France

国連 1980 発行
切手で綴る サフレン提督の従軍戦歴(4)
アメリカ独立革命戦争
フランスの参戦 1778
海戦 1775〜1782
 The naval operations of the American Revolutionary War
大航海物語
フランス編

ORDINE DI MALTA
フランス海軍
サフレン提督

1788 サフレン提督没後200年記念 1988
マルタ騎士団 1989 発行
REPOBLIKA MALAGASY
フランス海軍
デェスタイン提督
フランス海軍
グラス提督

アメリカ大陸軍の海軍
ジョン・P・ジョーンズ大佐

フランス海軍
ラファイエット将軍
1776 アメリカ独立戦争200年記念 1976
マダガスカル 1975/5/30 発行
ANGUILA
ワシントン将軍とチェサピーク湾の地図(赤丸)

1776 アメリカ独立革命200年記念 1976
アンギラ 1975 発行
USA
ロシャンボー将軍・ワシントン将軍・グラス提督

1781 アメリカ独立戦争ヨークタウンの戦い 150年 記念 1931
USA  1931/10/19 発行
アメリカ大陸軍の軍旗
13スター(星)

USA 2000 発行

アメリカ独立戦争
デラウェア河を渡るワシントン将軍
 (American Revolutionary War, 1775-1783)

アメリカ独立戦争、200周年記念
American Revolution, Bicentennial, Washington Crossing the Delaware
USA 1976 発行

BERMUDA
アメリカ大陸軍の火薬庫(バーミューダ島)

バーミューダ 1975/10/27 発行

大西洋の横断航海地図
ジェームス・タウン    シー・ヴェンチャー号の航海地図    プリマス イギリスを出帆する船団
北アメリカ プリマス港
西インド諸島
バーミューダ 1984 発行

アメリカ独立戦争 (1775-1783)
米・独立戦争の海戦(概要)
アメリカ独立戦争の海戦(1775-1782)
 (アメリカ独立戦争の海軍作戦行動
フランスの参戦(1778)
イギリスの米13植民地
<アメリカ独立戦争>
 (American War of Independence, 1775/4/19-1783/9/3)
 別名:アメリカ独立革命戦争
   (American Revolutionary War, 1775/4/19-1783/9/3)
アメリカ独立戦争は、イギリスアメリカ植民地13州が本国に対しての独立の戦いで、1775年に始まり、1776/7/4にアメリカ合衆国が独立宣言して、フランスの支援などもあって独立軍が勝利し、1783年にパリ条約で独立が承認されました。アメリカ独立戦争はアメリカ合衆国を成立させた戦争であり、同時に市民社会を成立させたブルジョワ革命なのでアメリカ独立革命(American Revolution)ともいわれています。
戦うアメリカ大陸軍兵士

ドミニカ 1976 発行
それはコロンブスが1492年に海の向こうで新世界を発見したという知らせがスペイン全土に伝わり、大勢のスペイン人がどっと大航海して海を渡って新世界で金銀財宝などを国へ持ち帰りしました。遅れをとっていたイギリス人は、手っ取り早く海賊まがいの私掠船を繰り出してスペインの財宝運搬船を襲ったりしましたが、宗教改革などで迫害された人々やその他の人達が、長い船旅をものともせずに夢と希望がかなうのを期待して新天地アメリカへ移住してきました。1607年にジョン・スミス船長が新大陸北アメリカのチェサピーク湾に上陸してジェームス・タウンを建設。 チェサピーク湾の地図(赤丸)
1620年にはピルグリムファーザーと呼ばれる人々が新世界アメリカへ移住。1624年にはベルギーのユグノー教徒の人達が新大陸フォート・オレンジに上陸してデュバル・カントリーを建設しました。やがて、イギリスの植民地が北アメリカ東部にできるも、イギリスが重税を課したので、1773年にボストン茶会事件が勃発。1775/4月にボストン郊外のレキシントンでの植民地軍とイギリス本国軍の本格的な衝突(レキシントン・コンコードの戦い)に始まり、1781/10月のヨークタウンの戦いでのアメリカ大陸軍の勝利で事実上戦闘が終わり、1783/9月のパリ条約で終結するまでの約8年間にわたって戦いが続けられました。なお、フランス(ルイ16世)は、アメリカ独立戦争にて1777年のサラトガ戦いでアメリカ独立軍が勝利し、形勢が逆転して戦局が独立軍に有利なのを見て、アメリカ大陸に於ける植民地回復の好機と考え、1778年に世界最初にアメリカ合衆国を承認して同盟を結び、独立軍を支援してイギリスへ宣戦して参戦しました。当初、駐仏アメリカ大使フランクリンの働きかけでアライアンス(仏米同盟)条約(Treaty of Alliance 1778/2/6)が結ばれたにもかかわらず、フランスはなかなか動かずも、アメリカ軍が優勢になったのを見きわめての参戦でした。そして、ブーゲンビル艦長ラ・ペルーズ艦長ラファイエット将軍ロシャンポー将軍グラス提督デェスタイン提督バウダン艦長などの率いるフランス艦隊を大西洋を越えて新大陸へと派遣し、サフレン提督艦隊やトロメリン艦長などを喜望峰を回ってインド洋へと派遣しました。また、1779年にはスペインが、1782年にはオランダ(2番目の承認国)がアメリカ側に参戦。これらの支援なくしてはアメリカ独立軍の勝利はなかったともいわれています。

・アメリカ独立戦争の戦い
▼陸戦の戦い
レキシントン・コンコード(Battles of Lexington & Concord, 1775/4/19)米の勝利
ボストン(Siege of Boston、1775/4/19-1776/3/17)米の勝利
バンカーヒル(Battle of Bunker Hill、ボストン包囲戦中の1775/6/17)英の勝利
ファルマス焼き討ち(Burning of Falmouth、1775/10/18)英の勝利
・グレートブリッジ(Battle of Great Bridge、1775/12/9)米の勝利
ロングアイランド(Battle of Long Island、1776/8/22-8/30)英の勝利
(別名:ブルックリンハイツの戦い:Battle of Brooklyn Heights)
・ホワイト・プレインズ(Battle Of White Plains、1776/10/28)英
・トレントン(Battle of Trenton、1776/12/26)米
・プリンストン(Battle of Princeton、1777/1/3)米
タイコンデロガ砦包囲戦(Siege of Fort Ticonderoga、1777/7/2-7/6)英
・オリスカニー(Battle of Oriskany、1777/8/6)内乱で引分、英は不参加
・ベニントン(Battle of Bennington、1777/8/16)米
アメリカ大陸軍兵士

USA 1975 発行
・ブランディワイン(Battle of Brandywine、1777/9/11)英
・スプリングフィールド(Battle of Springfield、1780/6/23)米
・キャムデン(Battle of Camden、1780/8/16)英
サラトガ戦い(Battle of Saratoga、1777/9/19 & 10/7)米
・ジャーマンタウン(Battle of Germantown、1777/10/4)英
・ホワイトマーシュ(Battle of White Marsh、1777/12/5-12/8)小競り合い, 英撤退
・モンマス(The Battle of Monmouth、1778/6/28)引分, 英撤退
・ジブラルタル(Great Siege of Gibraltar, 1779/6/24-1783/2/7)
ロードアイランド(Battle of Rhode Island、1778/8/29)英、米は奪還ならず
(別名:クェーカーヒルの戦い:Battle of Quaker Hill)
サバンナ包囲戦(Siege of Savannah, 1779/9/16-10/18)英
・ワックスホーの戦い(Battle of Waxhaws、1780/5/29)英
サラトガの戦い
降伏する英のバーゴイン将軍


USA  1975 発行
・カウペンス(Battle of Cowpens、1781/1/17)米
・ギルフォード(Battle of Guilford Court House、1781/3/15)英
・ホブカークスヒル(Battle of Hobkirk's Hill、1781/4/25)英
(別名:第二次キャムデンの戦い:Second Battle of Camden)
・グリーンスプリング(Battle of Green Spring、1781/7/6)引分
・ユートースプリングス(Battle of Eutaw Springs、1781/9/8)英
・キングスマウンテン(Battle of Kings Mountain、780/10/7)米
ヨークタウン(Battle of Yorktown、1781/9/28-10/17)米、最後の戦い
・ブルーリックス(Battle of Blue Licks、1782/8/19)英、東部では戦争が終わっていた
・など
※英:イギリス軍、米:大陸軍。
タイコンデロガ砦包囲戦

USA  1995/6/16 発行

<アメリカ独立戦争の海戦>(1775-1783)
 The naval operations of the American Revolutionary War
アメリカ独立戦争の海戦は、独立戦争の開始から、1783年のパリ条約でアメリカの独立が認められるまでの間に行われたアメリカ・イギリス・フランスなどの海軍の作戦行動で、2つの期間に分けられます。
1つ目の期間は、開戦の1775年から1778年の夏までで、イギリス海軍が大陸軍に対抗するイギリス陸軍と呼応して北アメリカの海岸・川・湖で活動した。更にイギリスの商船をアメリカの海賊行為(私掠船)から守ることも任務の一つでした。
2つ目の期間は、フランス・スペイン・オランダの参戦で、カリブ海
戦うアメリカのフリゲート艦
ミルフォード号


パラグアイ 1975 発行
やベンガル湾にまでの海戦に拡大したもので、1778年夏から1783年中程までの期間でした。アメリカ大陸で進行中の作戦や通商保護が目的のものもあるも、大きなスケールでの海軍力同士のぶつかり合いもありました。








) アメリカの戦い
) フランスの参戦
) 西インド諸島
) スペインの参戦
) 新大陸での最後の作戦行動
) 東インド方面作戦
(1775-1778)
(1778)
(1778-1779)
(1779-1780)
(1781-1782)
(1778-1783)
・アメリカ独立戦争の海軍作戦行動
  The naval operations of American Revolutionary War 1775-1783
(1)アメリカの戦い、1775-1778年
フランスが1778年に参戦するまでは、海戦は小規模のものに限られていた。アメリカ独立戦争が始まった時、イギリスは戦列艦を131隻持っていたが、海軍が七年戦争(1754-1763)時代の急ごしらえで質の落ちる艦を放置していたため、戦争開始時点で直ちに戦闘に使える戦列艦は39隻に過ぎなかったとされている。海軍大臣サンドウィッチ卿( John Montagu, 4th Earl of Sandwich, PC, FRS, 1718-1792)は艦船の更新計画を持っていたが、まだ実現していなかった。各泊地に派遣された提督たちは長い海岸線をパトロールするだけの
ジョン・P・ジョーンズ

USA 1979 発行
力がなかった。それでアメリカ独立戦争の最初の3年間は、主に陸軍の作戦の支援に回り、ボストン包囲戦ではトマス・ゲイジ将軍(Sir Thomas Gage, 1719-1787)やウィリアム・ハウ将軍(William Howe, 5th Viscount Howe, KB, PC、1729-1814)を助けて軍事物資や部隊の補給を行った。海岸の他の地点では、メイン州ファルマス(現ポートランド)の1775/10月の焼き打ちなどのように、沿岸の町への懲罰的な攻撃にイギリス海軍が使われるも、それは敵を弱らせるのでなく怒らせるだけであった。また1776/6月に行われたサウスカロライナ州のチャールストンへの攻撃は不首尾に終わった。私掠船が出撃する町を海上封鎖するという任務は目的を達せられなかった。故にイギリスの通商はアイルランド沿岸のような遠くの地においてすら深刻な脅威を受け、ベルファストの麻布貿易であっても海軍による護送が必要だった。

大陸軍には1隻の戦列艦も無く、私掠船によってイギリスの通商を妨害するしかなかった。独立宣言の数ヵ月前、1776/3/23に大陸会議は拿捕免許状を発行。アメリカの私掠船は戦争中に600隻のイギリス船を拿捕した。これらの私掠船は必ずしもアメリカのために働いたわけではなく、高く買ってくれる者に鹵獲品を売ったため、イギリス人が自らの奪われた荷を買い戻すということもあった。大陸会議は1775/10/13に大陸海軍の創設を承認した。とはいえ戦列艦を作ったわけではなく、小さな船を作って主に通商破壊を行わせた。1775/12/22にホプキンス提督(Commodore Esek Hopkins, アメリカの私掠船

バージン諸島  1976 発行
1718-1802) が海軍総司令官に任命された。ホプキンス提督は小艦隊を率いて、1776/3月早くに、大陸海軍初となる作戦行動を行った(ナッソーの戦い:Battle of Nassau, 1776/3/3-3/4, 米勝利)。バハマのナッソーには大陸軍が大いに必要とする火薬を貯蔵していた。1776/4/6にホプキンス艦隊が英20門艦グラスゴー号(HMS Glasgow, 20gn sixth rate post ship, 1757)と遭遇し、初めての海戦となるも、米は敗戦。 大陸軍の火薬庫
ジョン・ポール・ジョーンズ大佐(Naval Captain John Paul Jones、1747-1792)は、1778/4/24にイギリス軍艦ドレーク号(HMS Drake, 14gn sloop-of-war, 1777)を拿捕(アイリッシュ海ノース海峡の海戦:North Channel Naval Duel, 1778/4/24)してアメリカ海軍最初の英雄になった。これはイギリスの支配海域におけるアメリカ軍艦初めての勝利で、また1779/9/23に32門戦列艦同等ボンノム・リシャール号(USS Bonhomme Richard, 42gn man-of-war, 1765)を指揮してイギリス軍5等艦セラピス号(HMS Serapis, 44gn, 1779)を拿捕した。1778年にジョーンズ艦長のアメリカ海軍がイギリスのカンブリア州ホワイトヘブン(Whitehaven, Cumbria, 大陸軍のボノム・リシャール号

マーシャル  1988 発行
England)を占領目的ではなく奇襲上陸で襲撃してイギリス本国に恐慌をもたらし、しばらくは本国の港の防御を高めることに熱心になった。大陸では1776/4月のイギリス軍のボストン撤退をイギリス海軍が助け、陸軍をハリファックスまで撤退させた後、6月にはニューヨークに運んだ。1777/7月のフィラデルフィア方面作戦でも陸軍を運んだ。セントローレンス川と五大湖地方では、更に攻撃的な役割も果たした。1776/5月のチャールズ・ダグラス海尉によるケベック解放(Liberation of Quebec)では大陸軍のアーノルド将軍(Major general



ンズ提督
ノース海峡の海戦

マダガスカル 1975 発行
Benedict Arnold, 1740-1801) を撤退させた。10月にシャンプレーン湖でのバルカー島の戦い(Battle of Valcour Island, 1776/10/11-10/13)でカナダ戦線を英が確保し、1777年のバーゴイン将軍(John Burgoyne、1722-1792)遠征の基地となるも、バーゴイン将軍はサラトガで降伏した。

(2)フランスの参戦、1778年
駐仏アメリカ大使フランクリンはフランスが参戦する前に1年以上フランスに滞在してサラトガの降伏後の1778年にアライアンス条約を締結し、フランスが参戦。フランスはそれ以前からアメリカの私掠船や海軍には密かに援助を行っていた。英仏関係が危機に瀕した3月、イギリス大使がパリから呼び戻されるも、イギリスではどの艦隊も準備ができておらず、実際に戦闘が起こったのは7月だった。フランスはイギリスよりはいくぶん準備ができていた。1778/4/13にデェスタイン提督艦隊の戦列艦12隻とフリゲート艦4隻がトゥーロン港からアメリカに向けて出帆。ジブラルタル海峡を何の抵抗もなく5/16に通過するも、乗組員の未熟さなどで遅れを生じ、7/8フィラデルフィア(デラウェア川の河口)に到着。
アライアンス条約

USA 1978 発行
フランスには3つの目論見があった。
・大陸軍を援助すること
・西インド諸島からイギリス軍を排除すること
・イギリス海軍の主力をイギリス海峡に引きつけること
そのために、ドルヴィリュー伯艦隊がブレスト港で出帆準備を始めた。イギリスはジブラルタル海峡の支配は当面無視し、1778/7/9にバイロン提督艦隊戦列艦13隻をプリマス港から出帆させ、ケッペル提督の強力な西部艦隊を本国に集めた。ケッペル提督は6月から予備的な巡航を
バイロン提督

セントヘレナ 1986 発行
開始し、1778/7/27にブレスト沖でドルヴィリュー伯艦隊とウェサン島の海戦を戦った。戦力はほぼ等しいも、行動は徹底を欠き、互いに砲火を交わしながら通過しただけに終わった。ヨーロッパ海域ではこれ以上の特記すべき事件はなかった。デェスタイン艦隊接近の知らせは、アメリカの海岸部において、イギリスが1778/6/18にフィラデルフィアを放棄する動きにつながった。ハウ提督は小型戦列艦9隻を集結させ、6/29にニュージャージーのサンディフックを出帆し、7/11にデェスタイン艦隊の動きを掴んだ。デェスタイン艦隊は敢えて海戦を挑もうとはせず、7/22にラファイエット侯爵軍と出会い大陸軍と協力してロードアイランドのイギリス軍を排除する方向に動いた(ロードアイランドの戦い、1778/8/29)。ハウ提督は僅かな増援を受けた後にフランス艦隊を追おうとし、ロードアイランドのニューポートに停泊していたデェスタイン艦隊もハウ艦隊に向かうも嵐で遭遇しなかった。デェスタイン艦隊は1778/8/21にボストンに向かった。ハウ提督は、装備の十分でなかったバイロン艦隊が暴風(7/3)で中部大西洋に散り散りになっていたため、その援助を受けられなかった。バイロン艦隊は9月にようやく目的地ニューヨーク(?)に着き、ハウ提督は7/25に辞任・帰国してバイロン艦長と交替した。

(3)西インド諸島、1778-1779年
冬が近づいて、北アメリカ沿岸での作戦行動は危険になった。西インド諸島では6月から10月にかけてがハリケーンの季節なるも、北部の海岸では逆に10月から6月までが嵐の多い冬の危険な季節である。このことが戦争における海軍の作戦行動に大きく影響していた。1778/11/4にデェスタイン提督は西インド諸島に向かった。ハリファックスやニューファンドランド島での協力を期待していた大陸軍にとっては思いがけなかった。同じ11/4にイギリスのホータム提督が西イ
西インド諸島の地図
アンチグア  1972 発行
ンド諸島の艦隊増援のためにニューヨークを出帆した。9/7にはフランスのマルティニーク島総督ブイエ侯爵がイギリス領ドミニカ島を占領していた。リーワード諸島にいたイギリスのバリントン提督がホータム提督の増援を得て12/14にセントルシア島を占領して報復した。デェスタイン提督はホータムを追撃したが、12/15にセントルシア島付近の隘路でバリントンと2度にわたる小戦闘を行い、結局退けられた。 1779/1/6にイギリス海軍のバイロン提督が西インド諸島に到着した。この年の前半はお互いに警戒しあっていたが、6月にバイロン提督が商船隊の帰国を護衛するためにアンティグアに向かった隙に、デスタンはまずセントビンセント島を、続いてグレナダ島を占領。戻っていたバイロン提督は救援に駆け付けるも間に合わなかった。7/6にグレナダ島の海戦があるもが決定的な結果とはならなかった。西インド諸島での戦いは一旦終息し、バイロン提督は8月に帰国した。デェスタイン提督は9月にジョージアのサバンナで大陸軍と協働したものの不首尾に終わって帰国した。

(4)スペインの参戦、1779-1780年
ヨーロッパの海域では、スペインの参戦でイギリス海峡が66隻の戦列艦を擁するフランス・スペイン連合艦隊の侵入を受けていた。イギリスはそれに対して海峡艦隊最高司令官ハーディ提督(1779-1780)のもとに35隻の戦列艦しか集められなかった。しかし、連合軍の到着は遅く、そして何もせずに9月早くに撤退した。その間、スペイン軍はジブラルタルの包囲を固めていた。それまでイギリスは防衛に徹していて、西イン
イギリス海峡の地図

ジャージー 1970-75 発行
ド諸島を除いて具体的な損失はなく、勝利もなかった。
1780年の戦況もおおむね同様に推移していた。アメリカ沿岸や西インド諸島では状況はより活発に動いていた。1779年早くアーバスノット提督が北米最高司令官に任命されてニューヨーク港に到着すると、すぐに仏デェスタイン艦隊に封鎖された。その後、仏グッシェン提督が西インド諸島の支援に赴き、3月に到着してデェスタイン提督と交代し、セントルシア島クルドサック湾グロスアイレット入江に英パーカー提督艦隊を封じ込めた。
スペイン参戦後の1779年に、アメリカにおけるスペイン植民地を効果的に分断するとともに、太平洋へのアクセスの潜在的な
セントルシア島クルドサック湾の地図

セントルシア 1978 発行
可能性をもたらすため、英ジャマイカ総督ドーリング少将がネルソン提督艦隊に支援されてスペイン領ニカラグアへ侵攻。サン・ファン川をニカラグア湖まで遡ってグラナダ町サン・ファンのスペイン砦を占領するも、病気の蔓延と兵站の困難などで占領軍は撤退。
1780/5月にフランスのブレスト港からダルザック・ド・テルネイ提督が7隻の戦列艦と6,000人のフランス兵を載せた船団を率いて大陸軍への協力のため出港した(アメリカ特別遠征隊, 1780)。7/11にロードアイランドに到着。この年の残りと翌年の初めは、イギリスはニューヨーク、フランスはロードアイランド州ニューポートに本拠を置いてお互いに相手の出方を見ていた。そしてその年も西インド諸島が重要な作戦行動の舞台となった。2月と3月にガルベス提督スペイン艦隊がニューオーリンズから西フロリダにてペンサコーラの戦い(Battle of Pensacola、1781)で勝利。1782年にガルベス艦隊がバハマのニュープロヴィデンスにあったイギリス海軍基地を占領(Capture New Providence, 1782/5/8)。1779年末に、イギリスのロドニー提督に大きな海軍戦力が委ねられ、ジブラルタルの救援とメノルカ島への補給の任が課せられた。ロドニー提督は艦隊の一部とともに西インド諸島に向かうことも任務だった。12/29に西インド諸島に向かう商船隊を保護下に置き、1780/1/7にフィニステレ岬沖でスペ スペイン戦列艦
サンテズマ・トリニダード号


キューバ 1980 発行
インの商船隊を捕獲、1/16にサン・ビセンテ岬沖サン・ビセンテ岬の月光の海戦でスペイン艦隊に勝利。1780/1/19にジブラルタルを救援し、2/13に西インド諸島に向かった。3/27にロドニー提督はセントルシアでパーカー提督と合流。フランスのグラス提督マルティニーク島のフォート・ロワイヤルに撤退。7月までロドニー提督とグラス提督の艦隊は力が均衡して、マルティニーク島近くでの行動を続けた。イギリスは接近戦を挑もうとしているも、4/17の遭遇戦(マルティニーク島の海戦)では、ロドニー提督の命令を艦長達が取り違え、決着が付かなかった。スペイン戦列艦12隻が6月に到着し、連合軍が数的優位に立ったので、ロドニー提督はセントルシア島のグロスアイレット湾に撤退するも、スペイン艦隊は準備ができておらず、フランス艦隊は休養を必要としていたので、決定的なことは何も起こらなかった。スペイン艦隊はキューバのハバナに行き、フランス艦隊はサン・ドマング(現ハイチ)に向かった。7月にハリケーンシーズンの到来で、ロドニー提督は9/14にニューヨークに移動。グラス提督は疲れ果てた艦隊を引きつれて帰国。12/6にロドニー提督は北アメリカでは何も出来なかったので、バルバドス島に戻るも、バルバドス島に残した艦隊は10月に起こったグレートハリケーン(1780)で壊滅的な打撃を受けた。

・アメリカ特別遠征(パーティキュリエール・エクスペデション)
(Special expedition、仏:Expedition Particuliere, 1780)
アメリカ特別遠征はアメリカ独立戦争の支援でフランス地上部隊を北米に派遣する計画のコードネーム。1780/7/10にグラス提督のフランス艦隊が大西洋を横断してロードアイランド州ニューポートに上陸、ロシャンボー将軍と6千人のフランス兵がワシントン将軍の大陸軍を支援。1781/7月にロシャンボー将軍の軍隊はロードアイランドを離れ、コネチカットを越えてニューヨーク州ドブスフェリーのハドソン川でワシントン将軍の軍隊に合流。そこから連合軍は陸路でバー
ロシャンボー・ワシントン・グラス
ジニアへ移動。1780/9/5にグラス提督はチェサピーク湾の戦いで、ニューヨークからコーンウォリス将軍を避難させるために派遣されたイギリス艦隊に勝利し、ヨークタウン半島でコーンウォリス将軍を捕虜。9/22にロシャンボー将軍とワシントン将軍はラファイエット侯爵と共に1781/10/19のヨークタウンの戦いに勝利し、コーンウォリス将軍が降伏して特別遠征は終了。

(5)新大陸での最後の作戦行動、1781-1782年
1780年暮れまでの海軍軍事行動は一貫性のないもので、1781年になると米仏ス連合軍は西インド諸島やミノルカ島ジブラルタルを攻撃したので、イギリス軍は防御的な動きに専心した。オランダが連合軍に加わったため、イギリスは北海の通商を守るために他の方面から艦隊を割かざるを得なかった。1781/8/5に商船の護衛にあたっていた両軍が遭遇してドッガー・バンクの海戦が勃発するも、オランダは戦争の行方に大きな影響を与
セインツの海戦
イギリス&フランスの艦隊


セントルシア 1982 発行
えることはできなかった。フランスは西インド諸島とアメリカで積極策を展開し、東インドでもイギリスの優位を脅かす攻撃を開始。西インド諸島では、ロドニー提督がその年の早くにオランダ参戦の報を聞いて、1781/2/3に戦時禁制品の大きな保管場所であったシント・ユースタティウス島を占領。ロドニー提督は戦利品の確保と売却を独り占めし、新任の副将フッド提督にも係わらせなかったとして告発された。フッド提督は、マルティニーク島に向かうと考えられているフランス艦隊の到着を阻止するために適切な対応を行った。フランスのグラス提督は増援部隊とともに4月に到着して7月までの間、ロドニー提督との戦闘を避けながら、巧みにイギリス軍の島を脅かす戦術を取った。
7月になるとグラス提督は北アメリカ沿岸部に向けて移動し、8月に健康を害して帰国していたロドニー提督に代わって指揮を取っていたフッド提督の後を追った。北アメリカ沿岸では戦争は決定的な局面にあった。その年の前半はイギリス軍がニューヨークに、フランス軍がニューポートにあってにらみ合っていた。4月にはイギリスが、ヴァージニアに増援を運ぶフランスの試みを阻止することに成功。ワシントン将軍はヴァージニアかニューヨークのイギリス軍のどれか一つに攻撃を集中させようと切望するも、それを実行するにはグラス提督の到着を待つ必要 ニューアムステルダム港、1653






アメリカ 1953 発行
があった。フランスはヴァージニア沿岸では海軍力で優位にたっており、イギリスの司令官コーンウォリス卿はヨークタウンで孤立していた。グレイブス提督は西インド諸島からフッド提督の増援を受けてフランス艦隊を駆逐しようとするも、チェサピーク湾の海戦(9/5)で敗れ、フランス艦隊によるチェサピーク湾の占拠を排除することができなかった。グラス提督は増援を受け取り、グレイブス提督は去った。ヨークタウンは10/19に陥落し、北アメリカ沿岸での戦いは終了。フランスは西インド諸島に帰り、フッド提督の追撃を受けながらイギリスの島々の攻撃を再開。1782/1月と2月にグラス提督はフッド提督の決死的な抵抗を排除してセントクリストファー島を占領。フッド提督は劣勢の艦隊を率いながら、セントクリストファー島バセテールを根拠地としてフランス艦隊に何度も挑んだ。フランスの次の目標はスペインと協働してジャマイカを攻撃することだった。ロドニー提督が援軍を連れてイギリスから戻り、1782/4/12のセインツの海戦に代表される一連の作戦行動によってその計画を頓挫させた。これ以後、西インド諸島では特記すべき作戦行動は行われていない。8月にフランスのラ・ペルーズ伯爵艦隊がハドソン湾を襲撃し、多くのイギリス軍基地を占領し略奪した(ハドソン湾遠征:Hudson Bay expedition, 1782/8/8)。イギリス本国ではハウ提督が1782/9月と10月に包囲されていたジブラルタルを解放した。

(6)東インド方面作戦、1778-1783年
アメリカ独立戦争の東インド方面への影響には、いくつかの別個の流れが存在する。1778年、フランスの参戦に直ちに対応したイギリスはフランスの植民地ポンディシェリーを難なく占領。ベンガル湾での海域のフランス軍は攻勢に出るにはあまりに非力で、1782年の初めまでフランス領のブルボン島(レユニオン島)とモーリシャス島にとどまっていた。1781年春にフランスのサフレン提督艦隊が東洋に派遣された。サフレン提督はその途中、喜望峰をオランダから奪取すべく派遣されたイギリス艦隊が
インドの地図

インド 1943 発行
ポルトガル領カーボベルデ諸島ポルト・プラヤに停泊しているのを発見し、4/16に破った(ポルト・プラヤの海戦)。喜望峰の安全を確保した後、サフレン提督はフランス領の諸島に向かった。1782年、サフレン提督はベンガル湾のイギリス軍に激しい攻撃を仕掛けるべく、年の初めから活動を開始した。1782/2/17から1783/6/20まで、サフレン提督はイギリスのヒューズ提督とたびたび戦い、海域の制海権を確保した。サフレン提督には船を修理する港もなく、またインド・マイソールの太守ハイダ・アリーとの同盟も維持できなかったにもかかわらず、北東モンスーンの時期ですらフランス領諸島に戻らず、海(ベンガル湾)を支配し続けた。サフレン提督は、ヒューズ提督(四大海戦)と戦いながらイギリス艦隊に甚大な損害を与え、1782/7月にはスリランカのトリンコマリーを占領した。

▼海戦の戦い
アメリカ独立戦争の海軍作戦行動
・バルカー湾の戦い(Battle of Valcour Bay、1776/10/11-10/13)英の勝利
第1次ウェサン島の海戦(First Battle of Ushant、1778/7/27)引分
セントルシアの海戦(Battle of St. Lucia, 1778/12/15)英の勝利
サン・ビセンテ岬の海戦(Moonlight Battle of Cape St Vincent、1780/1/16、月夜)英
マルティニーク島の海戦(Battle of Martinique、1780/4/17)仏
ポルト・プラヤの海戦(Battle of Porto Praya、1781/4/16)引分
ドッガー・バンク海戦(Battle of the Dogger Bank、1781/8/5)引分
チェサピーク湾(Battle of the Chesapeake、1781/9/5)引分
(別名:バージニア岬の海戦(Battle of the Virginia Capes)
・第2次ウェサン島の海戦(Second Battle of Ushant、1781/12/12)英
セント・キッツの海戦(Battle of Saint Kitts、1782/1/26)
セインツの海戦(Battle of the Saintes、1782/4/9-4/12)、など。
アメリカ大陸軍海軍兵

フォークランド 1975 発行


米ワシントン将軍に投降する英コーンウォリス将軍
ヨークタウンでのコーンウォリス郷の降伏

アメリカ独立戦争、200周年記念
American Revolution, Bicentennial, Surrender of Cornwallis at Yorktown
USA 1976 発行


<イギリスのアメリカの13植民地>
(アメリカ植民地13州:13 States)独立十三州(13 Colonies)
・ニューイングランド植民地群(New England Colonies)
(1)ニューハンプシャー植民地8ニューハンプシャー:New Hampshire, NH)
(2)マサチューセッツ湾直轄植民地8マサチューセッツ:Massachusetts, MA)
(3)ロードアイランド植民地(ロードアイランド:Rhode Island, RI)
(4)コネチカット植民地(コネティカット:Connecticut, CT)
 以上は後に「ニューイングランド」と総称されるようになる各地域
アメリカ大陸軍の軍旗
13スター(星)
・中部植民地群(Middle Colonies)
(5)ニューヨーク植民地(ニューヨーク:New York, NY)
(6)ニュージャージー植民地(ニュージャージー:New Jersey, NJ)
(7)ペンシルベニア植民地(ペンシルベニア:Pennsylvania, PA)
(8)デラウェア植民地(デラウェア:Delaware, DE)
・南部植民地群(Southern Colonies)
(9)メリーランド植民地(メリーランド:Maryland, MD)
(10)バージニア植民地(ヴァージニア:Virginia, VA)
(11)ノースカロライナ植民地(ノースカロライナ:North Carolina, NC)
(12)サウスカロライナ植民地(サウスカロライナ:South Carolina, SC)
(13)ジョージア植民地(ジョージア:Georgia, GA)。

アメリカ国旗”星条旗”収集切手シート(表)

"Stars & Stripes" American Flags Collection
米国々旗制定日記念(裏)

"U.S. Flag Day Issue"
USA 2000 発行

アメリカ独立軍
大陸軍海軍艦船(Continental Navy Ships)
サウス・カロナイアナ号

Frigate "USS Suth Carolina"
リー号

Schooner "USS Lee"
アンドレア・ドリア号

Continental Navy "USS Andorea Doria"
プロヴィデンス号

Sloop "USS Providence"
アルフレッド号

Ship "USS Alfred"
コンフェデラシー号

Frigate "USS Confederacy"
1776 アメリカ独立革命200年記念 1976
グレナダ 1976 発行

ハザード号

Massachusetts Brig "USS Hazard"
ラリー号

Frigate "USS Raleigh"
私掠船スパイ号

Privateer "Spy"
1776 祝アメリカ建国200年記念 1976
Salute to U.S. Bi-Centennial

バージン諸島  1976 発行

アメリカ大陸軍兵士(Continental Soldier)
独立軍兵士
ワシントン将軍
アメリカ軍旗
狙撃兵
民兵(自由防衛軍)の戦い
 USA 1975 発行  グレナダ 1976 発行

イギリス軍
イギリス軍旗
フッド提督
イギリス海軍兵
イギリス軍艦3重砲列甲板
ドミニカ 1976 発行
参考HP:〜
アメリカ13植民地の場所地図(赤、1775)
北アメリカの勢力地図(1762-1783)ルイジアナ買収は1803年
デラウェア川を渡るワシントンの図
ヨークタウンのコーンウォリス将軍降伏の図

こちらで
サフレン提督
・戦歴(1):オーストリア継承戦争
・戦歴(2):七年戦争(海戦)
・戦歴(3):アメリカ独立支援戦争
フィリップ・ドーヴェルニュ提督
ジョージ・ロドニー提督
フランソワ・ド・グラス提督
ブーゲンヴィル艦長
カリブ海の地図
スパイス (香辛料)
切手コレクションの
イギリス皇太子ご成婚
・切手で綴る 東海道五十三次
・世界で1番美しい 蝶々
全米50州アメリカ
世界遺産
富士山日本
パルテノン神殿ギリシャ
ピラミッドエジプト
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   09/7/17 令和 R.3/12/5(2021)

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