入城し、ゴンサロと残党はアルト・ペルー方面に退散。1547/10/20にワリーナの戦いでラ・ガスカ副王軍とゴンサロ軍が戦い、数で劣るゴンサロ軍が巧みな戦術で勝利。1548/4/9にサクサワナの戦いでゴンサロ軍がペルー副王ラ・ガスカに敗北。捕らえられてゴンサロと共にクスコで処刑されました。 ・イリャン・ド・カルバハール (1503〜1544/9/13) Illan Suarez de Carbajal カスティーリャ王国タラベラ生、リマ41才没 イリャン・ド・カルバハールはフアン・スアレス(Juan Suarez de Carbajal)の弟で、スペインのカスティーリャ・ラ・マンチャ州トレド県タラベラ・デ・ラ・レイナ(Talavera de la Reina, province of Toledo, Castile-La Mancha, Spain.)で生まれました。兄フアン・スアレスと行を共にして、ピサロのインカ征服に参加したと伝えられています。1534年にはペルーでエルナンド・ピサロの大牧場の管理人になりました。1536/7/18にリマの市参事会カビルド(Cabildo colonial)議員。1544/5/17にヴェラ副王がリマに着任し、キトーで兵を集めはじめるとベラ副王の側近になりましたが、1544/9/13にリマの副王宮殿で、カルバハールが新法反対派を擁護する発言をなしたとして、副王の怒りに触れて、裏切者として副王に剣で刺殺されました。その時に宮殿に居合わせたアルヴァレス聴訴官が刺殺事件の目撃者になりました。 ・クリストバル・ヴァカ・ド・カストロ (1492〜1566) Cristobal Vaca de Castro カスティーリャ王国レオン生、ヴァリャドリード74才没 ペルー総督 (在任1541-1544) クリストバル・ド・カストロは現スペイン北部カスティーリャ・イ・レオン州レオン県々都レオン(Leon city, Leon province、Castilla y Leon region)で生まれました。カスティーリャ・イ・レオン州サラマンカ県々都サラマンカ(Salamanca)で法律を学んで、1536年に同州々都ヴァリャドリード(Valladolid)で、カスティーリャ王国の最高司法機関の王立大審問院(聴訴院=最高裁判所、Royal Audiencia of Valladolid)の判事(oidor) になり、1540/9/4にサンチャゴ騎士団(Order of Santiago)の騎士(knight)になりました。1540年にスペイン国王カルロス1世が、フランシスコ・ピサロとディエゴ・ド・アルマグロによるペルー植民地での紛争を収束させ、エンコミエンダ制度を制限するために、ヌエヴァ・カスティリャ(Nueva Castilla:新カスティリャ)総督に任命されました。1541年にキトーに着任して、1542/9/16にチュパスの戦いでカストロ総督がアルマグロ2世のエル・モゾに率いられたアルマグロ残党軍を破って勝利。エル・モゾは捕虜となり、同日に市の広場で斬首の刑で処刑されました。1542年にカストロ総督がカルロス1世が発布したエンコミエンダ制度を制限する植民地新法「インディアス新法」(New Laws, in Spanish Leyes Nuevas)を施行しました。 ・カストロ植民地総督の旅程:〜 1540/11/5、スペインのサンルーカルデパラメダ港を出帆。 1541/1月、パナマ着。しばらく滞在して植民地(Audiencia)を改革後、ペルーへと向うも 嵐でコロンビアのブエナベントーラ(Buenaventura Colombia)に上陸、1536年にスペイ ンの征服者ベラルカサール(Sebastian de Belalcazar)が創建した標高995mにあるカ リ(Cali、現:コロンビア第3の都市)へ陸路で移動後、病で3ヵ月滞在。ベラルカサー ルとパスカル・ド・アンダゴヤ(Pascual de Andagoya)の紛争を調停 その後、1537年にベラルカサールが創建した標高1,737mにあるポパヤン(Popayan) を視察して、ピサロの暗殺とエル・モゾがリマ総督なったことを知り、現地で軍を編成 1541/9/25、キトー着。 1542/9/16、チュパスの戦いでゴンサロ・ピサロ軍のフランシスコ・ド・カルヴァハールに率いられ たカストロ総督軍(Nueva Castilla)がエル・モゾに率いられたアルマグロ残党軍 (Nueva Toledo)と戦って、カストロ総督軍が勝利し、捕虜のエル・モゾを処刑 1542/11/20、カストロ植民地総督がカルロス1世が発布したエンコミエンダ制度を制限する植民 地新法の「インディアス新法」を施行 1543年、ディエゴ・ド・ロハスに兵200人を預けて、ペルーからラプラタ河の探検に送り出した遠征 時に、現アルゼンチン北部サン・ミゲル・デ・トゥクマン市の元になるトゥクマンを発見. 1544/5/17、初代ペルー福王ヴェラがリマ(Lima)に到着 1544年、福王ヴェラがカストロ総督を、ゴンサロの反乱に組みしたとして逮捕、カヤオ(El Callao) で入牢後、船でパナマに送り、スペインへ強制送還しました。 カストロ総督はスペインで3年間入牢後、解放されました。 その後、サンチャゴ騎士団のコマンドール(commander)となり、1557年からはカスティーリャ評議会(Council of Castile)の議長を務めました。1561年に引退し、ヴァリャドリードのサン・アウグスティン修道院(convent of San Agustin)で余生を送り、1566年に亡くなって、其処に葬られましました。カストロ総督はマリア夫人(Maria Magdalena de Quinones y Osorio)と結婚して、8人の子供に恵まれたと伝えられています。 ・ディエゴ・センターノ (1516〜1549/7/9) Diego Centeno カスティーリャ王国サラマンカ生、ポトシ33才没 ディエゴ・センターノはスペインのカスティーリャ・イ・レオン州サラマンカ県シウダ・ロドリーゴ市(Ciudad Rodrigo, Castilla y Leon, Provincia de Salamanca, Spain)で生れました。1535年にフェリペ・グティエレス船長(Felipe Gutierrez)の船で新世界に渡航してきて、アルバラードなどの中南米遠征(ニカラガなど)に参加。1536年20才でインカ征服後まもない頃のペルーに着きました。スペインの新しい植民地ペルーの支配をめぐって、ピサロとアルマグロの間に紛争が起り内戦に発展して、1538/4/26のラスサリナスの戦いでアルマグロ軍が敗れ、捕虜になったアルマグロが、1538/7/8に処刑されました。1541/6/26にはアルマグロ2世軍がピサロ屋敷を襲撃してピサロを殺害しました。1541/9/25にペルー内戦に対応するヴァカ・ド・カストロ総督(Nueva Castilla)がキトーに赴任してきて、1542/9/16にクスコ近くのチュパスの戦いでエル・モゾが率いるアルマグロ軍(Nueva Toledo)とカストロ総督軍が戦い、エル・モゾが敗れて処刑されました。ところが、1544年にペルー副王領が新設されて初代福王ヴェラが着任すると、カストロ総督をゴンサロに味方した
・ディエゴ・コロン・イ・モニス・ペレストレーリョ (1474頃〜1526) Diego Colon Moniz、西:Diego Colon y Moniz Perestrello、葡:Diogo Colombo ポルト・サント島生、スペイン52才頃没 インディアス提督(Second Admiral、1509-1511、1520-1524) インディアス総督(Governor of the Indies、1509-1511) インディアス副王(Viceroy of the Indies、1511-1518) ディエゴ・コロンはクリストファー・コロンブスと妻フィリパ・モニス・ペレストレーリョ(Filipa Moniz Perestrelo)の嫡男で、1479(1480)年にポルトガル領のマデイラ諸島ポルト・サント島で生まれたとも、1474年にポルトガルのリスボンで生まれたともいわれています。1526/2/23(2/26)に、スペインのラ・プエブラ・デ・モンタルバン(La Puebla de Montalban)で亡くなりました。 ・ペドラリアス・ダヴィラ総督 (1440〜1531/3/6) Pedro Arias Davila カスティーリャ王国セゴビア生、ニカラグアのレオン市91才没 ダリエン総督 (在任:1514-1526) ペドラリアス・ダヴィラはスペインのカスティーリャ・イ・レオン州セゴビア県の県都でマドリードから87kmにあるセゴビア市(Segovia)で生まれ、1485年に結婚して8人の子持ちになりました。1486〜1492年の間は軍務に服し、グラナダ王国や北アフリカの戦線で戦いました。1514年に齢い70才を過ぎてから、スペインのアラゴン国王フェルナンド2世(Ferdinand II of Aragon, 1452-在位1475:1513-1537)より、ダリエン植民地(Castilla de Oro)の初代総督(在任1514-1526)に任じられて、19隻の船隊に男1,500人と太平洋の発見者バルボアに対する査問官のエンシソとニクエサを乗船させ、エルナンド・ド・ソトも参加して新世界への遠征航海に出帆しました。1514/7月にイスパニョーラ島に到着し、74才のダヴィラ総督とイサベラ夫人(Isabel de Bobadilla)がバルボア総督(パナマ総督:在任1511-1513)のいるダリエンへ渡航。1516年にはエルナン・ド・レオンに命じて
・マルチン・フェルナンデス・ド・エンシソ (1470〜1528) Martin Fernandez de Enciso カスティーリャ王国セヴィリヤ生、58才没 フェルナンデス・ド・エンシソはスペイン南部の現アンダルシア州々都セビリア県々都セビリア市で生れました。1509年のオヘーダの航海にイスパニョーラ島サント・ドミンゴから、コロンビアを経てウラバー湾、パナマ地峡地帯(Isthmus of Darien (Panama):幅64km)の探検航海に参加した時、エンシソの船にバルボアが密航していました。その航海時に、1499年のオヘーダとコーサの探検航海で発見されたコロンビアのヴェネズエラ湾口にあるグアヒラ半島(Guajira Peninsula)にカーボ・デ・ラ・ヴェラ市(Cabo de la Vela)を”Nuestra Senora Santa Maria de los Remedios del Cabo de la Vela”と名付けてスペイン人最初の居住地を建設しましたが、度々戦火にあって再建され、1535年にはニコラス・ド・フェダーマンが再建するも、1544年には現在のリオハチャ(Riohacha)に移転しました。1510年に帰国したエンシソがバルボアの「悪業」を告発して、スペイン王室はバルボアのダリエン支配を認めませでした。その後、新世界で観察した動植物の解説書のスペイン語で書かれた最初の新世界探検の著作「スマ・デ・ゲオグラフィア」(Summa de Geografia que trata de todas las partidas e provincias del mundo)をセヴィリヤで1519年に発刊しました。その地理学発見大全(Summa de Geografia)で現地人の水上家屋の言葉から小ヴェニス(Little Venice)の意味で、後年にアメリゴ・ヴェスプッチが名付けたヴェネズエラ(Venezuela)を示唆。 参考HP:〜 カーボ・デ・ラ・ヴェラの場所地図(グアジラ半島の地図) ・ガスパル・ド・エスピノザ ( 1484〜1537/2/14) Gaspar de Espinosa and Moon カスティーリャ王国ヴァリャドリード生、クスコ59才没 ガスパル・ド・エスピノザはスペインのカスティーリャ・イ・レオン州ヴァリャドリード県ヴァリャドリード市メディナ・デ・リオ・セコ(Medina de Rio Seco, Valladolid city, Valladolid province, Castilla y Leon region)で生まれました。1514年20才でダリエン(Darien)湾岸の植民地カスティーリャ・デル・オーロ(Castilla del Oro, 1513-1537)初代総督に任命されたペドラリアス・ダヴィラ総督の遠征隊に参加して、新世界ダリエンのサンタ・マリア(Santa Maria)に渡航しました。同年(1513説有)にダリエン湾岸(Gulf of Darien)の植民地カスティーリャ・デル・オーロのヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アンチグア市長(Nuestra Senora de la Antigua)に任命されました。1年後にダヴィラ総督がパナマのダリエン市長に移動させて、バルボアの支配を目指しました。1519年にパナマ市(Panama City)の建設に参加。サンタ・マリア・ラ・アンティグア市長(Santa Maria la Antigua)に任命されました。パナマから太平洋岸を北上する探検隊を指揮して、コスタリカグアナカステ州(Provincia de Guanacaste)のニコヤ半島(Peninsula de Nicoya)東岸にあるニコヤ湾(Gulf of Nicoya)に到達・発見し、同地に上陸して征服。スペインに帰国後、直ぐに新世界イスパニョーラ島サント・ドミンゴに戻って、パナマに行きました。ピサロとアルマグロのインカ征服に資金面で参加するも、両者の戦いで成功しませんでした。1525年にモルッカ諸島探検に資金を提供し、1537年にクスコで亡くなりました。 参考HP:〜 カスティーリャ・デ・オーロの場所地図(1513頃、Santa Maria有) コスタリカの場所地図(Gulf of Nicoya有) ・ニコラス・デ・フェダーマン (1505〜1542/2) Nicolas de Federman ドイツのバーデン生、スペインのヴァリャドリード37才没 フェダーマンはドイツのバーデン・ヴュルテンベルク州南部ウルム(Ulm Baden-Wurttemberg)で生まれました。フェダーマンが23才の頃、スペイン国王カルロス1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選出されようと、ドイツのバイエルン州南西部アウクスブルクの大富豪で商人のヴェルザー家(Welser family of Augsburg,)に資金援助をしてもらって、1528/3/27に神聖ローマ帝国皇帝カール5世(Karl V, Holy Roman Emperor:在位1519/1/28選出-1556/1/16)になりました(戴冠式は1530/2)。選挙を応援したヴェルザー(Welser)家に30年間の期限付きで、1527年にスペイン人が入植して初期の植民地になっていたベネズエラの北西部一帯の開拓権をあたえました。1529/2月にヴェルザー家はアンブロシュウス・エヒンガー(Ambrosius Ehinger(アンブロシオ・フォン・アルフィンヘル:Ambrose von Alfinger), 1500-1533/5/31)を総督とし、副官ゲオルグ・デ・スペイエルと共にスペイン人入植地の現ベネズエラの北西部でカラカスの西約180kmにあるファルコン州々都コロ(Santa Ana de Coro)に派遣して内陸探検を開始し、ドイツのアメリカ植民地ケルン・ヴェネディッグ(Klein-Venedig (Little Venice:小ヴェニス) 1528-1546)が建設されました。
フェダーマンが去る(1531)と、エヒンガー総督がエルドラードを求めてベネズエラのコロからアンデスを越え、マグダレーナ河(Rio Magdalena, 1,540km)に到達。住民からザリーナ(Xerira)という豊かな地方の存在を知らされ、それは現ジェリダス(Jeridas, Colombia)高原で、当時はチブチャ王国(Chibchas:Muisca people)の北端(コロンビアのアンデス地方のボヤカ県:Departamento de Boyaca)を形成しグアネ(Guane)族が居住。1533年にエヒンガー総督は2度目の探検に出発。マグダレーナ河から逆上り、エルドラードを目指すも、現地住民の略奪と虐殺を続けた末に、1533/5/31にコロンビア北部アンデス地方のノルテ・デ・サンタンデール県(Departamento de Norte de Santander)チナコッタ(Chinacota Colombia)付近で現地人に殺害されました。1535年ホルヘ・デ・エスピラ(Jorge de Espira (独Georg von Speyer 1500-1540/6/11 コロ没:ヴェネズエラ総督在任1535-1540:独:Georg Hoemuth)がウェルザー家の総督として赴任。7年後(1542)に亡くなる迄ベネズエラの現地人から収奪を続けました。エスピラ総督はエル・ドラードの第一報告者としても有名になり、グアヤビータ湖(Lake Guatavita)付近でのインディオの神事(金粉を全身に塗る)をめぐって「エルドラード」伝説が広がりました。 1536年にフェダーマンが、度々戦火にあったスペイン人最初の居住地コロンビアのヴェネズエラ湾口にあるカーボ・デ・ラ・ヴェラ市(Cabo de la Vela)を再建(1535説有)して第2次探検の準備に取り掛かり、1537/12月にコロを出発。リャノス(Los Llanos, Venezuela)探索中に独断でエル・ドラードを求める探検の旅に切り替え、コロンビアに入ってカリブ地域北部の現ラ・グアヒーラ県(La Guajira Department)リオアチャ(Riohacha:Rio Hacha:斧の川)に、ヌエストラ・セノーラ・サンタ・マリア・デ・ロス・レメディオス・デル・カボ・デ・ラ・ベラ(Nuestra Senora Santa Maria de los Remedios del Cabo de la Vela:ラ・ベラ岬の救済の聖母マリア)という街を建設(1535説有)しました(現在のリオアチャ市)。フェダーマンがコロンビアのボゴダに到着すると、既にケサーダがボゴタを占領したところに、ベナルカサールがリマに戻って(1538/5)ピサロの許可を得てから再度コロンビアに向かい、中央山脈とマグダレーナ渓谷を横断してボゴタに到着してきていました。そこで、ベナルカサールがフェーデルマンと組んでケサーダの追放を画策するも、ケサーダから多額の財宝を受け取ったフェーデルマンが、ケサーダの支配権を認めたことから挫折しました。其処でケサーダ、ベナルカサール、フェダーマンの3者が会見し、それまでの征服地を互いの領土として尊重することにして合意しました。1539年にはキトーを失ったベナルカサールがフェダーマンと連合して、ケサーダのボゴタ支配に対する異議を唱えました。1538/8/6にケサーダが最初に建設したボタ市(Bogota, Colombia)を、1539/4/27にフェダーマンとベナルカサールが再建。フェダーマンがアンデス山脈の盆地で標高2640mにあるボゴタを原住民ムイスカ族系のバカダ族(Bachada, Muisca)からサンタ・フェ・デ・ボゴタ(Santa Fe de Bogota)と名づけました。1539/7/8にフェダーマンはジャマイカ島とキューバ島を経てドイツに戻りました。 帰国したフェダーマンは植民地開拓の失敗の責任を押し付けられて、エメラルド100,000ドゥカート(ducats, emeralds)分と黄金15,000ドゥカート(ducats, gold)分の賠償を請求されるも、払えなかったので、ベルギーのフランデレン地域アントウェルペン州の州々都アントワープ(Antwerp)の監獄に数週間ブチ込まれました。フェダーマンは最初にベルギー・フランデレン地域オースト・フランデレン州ガント(Ghent)で、次いでスペインのカスティーリャ・イ・レオン州々都ヴァリャドリード県々都ヴァリャドリード(Valladolid)のインディアス枢機会議(Council of the Indies)に訴えました。1541/10/19にフェダーマンの言い分が認められ、ヴェルザー家は請求を破棄しました。その上にフェダーマンはヴァリャドリードに住んで、コロンビのリオアチャ植民地を認められて富を得て、1542/2月にヴァリャドリードで亡くなりました。 なお、ドイツの南アメリカ植民地ケルン・ヴェネディッグは中世ヨーロッパの大富豪のヴェルザー家(Welser)で、1518年からの後継者バルトロメウス(Bartholomeus Welser 1475-1559)が有名なベネズエラ植民計画を企てるも、20年後に開拓は挫折して失敗し、1556年にはヴェルザー家の租借期限が終了して、ドイツの南米植民地は失われました。 参考HP:〜 ケルン・ヴェネディッグの場所地図(現ヴェネズエラ北部の地図) ・フランシスコ・エルナンデス・ギロン (生年不詳〜1554/12/7) Francisco Hernandez Giron カスティーリャ王国エストレマドゥーラ州カセラス生、リマ没 エルナンデス・ギロンはエストレマドゥーラ地方カセラス県カセラス(Caceres, Extremadura)で生まれました。1535年にペルーに到着。1537年にピサロ兄弟とアルマグロの内戦が勃発し、1538年にアルマグロが処刑され、ピサロがペルー総督になって、1541年にアルマグロ2世軍に暗殺されるも、どちらにも組みしませんでした。カストロ総督が、1542/9/16にチュパスの戦いでゴンサロ軍と連合してエル・モゾ(ディエゴ・ド・アルマグロ2世)に勝利して、エル・モゾを処刑しましたが、1544年にヴェラ副王が派遣されてくるとカストロ総督をスペイン本国に強制送還しましたので、ギロンはヴェラ副王軍に加わりました。1546/1/18にギロンはベラルカサールの部隊を率いてヴェラ副王に援軍として、アニャキートの戦いに参戦するも敗北して、ヴェラ副王は処刑されました。次の副王ペドロ・デ・ラ・ガスカが、1548/4/9にサクサワナの戦いでゴンサロ軍に勝利してゴンサロは処刑されました。1552/7月に暫定副王(viceroy of Peru 1552/7-1556/7、Royal Governor of Chile 1568-1575)のメルチョール・ド・サラヴィアが着任すると、ギロンは1553/11/13にサラヴィア副王の不平等な重税に対して大反乱を起こしました。1554年のペルー南部アヤクーチョ州チュキンガの戦い(Battle of Chuquinga, Ayacucho)で、アロンゾ・ド・アルバラードが率いる副王軍と戦い勝利して、副王軍のアギーレは重傷を負い、アルヴァラードはリマに逃亡しました。そして、遂にペルーの中央高地にあるフニン県プカラ(Pucara, Junin Region, Peru)でのプカラの戦い(batalla de Pucara)に負けて、1554/12/7にギロンはリマで処刑されて晒首にされました。 ・フアン・ド・グリハルヴァ (1489頃〜1527/1/21) Juan de Grijalva カスティーリャ王国クエジャル生、ホンジュラス38才頃没 フアン・ド・グリハルヴァはスペインのカスティーリャ・イ・レオン州セゴビア県クエジャル(Cuellar, Segovia province, Castilla y Leon region)で生まれました。グリハルヴァは後のキューバ総督ディエゴ・ヴェラスケスの一族だったともいわれており、1508年に大西洋を横断してイスパニョーラ島に渡航しました。1511年にはヴェラスケスのキューバ遠征に参加後、メキシコ方面を探検しました。1518/4月に4隻の船に170人(300説有)でキューバを出帆したと、コルテスが伝えています。ペドロ・ド・アルバラードの遠征隊で、キューバ島のグアニグアニコ岬(Cape Guaniguanico)に上
参考HP:〜 1518年グリハルヴァの航海地図(Rio Grijalva川有) オランチョ県の場所地図(ホンジュラスの地図) ・エルナンド・ド・ルーケ (生年不詳〜1532) Hernando de Luque カスティーリャ王国カディス生、パナマ没 エルナンド・ド・ルーケはスペイン南部アンダルシア州の南西部カディス県オリヴェラ(Olvera, Cadiz, Andalusia)で生まれたスペイン人司祭で、インカ征服前に病没しました。1514年にペドラリアス・ダヴィラ総督の船隊で新世界のパナマに渡航。同年にパナマについて、ピサロのインカ征服遠征に資金を準備して、1526年にピサロとアルマグロを送り出しました。インカ征服後の1529年にトゥンペスの司祭(Bishop of Tumbes)とインディオ保護官(Protector of the Indians)になりました。1532年にパナマで亡くなりました。 ・ディエゴ・メンデス (1472頃〜1536/12/8) Diego Mendez カスティーリャ王国サモーラ生、ヴァリャドリード64才頃没 ディエゴ・メンデスはスペインのカスティーリャ王国(Reino de Castilla, 1035-1715)現カスティーリャ・イ・レオン州サモーラ県の県都サモーラ(Zamora)で生まれ、航海士となってコロンブスの第4回航海に参加したと伝えられています。1503/2月コロンブス船長はパナマ付近で住民が金を持っていたことからベレン川近くで金鉱を発見し、ベレン川河口にサンタ・マリア・デ・ベレンと名付けた居住地を造り、バルトロメ・コロンと80人を残すも、現地人の攻撃に晒されていました。3隻で探検航海から戻ったコロンブス船長がバルトロメ達を救援して、一緒にイスパニョーラ島に向かいました。キューバ島をへて1503/6/26にジャマイカ島に達し、傷んだ2隻を放棄して岸に乗り上げ砦に使用しながら、近くの現地人集落から物々交換で116人分の食料を得ました。コロンブスはイス
・アロンソ・ド・モリーナ (1514頃〜1579) Alonso de Molina カスティーリャ王国エストレマドゥーラ州カセレス生、65才没 アロンソ・ド・モリーナはフランシスコ会士(Franciscan priest)、文献言語学者(grammarian)で、スペインのエストレマドゥーラ州カセレス県(Provincia de Caceres, Extremadura)で生まれました。1522年に8才頃メキシコに到着。アステカ帝国の征服中のメキシコで育ち、ユト・アステカ語族言語ナワトル語(Nahuatl language)を話すようになりました。1528年にメキシコ・シティの修道院でフランシスコ会に入信して、修道士になりました。ベルバルディノ・ド・サハグン神父(Bernardino de
ドン・ガルシア・ウルタード・ド・メンドーサ・イ・マンリケ (1535/7/21〜1609/5/19) Don Garcia Hurtado de Mendoza y Manrique, 5th Marquis of Canete チリ総督(Captaincy General of Chile,1541-1818)在任:1557/4-1561/2 ペルー副王(viceroy of Peru)在任:1590/1/8〜1596/7/24
・パンフィロ・ド・ナルヴァエス (1470〜1528) Panfilo de Narvaez カスティーリャ王国バリャドリード生、ミシシッピ河々口デルタ58才没 パンフィロ・ド・ナルヴァエスはスペインのカスティーリャ・イ・レオン州セゴビア県ナヴァルマンザノのバリャドリード(Valladolid y Navalmanzano, Segovia province, Castilla y Leon region)で生まれました(クエジャル (Cuellar)説有)。ディエゴ・ベラスケス総督とは縁戚に連なり、アントニオ・ド・ナルヴァエス(Antonio Velazquez de Narvaez)という征服者の甥がいました。1509年にセヴィリア生まれのフアン・ド・エスキヴェル(Juan de Esquivel、ジャマイカ1513没)のジャマイカ島征服に参加して、新世界に渡航。1512年にベラスケス総督の命でキューバ征服に参加して、フアン・ド・グリハルヴァ遠征隊でラス・カサスと共にキューバ島東端まで遠征。1514年にはグリハルヴァ遠征隊でキューバ島西部の征服を主導。1518年にエルナン・コルテスがベラスケス総督の命を聞かずにメキシコ遠征に出帆したので、1520年にベラスケス総督の命でナルヴァエスがコルテスを追ってベラクルスに上陸。その知らせを受けたコルテスが急遽ティノチチトランから駆けつけると、ナルヴァエス軍兵士の多くがコルテスに寝返りました。1520/5/24にセンポアラの戦い(Cempoala, 現ベラクルス州)でナルヴァエスと残った部隊が敗れ、ナルヴァエスは負傷して捕虜となり、2年間ベラクルス(センポアラ説有)で投獄されました。ナルバエスは解放された後、スペインに帰国。その間に欧州人が持ち込んだ天然痘が現地で流行して、多くの現地人が亡くなりました。 ・ナルヴァエスの探検航海(1527-1528) 1526/12/11にスペイン王カルロス1世がナルヴァエスを、フロリダのアデランタード(Adelantado、辺境総督)に、カベサ・ド・ヴァカを副総督に任命しました。1527/6/17にナルヴァエス遠征隊は船隊5隻に兵450人と奴隷150人で現アンダルシア州カディス県サンルーカル・デ・バラメダ港を出帆。カナリア諸島で補給後、大西洋を越えて、1527/8月にカリブ海のイスパニョーラ島サント・ドミンゴに到着。
・参考地図HP:〜 ナルヴァエスの探検航海地図(1527-1528) ・ディエゴ・ド・ニクエサ総督 (生年不詳〜1511) Diego de Nicuesa スペイン生、ダリエン沖の海で没 ディエゴ・ド・ニクエサは、1506年にコスタリカ総督(Costa Rica)を拝命するも、赴任途中の乗船がパナマ海岸沖で難破し、陸路で現地人の攻撃に出会いながら赴任地へ向かいましたが、現地人のゲリラ攻撃と熱病に悩まされて隊員の半数が死亡して、コスタリカ行きを遂に諦めてダリエン湾岸付近に滞留しました。1508年にアラゴン国王フェルディナンド2世からパナマ総督(在任1508/6-1511)として、現パナマ北部の植民地建設を命じられました。其処に、1509年にスペインを出帆したコーサが200人の移住者を乗船させた3隻とオヘーダが100人の移住者を乗船させた1隻の船隊4隻がコーサの指揮で到着しました。オヘーダと先着のニクエサ総督の間で論争が起きたので、パナマ地峡(Isthmus of Panama)にいたフランシスコ・ピサロの所へ行きました。ニクエサはオヘーダの領域を侵犯してコロンビアのカルタヘナに上陸していたので、コーサがより安全なウラバー湾の海岸に移住者を上陸させるように提案しました。上陸すると原住民の攻撃にあって、コーサは毒矢で打たれて同地で亡くなりました。1510年にニクエサ総督はダリエン植民地(Castilla de Oro)総督(在任1510-1513)兼務を命ぜられて、現パナマ北部コロン県コロンのノンブレデディオス(Nombre de Dios, Colon, Provincia de Colon)にパナマ地峡(Isthmus of Panama)で、最初のヨーロッパ人居住地を建設しました。ところが食糧不足、熱病、現地人の攻撃などで移動を余儀なくされて、バルボアが1510年に建設したダリエン(Santa Maria la Antigua del Darien)に、1511年にスペイン人移住者が移動しました。ニクエサ総督と忠実な部下17人は船でイスパニョーラ島サントドミゴに向かいましたが、行方不明となり海の藻屑となったものと推察されました。 ・ロドリゴ・オルガネス (1490〜1538/4/26) Rodrigo Orgonez スペイン生、クスコ48才没 ロドリゴ・オルガネスは軍務に服して5年後に大尉になり、アルマグロ1世と新世界に渡航してインカ征服に参加しました。1537年にアバンカイの戦いでアルマグロ軍で戦い、クスコのアマル・カンチャ宮殿(Amaru Cancha Palace)を包囲し、ゴンサロ・ピサロ軍に勝利してゴンサロとエルナンド・ピサロを捕虜にしました。1538年のラスサリナスの戦いで、再びゴンサロ軍と戦い、敗れて捕虜となり、クスコ郊外でエルナンドに処刑されて断頭台の露と消えました。 ・エルナンド・ピサロ・イ・ド・ヴァルガス (1508頃〜1578頃) Hernando Pizarro y de Vargas カスティーリャ王国トルヒーリョ生、スペイン70才没 エルナンド・ピサロはスペインのエストレマドゥーラ州カセレス県トルヒーリョ(Trujillo, province of Caceres, Extremadura region)で、父ゴンサロ・ピサロ大佐(Colonel Gonzalo Pizarro y Rodriguez de Aguilar 1446-1522)と母イサベラ(Isabel de Vargas)の嫡子で、ピサロ兄弟の一人フランシスコ・ピサロ(フアン、ゴンサロ)の異母弟として生まれました。エルナン・コルテスとは又従兄弟でした。エルナンドは他の兄弟と違って、教育を受けてスペイン王室に出仕していました。
・フワン・ピサロ・イ・アロンゾ (1500頃〜1536/7) Juan Pizarro y Alonso カスティーリャ王国トルヒーリョ生、サクサイワマン36才没 フワン・ピサロはスペインのエストレマドゥーラ州カセレス県トルヒーリョ(Trujillo, province of Caceres, Extremadura region)で、父ゴンサロ・ピサロ歩兵大佐(Colonel Gonzalo Pizarro y Rodriguez de Aguilar (senior) 1446-1522)と母マリア(Maria Alonso)の嫡子で、ピサロ兄弟の一人フランシスコ・ピサロ(フアン、エルナンド)の異母兄弟、ゴンサロとは実の兄として生まれました。1530/1月にフランシスコ・ピサロと新世界に渡航して、1532年にランシスコのインカ征服に他の兄弟達と一緒に参加しました。1533/11/15にピサロ軍とピサロの友人アルマグロ軍がインカ帝国の神聖な帝都クスコを占領してインカ帝国を征服。インカ帝国アタワルパ皇帝(Atahualpa:幸福な鶏、1502年頃-在位:1532-1533/8/29)を処刑。フランシスコがペルーの北西部海岸の探検に出かけると、フアン・ゴンサロ・エルナンドの3兄弟がクスコに残留して支配しました。1536/5/6にマンコ2世(アンコインカ・ユパンギ:Manco Inca Yupanqui 1516-1544)の蜂起・反乱が勃発して、クスコが圧倒的多数のインカ軍に包囲されて、第2次クス包囲攻撃戦で起こったクスコ近郷でのサクサイワマンの戦い(1536/7)で、フアンが一軍を率いて包囲の突破を試みた時、インカの戦士が投げつけた「投石」が頭に当って、フアン・ピサロはサクサイワマンで戦死して亡くなりました。 ・ペドロ・ピサロ (1515頃〜1602頃) Pedro Pizarro カスティーリャ王国トレド市生、アレキパ87才頃没 ペドロ・ピサロはスペイン中央部の現カスティーリャ・ラ・マンチャ州々都トレド県々都で、マドリードから南に71kmの距離にあるタホ川河畔トレド市(Toledo)で生まれました。フランシスコ・ピサロの従兄弟(first cousin)で、ゴンサロ・ピサロ、エルナンド、フアンとマルティン・ド・アルカンタラの異母兄弟(half-brothers)でした。1530/1月フランシスコと他の兄弟達と共にサンルーカスデパラメダ港を出帆、1531/1月トゥンペスに到着。1533年頃から騎兵隊を率いて殆んど全ての戦いに従軍しました。インカ帝国征服の戦いではマンコ2世との戦い(サクサイワマンの戦い(1536/5/6〜1537/3上旬)などに従軍の後、1538/11/28にフランシスコ・ピサロから土地と原住民を、インカ帝国の第4代皇帝マイタ・カパック(Mayta Qhapaq、生没年不詳、在位1290頃-1320頃)の命で造られたというインカの都市で、現ペルー南部アレキパ県々都アレキパ(Arequipa)を与えられて、1540/8/15にアレキパ市を建設(完成)しました。そしてアルマグロ軍とのペルー内乱で、ラスサリナスの戦い(1538/4/26)、ピサロ屋敷の襲撃(1541/6/26)でのフランシスコ殺害で起こったチュパスの戦い(1542/9/16)ではカストロ総督と共に戦い勝利して、アルマグロ2世を処刑しました。その後に赴任してきた副王ヴェラに対してゴンサロが反乱を起こし、ゴンサロがペドロに参加するように頼むも断りました。ゴンサロは副王ヴェラとアニャキートの戦い(1546/1/18)を戦い、ゴンサロ軍が勝利し、戦後に副王ヴェラは殺害されました。その時ペドロがゴンサロ宛て書いた「断りの手紙」(1546/12/18)が捻じ曲げられてデ・ラ・ガスカの手に渡り、ガスカがゴンサロとペドロが国王に反乱を起こしていると忠信して、ガスカが国王使節の副王となったとも伝えられています。そして新世界に送り込まれてきた副王ガスカがハキハグアナの戦い(サクサワナの戦い 1548/4/9)で、ゴンサロ反乱軍に勝利してゴンサロを処刑しました。ペドロは幸運にもアレキパに豊かな領地を持っていたので、そこへ行って暮らし余生を送りました。ペドロは2度結婚し、最初の夫人はマリア(Maria Cornejo)で、後妻の方は知られていませんが、多くの子供に恵まれたといわれています。亡くなった頃のことは定かではありません。ただ、「ペルー王国の発見と征服」(Relacion del descubrimiento y conquista de los reinos del Peru 英:Relation of the discovery and conquest of the kingdoms of Peru)の著述を、1571年に書き上げ、アレキパで87才頃に亡くなったと伝えられています。 ・ペドロ・ド・ロス・リオス・イ・グティエレズ・アグアヨ (生年不詳〜1547/10/27) Pedro de los Rios y Gutierrez de Aguayo カスティーリャ王国コルドヴァ生、ボリビアのワリーナ没 ペドロ・ド・ロス・リオスはスペイン南部アンダルシア州北部コルドバ県々都でグアダルキビール川河畔のコルドヴァ(City of Cordoba, Province of Cordoba, Andalucia Region, Kingdom of Castile)で生れました。1526/5月にダリエン植民地(Castilla de Oro)の第2代総督(在任1526/5-1529/8)を拝命し、1526/7月にパナマ市に着任して政務をとりました。その後、ニカラガ(Nicaragua)総督(在任1526-1527)となるも、間も無くホンジュラス総督のディエゴ・ド・サルセド(Diego Lopez de Salcedo y Rodriguez 1502-1530)がニカラガのレオン(Leon)に着任したので、ダリエン総督に戻りました。ダリエン総督をアントニオ・デ・ラ・ガマに引継ぎ、中央アメリカでの任務が終ると、ピサロのペルー遠征に参加しました。インカの首都クスコに着くと、スペイン人最初の居住者となって住みつきました。1536年のクスコ奪回作戦で戦い、1542年のチュパスの戦いにも参加。1547/10/27にチチカカ湖の南東近くのワリーナの戦いでゴンサロ軍と共に戦い、戦死しました。 ・ディエゴ・ド・ロハス (生年不詳〜1544) Diego de Rojas スペイン生、アルゼンチンのエステロ没 スクレ初代総督 ディエゴ・ド・ロハスはスペインのカスティーリャ・イ・レオン州ブルゴス県々都ブルゴス(Burgos city, Burgos province, Castile y Leon region)で生れたと伝えられています。1516年にイスパニョーラ島サント・ドミンゴに渡航。1522年にエルナン・コルテスのアステカ征服に参加。その後、ペドロ・ド・アルバラードのキューバ島征服、ユカタン半島探索隊へ参加して、現メキシコ(Mexico)、ガテマラ(Guatemala)、エルサルヴァドル(El Salvador)征服に同行。1536年ペルーに渡り、フランシコ・ピサロのインカ征服軍に参加。1538年から1539年の間、ペドロ・ド・アンスレスのボリビアの中央南部チュキサカ県 (Chuquisaca)スクレ(Sucre)遠征の近く、ボリビア南西部 ポトシ県チャルカス(Charcas city, Charcas province, Potosi Department, Bolivia)の征服に参加して、スクレ(Sucre:Ciudad de la Plata de la Nueva Toledo)を建設し、初代総督に就任しました。その後、ロペ・ド・アギーレのエルドラード探索で、クスコ東部の森林地帯に居住するチュンチョ族(Chuncho)地域に探検に参加。1543年にロハスはカストロ総督の命で兵200人を連れて、ペルーからラプラタ河(Rio dela Plata)探検に出発。現アルゼンチン北部ミゲル・デ・トゥクマン市(San Miguel de Tucuman)の元になるトゥクマンを建設しました。1544年に現アルゼンチンのサンティアゴ・デル・エステロ州(Santiago del Estero)エステロで、毒矢で撃たれて亡くなりました。 ・バルトロメ・ルイス (1482〜1532) Bartolome Ruiz カスティーリャ王国アンダルシア生、トゥンベス50才没 ルイスはスペイン南部アンダルシア州西部ウエルバ県モゲル(Moguer Huelva province Andalusia region)で生れました。1511年にロレンソ・ドアルダナ(Lorenzo de Aldan)の航海で、パナマの海岸に到着。1524年にフランシスコ・ピサロのインカ征服遠征航海にパイロット(Pilot:水先案内)として参加しました。ピサロの第2次ビルー探検航海ではピサロと13人はゴルゴナ島で待機するも、ルイスはピサロの命で南下の探検航海を続けました。
クェス湾(Bahia Caraques)〜トゥンペス〜チャンチャン川(Rio Chanchan)〜サン・ファン川。 ・1527年の探検航海〜 サン・ファン川〜ゴルゴナ島〜ガリョ島〜サン・マテオ湾〜ゴルゴナ島〜アタカメス〜コアケ (Coaque)〜プエルト・ヴィエホ(Puerto Viejo)〜ラ・プラタ島(Isla La Plata)〜プエルト・サンタ・ エレナ(Puerto Santa Elena)〜プンタ島(Isla Punta)〜トゥンペス〜チラ川(Rio Chira)〜サン・ ミゲル・デ・ピウラ(San Migeuel de Piura)沖〜ピウラ川(Rio Piura)〜チャンチャン(Chanchan) 〜サンタ川(Rio Santa)〜レグレソ(Regreso)〜パナマに帰港。 ・1528年の探検航海〜 パナマ〜〜ゴルゴナ島〜ガリョ島〜サン・マテオ湾〜ゴルゴナ島〜アタカメス〜チャラクェス湾 (Caraques)〜サン・ロレンソ岬(Cabo San Lorenzo)〜プエルト・サンタ・エレナ〜プナ島(Isla Puna)〜トゥンペス〜マコラ(Mancora)〜プンタ(Punta)〜アクハ(Aquja)〜サンタ・クルス (Santa Cruz)〜ツジロ〜サンタ川(Rio Santa)〜パナマに帰港。 ・1530年の探検航海〜 ピサロの第3次ビルー探検航海(1530-1531) 1530/12/27にピサロに率いられてパナマを、南の海の向こうの「黄金卿」ペルーへと出帆。1531/1月にペルー最北西部トゥンペス(現ツンベス:Tumbes)というインカの町に到着しました。1532年にアタワルパがカハマルカ(Cajamarca)で捕らえられた時に、ルイスは3隻の船でトゥンベスの海岸に到着後、突然の発熱で亡くなりました。 ・参考HP:〜 バルトロメ・ルイスの航海地図(1526、1527-28、Rio San Fan有) ・メルチョール・ブラヴォー・ド・サラヴィア・イ・サトマヨール (1512〜1577/12/8) Melchor Bravo de Saravia y Sotomayor カスティーリャ王国ソリア生、ソリア65才没 ペルー副王領リマのアウディエンシア(最高裁判所)の長官(在任1549-1556/6) (ス:Audiencia Gobernadora del Peru 1553-1556) ペルー暫定副王(interim Viceroy of Peru、在任1552/7-1556/6) (ス:Presidente de la Audiencia Gobernadora Capitan General del Peru 1553/4/11-1556/6/29) チリ総督(Royal Governor of Chile、在任1568-1575) (ス:Presidente de la Audiencia de Concepcion Gobernador del Reino de Chile 1568-1575) メルチョール・ド・サラヴィアは現スペイン北部カスティーリャ・イ・レオン州ソリア県々都で、ポルトガルから大西洋に注ぐドゥエロ川(El Duero, 897km)河畔のソリア市(Soria city, Soria province, Castilla y Leon region, Castilla kingdom)で生まれました。1538年に学業を終えてイタリアのナポリ(Napoli)で判事になりました。1547年にカスティーリャ王国の最高司法機関の王立大審問院(聴訴院=最高裁判所)の新世界植民地アウディエンシア・グラナダ(Audiencia of Granada)長官に任命されmした。1549年に新グラナダ(New Granada)のアウディエンシア建設のため新世界へ渡航しました。同年に到着後リマのデ・ラ・ガスカ副王(在任1547-1550)の所へ行き、アウディエンシア長官の承認を受けました。ガスカ副王が帰国し、次の副王アンドレス・ド・シアンカ(Andres de Cianca 1552/7/21-)が、1553/4/11に亡くなると、サラヴィア長官が暫定ペルー副王(在任1552-1556)にリマで就任しました(名目上はヌエバ・エスパーニャ副王のアントニオ・ド・メンドーサ(在任1551-1552)がペルー副王に就任)。1553/11/13にエルナンデス・ギロンがサラヴィア副王の不平等な重税に対して大反乱を起こしました。1554年に副王が討伐軍をペルー南部アヤクーチョ州へ送り込み、チュキンガの戦い(Battle of Chuquinga, Ayacucho)で、アロンゾ・ド・アルバラード(Alonso de Alvarado)が率いる副王軍とギロン軍が戦い、ギロン軍が勝利。副王軍のアギーレは重傷を負い、アルヴァラードはリマに逃げて帰りました。1554/12月にペルーの中央高地にあるフニン県プカラ(Pucara, Junin Region, Peru)でのプカラの戦い(batalla de Pucara)では副王軍が勝利して、1554/12/7に捕虜のギロンはリマで処刑されて晒首になりました。1556年に新任のアンドレス・ウルタード・ド・メンドーサ(在任1556-1561)が着任して、ペルー副王を交代しました。1565年にフェリペ2世の勅許でチリ・アウディエンシア(Royal Audiencia of Concepcion, Royal Audiencia of Chili, 1565-1575)が設立されることになり、チリ総督に指名されました。1567/8月チリ・アウディエンシア(Royal Audiencia of Chile, 1565-1575)が確定し、1567/9月に総督(civil & military government of Chile)を拝命。1568年リマから着任(在任1568-1575)しました。チリ南部に居住の現地人マプチェ族とスペイン人征服者との間で続いていたアラウコ戦争(Arauco War、1536-1883)の終息に向けて、1569年にカンティライの戦い(Battle of Catirai, 1569/1/7)で、ビオビオ川(Bio Bio River, 380km, 源流標高1160m)南岸河川敷を焼払って戦うも惨敗して、現地人との戦いは続きました。1575年に任期を終えて、スペインに帰国。1577年に余生を送っていた生まれ故郷のソリアで亡くなりました。 ・フアン・リッソン・ド・テハーダ聴訴官 (生年不詳〜1545) oidor Juan Lisson de Tejada ナバラ王国ログローニョ生、バハマ海峡没 ペルー副王領リマの最高裁判所アウディエンシアの聴訴官 テハーダ聴訴官は現スペイン北部ラ・リオハ州北端ログローニョ県々都エブロ川(Rio Ebro, 910km)河畔サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路が交差するログローニョ(Logrono city, Logrono province, La Rioja region, Spain)で生まれたと伝えら得ています。1543/3/1に設立されたペルー副王領(Virreinato del Peru)のアウディエンシア(Real Audiencia de Lima、王立大審問院(聴訴院)最高裁判所)の最初の聴訴官(oidor)4人の一人として、アルヴァレス、セペダ(Diego Vasquez de Cepeda)、ザラーテ(Pedro Ortiz de Zarate)と共にヴェラ副王の遠征艦隊で新世界に渡航しました。ダリエン湾東方のティアラフィルメ(Tierra Firme)から、パナマのノンブレデディオス(Nombre de Dios)を経て、ペルーのリマに到着しました。1544/10/28にゴンサロ・ピサロとリマのアウディエンシアから、福王ヴェラのエンコミエンダ制限に対する反対意見の、国王への弁明の特使としてスペイン本国へ派遣されて出帆するも、カリブ海のバハマ海峡で乗船がハリケーンの嵐で遭難して、船もろとも海の藻屑となって亡くなりました。そのため、ゴンサロ達ペルー植民地の訴えはスペイン国王には届きませんでした。 ・バスコ・ヌニェズ・ヴェラ・イ・ヴィラルバ副王 (1490〜1546/1/18) Blasco Nunez Vela y Villalba カスティーリャ王国アビラ生、エクアドルのキトー近郊アニャキート56才没 ペルー副王(viceroy of Peru、在任:1544/5/15-1546/1/18) (governor & captain general of Peru、president of the Audiencia、captain general of Chile) バスコ・ヌニェズ・ヴェラはスペインのカスティーリャ・イ・レオン州アビラ県々都で、マドリードから直線距離で西北西に約87kmのアビラ(Avila city, Avila province, Castile y Leon region)で、1403年頃から続いた貴族サンティアゴ騎士団(Orden Militar de Santiago)騎士の家柄に生まれ、国王の忠実な下僕(しもべ)の軍人になりました。1542/3月(52才)に年俸5,000ドゥカート(ducats:金1gX3.491g=17.455kgX@4430=77,325,650:現在価値7.7千万円:当時では10億円の値打ちか?)で初代ペルー副王に任命され、リマにアウディエンシア(王立大審問院(聴訴院)最高裁判所)を開設して、アウディエンシアの構成員となる4人のオイドール(聴訴官)と共にペルーに派遣されました。1542/11/3に福王ヴェラはスペイン南部アンダルシア州サンルーカルデパラメダ港(Sanlucar de Barrameda, Cadiz, Andalucia)を出帆。1544/5/17にリマ(Lima)に到着し、新法の完全実施を宣言して、北はパナマから、南はチリに至る南アメリカ大陸西側の支配権を確立しょうとしました。「世襲を禁止、先住民の奴隷化や強制労働の廃止」を打出したので、この厳しい新法はメキシコやペルーのエンコメンデロ、すなわち新世界の実力者達(エンコミエンダ領主)を大いに刺激し、スペインのアメリカ植民地に大きな動揺と混乱を引き起こしました。福王ヴェラのエンコミエンダ制限は、ピサロ一派から支配権を取り戻す意味合いもあって、それは厳しいうえに副王べラが”新法”の実施を急いだため、クスコのスペイン人有力者層は一斉に反発。ゴンサロ・ピサロが”新法”に反対するエンコメンデロの先頭に立って抵抗しました。1544年には福王ヴェラがカストロ総督をゴンサロに組みしたとして逮捕し、スペインへ強制送還しました。インカのマンコ2世は反ピサロの立場から副王に協力を申し入れるも、1544/6月にビトコス(Pisco, Peru)で旧アルマグロ軍崩れのディエゴ・メンデス・ド・セグラ(Diego Mendez de Segura 1475-1536)に暗殺されました。そして遂に、1546/1/18に勃発したエクアドルのキトー近郊アニャキートの戦いでゴンサロ軍がヴェラ副王軍を破り、副王べラは戦傷後に斬首されました。 ・初代ペルー副王ブラスコ・ヌニェス・ベラ関連略年表:〜
1544/1/10、ベラ副王がパナマのノンブレ・デ・ディオス(Nombre de Dios, Colon)に到着 1544/3/14、ベラ副王がペルー北西トゥンペス(Tumbes)到着、トルヒーロ(Trujillo)へ向う 1544/5/17、ベラ副王がリマに着任。強引にインディアス新法の徹底を試みて、新法の完全実施 を宣言。ゴンサロを先頭とするクスコの有力者層は一斉に反発・反抗 ベラ副王はキトーで兵を集めはじめ、 マンコ2世は反ピサロの立場から副王に協力を申し入れる 1544/6月、マンコ2世がビトコス(Pisco, Peru)でディエゴ・ド・セグラに暗殺されたとする説がある ベラ副王がカストロ総督を逮捕して、本国へ強制送還 1544/9/13、ベラ副王がリマの宮殿でイリャン・ド・カルバハールを裏切者として刺殺 1544/9/18、ゴンサロがオイドールを巻き込んでアウディエンシアの支配権を獲得し、 アウディエンシアはベラ副王の更迭を決定してパナマに送り、 サンロレンゾ(San Lorenzo Island)の島に幽閉 1544/09/24、ベラ副王が本国強制送還でパナマ(San Lorenzo)を出帆後、 聴訴官アルヴァレスが助けてベラ副王が脱走に成功し、船をトゥンペスに向かわせる エクアドルに本拠を構えて反撃体制に入る 1544/10/28、ゴンサロが現地人の精鋭1,200人を連れてリマに乗り込み、 アウディエンシアがゴンサロを総督兼総司令官(captain general of Peru)に任命され、 聴訴官の一人テハーダを本国に派遣する 1545/10月、ベラ副王が小部隊の軍と共にキト-近くのサンミゲル(San Miguel)に進出してから キト-を訪れてゴンサロと会見するも、話し合いは物別れに終わる ベラ副王はその後ポパヤン(Popayan)に行ってベナルカサールと会見して味方にする 1545年、エンコミエンダの廃止をインディアス新法から削除する アルト・ペルーの砂漠地帯ポトシ(標高4,700m)で銀山が発見される 1546/1/18、アニャキートの戦い、ヴェラ副王が戦傷後に斬首される。
参考:〜(日付は諸説有) ・ティエラフィルメ植民地総督の列伝、パナマ植民地とされること有 (Governorate of Nueva Andalucia=Province of Tierra Firme 1510-1537) 首都:〜ダリエン(Santa Maria la Antigua del Darien)とパナマ市(Panama City) ・アロンゾ・ド・オヘーダ:〜:1501-1504 (Nueva Andalucia -Coquivacoa- (mainland Venezuela) ・アロンゾ・ド・オヘーダ:〜:1510-1513 (Nueva Andalucia- (mainland Colombia) ・ディオゴ・ド・ニクエサ:〜:1510-1513 (Nueva Andalucia - (mainland Nicaragua, Costa Rica, Panama) ・1513年にペドラリアス・ダヴィラ総督のダリエン植民地に統合される ・ダリエン植民地総督の列伝、パナマ植民地とされること有 (Governorate of Castilla de Oro 1513-1537) 首都:〜ダリエン(Santa Maria la Antigua del Darien)とパナマ市(Panama City) ・ペドラリアス・ダヴィラ:〜:1514-1526 ・ペドロ・ド・ロス・リオス:〜:1526-1529 ・アントニオ・デ・ラ・ガマ:〜:1529-1532 (Antonio de la Gama、暫定総督) ・フランシスコ・ド・ベリョンヌエヴォ:〜:1533-1536 (Francisco de Barrionuevo) ・ペドロ・ヴァスケス・ド・アキューナ:〜:1536-1539 (Pedro Vazquez de Acuna) ・フランシスコ・ペレス・ド・ロブレス:〜:1539(パナマ総督が兼務) (Francisco Perez de Robles, President of the Audiencia of Panama) ・ペルー副王領(Viceroyalty of Peru、1542-1824)の新設で統合管轄となる ・パナマ総督の列伝:〜 (兼務ダりエン総督(Governors of Darien)、カルロス1世が任命) ・ディオゴ・ド・ニクエサ (1508/6-1511) ・ヴァスコ・ヌーニェス・ド・バルボア (1511-1513) (兼務カステリア・デ・オーロ総督(Governors of Castilla de Oro)、カルロス1世が任命) ・ペドラリアス・ダヴィラ(1513-1520) ・ロペ・ド・ソーサ(Lope de Sosa、1520) ・ペドラリアス・ダヴィラ (1520-1526) ・ペドロ・ド・ロス・リオス: (1526-1529) ・パナマ総督(Governors of Panama)、 (カルロス1世(1516-1556)の御代) ・アントニオ・デ・ラ・ガマ(Antonio de la Gama、1529-1532) ・フランシスコ・ベリオヌエヴォ(Francisco Barrionuevo、1533-1536) ・パスクアレ・ド・アンダゴヤ: (1536) ・ペドロ・ヴァスケス・ド・アクーニャ(Pedro Vazquez de Acuna、1536-1539) オーディエンシア統治(The Real Audiencia 1539 & 1543) ・ペドロ・ラミレス・ド・クィノーネス(Pedro Ramirez de Quinones、1543-1545) ・ディエゴ・ド・エレラ(Diego de Herrera、1545) ・エルナンド・ド・ビチャコ(Hernando de Bichacao、1545-1546) ・ペドロ・ド・リヴェロ(Pedro de Rivero、1546) ・ペドロ・アントニオ・ド・イノホサ(Pedro Antonio de Hinojosa、1546) ・ペドロ・デ・ラ・ガスカ(Pedro de la Gasca、1546) ・アロンゾ・ド・アルヴァレス(Alonso de Alvarez、1546-1548) ・ペドロ・ラミレス・ド・クィノーネス(Pedro Ramirez de Quinones、1548) ・フアン・バルバ・ド・ヴァレシロ(Juan Barba de Vallecill、1549-1550) ・サンチョ・ド・クラヴィホ(Sancho de Clavijo、1550-1553) ・アルヴァロ・ド・ソーサ(Alvaro de Sosa、1553-1556) ・ファン・ルイス・ド・モハラス(Juan Ruiz de Monjaras、1557-1559) ・フェリペ2世の御代:〜 ・ラファエル・ド・フィグエロア(Rafael de Figueroa、1559-1561) ・ルイス・ド・グスマン(Luis de Guzman、1561-1563) ・ファン・バストド・・ヴィレガス(Juan Busto de Villegas、1563)赴任せず ・ロペ・ガルシア・ド・カストロ(Lope Garcia de Castro、1563-1564) ・マヌエル・バロス・ド・サン・ミラン(Manuel Barros de San Millan、1565-1566) ・アロンゾ・アリアス・ド・エレラ・イ・マルドナド(Alonso Arias de Herrera y Maldonado、1566) ・ファン・ド・ピネド(Juan de Pinedo、1566) ・マヌエル・バロス・ド・サン・ミラン(Manuel Barros de San Millan: (1567-1569) ・ディエゴ・ロペ・ド・ヴェラ(Diego Lope de Vera、1569-1573) ・ガブリエル・ロアルテ(Gabriel Loarte、1573-1578) ・ファン・ロペス・ド・セペダ(Juan Lopez de Cepeda、1578、暫定総督) ・ペドロ・ラミレス・ド・クィノーネス(Pedro Ramirez de Quinones、1578-1585) ・ファン・デル・バリオ・セパルヴェダ(Juan del Barrio Sepulveda、1585-1587) ・フランシスコ・ド・カルディナス(Francisco de Cardenas、1587-1596) ・ファン・デル・バリオ・セパルヴェダ(Juan del Barrio Sepulveda、1596、暫定総督) ・アロンゾ・ド・ソトマヨー・イ・ヴァルメディアノ(Alonso de Sotomayor y Valmediano、1596-1602) ・ペルー副王の列伝:〜 (カルロス1世(1516-1556)の御代) ペルー総督 Governors of New Castile、1528-1544 ・フランシスコ・ピサロ Francisco Pizarro 1528-1541/1/26 ・クリストバル・ヴァカ・ド・カストロ Cristobal Vaca de Castro 1541-1544 ・ゴンサロ・ピサロ(反乱で総督を名乗る) Gonzalo Pizarro 1544-1548/4/9 ペルー副王 Viceroys of Peru、1544-1826 (カルロス1世(1516-1556)の御代) ・ブラスコ・ヌニェズ・ヴェラ Blasco Nunez Vela, 1544/5/15-1546/1/18 ・ペドロ・デ・ラ・ガスカ Pedro de la Gasca, Dean of the Audiencia 1547/4/10-1550/1/27 ・アンドレス・ド・シアンカ (任期中に亡くなる) Andres de Cianca 1552/7/21-1553/4/11) 名目副王:アントニオ・ド・メンドーサ (ヌエバ・エスパーニャ副王:在任1535-1552) Antonio de Mendoza, Marquis of Mondejar, Count of Tendilla 1551/9/23-1552/7/21 ・メルチョール・ブラヴォー・ド・サラヴィア (暫定服王) Melchor Bravo de Saravia, Dean of the Audiencia 1552/7-1556/6 (フェリペ2世の御代、Felipe II, 1527-在位:1556-1598) ・カニェーテ侯アンドレス・ウルタード・ド・メンドーサ Andres Hurtado de Mendoza, 3rd Marquis of Canete 1556/6/29-1561/3/30 ・ディエオ・ロペス・オ・ズニガ Diego Lopez de Zuniga, 4th Count of Nieva 1561/4/17-1564/2/20 ・フアン・ド・サーヴェドラ Juan de Saavedra, Dean of the Audiencia 1564-1564 ・ロペ・ガルシア・ド・カストロ (オーディエンシア代表) Lope Garcia de Castro, Dean of the Audiencia 1564/9/2-1569/11/26 こちらで、 ・インカ征服の戦い、 ・ペルー内戦・反乱での主な戦い、 ・ピサロ13人とカンディア、 ・スペインの大航海年表を、お楽しみください。 ・参考HP:〜 ・イベリア半島の王国別地図(日本語) (1474年頃、カスティーリャ、ナバラ、アラゴン、グラナダ、ポルトガルが有) ・モナ海峡の場所地図(イスパニョーラ島の東に有) ・ティエラフィルメ植民地の場所地図(Nueva Andalucia 1510) ・ダリエン植民地の場所地図(Castilla de Oro 1513) ・ペルーの詳細地図(Quito、Tumbes、Cajamarca、Lima、Cuzco有) ・ペルーの州(県)別地図(日本語) ・バスチダスの航海地図(1500〜1507) ・バスチダスの航海地図(1509〜1515) ・バルボアのパナマ探検の航海地図(ウラバー湾、1513) ・バルボアのパナマ探検の航海地図(ダリエンからサンミゲルへ1513) ・バルボアのパナマ地峡の横断地図 ・インディアス地域の地図(Castilla de Oro 1513-1537) ・ウラバー湾トゥルボの場所地図(日本語:コロンビアの地図) ・ペルラス諸島の場所地図(日本語、パナマの地図) ・パナマのノンブレ・デ・ディオスの場所地図(Nombre de Dios, Colon、 Portobelo有) ・パナマの地図 ・エクアドルの地域別地図 ・フランシコ・ピサロのの航海地図(1524-25、1526-27、Rio San Fan有) ・バルトロメ・ルイスの航海地図(1526、1527-28、Rio San Fan有) ・バルトロメ・ルイスの航海地図(1526、1527-28) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 13/1/23、14/8/10 |