Spain

国連 1988 発行
 切手で綴る  海軍大航海 (Naval Voyage)
ドン・フェデリコ・グラヴィナ提督
1805
トラファルガーの海戦


大航海物語
スペイン編

KIRIBATI
グラビナ提督


  グラヴィナ提督    スペイン艦隊”トリニダード号”

1805 トラファルガーの海戦200年記念 2005
キリバス 2005 発行

スペインのグラヴィナ提督はナポレオン戦争(1803-1815)中の海軍提督で、イギリスのネルソン提督と1805/10/21にトラファルガーの海戦を闘い負傷。その時の傷がもとで49才でスペインカディスで亡くなりました。

ドン・フェデリコ・カルロス・グラヴィナ・イ・ナポリ提督
(Admiral Don Federico Carlos Gravina y Napoli, 1756/8/12〜1806/3/9)
グラヴィナ提督はイタリア・シシリー島のパレルモ生まれ、伯父がナポリ王国のスペイン大使としてスペインに赴任した時にスペインに行き、12才でスペイン海軍士官学校にカディット(Cadet)で入隊。その後、フリゲート艦サンタクララ号(frigate Santa Clara, 34gn, 1767)に少尉候補生(Midshipman)として乗組みブラジルへと航海しました。その航海中ブラジル南部サンタカタリナ州(Estado de Santa Catarina)の不毛の小さな島にあるアセンション砦(Fort Ascension)攻撃で指揮を執り降伏させました。
カディット見習生

 ジャージー 1985 発行
1777年にアルゼンチンのラプラタ河(Rio de la Plata, 290km)で乗っていたボートが座礁事故を起こし、ほとんどの乗組員が犠牲になるも、提督は辛くも九死に一生を得て生還しました。1778年にスペインへ帰るときに士官に任官して22才で海軍少尉(Lieutenant)となり、アルジェリア人海賊(Algerian pirates)を討伐する船に乗組みました。

1779年にジーベック艦”サンルイス号”(xebec San Luis)の艦長となり、ジブラルタル包囲攻撃戦争(Siege of Gibraltar 1779-1782)に従軍してイギリスのジブラルタル守備隊エリオット将軍と闘い、1781/4/4にイギリスのコルベット艦セント・フェルミン号(Sloop HMS St. Fermin, 16g, 250t, 1780)を捕獲しました。セント・フェルミン号はスペインの地中海側ムルシア州カルタヘナ(Cartagena, Murcia Region)へ連行され、1785年に廃船されるまでスペイン海軍で重装備を施されてスループ艦として使用されました。 ジーベック艦

スペイン 1964 発行

イギリス海軍が占領していたミノルカ島のサン・フェリペ要塞(Fortress San Felipe)攻撃に従軍し、海軍大尉(Captain)に任官しました。1785年に艦隊司令官としてアルジェリア海賊(Algerian corsairs)討伐に従軍しました。1788年にはコンスタンチノープル(Constantinople、現トルコのイスタンブール)へと、フスフ・エフェンディ大使(Ambassador Jussuf Efendi)に親書を届ける旅をして、そこで数々の天体観測をなし、研究書を出版しました。スペイン王カルロス3世(Charles III 1716-1788、在位:1759-1788)の崩御を、フリゲート艦パッズ号(frigate Paz)でスペインのカディスから西インド諸島への知らせに、スピード新記録を打ち立てました。

1790年に戦列艦ポーラ号(Paula)艦長となり、1790/1月にトルデシリャス条約(1494)でスペイン領とローマ法王が認めていたヌトカ・サウンド(Nootka Convention)を巡るイギリスとの紛争地交渉で、200年来かつてない大艦隊で示威行動を行い、外交交渉で解決されました。1790/10/10にアルジェリア北西部にあるオランで起こった大地震の救援(オランの救援)に馳せ参じました。

1793年にスペイン艦隊を率いてツーロン攻囲戦争(1793/9/18-12/18)で、イギリスのフッド提督と合流して、イギリス・スペイン連合艦隊がフランスのツーロンを占領しました。この英西同盟が続いている時に、英ポーツマスに行ってイギリスの戦法を研究しました。スペインに戻って4艦隊からなる地中海艦隊の司令官となり、旗艦の戦列艦ヘルメンギルド号(Hermenegildo, 112gn)に坐乗しました。1796年にスペインはフランスとサニルデフォンソ条約(San Ildefonso)を締結して同盟関係となり、その後はイギリスと闘うこととなりました。

1801年にフランスの将軍シャルル・ヴィクトール・エマニュエル・ルクレール(Charles Victor Emmanuel Leclerc, 1772-1802, ナポレオンの妹ポーリーヌ(Pauline Bonaparte, 1780-1825) の最初の夫)によるハイチ攻略に参加して援軍を送り込みました。

1804年にはスペインのフランス大使に指名され、一たび戦いが始まれば軍に復帰することを条件として、パリに赴任しました。ナポレオン(Napoleon I , Napoleon Bonaparte, 1769-在位1804 -1814-1815-1821)がフランス皇帝となることを宣言して、1804/12/2に戴冠式が挙行され、グラヴィナ提督はスペイン王国大使として列席し、フランス海軍大臣デニス・デクレア公爵(Denis Decres, 1761-1820)と良好な関係を構築しました。(ナポレオン戦争

スペイ王カルロス4世(Carlos IV, 1748 -1819, ブルボン朝スペイン王(在位1788-1808、宰相はマヌエル・デ・ゴドイ(Manuel de Godoy y Alvarez de Faria、1767-在任1801-1808-1851)がグラヴィナ提督をスペイン海軍の総司令官に指名したのでスペインのカディスに戻って、1805/2にスペイン艦隊旗艦80門戦列艦アルゴノータ号(Argonauta, 80gn)に将旗を翻しました。
ナポレオン・ボナパルト

 フランス 1972 発行

ナポレオンがイギリスを侵略することをスペインのゴドイ政権に提案した時に、スペインのグラヴィナ総司令官はフランス海軍のヴィルヌーブ総司令官のもとで、スペイン・フランス連合艦隊をカリブ海に派遣してイギリス艦隊を混乱に陥れました。その時に、ナポレオンはイギリス敵前上陸を目指して、北フランスのドーバー海峡 に面したブローニュ・シュル・メール(Boulogne-sur-Mer)に18万もの大軍を集結させました。フィニステレ岬沖の海戦(1805/7/22)で、ヴィレヌーヴ提督が率いるフランス・スペイン連合艦隊(フランス戦艦16隻とスペイン戦艦6隻)が、カルダー提督(Admiral Sir Robert Calder, Bt. KCB 1745-1818)率いるイギリス艦隊(戦艦15隻)と戦い、スペインはフィルメ号(Firme, 74gn)とサン・ラファエル号(San Rafael, 80gn)を拿捕され、イギリス艦隊の勝利となり、ヴィレヌーヴ提督の命で残存の連合艦隊はカディスへ避難しました。当初のイギリス上陸のための軍隊はアウステルリッツの戦い(Battle of Austerlitz, 1805/12/2、フランス軍がオーストリア・ロシア連合軍を撃破)のために、ヨーロッパ内陸部へと移動させられました。

その頃カディスでは、直ぐに出撃するかもっと好条件になるまで待つかで、スペイン艦隊総司令官グラヴィナ提督ならびに他のスペイン司令官達と、同盟国フランスの間で激論が戦わされました。グラヴィナ総司令官はフィニステレ岬沖の海戦でのフランス艦隊の支援欠如に気付き、ぐずぐずしていると黄熱病が蔓延(Yellow fever epidemic)することを心配して、1805/10/20にスペイン・フランス連合艦隊はカディスを出帆しました。

1805/10/21にスペイン・フランス連合艦隊がトラファルガー岬沖を帆走中にネルソン提督率いるイギリス艦隊に襲撃され、「トラファルガーの海戦」が勃発しました。グラヴィナ提督座乗の旗艦オーストリアス号(Principe de Asturias)が3隻のイギリス戦艦に同時攻撃され、メインマストとミズンマスト(後牆の縦帆)に命中弾を受けてへし折られ、リグ(索具)と帆は別々に被弾してだめになりました。午後3時過ぎにグラヴィナ提督は左腕を”ぶどう弾”(Grapeshot)で撃ちくだかれました。10隻を旗艦の周りに集結して護衛された旗艦は、麻屑(tow)のようになってカディス港へ戻りました。1805/10/24にサンテズマ・トリニダード号は沈没しました。その敗戦にも関わらずグラヴィナ提督はスペイン海軍最高位階級のアルマダ艦隊総司令官(Capitan-General de la Armada)に推挙されました。グラヴィナ提督はその時の傷がもとで二度と海上へ出ることも無く、49才で没して、カディス・サンフェルナンドのマリノスイラストレウ大聖堂(Panteon de Marinos Ilustres, San Fernando, Cadiz)に葬られました。

参考:〜
トラファルガーの海戦
 (Battle of Trafalgar, 1805/10/21)
トラファルガーの海戦はスペイン南西部カディス州トラファルガー岬(Cape Trafalgar, Cadiz province, Spain)の西での海戦で、帆走中のスペイン・フランス連合艦隊へ対して、イギリス艦隊が突っ込んで、イギリスの勝利となりました。これによりナポレオンはイギリス上陸を断念しました。
スペインの戦列艦

スペイン 1964 発行
・ミノルカ島
 (Menorca Island)
ミノルカ島は地中海でスペイン付近のバレアレス諸島にある島で、1701年に勃発したスペイン継承戦争(War of the Spanish Succession, 1701/7-1714/9)の最中、1708年にイギリス海軍によって征服され、1713年のユトレヒト条約によってイギリスへ帰属。同戦争中の1704年にはイベリア半島南端のジブラルタルもおさえており、これによってイギリスは地中海の入り口を制し、イギリス海軍の拠地となりました。
パレアレス諸島・ミノルカ島

スペイン 1981 発行
19世紀に一時フランスが占領、その後、再びイギリスが占領。
1802年にアミアンの和約でスペイン領。

・オラン大地震
(Evacuation of Oran, 1790/10/10)
オラン大地震は、1732年からスペイン領だったアルジェリア北西部の沿岸都市オランの近くで起こった大地震(推定マグニチュード7.5)。地震とそれに伴う津波で推定3,000人が死亡。グラヴィナ提督はスペイン艦隊を指揮して救援に赴きました(オランの救援:Evacuation of Oran)。オランのスペイン人の多くがセウタに避難したと伝えられています。オランは1791年に貿易都市としての必要性が下がったため、時のスペイン王カルロス4世がオスマントルコに売却。オスマントルコの支配は1832年にフランスがアフリカの植民地の拠点としてアルジェリアを占領するまで続きました。1962/7/5以降はアルジェリア独立に伴いアルジェリア領。
アルジェリアの地図

アルジェリア 1995 発行

・ハイチ革命(独立)
1802年にフランスを掌握したナポレオンがハイチのサン・ドマングに義弟ルクレール将軍率いる大軍を送り、黒人側は敗北。交渉の席に呼ばれたトゥーサン・ルーヴェルチュールは逮捕されフランスに送られ処刑されましたが、フランス軍の残虐な殺戮に、欧州系白人と黒人との混血ムラート(Mulatto)を辟易させ、ムラートと黒人との連合が成立。戦況は再び黒人側に有利になって、1803/11月の戦いでフランス軍は大敗しました。黒人指導者デサリーヌ(Jean-Jacques Dessalines, 1758-1806/10/17)が1804/1/1に独立を宣言して国名を先住民のイスパニョーラ島の呼び名だったハイチ(Haiti)
ハイチの地図

ハイチ 1995 発行
に改め、その皇帝に即位しました。白人植民者たちは敗北したフランス軍に先立ちサン・ドマングを去り、多くは難民輸送船を仕立てて北米のフランス植民地ルイジアナへと逃亡しました。残った白人に対し、トゥーサン・ルーヴェルチュールと違いデサリーヌは容赦がなく、奴隷労働への報いとして、黒人軍はフランス人たちを虐殺。闘わなかったポーランド人は許されました。

・ツーロン包囲攻撃戦(仏王党派の反乱)
(Siege of Toulon, 1793/9/18-12/18)仏共和国の勝利
ツーロン包囲攻撃戦は、フランス革命の初期に、南フランスの港湾都市ツーロンで発生した王党派の反乱に対して、共和派が勝利をおさめた戦い。ナポレオンが初めて名を上げた戦いとしても知られ、ダンベール男爵に率いられた王党派軍は、イギリス・スペイン連合艦隊に援助を求めました。1793/8/28にイギリスのフッド提督とスペインのランガラ提督は、フランス政府軍に対抗するためイギリス・スペイン・ナポリ・ピエモンテの各軍
フランスの地図

フランス 2003 発行
からなる13,000人の軍隊を送り込みました。
1793/10/1にダンベール男爵(Baron d'Imbert)はシャルル王太子(8才)のフランス王位継承でルイ17世を宣言して王党派の旗「フルール・デ・リス」を掲げ、ツーロンの町はイギリス海軍が占領しました。そこへフランスの増援部隊が続々と到着し、港を見下ろす高台を奪取したナポレオンがそこから港内のイギリス・スペイン連合艦隊を砲撃し、ついに12/16に仏ス連合艦隊はツーロンを脱出。その際にイギリス海軍のシドニー・スミス代将(Sidney Smith GCB, 1764-1840)が焼討船隊を港に突入させ、施設や船を焼き払うも、ツーロンはナポレオンが奪回しました。仏ス連合軍はうまく連携が取れていなかったためナポレオン軍に撃退され、この勝利で24才のナポレオン は一気に砲兵隊司令官(准将)となり、国際的な注目を浴びることとなりました。 シャルル王太子

チャド 1971 発行
<イギリス・仏王党派・スペイン・両シチリア王国>:〜
(Siege of Toulon, 1793/9/18-12/18)
上陸連合軍兵力:〜
・連合軍最終合計〜総司令官ダンダス少将、22,000人
 (Allied Forces, Major General Sir David Dundas GCB, 1735-1820)
・フランス軍合計〜司令官、1,200人(8/29)
 ・仏王党派亡命軍(Armee des Emigres, French Royalists)〜
  王党派ルイ連隊、コルシカ島猟騎兵、王党派仏海兵隊
  (Royal Louis Regiment, Corsican Chasseurs, Royal French Marine Artillery)
 ・王党派反乱軍〜4大隊(4 Battelions)
  (Federalists, French Anti-Montagne forces)
・イギリス軍〜司令官オハラ将軍、8,000人
  (General Charles O'Hara, 1740-1802)
・両シチリア王国軍合計〜8.500人
 ・ナポリタン軍〜司令官ピグナッテリ将軍、6,500人
  (Neapolitan Troops, General Pignatelli)
 ・サルディニア・ピエモンテ軍〜司令官ブエラー将軍、2,000人
  (Sardinian/Piedmontese Troops, General Bueler)
・スペイン軍〜総司令官グラビナ提督、4,000人など。
連合艦隊兵力:〜
仏英の艦隊 戦列艦 フリゲート艦 司令官
・イギリス 7隻 - - - フッド提督
・フランス王党派 2隻 2隻 ジャン・オノレ提督
・スペイン 10隻 - - - ランガラ提督
・ナポリタン艦隊 2隻 - - -
・英仏スシの連合軍艦隊編成:〜参加艦船名
イギリス艦隊:〜司令官フッド提督
・戦列艦 Ship
・ビクトリー号 HMS Victor 100 旗艦、フッド提督
・ブリタニア号 HMS Britannia 98
・ウィンザーキャッスル号 HMS Windsor Castle 98
・クラジュー号 HMS Courageux 98
・プリンスロイヤル号 HMS Prince Royal 80
・テリブル号 HMS Terrible 74
・ロバスト号 HMS Robust 64
フランス王党派連邦主義者艦隊:〜司令官ジャン・オノレ提督
 French Royalist Federalist Squadron
・コマースデマルセイユ号 Commerce de Marseille 120 ケルレッシー提督
・ポンペ号 Pompee 74
・ピュイサント号 Puissant 74
・ピュイサント号 Puissant 56 Frigate
・ペルレ号 Perle 40 Frigate
スペイン艦隊:〜司令官ランガラ提督
・プリシマ・コンセプシオン号 Purisima Concepcion 100 ランガラ提督
・メキシイカーノ号 Mexicano 88
・74門艦 Ships of the Line 74 8隻
両シチリア王国ナポリタン艦隊
 Neapolitan Squadron(Kingdom of the Two Sicilies1816-1861)
・74門艦 Ships of the Line 74 2隻
など。

<フランスの地中海艦隊>
ツーロンは地中海の主要なフランス海軍の港で、フランスの地中海艦隊のほぼ全体が港に停泊していました。国民公会がイギリスとの戦争を宣言してから5ヵ月後の1793/8月にイギリスを第一次対仏大同盟の進行中の戦争に引き込んだフランスの地中海都市トゥーロン政府は、王党派を支持して共和国政府に反対しました。地中海のイギリス軍司令官であるフッド提督と交渉した後、都市の王党派は支配権を握り、イギリス軍は同盟国スペイン艦隊からの軍隊とともに都市に入り、艦隊を掌握し、避けられない共和党の反撃に対する防御を準備。海からの攻撃に対して強力に強化されました。
・英スミス提督の破壊工作後のフランスの地中海艦隊兵力:〜
 (残存の出撃可能艦艇)
仏の地中海艦隊 戦列艦 その他
・フランス 7隻 フリゲート艦3隻 ブリッグ艦1隻
共和国フランス艦隊:〜艦艇名
戦列艦 Ship
・ケンタウルス号 Centaure 74
・ボルドーコマース号 Commerce de Bordeaux 74
・デスティン号 Destin 74
・デュゲトルアン号 Duguay-Trouin 74
・トリコロール号 Tricolore 74
・サフィサント号 Suffisant 74
・リベルテ号 Liberte 74
フリゲート艦
・セリウス号 Serieuse 36 Frigates
・イフィゲニア号 Iphigenie 32
・カレイジャス号 Courageuse 36
ブリッグ艦
アラート Alert 16 Brig
など。

参考HP:〜
フィニステレ岬の場所地図
トラファルガーの海戦図(ネルソン・タッチ)

こちらで
ブルドネス提督
エリオット将軍
チュラッカ艦長
キリアム艦長ヴィクトリー号操艦長)
ヴィルヌーヴ提督
ツーロン海戦(1744)
サフレン提督
ビクター・ヒューズ船長
フランス領ギアナ
マゼラン (海峡)
スパイス (香辛料)
コーヒー (嗜好飲料)
ラッコ(絶滅危惧種)
フランスの王と王族
切手コレクションの
イギリス皇太子ご成婚
・切手で綴る 東海道五十三次
全米50州アメリカ
・世界で1番美しい 蝶々
・ギリシャの民族衣装
・スペインの画家ゴヤ
世界遺産
フランス
法隆寺日本
ヌビア遺跡エジプト
ピラミッド (エジプト)
パルテノン神殿ギリシャ
モヘンジョダロパキスタン
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   2007/3/15、令和 R.4/8/22(2022)

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