切手で綴る スペインの大航海 (Adventure Voyage)西回りインド大航海(1-10) | ||||
★マゼラン物語 |
第1章 第2章 第3章 第4章 |
Spain 国連 1988 発行 |
第1章
ポルトガル マ ゼ ラ ン 1480〜1513 ポルトガル時代 |
大航海物語 スペイン編★ |
Portugal ポルトガル人大航海者 マゼラン船長 navegnadores portuguses 1519 fermao de magalhaens ポルトガル 1945/1/29 発行 |
南アメリカ→ マゼラン海峡→ |
Bequia Grenadines of St.Vincent
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←スペイン ←アフリカ ←希望峰 |
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1788 アメリカ合衆国憲法200年記念 1988 セント・ヴィンセント・グレナディーン 1988/1/11 発行 |
マゼランは世界一周航海の途上、太平洋を横断して、1521/3/17にフィリッピンのレイテ湾内のサマール島南のオモンオン島に上陸しましたが、フィリピンのマグダン島の戦いで戦死しました。生き残りの一行はエルカノ船長に率いられて、ただ1隻残った”ヴィクトリア号”でスペインへ帰港できました。そして、ピガフェッタの日記は世界一周で日付に一日のずれが出来ていました。 |
フェルディナンド・マゼラン Ferdinand Magalian (1480〜1521) マゼランは、ポルトガル語では ”Fermao de Magelhaes” ポルトガルのヴィラ・レアル県を流れるドゥロ河(Douro river, 897km)河口の街オポルト(Porto)の上流サブローサ村(Sabrosa, Vila Real District, Portugal)で生まれたこと以外の若い頃の詳しい記録は不明です。 1505年25才でアルメイダ提督の艦隊に参加してインドへ行き、1509年セケイラ(Diogo Lopes de Sequeira, 1465-1530)の艦隊で、マラッカを訪れ、1511年のアルブケルケ将軍によるマラッカ攻略に参加し、1512年ポルトガルへ帰国しました。この7年間におよぶインド洋方面での活躍は、バスコ・ダ・ガマ提督のインド航路発見を契機としての、ポルトガルの東方諸国制圧の時期でした。 1505年のアルメイダ提督の20隻の艦隊による、エジプト、インドの要所の制圧。1506/3/16にアラビアやペルシャの商人たちの協力を得てのインドのカリカットのサモリン王(Zamorin of Calicut)の200隻による急襲反撃と、その迎撃と勝利によるインド沿岸の支配権の獲得。この戦闘を「カナノールの海戦」(Battle of Cannanore, 1506)といい、この海戦の船乗りの一員としてマゼランも参加。そして当時、「マラッカ海峡を制する者は世界を制する」といわれて、ポルトガルは、コショウ、クローブ、ルビー、陶器、象牙、カシミヤ、白檀、じゅうたん、奴隷などの交易で賑わっていたマラッカの領土化を目指し、1511年に艦隊を派遣しました。この艦隊にもマゼランは参加していました。このポルトガルのマラッカ制圧戦で数々の功績を残した若き士官マゼランは、マライ攻略の立て役者としての功績で指揮する大型カラベラ船の1隻と個人的な奴隷マラッカのエンリケ(Enrique of Malacca)を与えられました。引き続いて、ポルトガルは香料諸島への遠征隊を派遣するも、この香料諸島遠征隊にはマゼランは参加していなかったものの従兄弟のフランシスコ・セラーン(Francisco Serrao, 生年不詳-1521マルク諸島テルナテ島没)が参加していました。 参考HP:〜 ・ポルトガルの場所地図 |
★マゼラン物語 |
第1章 第2章 第3章 第4章 |
第2章 スペイン
マゼランとカール5世 1517 スペインに移住 |
スペイン★ |
BULUGARIA マゼラン船長 ブルガリア 1992/4/22 発行 |
ESPANA カール5世 1500 カール5世生誕500年記念 2000 スペイン 2000/2/24 発行 |
CHILE マゼランの世界一周航海 |
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マゼランの船隊
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マゼラン海峡を通過するマゼラン船隊
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コロンブスの新大陸発見500年記念 ”UPAEP”の紋章付、本部はメキシコのプエブロに有 (The Universidad Popular Autonoma del Estado de Puebla) チリ 1991/10/14 発行 |
このように、ポルトガルの東方征服の航海に参加して、数々の貴重な試練を積んだマゼランは、リスボンへ帰りました。彼らが、南海の暑い太陽のもとで戦い、苦しみ、血を流して宝物を集めている間に、リスボンの街はエジプトのアレキサンドリアやイタリアのベネチアに代わる商業都市となっており、10年前の一小都市から豪華な世界の中心都市に変貌していました。マヌエル王家はヨーロッパで、もっとも富める君主になりつつありました。母国へ帰国したマゼランは、あまりにも変貌した港町リスボンの姿に驚かされると同時に、密かに財宝をかき集める高級貴族たちとは裏はらに、インドやマラッカにおける功績をたたえてもらえるわけでもなく、昔ながらの最下級貴族の一人として扱われたにすぎなかったのです。そして、これらの航海の報酬などが不満で、翌1513年のモロッコ遠征「アズマールの戦い」で、膝に重傷を負いながら勝利して獲得した戦利品を「国王に無断で独占した」として訴えられました。潔白は証明されたものの名誉を傷つけられ不満は絶頂に達しました。 そんなこんなで、1517年にスペインに移り、それまで持論として持っていた「西回りでトルデシーリャス条約でのスペイン領海域だけを通過してマルク(香料)諸島に達する航海」をスペイン国王カール5世に提案して航海の契約を締結しました。 1517年にスペインのセビリアでスペイン王に仕えていたポルトガル人ドゥアルテ・バルボーザ(Duarte Barbosa)が、スペインの関心事が西回りでの香料諸島到達であることを知り、ポルトガルで失意のなかにある古い友人のマゼランを見出しました。ファン・セラーノの従兄弟のフランシスコ・セラン(Francisco Serrao, ?-1521)の手紙で香料諸島への渡航を希望していたマゼランは、盟友である天文学者ルイ・デ・ファレイロ(Rui de Faleiro, コヴィリャン(Covilha)生-セビリア没?)を連れてバルボーザの誘いに応じました。また、マゼランはバルボーザの妹ベアトリス(Maria Caldera Beatriz Barbosa, ?-c1521セビリア没)と結婚しました。二人の子供ロドリゴ(Rodrigo de Magalhaes)とカルロス(Carlos de Magalhaes)はいずれも若くして亡くなったと伝えられています。 参考HP:〜 ・セビリアの場所地図 |
★マゼラン物語 |
第1章 第2章 第3章 第4章 |
第3章 世界一周
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スペイン★ |
MAGYARORSZAG マゼランとマゼラン海峡の古地図 ハンガリー 1992 発行 |
Bequia Granadenes of St.Vincent 15世紀の地球儀
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CORREOS DE CHILLE チリ発行「マゼラン海峡発見450年」記念 450 ANIVERSARINO DESCUBRIMENTO RESTRECHO DE MAGALLANES 1970 マゼラン海峡発見通過450年記念 チリ 1971/11/3 発行 |
POSTA ROMANA マゼラン、丸い地球上を進む船隊 450 ANI DE LA MOARTE 1971 マゼラン没後 450年 記念 ルーマニア 1971/12/2 発行 |
TERRES AUSTRALES ET ANTARCTIQUES FRANCAISES ヴィクトリア号 フランス南極地方 1972/1/31 発行 |
チリ 1944/3/2 発行 |
マ ゼラン |
PORTUGAL マゼランとエルカノの世界一周航海 1520年マゼラン海峡を発見 1519 マゼランとエルカノの世界一周航海500年記念 2019 ポルトガル 2019 発行 |
エ ルカノ |
マゼランは世界一周航海の途上1520年マゼラン海峡を発見し、太平洋を横断して、フィリピンに到達しました。 |
@トリニダート号(Trinidad (nao), 110t、55人) 香料諸島で香料を積み過ぎて沈没(異説有) (最初の船長マゼラン総司令官、オポルト生-1521/4/27マクタン島没) Aサンティァゴ号(Santiago, 75t、32人) マゼラン海峡で難破 (難破1520/5/3, Santa Cruz River, Argentina) (最初の船長フアン・セラーノ(Fregenal de la Sierra生-1521/5/1セブ島没) Bサン・アントニオ号(San Antonio, 120t、60人) マゼラン海峡で逃亡して帰国(ゴメス船長) (最初の船長フアン・デ・カルタヘナ(生年不詳-1520パタゴニア没) Cコンセプシオン号(Concepcion (carrack), 90t、45人) セブ島で乗員不足で焼き捨て (最初の船長ガスパル・デ・ケサーダ、生年不詳-1520イースター反乱で刑死) Dヴィクトリア号(Victoria (carrack), 90t、43人) 世界1周航海を達成 (最初の船長ルイス・デ・メンドーサ、生年不詳-1520パタゴニア没) という経過を辿りました。 ・主な乗組員(※生還者)
(注)、△:ヴィクトリア号帰還の4年後、1526年に虜囚の身でリスボンに帰還。 <イースター反乱> (Easter mutiny 1520/4/1〜4/2) 於:アルゼンチンのパタゴニアのサン・フリアン湾(港) (Bahia(Puerto) San Julian, Patagonia, Santa Cruz Province)。 ・トリニダート号の装備:〜 Trinidad、Flagship:1519年マゼラン船隊旗艦
参考HP:〜 ・パタゴニアの場所地図 |
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第1章 第2章 第3章 第4章 |
第4章 世界地図
マゼラン海峡発見と世界一周 1520 マゼラン海峡を通過、太平洋へ |
スペイン★ |
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CRREOS DE CHLE マゼラン海峡発見
(Christian Sgrooten 1532-1608作) チリ 1958 発行 |
1521年にマゼランが到達・発見した群島(フィリピン)は、その後スペイン領となり、当時の皇太子フェリペにちなんで「フィリピン」と名付けられたと言われていますが、ヴィリャロボス船長による命名説(フェリペ2世に因んで命名)という説も有ります。 参考HP:〜 ・マゼランの世界一周航海地図 ・マゼラン海峡の地図 ・マゼラン海峡の場所地図(日本語) ・マゼラン海峡の地図(日本語) こちらで ・マゼランの大航海の略年表 ・イースター反乱 ・マゼラン船隊の主な乗組員 ・ファン・セバスチャン・エルカノ ・スエズ運河 ・スパイス (香辛料) ・コーヒー (嗜好飲料) 世界遺産の ・ピラミッド (エジプト) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・姫路城 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 1998年、2007/3/15追加、12/3/14、12/7/27、令和 R.2:2020/4/10、令和 R.2:2020/6/20 |