大航海物語 | 切手で綴る 日本の大航海時代 世界遺産(日本 No.11) 石見銀山 1309、発見 |
参考資料 |
銀山の坑道(トンネル) |
精銀所跡 |
丁銀 |
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日本 2008/10/23 発行
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1504年アメリゴの探検大航海による 1540年ヴァルトゼーミュラー古地図アメリカ部分拡大地図のジパング
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1570オルテリュウス古地図 | ヴァルトゼーミュラー古地図、1540 | ←ジパング |
現在の世界地図 61回列国議会同盟記念 日本 昭和49年 1974/1/1発行 |
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アジア→ | 新大陸←北米 | コロンブス新大陸発見500年記念 オーストリア 1992 発行 . |
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黄金郷 ↑ ジパング として描かれている |
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日本 2008/10/23 発行 |
左上の地図切手は1570年のオルテリウスの地図帳「世界の舞台」に収録されているタルタリア図の中の日本が描かれている部分が、図案になっています。タルタリアとは北東アジアをさす地域名です。図案の地図はアジア大陸と北米大陸にはさまれた日本が描かれており、多くの湾を持つ本州とその南に土佐の地名がみられる四国、そして群島として示される九州がはっきりとわかります。 |
・石見銀山 (いわみ・ぎんざん) Iwami Silver Mine 世界遺産:ユネスコの文化遺産(2007, Cultural Heritage Site) 石見銀山は、島根県大田市にある戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)。鉱脈は石見国東部、現在の島根県大田市大森の地を中心とし、同市仁摩町や温泉津町にも広がっていました。日本を代表する鉱山遺跡として、1969(昭和44)年に国の史跡に指定され、2007(平成19)年にはユネスコの世界遺産に登録されました。 ▼発見 石見銀山は「石見銀山旧記」に、鎌倉時代末期の1309(延慶2)年に周防の大内弘幸が石見に来訪して北斗妙見大菩薩のお告げにより銀を発見したという伝説が載っており、この頃からある程度の採掘がなされていたと言われています。 ▼開発 本格的な開発は博多の商人・神谷寿貞(神屋寿禎・寿亭ともいう)であると言われています。海上から山が光るのを見た神谷は領主・大内義興の支援と出雲国田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力で、1526(大永6)年3月、銀峯山の中腹で地下の銀を掘り出し、鞆ヶ浦(ともがうら、仁摩町馬路)や沖泊(島根県邇摩(にま)郡 にあった町、現・温泉津町 ゆのつまち)から鉱石のまま積み出し取引しました。 ▼灰吹法の導入 1533(天文2)年8月、神谷寿貞は博多から「宗丹と桂寿」(朝鮮の禅僧といわれている)を招き海外渡来の銀精錬技術である「灰吹法」の導入に日本で初めて成功して、石見銀山を銀山として開発しました。この技術でより効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をしました。 ▼坑道 銀山の中心、仙ノ山周辺には戦国時代から400年にわたりアリの巣のように掘り進められた600もの坑道跡があります。「大変な環境下での労働で、鉱員たちは30才で長寿を祝った」ほどの劣悪な労働環境で寿命をちじめていました。 ▼銀山争奪 大内義興の死後、大内義隆が九州経営に気を取られている間、1530(享禄3)年に地方領主・小笠原長隆が銀山を奪い、3年後に大内氏が奪回。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点としました。1537年(天文6年)、出雲の尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪う。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に尼子氏が小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続く。大内義隆の死後は、毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げ、1562(永禄5)年には最終的に毛利氏が勝利を収めて石見銀山を完全に手中に収め、、山吹城には吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門が入城。その後、1584(天正12)年に毛利氏が豊臣秀吉に服属し、銀山は豊臣秀吉の上使である近実若狭守と毛利氏の代官である三井善兵衛の共同管理となり、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てらる。 ▼銀と貿易(銀の輸出) 1309(延慶2)年頃の発見当初は鞆ヶ浦・沖泊から博多に、鉱石のまま積み出され取引されました。1526(大永6)年頃に朝鮮の銀精錬(生産)技術の「灰吹法」が伝わった以後に、銀の 大量生産が可能になり、日本から朝鮮に銀が輸出されました。朝鮮から日本に朝鮮人参と木綿、生糸が輸入されました。なお、朝鮮から清には朝鮮人参と銀が輸出され、清からは生糸(絹)が輸入されました。 石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期と重なっていました。このため、製錬された灰吹銀はソーマ銀と呼ばれ、そのまま日本産銀の銘柄(ブランド)のひとつとして商取引に利用されました。またこの灰吹銀を譲葉状に打ち伸ばし加工された石州丁銀およびその後の徳川幕府による慶長丁銀は基本通貨として広く国内(主に商人が活躍した上方を中心とする西日本)で流通したばかりでなく、中国・明、16世紀後半からマカオを拠点に来航するようになったポルトガル、17世紀初めに来航したオランダ東インド会社などとの間で、石見銀山の銀を媒介とする世界規模の交易が行われました。特に中国は大口の商取引、兵士への給与などのため広く秤量銀貨が使用され、この多額に上る銀需要の吸引力は莫大なものでした。また、私貿易を禁止する明の海禁政策にもかかわらず、日中間の密貿易が活発となり、海賊化していき「後期倭寇」の時期が到来しました。
なお、石州丁銀は秤量貨幣(額面が無く重量で価値が決定。取引の際は必要に応じ切り分けて使用)のため、原形をとどめる物は希少ですが、島根県は2007年までに石見銀山の銀で製作されたとされる御取納丁銀、文禄石州丁銀、御公用丁銀を収集・購入して島根県立古代出雲歴史博物館における企画展などに展示しています。 ■日本の海外貿易 中国が日本を冊封(さくほう)した記録は後漢(ごかん)の時代にまで遡れますが、その後中国王朝への朝貢は邪馬台国(弥生時代の2〜3世紀に日本にあったと推定、魏志倭人伝に有)の台与(とよ、235頃〜没年不詳、日本の弥生時代3世紀に「三国志」、「魏志倭人伝」中の邪馬台国の女王卑弥呼の親族で、卑弥呼の跡を継いだとされる女性)以降は途絶えました。4世紀後期には「倭の五王」が南朝への朝貢を再開するも、その後日本は長きにわたり大陸との接触を行っていません。7世紀なって日本は「遣隋使」を送るようになりましたが、これは冊封体制のもとではなく、あくまでも対等の関係で行おうとしたものでした。617年に李淵が隋を滅ぼし、翌年に唐を建国。これをうけて遣隋使は遣唐使と改称され、9世紀前半まで交流が続きました。唐の都の”長安”は西アジアやインドからの使節や商人が集まる国際都市となり、長安を中心にシルクロードを通じてもたらされたさまざまな商品や知識が、日本を始め東アジア各地に広まって行きました。この頃、日本は新羅(しらぎ)との関係が悪化し、朝鮮半島をめぐる地域情勢が不安定になり、日本は渤海との交流を深めていきました。渤海からは薬用人参や毛皮などが、日本からは絹・綿などの貿易品が取引されました。894年に遣唐使が廃止され、907年に唐が完全に滅んだ後も民間レベルでの交易が続きました。 ▼中国の後漢(25〜220)の時代 後漢書東夷伝の記述で知られるように、この時代には日本列島の人々が中国の王朝と直接交渉していることが知られ、福岡県志賀島で発見された「漢委奴国王」金印がその裏付となる。 ▼邪馬台国の台与の時代 日本の邪馬台国は弥生時代の2〜3世紀に日本にあったと推定され、魏志倭人伝に有って、台与(とよ、235頃〜没年不詳)は弥生時代3世紀に「三国志」、「魏志倭人伝」中の邪馬台国の女王卑弥呼の親族で、卑弥呼の跡を継いだとされる女性)の時代まで中国へ朝貢。 ▼倭の五王が南朝へ朝貢 5世紀に、南朝の東晋や宋に朝貢して「倭国王」などに冊封された 倭国の五人の王「讃、珍、済、興、武」 ▼7世紀の遣隋使 遣隋使は、推古天皇朝の倭国が隋に派遣した朝貢使のことで、 600(推古8)〜618(推古26)の18年間に5回以上派遣。 ▼遣唐使 中国の唐朝に対して日本が派遣 ▼日宋貿易 日宋貿易は中国の宋朝(南宋)と10世紀から13世紀(平安時代の中期から鎌倉時代の中期)の間に行われた貿易 ・輸入品〜宋銭、陶磁器や絹織物、書籍や文具、香料や薬品、絵画などの美術品など ・輸出品〜銅や硫黄などの鉱物や周防など西国で産した木材、日本刀などの工芸品など 日本に輸入された宋銭は、日本社会における貨幣利用の進展に役立ち、仏教経典の輸入は鎌倉仏教にも影響を与える。一般の「宋の商人」は博多や敦賀に来航し、民間レベルでの貿易を行う。日宋貿易に関心を寄せた平忠盛は独自にこれを活発にし、輸入品を朝廷にもたらして権力を持つ。その後の平清盛は大輪田泊(神戸の兵庫港付近)を改修するなど貿易を振興し、そこから得られる利益をもとに平氏政権を磐石なものにする。平氏政権の崩壊後も鎌倉幕府は民間貿易を認め、13世紀に南宋が滅亡する直前まで日宋貿易は続く。 ▼遣明使 日明貿易は日本の室町時代に日本が中国の明王朝と行った貿易で、遣明使が派遣される。貿易の際に、許可証である勘合符を使用したので勘合貿易と呼ばれる。李氏朝鮮との日朝貿易や南海貿易と並ぶほど盛んになる。 ・輸出品〜硫黄、銅などの鉱物、扇子、刀剣、漆器や屏風など ・輸入品〜明銭(永楽通宝)、生糸、織物、書物など この貿易では、日本の銅は国内よりも非常に高値で「明」に輸出された。その理由は、中国の歴史上慢性的とも言えた銅の不足の他に、日本の銅には銀が少なからず含有しており、当時の日本にはこれを抽出する技術が無かったが、明にはあったためで、その結果「銅にしては高いが銀にしては安い」価値で交易される。 ▼南蛮貿易 日本の商人と南蛮人(スペイン、ポルトガル)との間で16世紀半ばから17世紀初期にかけて行われていた貿易。1543年に種子島にポルトガル船が到来。ポルトガル船はその前年すでに琉球に到着していたが、琉球人はポルトガル船がマラッカを攻撃して占拠したことを知っていたので交易を拒否。一方、日本の商人はポルトガル商船との交易を歓迎したため、ポルトガル船はマラッカから日本に訪れるようになる。1557年にポルトガルがマカオの使用権を獲得すると、マカオを拠点として日本・中国・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになる。 織田信長・豊臣秀吉は基本的に南蛮貿易を推奨。スペインはポルトガルに遅れてアメリカ大陸を経由しての太平洋航路を開拓し、ルソン島のマニラを本拠として日本を訪れるようになり、アジア各地に日本人町が建設され、朱印船貿易が活発になる。朱印船貿易で日本人が移住した東南アジア諸港に日本人町が形成されました。その最大のものはタイのアユタヤ日本人町で、他にもベトナムのホイアン(世界遺産)、マレー半島のパタニ王国、カンボジアのプノンペン、フィリピンのマニラにも同様の小規模な日本人町がありました。これらの日本人町は、江戸幕府の鎖国政策により日本との往来が途絶えたため、日本人が現地人と同化する形で消滅しました。 徳川家康はスペインとの貿易に積極的姿勢を見せ、京都の商人田中勝介を当時スペイン領のノビスパン(メキシコ)に派遣。また、ポルトガル商人に対しては生糸の独占的利益を得ていた為、これを削ぐことを目的として京都・堺・長崎の商人に糸割符仲間を結成させ、家康の頃はキリスト教は禁止されてはいたものの貿易は推奨された。 ▼鎖国体制 幕府による銀山開発〜大久保長安は山師(鉱山経営者)安原伝兵衛らを使って石見銀山開発を急速に進め、家康に莫大な銀を納め朱印船貿易の元手にもなった。1602(慶長7)年に安原伝兵衛が釜屋間歩を発見して産出された銀を家康に献上すると、家康は非常に喜び、安原伝兵衛に「備中」の名と身につけていた辻ヶ花染胴服を与えた。安原伝兵衛の釜屋間歩の発見などにより17世紀初頭(慶長年間から寛永年間)に銀の産出はピークに達し、「当代記」によれば1602(慶長7)年の運上銀は4〜5千貫に達したといわれる。その後、銀産出量は次第に減少し、1675(延宝3)年に銀山奉行の職は大森代官に格下げされた(大森の奉行所は大森代官所となる)。 江戸幕府による支配〜石見銀山領の設置、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1600(慶長5)年11月に石見銀山の接収のために大久保長安と彦坂元正を下向させ、石見の「江の川」以東を中心とする地域を幕府直轄領(天領)とし、翌1601(慶長6)年8月に初代銀山奉行として大久保長安を任命。銀山開発の費用・資材(燃料など)を賄うため、周辺の郷村には直轄領である石見銀山領(約5万石)が設置された。大久保長安は山吹城の下屋敷のあった吉迫の陣屋で支配を行ったが、後任の竹村丹後守により大森に奉行所が置かれた。 江戸幕府はキリスト教の禁教政策に加え、西国大名が勢力を伸ばすことを警戒したので海外との貿易を制限するようになった。交易場所は平戸と長崎に限られるようになり、1624年にスペイン船の来航が禁止され、1639年にポルトガル船の来航が禁止され、平戸での交易を禁止するなど鎖国体制が成立し、南蛮貿易は終了した。 ▼銀の陸上輸送 当初、産出した灰吹銀は現大田市の鞆ヶ浦(仁摩町)や沖泊(温泉津町)から船で搬出されていた。冬の日本海は季節風が強く航行に支障が多いため、大久保長安は大森から尾道まで中国山地を越え瀬戸内海へ至る陸路の「銀山街道」(大森〜粕淵〜九日市(美郷町)〜三次〜甲山〜御調〜尾道)を整備し、尾道から京都伏見(1608慶長13年)に洛中の両替町に移転)の「銀座」へ輸送するようにした。大森町にある熊谷家は幕府に上納するための公儀灰吹銀を天秤で掛け改め勘定を行う「掛屋」として任命され、現在、この熊谷家住宅は内部が見学可能。幕府(直轄地外では沿道各藩)による取り締まりの下、直轄地内の郷村に対する人的・物的負担や、街道各村にも銀の輸送にあたる人馬や経費負担(警備・接待など)の提供が厳しく課せられ、大きな負担となった。時として訴え出る者や争議が起こったが、この輸送は幕末まで続いた。 ▼副産物 石見銀山ねずみ捕り(いわみぎんざんねずみとり)は江戸時代、石見国笹ヶ谷鉱山で銅などと共に採掘された砒石すなわち硫砒鉄鉱(砒素などを含む)を焼成して作られた殺鼠剤(ねずみ捕り)であり主成分は亜ヒ酸。単に「石見銀山」や「猫いらず」とも呼ばれ、広く使われる。実際の「石見銀山」では産出されなかったが、その知名度の高さにあやかるため「笹ヶ谷」とは呼ばなかった。毒薬として落語・歌舞伎・怪談などにも登場。 石見(大森)銀山で銀を採掘する際に砒素は産出していないが、同じ石見国(島根県西部)にあった旧笹ヶ谷鉱山(津和野町)で銅を採掘した際に、砒石(自然砒素、硫砒鉄鉱など)と呼ばれる黒灰色の鉱石が産出した。砒石には猛毒である砒素化合物を大量に含んでおり、これを焼成した上で細かく砕いたものは亜ヒ酸を主成分とし、殺鼠剤とした。この殺鼠剤は主に販売上の戦略から、全国的に知れ渡った銀山名を使い、「石見銀山ねずみ捕り」あるいは単に「石見銀山」と呼ばれて売られた。金銀の精錬工程として当時の日本においては先進的であった「灰吹法」という技術が使われ、その際に酸化鉛の粉塵を吸い込んだ鉱夫たちは急性または慢性の鉛中毒を発症した。鉛には発がん性もあると考えられているので、坑道内の出水・高温多湿や鉱滓・煤塵などの劣悪な環境も相まって、当時の鉱夫は短命であったといわれる。大森地内に各宗派の寺院が多数あることや、古文書の研究からその平均寿命はおよそ30才程度であり、家族構成はその多くが独身もしくは夫婦のみ、と伝えられている。「灰吹法」と似たものとして、水銀を用いるアマルガム法がある。 1977(昭和52)年に作家の杉本苑子は代官井戸平左衛門正明を題材にした小説「終焉」を発表。 ■灰吹法(はいふきほう) 灰吹法は、金や銀を鉱石などからいったん鉛に溶け込ませ、さらにそこから金や銀を抽出する方法。金銀を鉛ではなく水銀に溶け込ませるアマルガム法と並んで古来から行われてきた技術で、旧約聖書にも記述がある。
日本国内の鉱石から精錬された「銅」はかなりの量の金銀を含んでいたが、それまで日本にはこれを銅から分離する技術がなく、古くからこの技術をもつ明(みん)やヨーロッパといった大陸諸国の商人は日本から安く購入した銅から大量の金や銀を取り出して利益を得ていた。 粗銅から灰吹き法で金銀を取り出す南蛮吹きは、まず銅を鉛とともに溶かしてから徐々に冷却し、銅は固化するが鉛はまだ融解している温度に保つ。すると銅は次第に結晶化して純度の高い固体となって上層に浮かび、金銀を溶かし込んだ鉛が下層に沈む。この融解した状態の鉛を取り出して、骨灰の皿の上で空気を吹き付けることによって金銀を回収することが可能になり、安価な粗銅の形での海外流出が止んだ。なお、今日の近代工業において粗銅地金から貴金属などを分離する方法は、電解精錬に移行している。 ◆絹 日本にはすでに弥生時代に絹の製法は伝わっており、律令制では納税のための絹織物の生産が盛んになっていたが、品質は中国絹にはるかに及ばず、また戦乱のために生産そのものが衰退した(室町時代前期には21ヵ国でしか生産されていなかったとする記録がある)。 ▼石見銀山の世界遺産登録 市・県・国による文化財指定と保護 石見銀山にある歴史的な建造物や遺構は市・県・国などによって文化財に指定され、保護されてきました。1967(昭和42)年に石見銀山は島根県から「大森銀山遺跡」として県指定史跡に指定され、さらに1969(昭和44)年には国から「石見銀山遺跡」として史跡に指定されました。さらに、大森地区の町並みについても鉱山町で、1987(昭和62)年に重要伝統的建造物群保存地区に選定され、銀の積出港であった温泉津地区の町並みについても港町・温泉町として2004(平成16)年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
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日本 Nippon 石見銀山、世界遺産に登録、2007 日本 2008/10/23 発行 世界の舞台:タルタリア図 日本 2008/10/23 発行 |
参考HP〜 ・1540年発行の新世界地図(日本と中国を明示、青線は北西航路を示す) ・ポトシ銀山 いつ行ってきたんだろう? ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/1/23、12/4/19、14/5/6 |