ジブラルタル Gibraltar |
GIBRALTAR 人工衛星写真のジブラルタル地図 |
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スペイン領→ 空港の滑走路→ |
←イギリス領 ←ロック(岩山) ←ハーバー(港) |
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ジブラルタル 1978/5/3 発行 |
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ブラルタル半島 | ジブラルタル 1992 & 2006 発行 |
ジブラルタル←ロック ←ジブラルタル海峡 |
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ジブラルタル・ロック Royal Visit 1954 イギリス領ジブラルタル 英領ジブラルタル 1954/5/10 発行 |
ジブラルタル・ロック ジブラルタルの岩 英領ジブラルタル 2002/9/15 発行 |
ジブラルタル Gibraltar (British overseas territory) ジブラルタルはイベリア半島南端にあって、ジブラルタル海峡を挟んでモロッコに対するする小半島の先端にあるイギリスの自治植民地です。面積6.5ku、人口約3万人(1979)。地名は711年同地に上陸したイスラムの隊長”ターリク・ブン・ジャード”にちなんだアラビア語の”ジャバル・アルターリク”(ターリクの山)に由来するとされています。古代地中海世界の境界を示す”ヘラクレスの柱”の一つといわれ、軍事上戦略的に重要な位置を占めるため”地中海の鍵”と呼ばれてきました。スペイン側の町、ラ・リネア(La Linea)とは幅1.6km長さ0.5kmの中立地帯で区切られています。守備隊長兼務の総督がイギリスから派遣されており、自治政府・議会が有ります。英国守備隊と海軍ドックが経済の中心で、自由港として仲介貿易も盛んです。ジブラルタルの「ジブラルタルの岩」 と地中海対岸の「セウタのアチョ山」は「ヘラクレスの柱」と呼ばれ”地中海の門”となっています。 参考HP:〜 ・ジブラルタルの地図 ・ジブラルタル半島の区分地図 |
ジブラルタル小史 |
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1704/8/4スペイン継承戦争時、王位継承者のオーストリア・カール大公を支持するイギリス・オランダ連合艦隊に占領されました。しかし、スペイン軍はオーストリア大公軍に降服したため、イギリス艦隊司令官ルク提督は一方的に大公軍の旗を降ろし、イギリスの旗を掲げましたので、住民と議会はイギリスの支配を拒んで、隣町サン・ロケへ逃亡しました。1713年ユトレヒト条約第10条でスペインはジブラルタルの町と城と付随する港、要塞の所有と軍事的使用をイギリスに認めました。しかし主権はスペインにあると譲らず、1705、1727、1783年にジブラルタル奪回戦争を起し包囲しましたが失敗し、今日まで紛争が続いています。1954年のエリザベス2世女王の英連邦と英国植民地歴訪の時にはジブラルタルが最終訪問地となっておりました。スペイン政府は両国の摩擦を避けるため、この訪問を中止するように要請しましたが、イギリスは聞き入れませんでした。1981年の英国チャ−ルス皇太子のハネムーンはジブラルタルから英国の豪華ヨット"ブリタニア号"で出発しましたが、スペイン国王はこれを不服として結婚式に列席しませんでした。1950年代からスペインは国連第4委員会(非植民地化)に何度もジブラルタル問題を提出してきましたが、イギリスの態度は一貫して非友好的で、1960年代には両国の関係が悪化して、スペインが経済封鎖をし、1982年スペインに社会主義政党の政権が成立してようやく正常化したいきさつが有ります。 | エリザベス2世女王 ロイヤル・ヴィジット記念 英領ドミニカ 1966 発行 英国皇太子ご結婚記念 イギリス 1981/7/22 発行 |
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ジブラルタル海峡 |
GIBRALTAR イギリス . |
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イベリア半島→ パレアレス諸島→ ジブラルタル海峡→ アフリカ→ |
ヨ|ロッパ | |||
←コルシカ島 ←サルデーニャ島 ←シチリア島 ←地中海 |
←イ タ リ ア |
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ジブラルタル 1986/325 発行
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イベリア半島の南端で、西から タリファ アルへシラス サン・ロケ |
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GIBRALTAR ジブラルタル海峡 英領ジブラルタル 1938 発行 |
←ジブラルタル海峡→ タンジール→ |
北アフリカ |
←ラ・リネア ←ジブラルタル ←セウタ |
英領ジブラルタル 1960/10/29 発行 |
・ジブラルタル海峡の写真 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 08/9/17追記、 10/7/31、12/2/12、12/12/12 |