大航海物語
マルティニークの戦い
1762/1/5〜3/3
Battle of Martinique

参考資料
マルチニーク島

マルチニーク 1947 発行
イギリス&フランスの艦隊

セントルシア 1982/4/13 発行
グアドループ島→
  バステール

マリーガラント 島→
グアドルプ、マルチニク、セントルシア

セントルシア 1982/4/13 発行



←マルティニーク島
   ポートロイアル

←セントルシア島
   カストリーズ

ドミニカ島

イギリス領ドミニカ 1974 発行
グレナダ島

グレナダ 1974 発行
小アンティール諸島

バルバドス 1969/5/6 発行

アンギラ島
バーブーダ島
セント・キッツ・ネビス島
アンティグア島
モンセラット島
グアドループ島
ドミニカ島
マルティニーク島
セント・ルシア島
セント・ビンセント島
バルバドス島
グレナダ島
トバコ島
トリニダッド島





マルティニークの戦い (1762/1/5〜3/3)
 Battle of Martinique, British expedition against Martinique

7年戦争(1756-1763)中の1761/6/6にカリブ海の西インド諸島小アンティール諸島ウィンドワード諸島に属するドミニカ島がイギリスのリーワード諸島基地ダグラス司令官(Sir James Douglas, 1st Baronet 1703-1787)の艦隊による攻撃で降伏してから、フランスはマルティニーク島を、島の山の多い地形を利用して守りを固め、正規兵1200、現地兵7000、傭兵(カリブの海賊他)4000の合計12200に増強し、主力軍をフォート・ロイアル城塞に置いて反撃の準備をしました。

一方のイギリスは付近の英領の島々に本国から増強の兵を送り込み、アンチグア島へはスタフォード第38歩兵連隊(38th (1st Staffordshire) Regiment of Foot)を、バルバドス島へは白人兵500と黒人兵500を派兵増強。最初の兵はカナダのベルアイル島から、バルバドス島のブリッジタウン近く(Carlisle Bay, Barbados)に4個連隊が到着、1761/12/24にモンクトン将軍(Robert Monckton 1726-1782)率いる主力軍12個連隊がカナダから到着し、合計8000以上の兵がモンクトン将軍の騎下となりました。

1762/1/5にジョージ・ロドニー提督艦隊に乗艦したイギリス軍はセントルシア島の南西にある世界自然遺産(World Heritage Site、Natural criteria)のピトンズ山沖のカストリーズ港沖を抜けて、1/7にマルティニーク島西海岸サン・アン湾(Sainte-Anne Bay)に投錨して歩兵部隊が上陸し、2個旅団(brigades)はルアンズデュアレィ (Les Anses-d'Arlet)からフォート・ロイアルへと進軍しましたが、途中で大砲の通過できる道路が無くなり再乗船のやむなきに到りました。
プチ・ピトンズ山、グロ・ピトンズ山

セントルシア 1982/4/13 発行

1/16に一兵も失うことなく英軍主力はマルティニーク島のカーサ・ナビール(Case Navire)に、一部の小部隊は湾北のネグロポイント(Negro Point、フォート・ロイアル5km地点で深い雨裂、渓谷に沿った道路有)に上陸を完了。ロドニー艦隊はフォート・ロイアルを囲み(Siege of Fort Royal)支援の艦砲射撃を実施し、ロドニー提督の部下水兵と海兵隊は上陸して素晴らしい働きをしました。1/24までフランス軍各地の守備砦と激しい戦闘。1/25に英軍は堅固なフォート・ロイアル城塞の砲撃を沈黙させました。1/27に仏軍は最期の強襲に打って出て激戦が繰り広げられ、1/28真夜中ついに仏軍は壊滅、散りじりに逃亡、2/3にフォート・ロイアルが降伏。さらにセントルシア島の首都カストリーズ(Castries)とピトン、そしてグレナダ島を攻略しました。2/12に付近の島々の仏軍も降伏しました。

2/26から3/3までにモンクトン将軍はセントルシア島、グレナダ島、セントヴィンセント島から出帆して引き上げ、トバゴ島を捕獲した後に、キューバのハバナ港攻撃を下令されました。パリ和平条約(Treaty of Paris 1763/10/2)で終結し、マルティニーク島他がフランスに返還されました。

参考:〜
フォート・ロイアル
 (Fort Royal)

フォート・ロイアルはマルティニーク島の首都、後のフォール・ド・フランス(Fort-de-France)。

ベル(ベルアイル)島
 (Belle Isle)

ベルアイル島はカナダのラブラドル半島とニューファンドランド島北部の間にある無人島、セントローレンス湾から大西洋への北の出口に当たる重要な航路、ベルアイル海峡の東部に有。

パリ和平条約
 (Treaty of Paris、1763/10/2)

パリ条約は、ヨーロッパの七年戦争(1756-1763)と北米大陸のフレンチ・インディアン戦争などの講和条約。1763年に英・仏・スペインの間で締結。フランスはケベックなどカナダの領土とミシシッピ川以東のルイジアナをイギリスに割譲し、ミシシッピ川以西のルイジアナをスペインに割譲。これでフランスが北アメリカ大陸から完全に撤退。また、セネガルをイギリスに割譲し、一部の商業都市を除いたインドの植民地を放棄。これでインドから事実上撤退。そのほか、イギリスはスペインにマニラとハバナを返還するかわりにフロリダを獲得。

フランスはサンピエール・ミケロン島(SaintPierre&Miquelon)を据え置かれ、グアドループ島、マルティニーク島、セントルシア島を返還され、イギリスはドミニカ島、グレナダ島、セントヴィンセント・グレナディーン諸島、トバゴ島を獲得。
サンピエールミケロン島

サンピエールミケロン 1932-33 発行

この条約によりイギリスとフランスのインド・北米植民地戦争は一旦決着し、イギリスがインドと北米植民地の覇権を確立。こうしてイギリスが広大な市場を確保できたことは、産業革命の進展に大きく寄与することになった。しかし、一方で長期にわたる植民地抗争は英仏両国に深刻な経済難をもたらした。そのため、イギリスは北米植民地に対して経済統制を強め、北米移民の反発を招きアメリカ独立革命(1775-1783)が勃発。ケベックにはフランス人の子孫がそのまま現在まで住み続け、カナダ領内に民族問題をもたらすこととなった。

参考HP:〜
マルティニーク島の地図
ベルアイル海峡の地図(日本語)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       08/9/18
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