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★イギリス | マーチン・フロビシャー 1576 フロビシャー湾を発見 |
大航海物語★ |
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マーチン・フロビシャー イギリス 1972 発行 |
St.Helena 16世紀のイギリス戦列艦 HMS Desier 1588 セントヘレナ 1998/8/25 発行 |
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イングランド生まれのフロビシャーは1576、1577、1578年と3度に渡ってグリーンランドの西に大航海をなし、カナダのバッフィン島のフロビシャー湾やレゾリューション島を発見しました。1585年のドレーク船長の西インド遠征襲撃艦隊に加わり、1588年のスペイン無敵艦隊アルマダの来襲時にはトライアンフ号に乗船して戦い勝利し、エリザベス1世女王から爵位を授けられました。1596年のローリーのスペイン襲撃に加わり大戦果を挙げ、フランスのブレスト攻撃で重症を負って帰港後に亡くなりました。 |
サー・マーチン・フロビシャー Sir Martin Frobisher (1535〜1594/11/22) プロビシャーはアイルランド系の家庭で5人兄弟の末っ子でヨークシャー州ウェークフィールド(Wakefield, Yorkshire, England)で生まれ、ヨーク卿(Sir John Yorke)のもとに預けられ、ロンドンで教育を受けました。ヨーク卿は1533年にアフリカのギニア方面への航海船団へプロビシャーを乗組ませて海へ出しました。翌年のギニアへの航海船団では人質状態で数ヵ月を過ごしました。その後、少なくともモロッコへ1回は行ったもようで1559年に帰国しました。1559〜1562年の間はストラングウェイス船長(Strangeways)という海賊(私掠船、Privateer)と組んで、スエズのポルトガル入植地を襲いました。1563年にアイルランドへの航海の途上、大嵐で流されてグリーンランド西方に陸地を望見、そこの海が後にプロビシャー湾と名付けられました。1565年頃からフロビシャー船長と呼ばれるようになり、1571〜72年の間はアイルランド沿岸への公認航海に従事し、その間に最低3回の海賊行為を働きました。1559年に最初の結婚をしました。 プロビシャーの北西航路探査の大探検航海:〜バフィン島への大航海 第1回:41才〜1576/6/07〜10/9:3隻、35人。 第2回:42才〜1577/5/27〜9/23:3隻、150人。 第3回:43才〜1578/6/30〜10月初め:15隻、移住者100人。 1560年の早い時期にインドや中国(カタイ"Catai"アジア)への貿易航路の北西航路(Northwest Passage)探査を目論みましたが、そのプロジェクトの必要資金の援助を手に入れるのに15年をついやしました。モスクワ会社(Muscovy Company)の役員(Micheal Lok)の援助を得て会社の航海免許を貰いました。フロビシャーは十分な資金を得て、バーク船(barks)のガブリエル号(Gabriel、25t)とマイケル号(Michael、20t)、そしてピンネス船(Pinnace、10t)の3隻の帆船と35人の乗組員を確保して準備できました。 1576/6/7にプロビシャーはロンドン港ブラクウォール桟橋(Blackwall)を出帆し、シェトランド諸島(Shetland Islands、イギリスのスコットランド王国に属している諸島)へと向かいました。大嵐で、ピンネス船を失いマイケル号も放棄しましたが、7/8にガブリエル号はラブラドール(Labrador)を望見しました。数日後にバフィン島(Baffin Island)のフロビシャー湾(Frobisher Bay)に到着しましたが、氷と風でそれより北には進めませんでした。それでも、そこは海峡でもっと北には開けた海があると考えて、その海峡(後でプロビシャー湾と判明)を通り抜けようと決しました。7/26にレゾリューション島(Resolution Island)を発見。1756/8/18にバッフィン島に到着。そこで原住民(Inuit)に出会い、道案内を頼みましたが失敗して、そこを離れて出帆し、10/9にロンドンに戻りました。乗組員の一人が「黒い石」(ore)を持ち帰っていましたが、検査官は金塊とは認めませんでした。 第2回目の航海の準備をモスクワ会社の援助で準備して、王立海軍払い下げのエイド号(HMS Ayde)とガブリエル号、マイケル号で乗組員が採掘者、精製業者、市民、軍人で構成されて150人となり、前よりは規模のやや大きい遠征隊が準備できました。 1577/5/27にブラクウォール桟橋を出帆、スコットランドの北方を航海して、フロビシャー湾の入り口の島、ホール島(Hall's Island)に7/17に到着。数日間、付近を調べてイギリス女王の名において領有(British Arctic Territories)を宣言しました。数週間かけて鉱石(ore)を採集、200tの鉱石を3隻の船に積み込んで8/25に出帆、9/23にエイド号はミルフォード港(Milford Haven)に帰港しました。数日遅れてガブリエル号はブリストル港(Bristol)、マイケル号はヤーマス港(Yarmouth)に戻りました。持ち帰った鉱石は1屯当り£5の値がつき大もうけをしました。それに勇気付けられて3回目の航海を計画しました。 1578/6/30にハーウィッチ港(Harwich, Essex, England)を15隻で乗組員の他に100人の移住者を乗せて出帆、英仏海峡を通過、6/20にグリーンランドに到着し、基地を設営後に出帆、7/2にフロビシャー湾の向こうに岬(foreland)を望見。荒天と危険な氷が接近を阻みました。バーク船デニス号(Dennis、100t)が難破し、艦隊は新しい海峡上へ知らず知らずに向かっていました。それは現ハドソン湾の方向でしたが、なんとかフロビシャー湾に入って投錨しました。鉱石の積み込みと居住地の設営後の8月の最後の日に艦隊は出帆して帰途につき、10月の初めにイギリスに戻りました。プロビシャーが持ち帰った鉱石は最終的に1350tにのぼったと伝えられています。 1580年にスペイン無敵艦隊アルマダの動きが活発となり、それを阻止するためのイギリス海軍の艦長になりました。1585年の夏にはドレーク船長の西インド・カリブ海遠征艦隊の25隻が集まって、その内の一隻の副船団長として海軍少将でプリムローズ号(HMS Primrose)艦長に就任して参加して、キューバのサント・ドミンゴ沖に集結し、カリブ海周辺のスペイン入植地を荒らし回りました。 1588年のスペイン・アルマダの来襲時にはトライアンフ号(HMS Triumph)に乗船して戦い勝利し、エリザベス女王から爵位を受領し、サー・フロビジャー卿となりました。1590年まで英仏海峡守備をなし、スペイン沿岸を英国小艦隊で襲撃しました。 1591年にウェンワース卿(Lord Wentworth)の令嬢と2度目の結婚をしました。1596年にサー・ウォルター・ローリーの艦隊でジョン・デイヴィス船長などと、スペインのカディス港を襲撃して大戦果を上げ、莫大な恩賞にあずかりました。1594年にはフランスのブレスト(Brest)の包囲攻撃の艦隊指揮を執り、クローゾン砦(Fort Crozon)からの砲撃で負傷して重傷を負い、プリマス港(Plymouth)に戻った11/22に59才で亡くなりました。 なお、プロビシャー湾はカナダのノースウェストテリトリーズにあるパフィン島の南東端にある湾です。周辺にはフィヨルドやツンドラが多くあります。湾頭にはプロビシャー・ベイという人口12388人(1982)の町が有り、空軍基地が設置されています。 参考HP:〜 ・北アメリカ東岸地図 ・アルマダの海戦地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2007/5/10、 08/10/15改訂・補追 |