France ![]() 国連 1980 発行 |
切手で綴る フランスの冒険大航海(Great Adventure Voyagee)ビーバー戦争(II-5) | |||
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| サミュエル・ドゥ・シャンプラン総督 1608 ケベックに要塞を建設 |
大航海物語 フランス編★ |
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ケベック カーク兄弟 セント・ローレンス河 イロコイ族 |
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CANDA POSTAGE
1608 ケベック殖民300年記念 1908 カナダ 明治41年 1908/7/16 発行 |
| Canada . | ||||
17世紀、フランスの探検船![]() 1606 シャンプランの航海400年記念 2006 カナダ 2006 発行 |
. | アラスカ カナダ U S A |
ニューファウンド島の場所地図 中央がハドソン湾 ![]() カナダ 1981/6/30 発行 |
←ケーン水路 ←グリーンランド ←パフィン島 ←プロビジャー湾 ←ハドソン海峡 ←ラプラドル湾 ←ラプラドル半島 ←ニューファンドランド島 ←ケベック |
| US Postage 5大湖 スペリオル、ミシガン、ヒューロン、エリー、オンタリオ |
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| グリーンベイ→ ミルウォーキ→ シカゴ→ |
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←ケベっク ←モントリオール ←デトロイト |
| アメリカ 1966/6/28 発行 (200%) | ||





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シャンプランはフランス王アンリ4世の命で、新大陸に渡り、カナダのセント・ローレンス川流域にケベック植民地を建設して「ヌーヴェル・フランスの父」と呼ばれています。 |
| サミュエル・ドゥ・シャンプラン総督 Samuel de Champlain (1567〜1635/12/25)
1603年シャンプラン総督はフランスのカルヴァドス県(#81)オンフルール港から毛皮遠征隊(Fur Trading Expedition)の一員として新大陸へ渡り、1603/3/15北米のフランス領ヌーヴェル・フランス(Nouvelle France、ニューフランス)に到着し、セント・ローレンス河流域から五大湖付近を探険して、そこの様々なルートを地図に描きました。同年9/20フランスへ帰国後、セント・ローレンス河流域の地図を描きあげて「シャンプランの大冒険旅行」として発刊しました。 1603/3/15に3本マストのボン・エノミー号(Bonne Renommee=良い評判=Good Fame)がカナダのケベック州でセントローレンス川とサグネ川が合流する地点にあるタドゥサック(Tadoussac, #QC)に到着しました。タドゥサックは1600年にピエール・ショバン(Pierre de Chauvin de Tonnetuit ?-1603/2没)によって開かれるも、その年に迎えた初めての冬で、16人中彼を含めた5人のみしか生き残ることができませんでした。またその港は30年間しか機能しませんでした。 1604年春アンリ4世の要請で、モンス総督のヌーヴェル・フランス遠征隊に加わり、新大陸カナダの現ノヴァスコシヤ州(#NS)に渡りました。到着後、カナダのニューブランズウィック州とアメリカ合衆国メイン州の間の国境になっているセント・クロア川(St. Croix River (Maine, USA〜NB, Canada) 114km)の河口の近くにある、メイン州の現在は無人の小島セント・クロア島にセント・クロイ島定住地(Saint Croix Island Settlement)を建設しました。その後、住民を連れてファンディ湾(Bay of Fundy)を渡ってポート・ロイヤル居住地(Port Royal Habitation)に移住しました。そこに1607年まで住んで、大西洋岸を探検する基地として、ニュー・ブランズウィック州の北東端にあるアカディア半島付近で、後にアカディア(Acadia)として知られる地域を探検調査しました。 1605年と1606年には現マサチューセッツ州コッド゙岬のチャタム(Chatham, Cape Cod, #MA, USA)と呼ばれている所を探検調査して定住地を建設すべき所とするも、現地のモノモイック族(Monomoyick)との小競り合いが起きて思い留まり、そこをポート・フォーチュン(Port Fortune)と名づけました。
戦勝の後にモンス総督とフランスへ帰って、毛皮貿易の独占体制の立て直しを行いました。ケベックはその毛皮貿易の倉庫が立ち並び、ルーアン商人(Rouen merchants)が市の繁栄を支えました。1610/8/8に再びケベックへ戻ってきました。 1610/12/27、33才のシャンプラン総督は12才のヘレン(Helene Boulle)と婚約し、結婚式は3日後の12/30にパリのサン・ジェルマン教会(Saint-Germain-l'Auxerrois)で挙行しましたが、結婚生活は花嫁が幼かったので2年後からになりました。 1611年の夏の間、現モントリオール地域(#QC)を詳しく探検しました。1610年にルイ13世(Louis XIII、1601-1643)にヌーヴェルフランス植民地とケベック市の「防備と窮状」について国王に訴えていたところ、1612/10/8にルイ13世から、バーボン王子(Charles de Bourbon 1566-1612、中将)を派遣するとの返事が届きました。ところが王子は着くと直ぐに急死してしまいました。その後、アンリ2世王子(Henry II 1588-1646)から、「司法と行政の広範な権限を持つ王子の名前を利用するように」との親書を送られ、司法、および警察権威の改善、規制、および条例のための任命役人としての職権を持て、軍隊を動かされる”総督”に任命するので、その力を受け取られよ」との親書が届きました。また、その中には「インドや中国への道」と黄金などの発見も命じられていました。 1613/3/29、シャンプランはヌーヴェル・フランスで国王の要請のあった探検を始めることを宣言し、1613/5/7ヒューロン族地域の探検を続けて、以前に聞いていた「北の海」(ハドソン湾)の発見を目指しました。6月になってオタワ川(Ottawa River, 1,271km)でアルゴンキン語族でアルメット島(Allumette Island)の原住民の酋長テッソウア(Tessouat)に出会い、砦を築くように話しました。 1613/8/26、フランスのイル=エ=ヴィレーヌ県サン・マロ(Saint Malo, #43)に帰国し、1604〜1612年のヌーヴェル・フランスでのオタワ川探検航海を発刊し、新しい地図を作成しました。1615年の春にヌーヴェル・フランスに戻り、イロコイ族と争っている原住民と良好な関係を保って、その案内でオタワ河(Ottawa River, 1,271km)のさらに上流地域へと探検を続け、オンタリオ(#ON)のニピシング湖(Lake Nipissing)に到達ました。それから、フレンチ川(French River, 110km)沿いに進み、ついに5大湖の一つのヒューロン湖(Lake Huron)に達しました。 1615/9/1、シムコ湖(Simco Lake)方面へ軍事遠征に出発しました。オンタリオ湖の東端でカヌーをかくして上陸し、イロコイ族の砦までオネイダ川(Oneida River 29km, NY, USA)にそって進み、ヒューロン族が攻撃しましたが失敗しました。シャンプランは2度も矢で足を打たれ負傷しました。3時間の戦闘の後に敗退しました。彼の意に反して、その冬をヒューロン族と過ごし、鹿狩りをしたり、彼らの生活様式や文化を学びました。1616/5/22にヒューロン族国を後にして、7/11にケベックに戻って、7/20にはフランスへの帰国の途につききました。 1620年、ヌーヴェル・フランスに戻ってからは、探検よりもヌーヴェル・フランスの行政面の改善に尽くしました。その冬はセント・ルイス砦(Fort Saint Louis)の建設に費やしました。1624/5/6までケベックの防衛強化に尽くしました。1624/8/15「中国への道」の探検を続けるためフランスへ帰国しました。1625/7/5ケベックへ戻ってきてケベック市を拡張しました。上手くいかないもので、1628年の夏は食料がほんの少しの供給しかありませんでした。7月初めにはイギリスの商人に水鳥(Cap Tourmente)を掠め取られました。7/10にイギリスのカーク兄弟からシャケを調達しました。彼らとは上手くいかず、その後の食料供給はありませんでした。1629年の春の食料供給は危険なまでに少なくなっていましたので、ガスペ(Gaspe, #QC)へ救援を求める武装使者を送りましたが、イギリス艦隊の封鎖作戦で、フランス艦隊は新大陸に救援物資の陸揚げが出来ませんでした。 1628/7/19、イギリスのカーク兄弟がケベックに攻め込んできたので、シャンプランは食料の欠乏により条件付降伏を決意し、ケベックはイギリスに占領されました。1628/10/29にロンドンに到着しました。その後のイギリスとの話し合いの結果、1632年ヌーヴェル・フランスが賠償に応じたので、1632/3/29にサンジェルマン条約(Treaty of Saint Germain en Laye)がケベックでイギリスとの間に締結され、1633/3/1にケベックはフランスに戻り、食料の供給が再開されました。1629〜1635年、シャンプランはケベックの「100人組会社」(Company of One Hundred Associates)の総裁を勤めました。 1633/5/22、4年間の留守の後にケベックに戻り、続く数年間は航海についてリシュリュー枢機卿に報告書をしたためました。1634/8/18、リシュリュー枢機卿にケベック上流にトロワ・リヴィエール居住地(Trois Rivieres)を建設したことを報告しました。イロコイ族との抗争も始まりました。 1635/10月から麻痺(paralysis)で苦しみ、12/25にケベックで、68才(もしくは35才)で亡くなりました。シャンプラン総督の活躍した地域はアカディア、オンタリオ、ケベック、ニューヨーク、ヴァーモント(Acadia, Ontario, Quebec, New York, and Vermont)などでした。 シャンプランの略年表:
・カーク兄弟は:〜 (Sir David Kirke 1597-1654) 30年戦争中(1618-1648)に新大陸のニューフランス(Tadoussac, Quebec)で起こった紛争のイギリス側の指導者。1628年カーク兄弟率いるイギリス殖民地軍がケベックを攻撃し、ケベックのシャンプラン総督が降伏した紛争です。これは救援のフランス艦隊がイギリス艦隊の封鎖にあって新大陸に上陸することが出来ず、食料などの必需品の欠乏によってケベックが降伏しました。
「イロコイ」の名称は、ワイアンドット族が「イリアコイ(黒い蛇)」と呼んだ通称に、フランス入植者が「ois」を語尾に付け、「イロコイ(Iroquois)」と呼んだのが由来である。彼ら自身は「オングワノシオンニ(我ら長い小屋に住む者)」と自称する。 連邦としては11世紀頃に5つの部族国家から形成され、それまで、争いが多かった5つの国が連邦制度により平和的に共存する単一の国家として成立した。その後もうひとつタスカローラ族が加わって、現在は6つの国により成り立っている。古くはセネカ国家が他国より優位に立つ暗黙の了解があったが、現在はない。連邦の成立に奔走した人物はピースメーカー (Peace Maker) として知られている。 1794年にアメリカ合衆国連邦政府と平和友好条約を結んだ。国務省のパスポートを認めず、鷲の羽根を使った独自のパスポートを発行、同パスポートの使用はいくつかの国家により認められている。日本国政府は国家として承認していない。 500以上に上る全米のインディアン部族は、アメリカ連邦政府内務省の出先機関である「BIA(インディアン管理局)」の監視・管理下にある「部族会議」を設置しているが、これは実質的に連邦政府の傀儡である。イロコイ連邦はこの「部族会議」を最初から持たず、アメリカ連邦=BIAの干渉を一切拒否し、自治独立を実現している珍しい唯一のインディアン部族である。これはアメリカ連邦政府が条約で保証している、保留地(Reservation)の本来の姿である。 イロコイの連邦制度自体、アメリカ合衆国の連邦制度の元になっており、アメリカ合衆国が13の州で独立するときにイロコイ連邦が協力して大統領制を始めとする合衆国憲法の制定にも関係している、とする見解がある。かつてアメリカ合衆国大統領は就任に当たってイロコイ連邦を表敬訪問するのが慣習となっており、近年のジョンソン大統領まで続いた。イロコイ連邦はそのヴィジョンをアメリカ合衆国に託するために協力を惜しまなかった。 連邦に属する6つのネーション(部族国家) ・セネカ族 (Seneca) オノドワーガ(Onodowohgah、丘の上の人々)ともいい、「西の扉を守るもの」 ・モホーク族 (Mohawk) カニエンケハカ(Kanienkehaka、火打石の人々)、「東の扉を守るもの」 ・オノンダーガ族 (Onondaga) オヌンダガオノ 8Onundagaono、丘の人々)、「炎とワムパムを守るもの」 ・オナイダ族 (Oneida) オナヨテカオノ(Onayotekaono、直立した石の人々)、「中央の炎を守るもの」 ・カユーガ族 (Cayuga) グヨーコーニョ(Guyohkohnyo、大沼沢地の人々)、「聖なるパイプを守るもの」 ・タスカローラ族 (Tuscarora) スカルレン(Ska Ru ren、麻を採る人たち)、18世紀初頭に加わった「六兄弟の“弟”」 1701年「モントリオール和平条約」がフランス・イギリスとイロコイ族との間で締結された。 参考HP:〜 ・シャラント=マリティーム県の場所地図 ・30年戦争の地図(ヨーロッパ) ・セント・ローレンス河の地図 ・ケベックの場所地図 ・ノヴァスコシヤ州の場所地図 ・ニューブランズウィック州の場所地図 ・カナダの州別区分地図 ・アカディ半島の場所地図 ・アカディア(Acadia 1754)の地図 ・ケープ・ブレトン島の場所地図 ・ケープブレトン島の地図 ・イロコイ連邦の地図(1650年の5ネーショウン) ・地図外部リンク集参照。 2007/4/15 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 08/9/30追記、08/10/31、08/11/30、令和8年 2026/2/18 |
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