France

国連 1980 発行
切手で綴る 絶海の孤島(Lonly Island) No.16
レユニオン島
La Reunion
1642、フランスの入植

大航海物語
 参考資料
  地図編

フランス人の上陸
ルイ13



REUNION
フランス人と原住民との会見
1642 レユニオン上陸300年記念 1942
レユニオン 1943 発行
ブルボン島(Bourbon Island)レユニオン島入植

1665 フランス入植300年記念 1965
フランス 1965 発行
REUNION
レユニオン島の地図

レユニオン 1907-30 発行
SEYSHELLES
インド洋の地図
アデン


セイシェル


マダガスカル


モーリシャス
レユニオン
ここレユニオン
セイシェル 1954-56 発行

レユニオン島(ブルボン島)
 Reunion Island(Ile Bourbon)
、フランス共和国の海外県
 面積:2,512Ku(佐賀県は2,439ku、沖縄本島(1207.87ku)の約2倍)
 人口:720,294人(763,000、2004年)県都はサン・ドニ(Saint-Denis)
 1番切手:1852年フランス切手に "REUNION" 加刷で発行
 コーヒの原種の一つブルボン種(Bourbon)の原産地。
レユニオン島はフランス共和国の海外県ならびに海外地域圏(レジオン regions)で、マダガスカル島から800Km東方のインド洋上に浮かぶ絶海の孤島。東経55度30分、南緯21度。大きな火山島で、島のほぼ中央にある最高峰のピトン・デ・ネージュ山(Piton des Neiges 死火山)は標高3069m、島の南東部にも標高2631mのフルネーズ山(Piton de la Fournaise 活火山)があって、火山学者のメッカとなっている。山岳地勢で住民の大半は海岸部に居住。北東約200kmにモーリシャス島がある。

1498、ポルトガルヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達
1502、ポルトラノ海図に”Dina Margabim”、又は”Diva Morgabim”の名で掲載されて登場
1507/2/9にトリスタン・ダ・クーニャが無人島を発見・接岸、その日が聖アポローニアの
   記念日だったので、”聖アポローニア(Santa Appolonia)島”と命名
1513、ポルトガルのインド植民地総督ペドロ・デ・マスカレニャスが「公式に」発見
   その名はマスカレン(仏マスカレーニュ)諸島(レユニオン、モーリシャス、ロドリゲス)に残る
   その後オランダの提督、英国の海賊、ポルトガルのイエズス会宣教師など相次いで接岸
1638、インドに向かう”聖アレクシス(Saint Alexis)号”がルイ13世の名で占有を宣言
1640、フランスの聖アレクシス号艦長が上陸して公式にフランス領有を宣言し、
    ルイ13世に因んで”ブルボン(Bourbon)島”と命名
1642、ブルボン王家を打倒したフランス革命でラ・レユニオン(La Reunion)島と改名
1646、マダガスカルの反乱分子12人がラ・レユニオン島に流刑
1654、マダガスカルの反乱分子(フランス人8人、マダガスカル人6人)がラ・レユニオン島に流刑
1663、フランス人2人が10人のマダガスカル人(男7人、女3人)と2年滞在
1665、フランス東インド会社はインドへの中継港として重視し、植民を開始、
   フランス人20人が入植、コーヒーを栽培するも、後に失敗
1668、サトウキビがマダガスカルよりもたらされ、砂糖栽培が重要産業となる
1671、人口76人:白人36人、マダガスカル人37人、混血の子供3人
1674、人口130人:奴隷75人
1686、最初の人口調査。総人口約300人:フランス、ポルトガル系インド、アフリカ、マダガスカ
   ル、オランダ10家族がフランス夫婦より、12家族がフランス男性とインド、ポルトガル女性
   14家族がフランス男性とマダガスカル女性
1689、奴隷人口102人、自由民212人
1700、人口700人、うち320人が黒人
1709、奴隷人口384人、自由民492人
1711、自生のコーヒーが発見される
1714、奴隷人口534人、自由民623人
1718、イエーメンのモカからコーヒーがもたらされる
1735、奴隷人口6,573人、自由民1,716人
1749、コーヒー苗が虫害によって荒らされ始める
1750、奴隷人口11,893人、自由民2,834人
1763、奴隷人口15,419人、自由民4,267人
1779、奴隷人口30,209人(うち白人6,464人)、自由民6,929人
1788、人口45,000人:奴隷33,377人(うち白人8,812人)、解放奴隷1,029人
1789、奴隷人口42,588人、自由民9,211人
1791、ハイチ革命(サトウキビ経済の崩壊)が起こる
1793、国民公会により島名がレユニオン(Reunion)島と決定
1794、国民公会奴隷制廃止宣言
1802、ナポレオンにより奴隷制復活
1804、奴隷人口50,350人
1806、皇帝に媚を売った提督によって「ボナパルト」島と改名
   翌年にかけて大型サイクロン来襲
1810、英国の統治下に入る。白人12,725人、解放奴隷2,840人、奴隷52,141人
1814、イギリス占領時に「ブルボン」島と改名
1815、フランスに返還。最初の製糖工場(小屋)
1817、最初の蒸気粉砕機導入。奴隷売買禁止令
   非合法売買で1831年までに奴隷約45,000人輸入
1820、粉砕機数91。1820年-1825年の砂糖生産量は4500t以下
   人口71,703人:奴隷512,13人、解放奴隷4,710人、白人15,780人
1821、粉砕機数135
1823、粉砕器数168。サトウキビ耕作面積48,000ha
1826、人口87100人:奴隷60,698人
1829、インド人契約労働者が続く3年間で3,000人移入
1830、蒸気粉砕機数84、白人と白人系混血30,000人、奴隷70,000人
1832、続く3年間で奴隷45,000人輸入
1835、奴隷人口70,406人
1838、ルイ・ドゥ・エルが総督で赴任(〜1841)
1840、奴隷人口66,100人。製糖工場数140
1843/6、ピエール・パソット艦長が総督で赴任(〜1844/3)、1回目
1846/1、ピエール・パッソット艦長が総督で赴任(〜1849/8)、2回目
1848、奴隷人口62,151人、12月奴隷制廃止。「レユニオン」島と呼称が何度も変わった
1849、契約労働者数12,032人(インド11,309人、中国644人、アフリカ379人)
1850、続く10年間でインド人労働者約60,000人
1852、外国人契約労働者16,585人、解放奴隷15,483人
1858、製糖工場数127
1859、契約労働者数64,403人(アフリカとマダガスカル合わせて26,784人)
   アフリカ人移住禁止令
1860、砂糖生産量73,000t。サトウキビ耕作面積62,000ha。製糖工場数121
1865、砂糖生産量48,000tに激減。インド・アフリカ移民74500人
   44,000人の解放奴隷が契約労働に移行せず
1869、スエズ運河開通、スエズ運河が開通するとインド方面への中継港としての役割は減少
1870、人口21万人。うち中国系1,180人
1881、人口17万2,000人。砂糖生産量2,000t
1882、粉砕機数168。インド人移住禁止令。契約労働者数46,426人
1885、最後のインド人契約労働者移住(男22人、女12人)。人口16万3,000人
1887、モザンビークから2,000人以上の契約労働者移住
1889、島で生まれた移民の子へのフランス国籍付与
1901、中国人契約労働者受812人移住。人口17,3315人
1904、製糖工場数36
1911、人口173,293人:インド人ムスリム584人、中国人844人(うち女33人)
1914-1918、砂糖生産量37,000t
1927、移民受け入れ再開。マダガスカルより3,000人
1931、人口197,933人、うちフランス国籍192,566人
1940、砂糖生産量110,000t
1946、フランスの海外県となる
1952/3/15から3/16にかけて世界最多24時間降水量の1,870mmを記録
1956、製糖工場数13
1988、製糖工場数4
2002、時差の関係で、現地時間1月1日午前0時少し過ぎに、県都サン・ドニのルネ・ポール・ヴィク
   トリア市長が、市庁舎前の式典会場に設えられた屋台でライチ1キログラムを0.76ユーロで
   買ったのが、現金による世界初のユーロ使用と(公式には)されている。しかし現地の噂で
   は、それより数分前(2001/12/31:午後11時57分という説も有)に、一人のクレオール人男
   性がATMから20ユーロ紙幣を1枚引き出すことに成功したと言われている
2001、製糖工場数2
2002、ユーロ流通
2003、海外レジオン設置に伴い、「レユニオン海外県ならびに海外レジオン」となる。

リシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシ枢機卿 (1585/9/9〜1642/12/4)
 Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu

リシュリュー公爵はカトリック教会の聖職者(枢機卿)にしてフランス王国の政治家。1624年から亡くなる迄ルイ13世の宰相を務め、海外の植民地政策を積極的に推し進めました。ルイ13世と母后マリー・ド・メディシスとの政争に巻き込まれ一時失脚するも才腕を認められて1622年に枢機卿に任じられ、2年後の1624年に首席国務大臣(事実上の宰相)になりました。
リシュリュー公爵

フランス 1970/10/17 発行
1621年に国王の寵臣リュイヌ公が亡くなるとリシュリューは急速に権力を掌握し始める。翌1622年にリシュリューの国務会議入りを母后マリーから推薦されたルイ13世は彼を悪魔のように憎んでいると拒絶していたが、国王はリシュリューを枢機卿に任命し、同年4/19にローマ教皇グレゴリウス15世は彼を叙階。フランスはプロテスタント教徒ユグノーの反乱などの危機に瀕しており、リシュリューは国王にとってなくてはならない助言者になり、1624/4月に国務会議の顧問官に任命されるとリシュリューは首席国務卿ラ・ヴィユーヴィル侯の失脚を企て、同年8月にラ・ヴィユーヴィル侯は汚職容疑で逮捕され、リシュリューが彼にとって代わり首席国務卿(宰相)となりあした。当時はドイツを舞台に起こっていた三十年戦争(1618-1648)をめぐる外交姿勢(リシュリューは介入に積極的)などをめぐって母后マリーと対立するも、1631年にマリーがロレーヌ公のもとへと逃れて行きました。中央集権体制の確立と王権の強化に尽力し、行政組織の整備、三部会の停止などを通じて後年の絶対王政の基礎を確立。また、国内のプロテスタントを抑圧し1628年にはフランスにおける新教勢力の重要な拠点のラ・ロシェルを攻略、ラ・ロシェル包囲戦(1627-1628)に勝利。対外的には、勢力均衡の観点から同じカトリック勢力であるオーストリア・ハプスブルク家、スペイン・ハプスブルク家に対抗する姿勢をとりました。そのため、国内ではラ・ロシェルを攻略したように反国王の立場をとるプロテスタントを抑圧したにもかかわらず、 三十年戦争ではプロテスタント側(反ハプスブルク家)で参戦。1648年に三十年戦争の講和条約ミュンスター条約とオスナブリュック条約の総称のウェストファリア条約(Peace of Westphalia、1648/5/15-10/24)が締結され、ヨーロッパで30年続いたカトリックとプロテスタントの宗教戦争が終りました。条約締結国は相互の領土を尊重し内政への干渉を控えることを約し、新たなヨーロッパの秩序が形成されてヴェストファーレン体制となりました。なお、フランスとスペインの戦いは三十年戦争以後も継続(西仏戦争1635-1659)、1659年ピレネー条約で終結。

ルイ13世
 Louis XIII de France
(1601/9/27〜在位1610/5/14〜1643/5/14)

ルイ13世はブルボン朝第2代フランス王。初代アンリ4世の子。母はマリー・ド・メディシス。ブルボン朝創生期の王。父アンリ4世の暗殺後、8才でフランス国王に即位。成人する迄は母のマリー・ド・メディシスが摂政として政治を補佐。また、宰相リシュリューに支えられ、貴族の勢力を抑え、直接知事を任命するなど王権を強化。当時の身分制議会の三部会も、1615年以来開催されなくなり、続くルイ14世の時代に確立した絶対君主制の基礎を作りました。国内では新教徒(ユグノー)へ圧力を加えるも、三十年戦争では自国の国益を優先して新教徒側を支援し、宿敵ハプスブルク家の牽制を図りました。クラシック曲の「アマリリス」を作曲したとされています。
ルイ13世
アジマン 1972 発行
大西洋中央海嶺
大西洋中央海嶺スバールバル諸島の西の北極海からアイスランド島を経て大西洋のほぼ中央を南北に走り、さらにアフリカ大陸と南極大陸の間を東西に走り、インド洋レユニオン島の南東まで続く世界最大規模の海嶺で、総延長はおよそ1万8,000km。
地球マグマの墳出

フランス 1970 発行
参考HP:〜
レユニオン島の場所地図
レユニオン島の地図

こちらで世界遺産
富士山日本
パルテノン神殿ギリシャ
ピラミッドエジプト
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     09/3/12、12/4/17、2019/8/19, 2021/9/16
スタンプ・メイツ
Copyright(C):StmpMates
無断転載禁止