United Kingdom![]() 国連 1983 発行 |
切手で綴る イギリスの大航海(Great Adventure
Voyage)初期(II-3)
マーチン・フロビシャー船長 1576 フロビシャー湾を発見 |
大航海物語 イギリス編★ |
CANADA フロビシャー船長と氷山 ![]() カナダ 1963 発行 |
マーチン・フロビシャー船長![]() イギリス 1972 発行 |
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イングランド生まれのフロビシャー船長は1576・1577・1578年と3度に渡ってグリーンランドの西に大航海をなし、カナダのバフィン島のフロビシャー湾やレゾリューション島を発見しました。1585年のドレーク船長の西インド遠征襲撃艦隊に加わり、1588年のスペイン無敵艦隊アルマダの来襲時にはトライアンフ号に乗船して戦い勝利し、エリザベス1世女王から爵位を授けられました。1596年のローリーのスペイン襲撃に加わり大戦果を挙げ、フランスのブレスト攻撃で重症を負って帰港後に亡くなりました。 |
サー・マーチン・フロビシャー船長 Sir Martin Frobisher(1535頃〜1594/11/22) プロビシャー船長はアイルランド系の家庭で5人兄弟の末っ子で英国ヨークシャー州ウェストヨークシャー(#1D37)ウェークフィールドで生まれ、父が早くに亡くなったので、ロンドン(#1H)の母の弟ヨーク卿(Sir John Yorke,1490頃-1569)のもとに預けられました。ヨーク卿は1533年にアフリカのギニア方面への航海船団へプロビシャーを乗組ませて海へ出しました。翌年のギニアへの航海船団では人質状態で、少なくともモロッコへ1回は行ったもようですが、ポルトガルの交易所エル・ミナに引き渡されてサン・ジョルジェ・ダ・ミナ城に投獄されました。9ヵ月ほど後にポルトガルはフロビッシャーをポルトガルに送り釈放して、1558年頃にイングランドに帰国しました。1559〜1562年の間はヘンリー・ストラングウェイズ船長(Henry Strangways, 1500頃-1562没)という海賊(私掠船、Privateer)と組んで、スエズのポルトガル入植地を襲いました。1563年にアイルランドへの航海の途上、大嵐で流されてグリーンランド西方に陸地を望見、そこの海が後にプロビシャー湾と名付けられました。1565年頃からフロビシャー船長と呼ばれるようになり、1571-1572年の間はアイルランド沿岸への公認航海に従事し、その間に最低3回の海賊行為を働きました。1559/9/30に2人の幼い子持ちのヨークシャーの未亡人イソベル・リチャード(Isobel Richard, 1588貧民院没)と結婚しました。 プロビシャーの北西航路探査の大探検航海:〜バフィン島への大航海 第1回:41才頃〜1576/6/07〜10/9:3隻、35人。 第2回:42才頃〜1577/5/27〜9/23:3隻、150人。 第3回:43才頃〜1578/6/30〜10月初め:15隻、移住者100人。 1560年の早い時期にインドや中国(カタイ"Catai"アジア)への貿易航路の北西航路(Northwest Passage)探査を目論むも、その必要資金の援助を手に入れるのに15年を費やしました。モスクワ会社(Muscovy Co., 1555-1917)の役員マイケル・ロック(Micheal Lok, 1532頃-1621頃)の援助で航海免許を貰い、十分な資金を得て、 ・バーク船(Barks)のガブリエル号(Gabriel、25t) ・バーク船マイケル号(Michael、20t) ・ピンネス船(Pinnace、10t) の3隻の帆船と35人の乗組員を確保して航海の準備ができました。 1576/6/7にロンドン港タワーハムレッツ(#1H66)ブラックウォール桟橋(Blackwall)を出帆。シェトランド諸島(#2-32、英スコットランドの諸島)へと向かいました。大嵐で、ピンネス船を失い、マイケル号も放棄して、7/8にガブリエル号はカナダのラブラドール(Labrador, NL)を望見しました。数日後にカナダ北東部ヌナブト準州(NU)にあるバフィン島(Baffin Island)のフロビシャー湾(Frobisher Bay)に到着するも、氷と風でそれより北には進めませんでした。それでも、そこは海峡でもっと北には開けた海があると考えて、その海峡(後でプロビシャー湾と判明)を通過しょうと決しました。7/26にレゾリューション島(Resolution Island)を発見。1756/8/18にバフィン島に到着。そこで原住民イヌイット族(Inuit)に出会い、道案内を頼みましたが失敗して、そこを離れて出帆。10/9にロンドンに戻りました。乗組員の一人が「黒い石」(Ore:Iron Ore:鉄鉱石)を持ち帰っていましたが、検査官は金塊とは認めませんでした。 第2回目の航海の準備をモスクワ会社の援助で準備して、英王立海軍払い下げの ・エイド号(Ayde) ・ガブリエル号(Gabriel) ・マイケル号(Michael) の3隻に乗組員が採掘者、精製業者、市民、軍人で構成されて150人となり、前よりは規模のやや大きい遠征隊が準備できました。 1577/5/27にブラックウォール桟橋を出帆、スコットランドの北方を航海して、フロビシャー湾の入り口の島、ホール島(Hall's Island)に7/17に到着。数日間、付近を調べてイギリス女王の名において領有(British Arctic Territories)を宣言しました。数週間かけて鉱石(Ore)を採集、200tの鉱石を3隻の船に積み込んで8/25に出帆。9/23にエイド号はウェールズのペンブルックシャー州(#3-22)ミルフォード港(Milford Haven)に帰港しました。数日遅れてガブリエル号はイングランド南西部(#1@2)ブリストル港(Bristol)、マイケル号はノーフォーク州(#1A16)ヤーマス港(Yarmouth)に戻りました。持ち帰った鉱石は1屯当り£5の値がつき大もうけをしました。それに勇気付けられて3回目の航海を計画しました。 第3回目の航海は、 ・エイド号(Ayde)旗艦(Flagship) ・マイケル号(Michael) ・ガブリエル号(Gabriel) ・ジュディス号(Judith) ・デニス号(Dennis) ・アン・フランシス号(Anne Francis) ・トーマス・アレン号(Thomas Allen) ・アルメナル号(Armenall) ・ホープウェル号(Hopewell) ・フランシス号(Francis)ヘレフォードシャー州フォイから傭船(#1F47) ・ムーン号(Moon)フォイ(#1F47) ・ベア号(Bear)レスター州(#1C33) ・トーマス号(Thomas)サフォーク州イプスウィッチ(#1A17) ・エマニュエル号(Emanuel)サマセット州ブリッジウォーター(#1@1) ・ソロマン号(Soloman)ドーセット州ウェイマス(#1@5) の15隻に乗組員の他に100人の移住者を乗せて、 1578/6/30に英エセックス州(#1A10)ハーウィッチ港を出帆、英仏海峡を通過。6/20にグリーンランドに到着し、基地を設営後に出帆、7/2にフロビシャー湾の向こうに岬(Freland)を望見。荒天と危険な氷が接近を阻みました。バーク船デニス号(Dennis、100t)が難破し、艦隊は新しい海峡上へ知らず知らずに向かっていました。それは現ハドソン湾の方向でしたが、なんとかフロビシャー湾に入って投錨しました。鉱石の積み込みと居住地の設営後の8月の最後の日に船隊は出帆して帰途につき、10月の初めにイギリスに戻りました。プロビシャー船長が持ち帰った鉱石は最終的に1,350tにのぼったと伝えられています。 1580年にスペイン無敵艦隊アルマダの動きが活発となり、それを阻止するためのイギリス海軍の艦長になりました。1585年の夏にはドレーク船長の西インド・カリブ海遠征艦隊の25隻が集まって、その内の一隻の副船団長として海軍少将でプリムローズ号(HMS Primrose)船長に就任して参加して、キューバのサント・ドミンゴ沖に集結し、カリブ海周辺のスペイン入植地を荒らし回りました。
なお、プロビシャー湾(Provisher Bay, NU, Canada)はカナダのノースウェストテリトリーズのヌナブト準州(NU)にあるパフィン島の南東端にある湾です。周辺にはフィヨルドやツンドラが多くあります。湾頭にはプロビシャー・ベイ(Provisher Bay Town)という人口12,388人(1982)の町が有り、空軍基地が設置されています。
参考HP〜 ![]() ・スペイン無敵艦隊の航海地図(1588) ・英ウェークフィールドの地図(Wakefield, Yorkshire, England, UK) ・英シェトランド諸島の場所地図(Shetland Islands, Scotland, UK) ・英ハーウィッチの地図(Harwich, Essex, England, UK) ・バフィン島の場所地図(Baffin Island, Canada) ・フロビシャー湾の場所地図(Frobisher Bay, Canada) ・プロビシャー湾の場所地図(中央 & Resolution Island:レゾリューション島も有) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2007/5/10、2008/10/15改訂・補追、令和7年 2025/8/25追記 |