・海軍中将ベルナール・バウダン・ドゥ・トロメリン卿
(Vice-admiral Bernard Boudin de Tromelin、1735/2/15-1815/12/4)
ベルナール=マリー・バウダン・ドゥ・トロメリン、シュヴァリエール・ドゥ・トロメリン卿
(Bernard-Marie Boudin de Tromelin, seigneur(Lord) de Tromelin, "Knight
of Tromelin")
生地:フランス、ブルターニュ地域圏フィニステール県モルレー・コミューン・モルレー
(Morlaix commune, Finistere department, Brittany Region, France)
没地:オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏メトロポール・ド・リヨン県リヨン、81才
(Lyon, Metropole de Lyon, Auvergne-Rhone-Alpes Region, France)
・フランス王立海軍(French Royal Navy Officer、1750-1784)
海軍中将(Vice-admiral, 1793)
・セントルイス騎士団 (Knight of the Order of St. Louis), "Knight of Tromelin"
・七年戦争(Seven Years War)従軍
・アメリカ独立戦争(United States War of Independence)従軍
・海軍士官学校の理事 (Member of the Navy Academy, 1769-1784)
・フランス植民地ポートルイス行政官(French Colonial administrator, Port-Louis, 1772-1781)
・フランス探検家(French explorer)
・バウダン船長の遠い親戚との説有
・トロメリン艦長の略年表。
・生い立ちの記
トロメリン提督は1735年フランスのブルトン貴族でオーストリア継承戦争中にオランダ南東端部での戦いで仏勝利のマーストリヒト包囲戦(Siege of Maastricht, 1748/4/15-5/7)に従軍したトロメリン卿ジャック・バウダン(Jacques Boudin, seigneur de Tromelin, 1702-1777)の子供15人の一人としてモルレーのシャトー城で誕生しました。そして、1750/7/6に15才で王立海軍ギャルド・マリン(Gardes-Marin)に士官候補生(Midshipman)として入隊しました。
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フランスのシャトー(城)
フランス 1952 発行 |
1755/10/11にトロメリン候補生はギャルド・マリンを卒業して少尉(Sub-Lieutenant)に任官。1760年に22門フリゲート艦ヘルマイン号(frigate Hermine)に乗艦(1760/12/7-1761/11/26)。ジュリアン・オーフレイ・デュ・ゲランベール艦長(Lieutenant
Toussaint Julien Auffray du Guelambert)
の下で、七年戦争中のフィニステレ岬の海戦(Battle of Cape Finisterre, 1761/8/13-14、英勝利)に参加。七年戦争(仏連合vs英連合、英連合勝利)が終わった1763/5/1に中尉に昇進。1767年にノルマン号(Normande)の艦長(1767/12/29-1770/7月)。1769/4/24にフランス海軍アカデミー(仏海軍兵学校:Academie de Marine)の非常勤理事に就任。1771/3/2に32才のトロメリン中尉はインド洋のフランス領イル・デ・フランス島(Isle de France、現モーリシャス島)に上陸。ポートルイス市を建設したラ・ブルドネス総督(在任1735-1746)のずっと後のポイヴァール監督官(Administrator intendant)の下で行政官(Admiistrator)としてポートルイス港(Port Louis)の整備に尽力しました(1781迄)。 |
モーリシャス島
仏領(1715-1814)
英領(1814-1968)
”ドードー鳥”
モーリシャス 1954 発行 |
・遭難者の救助
1776年にトロメリン艦長がイル・デ・フランス島に到着していない輸送船の捜索を命じられて小型コルベット艦ドーフィン号(4-gun corvette Dauphine、ケルゲレン船長の第2回航海随伴, 1773)で捜索に出帆しました。そして560kmほど北へ航海して、当時セーブル島(Ile des Sables)と呼ばれていた無人島に立ち寄って捜索すると、船が難破して、この島で15年間も生き延びていたマダガスカル島の現地人マラガシ族人(Malagasy)遭難者8人を発見・救助しました。それは、1761/7/31に遭難したフランス東インド会社(Compagnie francaise des Indes orientales, 1664-1795)奴隷運搬船フリュート型輸送帆船ユーティル号(fluyt Utile)の生存者でした。 |
トロメリン島
モーリシャス 2017 発行 |
その話を聞くと「マダガスカル島からイル・デ・フランス島へ奴隷を運搬していたユーティル号がセーブル島の珊瑚礁にて座礁して、乗組員らは難破船の木材で救命筏を作ってマダガスカル島にたどり着くも、約60人の奴隷達は無人島に置き去りにされた」ということでした。15年後の、1776/11/29にトロメリン艦長らが生存者を救出した時、生きていたのは7人の女性と生後8ヵ月の子供だけでした。その後、トロメリン艦長らの救助にちなんで、その無人島はトロメリン島と呼ばれるようにました。
1777/4/4に大尉(captain、仏Capitaine de vaisseau)に昇進、38門フリゲート艦コンソランテ号(frigate Consolante)艦長。1777/8/10に64門戦列艦ブリリアント号(64gn
Brillant)艦長に就任。
・インド洋作戦の記
1778年に英仏間の緊張が高まって、12/28に仏ブレスト港を出帆してフランス島へ派遣されたドルベス提督がインド派遣艦隊総司令官になると、1781/10/25に到着した援軍のサフレン提督艦隊と共に、1781/12/7にトリンコマリー攻撃として、戦列艦11隻・フリゲート艦3隻・コルベット艦3隻の艦隊17隻でフランス島を出帆。航海の途中で攻撃地をマドラスに変更するも健康状態が悪化し、サフレン提督を艦隊総司令官に任命、ドルベス提督艦隊17隻の司令官にはトロメリン大尉を指名しました。ドルブス提督は1782/2/9にサドラスの戦いの数日前に亡くなりました。 |
インド洋の地図
オマーン 1981 発行 |
トロメリン大尉は1781/10/26にドルベス艦隊の74門戦列艦アニバル号(Annibal)に乗艦してサドラスの海戦(1782/2/17、仏勝利)、プロヴィディーンの海戦(1782/4/12、仏勝利)、ネガパタンの海戦(1782/7/6、英勝利)。トリンコマリーの海戦(1782/9/3、引分)を戦いました。
その後に、トロメリン艦長は他のフランス艦隊の艦長達4人
・アルテシアン号(Artesien)フェリックス艦長
アルマン・デ・サン=フェリックス
(Armand de Saint-Felix, 1737-1819)
・プチアニバル号(Petit Annibal)ガレス艦長
ジュスタン=ボナベンチャー・モラール・デ・ガレス
(Justin-Bonaventure Morard de Galles, 1741-1809)
・ビザール号(Bizarre)ランデル艦長
アン・レネ・アウグスティン・デ・ロスカンヴェック・デ・ラ・ランデル |
仏艦 ル・マスカリン号
Sixth rate flute 74-gun Mascarin
フランス南極地方 1972/1/31 発行 |
(Anne Rene Augustin de Roscanvec de La Landelle, 1735-?)
・ベローネ号(Bellone)アンドレ艦長
ジャン・アンドレ・デ・パス・デ・ボーリュー
(Jean Andre de Pas de Beaulieu, 1750-1783)
と共に5人でサフレン提督に抗議して移動を要求するも受け入れられず、艦隊を去りました。1782/9/3にトロメリン艦長は火船プルヴェリサトゥール号
(12gn fireship Pulverisateur, 230t, 1784難破)で、フランス島へ行き、帰国しました。 サフレン提督は「ヒューズ提督艦隊との戦い(四大海戦)を優勢に戦い抜いてヒューズ艦隊によって1艦たりとも失うことなく、また捕獲もされなかった」と述べて「それは全ての戦いで積極的に攻撃を仕掛けたのに、部下の艦長の一部が命令に従っていれば、さらなる勝利を得たであろう」とも述べ、艦隊の補修を行う港の援助なしで艦隊戦力を維持して自力でトリンコマリーの泊地を確保しました。その命令違反の報告(1782/9/23付)を仏王ルイ16世が受理して、1784/7/25にトロメリン艦長は海軍から追放されて年金を剥奪され、またフランス海軍アカデミーからも追放されました。
フランス大革命後の1793/1/1に名誉回復されて、中将に昇進するも、二度と軍艦の指揮を執ることはありませんでした。1795/6/6にトロメリン提督は海軍を引退。1815/12/4にトロメリン中将はリョンで亡くなりました。
・トロメリン艦長の略年表:〜
年 |
才 |
記 事 |
1735 |
0 |
/2/15、フランスのモルレーで誕生 |
1750 |
15 |
王立海軍入隊(ギャルド・マリン) |
1755 |
20 |
少尉任官 |
1760 |
25 |
フリゲート艦ヘルマイン号乗艦〜1761/11/26 |
1761 |
26 |
フィニステレ岬の海戦従軍、ヘルマイン号 |
1763 |
28 |
海軍中尉 |
1767 |
32 |
ノルマン号艦長〜1770/7月 |
1769 |
34 |
海軍兵学校(海軍アカデミー)理事 |
1771 |
36 |
モーリシャス島上陸、行政官〜1781 |
1776 |
40 |
11/29、ドーフィン号、セーブル島(現トロメリン島)到着、遭難者の救助 |
|
41 |
12/15、ドーフィン号、モーリシャス島ポートルイス到着 |
1777 |
42 |
04/04、大尉、フリゲート艦コンソランテ号艦長 |
|
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08/10、ブリリアント号艦長 |
1779 |
44 |
11/11、海軍アカデミー(兵学校)の常任理事 |
1781 |
46 |
12/06、モーリシャス島行政官を離職 |
1782 |
47 |
2/17、アニバル号、サドラスの海戦 |
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4/12、アニバル号、プロヴィディーンの海戦 |
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7/06、アニバル号、ネガパタンの海戦 |
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|
9/03、アニバル号、トリンコマリーの海戦 |
1784 |
49 |
7/25、王命で海軍から追放される |
1789 |
54 |
7/14、フランス大革命(バスティユ牢獄襲撃・革命勃発) |
1793 |
57 |
1/1、名誉回復、中将 |
1795 |
61 |
6/6、海軍を引退 |
1815 |
81 |
12/1、81才リョン没。 |
参考HP〜 ・トロメリン島の地図 ・トロメリン島の場所地図
こちらで ・ヒンバ族
・ブランドバーグ山
・グラディエーター・インセクト
世界遺産の
・トゥウェイフルフォンテーンの岩絵 (ナミビア) ・ナミブ砂漠 (ナミビア) ・サン(ツォディロ)の岩絵 (ボツワナ、砂漠のルーヴル)
・アルタミラ洞窟の岩絵 (スペイン)
・ラスコー洞窟の岩絵 (フランス) ・ヌビア遺跡 (エジプト) ・ペトラ遺跡 (ヨルダン) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・法隆寺 (日本)
をお楽しみください。
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和 R.3/12/21(2021)
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