United Kingdom 国連 1983 発行 |
切手で綴る 海戦大航海(Naval Battle Voyages)
フッド提督 1782 セインツの海戦、勝利 |
大航海物語 イギリス編★ |
ANTIGUA フッド提督 バーフラー号(HMS Barfleur) アンチグア 1970/8/19 発行 |
DOMINICA フッド提督 ドミニカ 1976 発行 |
イギリス&フランスの艦隊 |
グアドループ島→ バステール マリーガラント 島→ |
「セインツの海戦」地図 |
←マルティニーク島 ポートロイアル ←セントルシア島 カストリーズ |
1782 セインツの海戦200年記念 1982 セントルシア 1982/4/13 発行 |
フッド提督は戦列艦バーフラー号に乗艦してセインツの海戦に、ロドニー艦隊の副将で参戦しました。敵戦列艦隊の「戦列破り戦術」を確立してネルソン提督の良き指導者となりました。アメリカ独立戦争ではフランス艦隊と戦い、フランス革命戦争ではフランス王党派の要請でナポレオン軍と戦いました。その後に海軍大将となり、貴族(子爵)に叙せられました。 |
提督サミュエル・フッド子爵 (1724/12/12〜1816/1/27) Admiral Samuel Hood, 1st Viscount Hood フッド提督はイギリスのサマセット州ウェルズ町(Wells)の聖職者(Prebendary)でバトリー教区牧師(vicar)だったサミュエル・フッドの息子として、1724年 にサマセット州バトリー村(Butleigh)で生まれ、1741/5/6に17才でイギリス海軍に入隊。フッドはロドニー提督の軍艦ルドロー号(Ludlow)に少尉候補生(Midshipman、Officer Cadet)として乗り組み、1746年に22才で少尉(Lieutenant)となりました。オーストリア継承戦争(War of the Austrian Succession、1740/12/16-1748/10/18)中は北海で従軍しました。1754年にスループ型1層砲列甲板支援艦ジャマイカ号(sloop Jamaica 18gun)の艦長(commander)となり、北アメリカ基地方面で任務につきました。1756/7月には、やはり北アメリカにおいて戦列艦ライブリー号(HMS Lively)の指揮を任されました。七年戦争の勃発(Seven Years War、1756-63)で、その年のうちにフッドは勅任艦長(Post-captain)に昇進し、戦列艦グラフトン号(HMS Grafton)の指揮をとりました。1757年には、一時的に戦列艦アンテロープ号(HMS Antelope)を指揮しているときに1隻のフランス船をオーディルヌ湾(Audierne Bay)の岸に追い込み、また2隻の私掠船(privateers)を捕獲。彼の戦果は海軍本部で評価され、自分の艦を与えられることとなりました。1759年に軍艦ベスタル号(Vestal、32-gun)の艦長の時には激しい戦いの後にフランス軍艦ベローヌ号(Bellone 32-gun)を捕獲。彼は七年戦争の間はずっとイギリス海峡で従軍し、1759年にジョージ・ロドニーの下で、イギリス侵略をもくろんで輸送のために集められていた多くのフランス船を破壊する任務に携わりました。1778年に(54才)でフッドは退役命令を受け、ポーツマス造船所(dockyard at Portsmouth)の所長および海軍兵学校(Naval Academy)の校長に任ぜられました。 ▼アメリカ独立戦争(1775-1783) 1778年にポーツマス(Portsmouth)に国王の来臨があり、フッドは准男爵(Baronet)に叙せられました。多くの提督達が海軍大臣(First Lord of the Admiralty)サンドウィッチ伯爵(John Montagu, 4th Earl of Sandwich, PC, FRS 1718-1792)の下で仕事をするのをいやがっており、一方、当時西インド諸島で指揮を執っていたロドニー提督は、部下たちから適切な補佐が得られないことをこぼし、その不忠実をなじっていました。海軍本部は信頼のおける艦隊指揮官の確保が急務と考え、1780/9/26にフッドを海軍少将(rear-admiral)に昇進させ、西インド諸島に派遣して、フッドが個人的にも知っているロドニー提督の副将(second)としました。フッド提督は自らの艦隊の旗艦の戦列艦バーフラー号(HMS Barfleur)で西インド諸島に向かい、1781/1月にロドニー提督の指揮下に入り、アメリカ独立戦争の終戦まで西インド諸島と北アメリカ海岸で戦いました。 フッド提督とロドニー提督との2人の関係はそれほど友好的なものではありませんでしたが、フッド提督は常にその義務を果たし、有能であったのでフッドを泊地から追い出すというような事態は起りませんでした。1781年の作戦の不幸な展開は、その大半を、フッド提督の進言をロドニー提督が無視したことによるもので、そのため4月にフランス海軍のグラス提督が艦隊を連れてマルチニーク島のフォート・ロワイヤルに到着するのを許してしまいました。 1781年の秋に健康を理由にロドニー提督がイギリスへ戻ると決めた時、フッド提督はハリケーン(hurricane)シーズンの間、艦隊を北アメリカ海岸に移動するよう命じられました。フッド提督はトーマス・グレイブス提督(Thomas Graves, 1725-1802)と合流した後に、ヨークタウンのイギリス陸軍の救出に向かいましたが、「チェサピーク湾の海戦」(Battle of the Chesapeake、1781/9/5)でグラス提督指揮のフランス艦隊に敗れ救出を果たせませんでした。フッド提督は西インド諸島に戻って、ロドニー提督がイギリスに戻ったままの間は一人で自由に指揮を執ることができました。グラス提督はフッド提督の艦隊よりもはるかに勝る勢力でイギリス領であるセントキッツ島とネイビス島を攻撃してきました。 1782/1月にフッド提督はそれらの島の占領を防ごうとするも、戦力が22隻対29隻と劣っていたこともあり、1782/2月にセントキッツ島ブリムストーン・ヒル要塞をグラス提督艦隊が占領、イギリスの防衛はなりませんでした。しかし、セントキッツ島バセテール(Basseterre)の錨泊地(anchorage)からフランス艦隊を誘い出し、その攻撃を撃退する一連の大胆な行動は、この戦争中のイギリス海軍提督達の行動の中でも最も輝かしいものとなり、フッド提督は4/9と4/12にドミニカ島近くで行われた「セインツの海戦」でグラス提督を破り、フランス艦隊の旗艦ヴィル・ド・パリ号をグラス提督共々捕らえ海戦に勝利しました。1796年にフッド提督は艦隊のチャールス・ブリスベーン艦長と共にが、ケープタウン(Cape Town)の60海里(111.2km)北西のサルダンハ湾(Saldanha Bay)の港を攻撃して、3隻のオランダ東インド船団を捕獲しました。その後、アイルランドの貴族(Peerage of Ireland)に列せられました。 ▼フランス革命戦争(1792-1802) 平和が訪れると、フッド提督は1784年の選挙でウェストミンスター(City of Westminster)選出の下院議員(Parliament of Great Britain)になり、また1787年には中将(Vice-Admiral )に昇進し、1788/7月にはウィリアム・ピット(William Pitt 1759-1806、イギリスの首相、通称小ピット(Pitt the Younger)、元首相チャタム伯ウィリアム・ピット(William Pitt, 1st Earl of Chatham 1708-1778、首相在任:1766-1768、通称大ピットの次男)の下で、海軍本部(Admiralty)委員となりました。フランス革命が起こると、フッドは司令長官として地中海に派遣されました。フッド提督は1793/5月から1794/10月まで艦隊を指揮しましたが、それは極めて多忙な任務となりました。 1793/8月にフランス王党派の要請により、スペイン軍との協働でトゥーロンを占領(トゥーロン包囲攻撃戦、Siege of Toulon、1793/9/18-12/18)。しかし連合軍はうまく連携が取れていなかったためナポレオン軍に撃退され、この勝利で24才のナポレオン・ボナパルト Napoleon Bonaparte, 1769-1821)は一気に砲兵隊司令官(准将)となり、国際的な注目を浴びることとなりました。 フッド提督は続いてコルシカ島(Corsica)の占領に向かいました。これはパスカル・パオリ(Filippo Antonio Pasquale di Paoli (Pascal Paoli 1725-1807、コルシカ独立戦争(1729年から1769年までの40年間にジェノバ共和国とフランス王国の圧制からコルシカ島が独立を求めた戦争)の指導者)が、イギリス国王の名によって占領することを要請したことによるものであった。この島は短期間ではあったが国王ジョージ3世の支配に加えられました。占領はイギリス艦隊の努力とパオリの協力によるものでした。コルシカ島の占領を続けている間にトゥーロンのフランス軍は艦隊を海に送り出すことができるまでに回復しました。1794/6月にフッド提督は戦闘を期待して出帆。フッド提督が6月にゴルフ・ジューアン(Golfe Jouan)で攻撃を掛けようとした作戦は、モデルとはならないまでもネルソン提督の「ナイルの海戦」(Battle of the Nile 1798/8/1-2)のヒントとして役立ちました(ネルソン提督はフッド提督のことを「これまでに知りえた中で最高の海軍提督だ」と言いました)。しかしこのときのフッド提督の作戦は風向きが悪かったために中止されました。 ▼その後 1794/4月にフッド提督は海軍大将(Full Admiral)になり、1794/10月に海軍大臣(ministry)・海軍本部(admiralty)の誤解の結果でイギリスに呼び戻され、退役しました。1796年にグリニッジ・ホスピタル(Greenwich Hospital)の院長に指名されて、1816年に亡くなるまでその職につきました。1795年に彼の妻スザンナ(Susanna)にイギリス貴族キャサリントン・フッド男爵(Baroness Hood of Catherington)夫人の爵位(peerage of Great Britain)が与えられ、1796年にフッド提督にはホイットリー・フッド子爵(Viscount Hood of Whitley)の爵位が与えられ、初代フッド子爵になりました。この爵位は息子のヘンリー (1753-1836)に受け継がれ、現在も続いています。 1792年、北アメリカの北西海岸をジョージ・バンクーバーの遠征隊に参加して航海したウィリアム・ロバート・ブルートン艦長(Lieutenant William Broughton)が、現在のオレゴン州のフッド山・フッド川とワシントン州のフッド海峡を、フッドに因んで名づけました。 09/7/17 参考:〜フッド提督乗艦の戦列艦(ship of the line)の装備:〜
・進水(Launched):1756/8/10。 ・ボストン茶会事件(Boston Tea Party、1773/12/16)後、 1775年の港の封鎖作戦に参戦 ・アメリカ独立戦争で2番目の戦闘だったバンカーヒルの戦い (Battle of Bunker Hill、1775/6/17)でのボストン包囲攻撃戦に参戦 ・1778/7/8にフランスのブレスト軍港の監視任務中に、霧にまかれて、 7/10にフランス艦イフィジェニー号(32-gun Iphigenie)に捕獲される ・1781/7/29にルットウィジス艦長(Skeffington Lutwidge's HMS Perseverance)が取り戻す ・1784年に売却処分となる。
・チェサピーク湾の海戦(Battle of the Chesapeake、1781/9/5) チェサピーク湾口の近くでの海戦 ・セント・キッツの海戦(Battle of St. Kitts、1782/1/25-26) ・セインツの海戦(Battle of the Saintes、1782/4/9-12) ・栄光の6月1日(Glorious First of June、1794/6/1)ウェサン島沖西方400海里の大西洋上 イギリス(大ブリテン王国)と第一共和政下のフランスとの間で行われた、 フランス革命戦争における最初にして最大の海戦。 別名:第3次ウェサン島の海戦(Third Battle of Ushant) プレリアルの海戦(Combat de Prairial) ・グロワ島の海戦(Battle of Groix、1795/6/23) フランス西海岸沖のグロワ島付近での海戦 ・サン・ビセンテ岬の海戦(Battle of Cape St. Vincent、1797/2/14) ポルトガルのサンヴィセンテ岬沖合での海戦 ・フィニステレ岬の海戦(Battle of Cape Finisterre、1805/7/22) スペイン・ガリシア地方フィニステレ岬沖での海戦。 参考:〜 ・アメリカ独立戦争の海戦 (1775〜1782) The naval operations of the American Revolutionary War アメリカ独立戦争中の海戦はアメリカ独立戦争の開始から、1783年のパリ条約でアメリカの独立が認められるまでの間に行われたアメリカ、イギリス、フランス等の海軍の作戦行動で、2つの期間に分けられます。1つ目の期間は、開戦の1775年から1778年の夏までで、イギリス海軍が大陸軍に対抗するイギリス陸軍と呼応して北アメリカの海岸、川、湖で活動しました。更にイギリスの商船をアメリカの海賊行為(私掠船)から守ることも任務の一つでした。2つ目の期間は、フランス、スペインおよびオランダの相次ぐ参戦により、西インド諸島やベンガル湾にまで及ぶ海戦に拡大したもので、1778年夏から1783年中程までの期間で、アメリカ大陸で進行中の作戦や通商保護が目的のものもありましたが、大きなスケールでの海軍力同士のぶつかり合いもありました。 さらに、 (1) アメリカの戦い (1775-1778) (2) フランスの参戦 (1778) (3) 西インド諸島 (1778-1779) (4) スペインの参戦 (1779-1780) (5) 新大陸での最後の作戦行動 (1781-1782) (6) 東インド方面作戦 (1778-1783) に分けられます。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/7/17)、 令和 R.3/12/1(2021) |