★イギリス | 冒険航海(Adventure Voyage)
ジョン・ロス船長 1818 北西航路を求めてカナダ北極を探検 |
大航海物語★ |
カナダ→ ハドソン湾→ パフィン湾→ グリーンランド→ |
SWEEDEN 北極の地図 ベーリング↓海峡 スウェーデン↑(黒い所) スウェーデン 1989/8/22 発行小型シート |
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CANADA カナダ北極 カナダ 1980 発行 |
英国スコットランド生れのジョン・ロス船長は16才で大英帝国海軍に入隊して海上での生活を始めました。ナポレオン戦争が終ってスコットランド沿岸警備の任についていましたが、海軍省の要請で、1818年にイギリス最初の北西航路の探索に出帆しました。第1回の探検航海ではカナダ北極のバフィン湾のランカスター砂洲海峡前方にクロッカー山脈があると誤認して帰途につくも、その9年後に再度、探検航海に出帆。北極で氷に閉じ込められて約4年にも渡る氷海との戦いの末に、北西航路の発見はできませんでしたが、貴重な探検資料を英国に持ち帰り、国王からナイト爵位を叙任され、バス勲章を受勲しました。 |
サー・ジョン・ロス海軍少将 (1777/6/24〜1856/8/30) Rear-Admiral Sir John Ross, CB RN 英海軍(RN)少将:1851、ナイト(Sir)&バス勲章(CB):1834 北極探検家(Arctic explorer) 生地:英国スコットランドのインチ生 没地:英国イングランドのロンドン没 南極探検家サー・ジェイムズ・クラーク・ロス大尉の叔父 ジョン・ロス卿はスコットランドのストランラー(Stranraer)に近いインチ(Inch)の牧師(minister of Inch)アンドリュー・ロス(Rev Andrew Ross of Balsarroch)と、 ダンフリーズのロバート・コルセイン(Robert Corsane, the Provost of Dumfries)の娘の母エリザベス(Elizabeth)との4番目の息子としてバルソロック(Balsarroch, Scotland)で生まれました。1786/11/11に9才で志願兵(first-class volunteer)としてイギリス海軍(Royal Navy)に入隊し、で地中海艦隊(Mediterranean Fleet)でパール号(Pearl)に乗組んで1789/5月まで勤務ました。1790年にポーツマス港(Portsmouth)を基地とする海峡艦隊(English Channel Fleet)に移動して、インプレグナブル号(Impregnable)乗組んで勤務。次の8年間は艦長の助言で、見習い水夫(apprentice seaman)として商船に乗組み、船乗りの経験を積みました。1799/9月に海軍に復帰して士官候補生(midshipman)として、色んな軍艦に乗組んで、北海(North Sea)や地中海(Mediterranean)で勤務。1803年にスペインとの戦争が勃発すると、ジブラルタル海峡アルヘシラスの海戦(Second Battle of Algeciras, 1801/7/12-13)勝利で名を馳せた男爵ジェームス・ソーマレス提督(Admiral Sir James Saumarez, 1st Baron de Saumarez, 1757-1836)艦長旗下の50門4等戦艦グランパス号(HMS Grampus, 50-gun fourth-rate ship of the line, 1802)に乗組。1805/3/13に少尉に任官するも、同年スペインのビルバオ艦隊(the batteries of Bilbao, Spain)と交戦し、負傷して重傷を負いました。 1808年に商船時代にスウェーデン語を習得していたので、スウェーデン海軍大尉(captain of the Swedish Navy)で総司令官ソーマレス提督のスウェーデン英国連合艦隊に転籍して連絡将校として勤務し、ロシア艦隊と戦いました。1809/8月にはスウェーデンのナイト・コマンダー勲章(knight commander of the Swedish Order of the Sword)を授与されました。1812/2/1に中佐(Commander)に昇進。1812/3/31にバルチック基地(Baltic station)で、10門ブリッグスループ戦艦ブリセイス号(10-gun brig-sloop HMS Briseis)の艦長に就任しました。1812/4月には、そのブリセイス号に甥のジェームス・ロスが乗艦してきました。1814/6月にスループ戦艦アクティオン号(sloop Actaeon)に乗組んで、北海や白海(White Sea)やアイルランド海岸沖でフランス海軍と戦い、1815/8月にはドライヴァー号(Driver)の艦長に就任しました。 1815年にワーテルローの戦いでナポレオンがセントヘレナ島に流刑になってナポレオン戦争(Napoleonic Wars 1803-1815)が終った1816年(39才)にクリスチャン・アダイアー(Christian Adair 1822没)と結婚(男子一人誕生)し、生まれ故郷のロックライン(Loch Ryan)近くのノースウェスト・キャッスル(North West Castle)に新居を構えました。そして、ほとんど30年間にも及ぶ海上勤務で13回も負傷した意気軒昂で有能な士官になって、引き続きドライヴァー号艦長としてスコットランド沿岸(Scottish coast)の警備を続けながら、除隊の時期を待っていました。(1834/10/21にメアリー・ジョーンズ(Mary Jones)と再婚)。 ロス船長の冒険大航海:〜 ・北西航路の探索航海、1818/4/18〜1818/11/21 ・北西航路の探索航海、1829〜1833 ・フランクリン探検隊の捜索航海、1850〜1851 1817/12/11に海軍省の(Sir George Hope 1767-1818/5/2)から海軍生活の新時期となる任務を与えられる書簡を受領しました。それは、デイヴィス海峡(Davis Strait)の探査か、ブッチャン(Captain David Buchan 1780-1838)北極探検に参加しないかとの手紙でした。1817/12/30に海軍省のメルビル卿(Lord Melville 1771-1851)の招請でロンドン着。着くと探検の旗艦にイサベラ号(Isabella, 385-ton)、僚船に艦長ウィリアム・パリー海軍大尉(Lieutenant William Edward Parry 1790-1855, naval officer, Arctic explorer, hydrographer)の少し小型のアレクサンダー号(Alexander)を選定しました。イサベラ号にはロス船長の甥ジェームス・ロス少尉候補生(Midshipman James Clark Ross)、ヘンリー・フーパー海軍大尉(Lieutenant Henry Parkyns Hoppner 1795-1833, naval officer, explorer, painter)、王立協会(Royal Society)推薦のエドワード・サビーン陸軍砲兵大尉(Captain Edward Sabine of the Royal Artillery 1788-1883, soldier & scientist, Ireland)が参加して乗船しました。
1829年にロス隊長は間違っていたことを認め、友人の一人フェリックス・ブース(Sir Felix Booth, 1st Baronet 1775-1850)に再度の遠征の費用を手配してくれるよう説得しました。その年の5月、氷海に入ると収納可能な外輪を持つ蒸気機帆船ビクトリー号(side-wheel steamer Victory)で出帆。この遠征隊はランカスター海峡を過ぎて未踏の領域に入るも、そこで氷に閉じ込められました。そのため帰還までに実に4年間を要することとなるも、幸い地元のイヌイット族の協力を取り付けて、カナダ北部を陸路探検することができました。これらの探検により、ロスはブーシア半島(Boothia Peninsula)で磁北極を発見(North Magnetic Pole)しました。 1832年にロスと乗組員は最終的に船を放棄し、かなり前に別の遠征隊が放棄していた難破船まで移動しました。1年後に解氷期を待ってその船に搭載されていた舟艇で出発。イギリス船に巡り会いついに氷海から脱出することができました。ロス隊長の隊は集めた科学的また民俗学的情報をイギリスにもたらすも、ロス隊長はその地図製作についてはまたしても議論に巻き込まれしました。ロス隊長の甥のジェイムズ・クラーク・ロスが1830年にジェイムズ・ロス海峡(James Ross Strait)で3つの島を地図に収め、それらをボーフォート諸島(Beaufort Islands)と命名しました。ロス隊長はそれらの諸島を見ずに、8つないし9つの島を地図に入れ、それらをクラレンス諸島(Clarence Islands)と名付けていました。
しかし他の部下はその山脈を望見せず 10/01、カンバーランド砂洲海峡(Cumberland Sound)着 氷の状況が悪く帰途に着く 11/14、イングランド北東リンカンシャーのグリムスビー(Grimsby)に到着 11/21、ロンドンに帰国 1829年 05/23、蒸気機帆船ヴィクトリー号でロンドンを出帆 カナダのデイヴィス海峡に到達 08/06、ランカスター砂洲海峡を通過、今回は前回の誤りを認めて南下して プリンス・リージェント入江(Prince Regent Inlet)に入る フーリー海岸(Fury Beach)に投錨 サマーセット島(Somerset Island)に投錨 フューリー海岸(Fury Beach)で難破船(1825年)から物資を積み込む 09/30、前回より約402km南のトム湾(Thom Bay)近くをフェリックス港(Felix Harbour)と命名して越冬 その後ブーシア半島(Boothia Peninsula)の氷結海岸で氷に閉ざされて4度も越冬 1830年、ブーシア半島の氷結海岸で氷に閉ざされて越冬 1831年、ブーシア半島の氷結海岸で氷に閉ざされて越冬 06/01、ジェームス・ロスがブーシア半島東海岸のアデレード岬で北磁極(North Magnetic Pole)を発見 1832年、ブーシア半島の氷結海岸で氷に閉ざされて越冬 春に船を捨て、フューリー海岸へと徒歩で探検隊を北方へと進め、サマーセット小屋(Somerset House)と名付けた避難所を設営し、ボートを修理してパフィン湾捕鯨船の到着を待つ 1833年、フューリー海岸の氷結海岸で越冬 08/14、氷が緩んでボートで北方へ移動 プリンス・レジメント入江(Prince Regent Inlet)口で東進 08/26、ネイヴィー・ボード入江(Navy Board Inlet)の数キロ沖西方に帆船を視認 前回のイサベラ号が捕鯨船(whaler Isabella)として来航したのに巡り合い救出される 10/12、英国のオークニー諸島ストロムネス(Stromness)に到着、上陸 10/19、ロンドンに帰国 この探検航海でロス隊長は極地探検家としての地位を確立し、イギリスとフランスの地理学協会から金メダルを授与され、スウェーデンのポールスター爵位(Pole Star of Sweden)など様々な外国の勲位を受けました。1834/12/24にイギリス国王ウィリアム4世(William IV 在位1830-1837)からナイト(Sir)に叙され、バス・コンパニオン勲章(Order of the Bath、CB)を受勲しました。1839/3月にスウェーデンのストックホルムでの英国領事に任命され、1846年迄務めました。 1850年に72才の高齢ながら北極海域への3度目の航海を試みました。この時はハドソン湾会社(Hudson’s Bay Company)などの支援で、1818年の探検を共にした部下ジョン・フランクリン卿の探検隊を、91屯スクーナー帆船フェリックス号(schooner Felix, 91tn)で捜索に出帆しました。極地で越冬するも、遂に発見できずに英国に帰港しました。1851/9月にロス船長は退役して間もなく、海軍少将(rear-admiral)に昇進後、スコットランドに隠棲し、1856年にロンドンで亡くなくなりました。
参考HP:〜 ・バフィン湾の場所地図(ジョン・ロス北極探検隊の到達場所) ・ランカスター海峡の場所地図(ジョン・ロス北極探検隊の到達場所) ・ヴァイカウントメルヴィル海峡の場所地図 ・マクルアー海峡の場所地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 15/1/15 |