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★イギリス | ドレーク船長 Captain Drake 1577 世界一周航海 1580 |
大航海物語★ |
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ガラパゴス諸島への航海地図 | |||
ガラパゴス諸島の地図 | エクアドル | ||
ドレーク船長 | ゴールデンハインド号 | ||
エクアドル 2006/12/29 発行
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Gambia ドレーク船長とゴールデン・ハインド号 ガンビア 2000/10/2 発行 |
ドレーク船長 |
ゴールデンハインド号 |
ナイト授与式 |
エリザベス1世女王 |
1580 ドレーク船長世界周航400年記念 1980 英領ヴァ−ジン諸島 1980/9/26 発行 |
ドレーク船長と ゴールデン・ハインド号 1578 |
NORFOLK ISLAND ノーフォーク島 1994 発行 ドレーク船長とGoldenHind号 1577〜80年の太平洋航海図 |
NORFOLK ISLAND ゴールデン・ハインド号 Golden Hind ノーフォーク発行 |
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ドレーク船長は西インド諸島のスペインの植民地や船を襲ったイギリスの海賊で、その戦利品(海賊行為で奪った財宝)をイギリスに持ち帰ってエリザベス一世女王からサーの称号を与えられました。西インド諸島から南米を回ってイギリスに帰る途中、太平洋で暴風雨にあって、南米最南端付近に漂着してから大西洋に出て、1578年ホーン岬とドレーク海峡を発見しました。後にスペインのアルマダとの海戦の司令官の一人となりました。 |
サー・フランシス・ドレーク (1543頃〜1596) Captein Sir Francis Dreke イギリスの航海者(海賊:私掠船)・のちに提督。南イングランド生まれで、初めは従兄のジョン・ホーキンスのもとで奴隷貿易に従事していました。 1568年ホーキンスと共にスペイン艦隊に襲われた事件(サン・ホワン・デ・ウルーアの戦い)を契機に、船を調達して船長となりました。1570年以降、西インド諸島でスペインの船や町を襲う海賊活動を始めました。 1577年から1580年にかけて、大西洋からマゼラン海峡を経て太平洋にも進出。この方面のスペインの植民地や船を襲って、多大の財宝を奪いました。1578年には南アメリカ・アルゼンチンのリオ・デ・ラ・プラタに寄航しました。1579年にはアフリカのシエラレオーネに行き奴隷を獲得しました。 1577年にグレンヴィル船長がマゼラン海峡回りの世界一周航海計画を立案していましたが、エリザベス1世女王がその計画実行の栄誉をドレーク船長に与えましたので、1577/11/15にドレーク船長はスパニッシュ・ガレオン船に偽装したゴールデン・ハインド号(約100屯)を旗艦とする5隻の艦隊で、イングランドのプリマス港を出帆しました。ところが折悪しくファルマス岬(Falmouth, Cornwall)付近で嵐に遭遇して、船体に損傷を受けたためプリマス港に戻り修理をして、12/13に再度の出帆となりました。 ・ドレーク船長の5隻の船団:〜 ・ゴールデン・ハインド号(Golden Hind、元ペリカン号(Pelican)100t) ・クリストファー号(Christopher) ・補給船スワン号(flyboat Swan) ・などに164人の勇敢な船乗りの男達を乗船させていました。 ・6隻目はケープ・ヴェルデ沖でポルトガル商船サンタマリア号を拿捕してマリー号(Mary)と名付け、南アメリカの海に詳しいヌーノ・ダ・シルヴァ船長(Nuno da Silva)を水先案内人に起用。スワン号とマリー号は大西洋の横断で多くの乗員を亡くしたので、1578/6/15にパタゴニアのサン・ジュリアン湾(Puerto San Julian, Patagonia, Santa Cruz Province, Argentina)に寄航して、マリー号は焼き捨てました。他の3隻は8月にマゼラン海峡へと向かいましたが、嵐に遭遇してホーン岬を回航できたのはゴールデン・ハインド号だけでした。 |
ドレーク船長 世界一周航海(1577-1580)へ出帆 1577 |
ドレーク船長 |
ゴールデンハインド号 |
ナイト授与式 |
エリザベス1世女王 |
British Virgin Islands 17世紀の世界地図 1580 ドレーク船長世界周航400年記念 1980 英領ヴァ−ジン諸島 1980/9/26 発行 小型シート |
1577年にグレンヴィル船長がマゼラン海峡回りの世界一周航海計画を立案していましたが、エリザベス1世女王がその計画実行の栄誉をドレーク船長に与えましたので、1577/11/15にドレーク船長はスパニッシュ・ガレオン船に偽装したゴールデン・ハインド号(約100屯)を旗艦とする5隻の艦隊で、イングランドのプリマス港を出帆しました。ところが折悪しくファルマス岬(Falmouth, Cornwall)付近で嵐に遭遇して、船体に損傷を受けたためプリマス港に戻り修理をして、12/13に再度の出帆となりました。 |
ドレーク船長 ココス島寄航 |
ドレーク船長 |
ココス島の地図 |
ドレーク船長の世界一周航海地図 ゴールデンハインド号の航海、下の線(喜望峰経由) 上の線は後世の航海(スエズ・パナマ運河経由) |
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ココス島 1980 発行 |
この後、太平洋を横断し香料諸島にたどり着いて香料を積み込み、インド洋から喜望峰を回ってイギリスへ帰国し、マゼランに次ぐ第二の世界周航を達成しました。 |
ドレーク船長 世界一周航海(1577-1580)を達成 ジャガイモとタバコ 1580 |
BULGARIA ドレーク船長 ブルガリア 1992/4/22 発行 |
St.Hlena ドレーク船長とゴールデン・ハインド号 セントヘレナ 発行 |
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CISKEI ドレーク船長の世界一周航海地図 シスカイ 1993/5/19 発行 |
PERU ジャガイモ ペルー 1982/12/27 発行 |
TURKIYE タバコの葉 トルコ 1965 発行 |
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1580年9月に、出発時には5隻いた船隊はゴールデン・ハインド号(約100t)だけがプリマス港に帰港し、国王に金銀財宝を献上しました。この功績により、時のイギリス国王・エリザベス一世女王より爵位を賜り、ナイトに叙されました。この時にジャガイモを持ち帰ったといわれています。ひと時、プリマス市長や国会議員に選ばれましたが、再び海に戻り、1585〜86年・西インド諸島に遠征しました。タバコは1585年にドレーク船長が始めて西インド諸島から持ち帰ったと言われています。なお、コロンブス説もありますが、噛みタバコはアメリゴ・ヴェスプッチが伝えたと言われています。 08/11/30追記 | ナイト授与式 |
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ドレーク船長と エリザベス・ボナベンチャー号 1585 |
REPUBULIQUE de DJIBOUTI ドレーク船長 ジブチ 2010 発行 |
BRITISH VIRGIN ISLANDS ドレーク船長の乗船エリザベス・ボナベンチャー号 英領ヴァージン諸島 1970/2/16 発行 |
1585年、ドレーク船長は西インド諸島に行く道すがらビゴを掠奪、サント・ドミンゴとカルタヘナを襲撃し、同年夏には自分の船隊として25隻を集めてサント・ドミンゴ沖に集結しました。その編制は女王の船エリザベス・ボナベンチュア号(600トン)とエイド号(250トン)、それ以外は私有船で、ガレオンのレスター号(400トン)、ロンドンの分遣隊のプリムローズ号を含み、そうした船以外は英国西部諸州の船でした。ドレイクの旗は、そのころの最も大胆かつ練達の士官であったトーマス・フェンナー(?-1590?)船長指揮のエリザベス・ボナベンチュア号に掲げられました。副船団長はマーティン・フロビシャーでプリムローズ号、女王の従兄弟で女王の寵臣のレスターの義弟フランシス・コーリーはレスター号の副船長、ウィリアム卿の息子のエドワード・ウィンター船長はエイド号、クリストファー・カーライルは海兵隊を率いる大隊長、ドレーク船長の最も若い弟トーマス・ドレイクはフランシス卿のトーマス・ドレイク号を指揮、トム・ムーンは老人の一人で海賊時代のドレイクの忠実な仲間でしたが、ドレイクの別の持ち船フランシス号、世界一周航海のとき彼が仕込んだ一味であるジョージ・フォルテスクはバークのボナー号、ジョン・マーティンはベンジャミン号、優秀な数学者かつ技術者のエドワード・ケアレスはホープ号、そしてリチャード・ハクルートがガリオト(小型ガレー)のデューク号の船長として初指揮を取っていました。総兵力は、兵士、水夫、フランス人、ポルトガル人、そして1人のカステリア人を含む2300人で、その何人かは強制徴発された船員でした。 1585年にドレイク船長はカーボ・ヴェルデのサンチャゴ島ポルトガル人居住地の町”リベイラ・グランデ”(現シダーデヴェリャ)をを襲撃し、略奪しました。 1585年にドレイク船長の艦隊はサー・ウォルター・ローリーが1584年に送り込んでいたノース・カロライナのロアノ−ク島入植者の生存者を乗船、救出してイギリスへ帰国させました。 帰国後の、1587/4/29に26隻の艦隊で、スペインのカデイス港を襲撃、スペインの37隻の船を破壊、集結していたスペイン無敵艦隊”アルマダ”に大被害を与えました。 1587/4/2には23隻の艦隊を指揮して出帆、その中には女王所有の4隻のガレオン船と2隻のピンネス船があり、その冒険航海資金は共同出資の方式で調達されました。アゾレス諸島沖で、インド洋から帰港中の大型スパニッシュ・カラック船のサン・フェリペ号を拿捕、その船は豪華な財宝(114千ポンド)を積んでいました。それはドレーク船長が遠征に掛けた費用の2倍以上の額で、その捕獲金は女王に(4万ポンド)、ロンドンの商人達に(17千ポンド)配分され、その残りがその他の冒険投資家に分けられました。それはそれぞれの出資額から費用を差し引いたとしても、十分な利益が有ったと記録されています。 |
ドレーク船長の セントキッツ島寄航 1585 |
ドレーク船長 |
ドレーク船長の紋章 |
セントキッツの地図 |
ドレーク船長のゴールデン・ハインド号 |
1585 セントキッツ寄航400年記念 1985 セントキッツ 1985 発行 |
1585年、ドレーク船長は西インド諸島に行く道すがらビゴを掠奪、サント・ドミンゴとカルタヘナを襲撃し、同年夏には自分の船隊として25隻を集めてサント・ドミンゴ沖に集結しました。その編制は女王の船エリザベス・ボナベンチュア号(600トン)とエイド号(250トン)、それ以外は私有船で、ガレオンのレスター号(400トン)、ロンドンの分遣隊のプリムローズ号を含み、そうした船以外は英国西 |
ドレーク船長と アルマダの海戦勝利 1588 |
“1588 アルマダの海戦勝利400年記念 1988” イギリス 1988/7/19 発行
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イギリス帝国艦隊がスペイン帝国の無敵艦隊(アルマダ)を撃破・勝利 |
ドレーク船長は1588年のスペイン無敵艦隊・アルマダ(ARMADA)の来襲時には、司令官の一人として迎撃に出撃して活躍しました。火船戦術で敵スペイン・アルマダ艦隊を混乱に陥れたと記録されています。海戦中の1588/8/8.フランス・カレー近くの海上で「提督」に昇進しました。 1588年、リスボンを出発したスペイン無敵艦隊はラ・コルーニャ港に寄港してから、イギリス海峡に出撃し大敗しました。翌年、エリザベス1世女王はフランシス・ドレークの艦隊をラ・コルーニャに派遣。町はスペインのマリア・ピタを先頭に侵略に対抗し、イギリス軍艦隊は修道院を焼いた後に撤退しました。 ・参考HP〜ラ・コルーニャの戦い地図(スペイン) |
ドレーク船長 1595 最後の航海 |
ドレーク船長 イギリス 発行 |
България (BULGARIA) ドレーク船長とゴールデン・ハインド号 ブルガリア 発行 |
St.Kitts ドレーク船長の乗船 ゴールデン・ハインド号 セントキッツ 発行 |
ドレーク船長最後の航海は1595/8/28にエリザベス女王の持ち船
ホーキンス船長はプエルト・リコ東方のヴァージン諸島で発病し、プエルト・リコのサン・ファンで亡くなりました。 ドレーク船長は1596/1/28.早朝、キュラソー島のノンブレ・デ・デイオス川の港(年末に、ここを焼き討ち)のガーランド号上で赤痢により亡くなり、水葬に付されました。53才頃の事でした。その後、プエルト・ベロを攻撃し2/6には2000人の生存が確認され、5月にプリマスに帰港しましたが、そのほとんどが病人であったと記録されています。彼らの航海者魂(海賊魂?)は、その後の多くのイギリス航海者によってジョンブル魂として引き継がれました。 参考HP〜 ・ヴァージン諸島の地図 ・キュラソー島の場所地図(日本語) ・プエルトリコ島の場所地図(日本語) ・ホーン岬 Cape Horn ホーン岬は南アメリカ最南端の岬で、南緯55度99分・西経67度16分に位置し、スペイン語ではオルノスと呼ばれています。フェゴ島南部、チリ側のウォラストン諸島中最も南の小島(オルノス)に有ります。 1578年ドレーク船長によって、始めて発見(目撃)され、1616年、ここを回航したオランダ人スハウテン船長が自分の故郷の町にちなみ「ホーン岬」(Cape Hoorn)と命名しました。 参考HP:〜 ・マゼラン海峡の地図 ・ホーン岬の地図
・ホーン岬とドレーク海峡の地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 12/5/28追記、2017/2/15 |