United Kingdom 国連 1983 発行 |
切手で綴る 絶海の孤島(Lonly Island) No.4 セントヘレナ島 St. Helena Island, British Overseas Territories |
大航海物語 地図編★ |
セント・ヘレナ島の地図 セント・ヘレナ 1953/8/4 発行 |
セントヘレナ島ジェームスタウン湾、1613 Period engraving of St. Helena (200%) セントヘレナ 1978/8/14 発行 (200%) |
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セントヘレナ島 | セントヘレナ島&トリスタンダクーニャ島 トリスタンダクーニャ島分離30年記念 セント・ヘレナ 2007 発行 |
トリスタダク|ニ ャ島 |
ペドロ・レイネルのセントヘレナ島ポルトラノ古地図 Pedoro Reinel Portlan Chart, 1530 セント・ヘレナ 1981 発行 |
セントヘレナ島→ |
セントヘレナ島の場所地図 セントヘレナ 1992 発行 (200%) |
沈没船の引き揚げ オランダ東インド会社船 ウィッテ・リュー号 VOC Ship Witte Leeuw 1613 セントヘレナ 1978/8/14 発行 (200%) |
セント・ヘレナの古地図 (John Thornton 製作) |
ジェームス湾、ダヴトン卿 セントヘレナ発見500年記念 セント・ヘレナ 2002/5/21 発行 |
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1700年の地図 |
1817年の地図 |
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英領セント・ヘレナ 1981/5/22 発行 |
セント・ヘレナ島の場所を示す地図 | ||
サウザンプトン テネリフ 赤道 アセンション島 セント・ヘレナ島 トリスタン・ダ・ク−ニャ島 |
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アセンションの切手 |
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セント・ヘレナの切手 |
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トリスタン・ダ・ク−ニャの切手 |
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セント・ヘレナ 1991 発行 |
セントヘレナ島 Saint Helena Island, British Overseas Territories 英国の海外領セントヘレナ・アセンション及びトリスタンダクーニャを構成 (British Overseas Territory of Saint Helena, Ascension and Tristan da Cunha) ・面積:122ku(日本の小豆島(153.3ku)より少し小さい) ・人口:4,255人(2008)、 4,534人(2016) ・通貨:イギリス・ポンドとセントヘレナ・ポンド(Saint Helena pound:SHP) ・首都ジェームスタウン(Jamestown, 88ku、南緯15度56分:西経5度43分):人口714人:2008) ・最高地点:ダイアナズ・ピーク(Diana's Peak, 818m)で、1996/3月に国立公園指定 ・1番切手:1856/1月 ”ST.HELENA” 発行。 セントヘレナ島は南大西洋に浮かぶ火山島で、アフリカ西岸より2,800kmの大西洋上に有って、海亀・海鳥の大繁殖地です。野生のウサギとヤギがいて、大西洋中央海嶺上に有。島の周囲は断崖が多く、ギネスブックでは地球上で他の陸地から距離が2番目に遠い陸地とされる(最も遠い陸地はイースター島)。かつてはイギリス領のセントヘレナ総督府に属する「セントヘレナ及び属領(St.Helena & Dependencies)と呼ばれていましたが、2009年9月に改正された新憲法によって3区域の関係が対等なものになり、名称も変更されてアセンション島、トリスタン・ダ・クーニャ島など他の島とともにイギリスの海外領土「セントヘレナ・アセンションおよびトリスタン・ダ・クーニャ」(British Overseas Territory of St Helena, Ascension & Tristan da Cunha)を構成しました。スエズ運河が建設されるまで、インド洋へ通じる戦略的要地として重要で、主に給水地として使用されていました。 セント・ヘレナ島は絶海の孤島であるため流刑地として使用され、1815年にナポレオンがワーテルローの戦いに敗れて流され、1821年に生涯を終えた島(流刑地)として有名になり、現在は島の観光経済に大きく寄与しています。またボーア戦争後にもボーア側首脳の流刑地として使用されました。 ・ポルトガルの発見と争奪時代〜(1502-1645) ・東インド会社時代〜(1658-1834) ・オランダ東インド会社時代〜(1645-1650、1673/1-5) ・イギリス東インド会社時代〜(1658-1834) ・イギリス領〜(1834-) 1502/5/21、ポルトガルのノーヴァ船長が発見して、コンスタンティヌス1世の母の聖ヘレナ(Helena of Constantinople)に因んで命名。当時、島に住民はなく、ポルトガル人は生活物資を運び込んで 航海のための拠点とする 1503/7/30、バスコ・ダ・ガマの従兄弟エステヴァン・ダ・ガマ(Estevao da Gama)の艦隊が寄港 1505、アルメイダ提督の艦隊が寄港 1508、オランダの地図に掲載される 1516、フェルナンド・ロペス(Fernando Lopez)がポルトガルへ帰国する前に置去りとなる 1519、ポルトガルのロポ・ホーメン(Lopo Homem-Reineis)が正確な地図を発刊
1649、英東インド会社の武装商船が寄港 1650、オランダがアフリカ南端の希望峰植民地(ケープタウン)の建設でセントヘレナ島を放棄 イギリス東インド会社がセントヘレナ島を保持 1656、英東インド会社がクロムウェル護国卿に請願 1657、英東インド会社が植民地化を開始 1658、王弟ヨーク公(後ジェームズ2世)に因んで命名された砦のジェームズタウン(現首都)が建設され 住民のほぼ半分がアフリカからの黒人奴隷 1659、初代ダットン総督(Captain John Dutton、在任1659-1661)がマルマデューク号(Marmaduke)で着任 セント・ジョン砦(Castle of St John)を建設 1660、イギリスの王政復古でセント・ジョン砦をジェームス砦(James Fort)に改名 1661、東インド会社が特許状により島を保有 1670、人口が48人+黒人奴隷18人(計66人)となる 1661、第2代総督ロバート・ストリンガー(Robert Stringer, 在任1661-1670)が着任 1671、第3代総督リチャード・コニー(Richard Coney, 在任1671-1672)が着任 1672、第4代総督アンソニー・ビール(Anthony Beale, 在任1672-1673)が着任 1672/12/25、オランダ東インド会社船が来島 1673/5、オランダ東インド会社が250人で島に無血上陸、占領 1674、英東インド会社ウィリアム・バス船長(Capt William Basse)が 第5代総督リチャード・ケイガン(Richard Keigwin, 1673-1674)を救出 1676、エドモンド・ハレーが天文台を設置し、天体観測の拠点とする 1691、ダンピール船長が寄港 1709、ブレークネック谷(Breakneck Valley)で黄金を発見との噂が広まるも ロンドンで検査して黄鉄鉱だったのでゴールオラッシュが夢と終る 1723、人口が500人+奴隷610人(計1,110)となる 1733、グリーン・チップド・バーボン・コーヒー(Green Tipped Bourbon Coffee)が ホートン号(Houghton)でイェーメンのモカ(Mocha)から移植され繁殖する 1775、クック船長が寄港 1787、コーネル総督(Daniel Corneille 在任1782-1787)がクリスマスに居酒屋禁止令を出して 反乱が3日間続き、反乱者99人が軍法会議で死刑となる 1791〜1833、ボーア人捕虜5,000人が送り込まれる 1792、ブライ艦長が第2回航海で寄港 1795、イギリスがオランダの入植地ケープタウンを占領
1858、ナポレオンが住んでいた家(Longwood House)とナポレオンの遺体が埋葬された 場所(Napoleon's Tomb)がフランスへ譲渡され、ロングウッドハウスは島に駐在 するフランス副領事の官邸となる 1869、スエズ運河開通で交通量が激減するも、なお多くの船がセントヘレナ島に寄港 1899-1902、第2次ボーア戦争(1899-1902)の間、数千人のボーア側捕虜の収容所となる 1947、国王ジョージ6世(George VI、1895-在位1936-1952)が 王妃と王女姉妹(エリザベス&マーガレット)とで南ア連邦からの帰途に来島 1959、ナポレオンがロングウッドハウスに移る前2ヵ月間住んでいた ブライアーパビリオンがオーストラリアに在住の人が買い戻してフランス政府へ寄贈 2016、セントヘレナと外部を結ぶ交通は南アのケープタウンとの間を結ぶ船便(イギリス郵便事業会社 ロイヤルメールの定期便貨客船便セントヘレナ号)が、3週間に1度の頻度で5日間かけて運航さ れるも、観光客の満足な受け入れはできあう、生活物資の確保にも困難をきたす状態が続く、 セントヘレナ空港(Saint Helena Airport)が完成 2017/10/15、南アのヨハネスブルグからの初の旅客定期便が就航 2018/2月、貨客船便が退役。 セントヘレナ島に付属する小さな島々:〜北東から ・ショァー島(Shore Islet) ・ジョージ島(George Islet) ・フラット・ロック岩(Flat Rock) ・サンディ・ベイ島(Sandy Bay Islet) ・スピアリー島(Speery Islet) ・ピークド島(Peaked Islet) ・エッグ島(Egg Islet)、など。
・セントヘレナ島の総督列伝:〜 イギリス東インド会社の総督:〜 (East India Company governors、1659-1834) ・ジョン・ダットン船長(Capt. John Dutton 1659-1660 ・ロバート・ストリンガー船長(Capt. Robert Stringer 1660-1669) ・リチャ−ド・コニー船長(Capt. Richard Coney 1669-1772) ・アンソニー・ビール船長(Capt. Anthony Beal 1672-73) ・オランダ東インド会社の空位期間-1673/1-5迄 ・ケイガン船長(Capt. Richard Keigwin 1673-1674、暫定総督、ボンベイ総督) ・グレゴリー・フィールド船長(Capt. Gregory Field 1674-1678) ・ジョン・ブラックモア船長(Maj. John Blackmore 1678-1690) ・ジョンソン船長(Capt. Joshua Johnson 1690-1693、島で暗殺) ・キーイング船長(Capt. Richard Keling 1693-1697、ボンベイ総督) ・ステファン・ポイリアー船長(Capt. Stephen Poirier 1697-1707) ・略 ・ロバート・ブルーク(Robert Brooke 1788-1800) ・フランシス・ロブソン(Francis Robson 1801-1802、代理総督・東インド会社士官) ・大佐ロバート・パットン(Colonel Robert Patton 1802-?) ・マーク・ウィルクス(Mark Wilks 1813-1816) ・ハドソン・ロー(Hudson Lowe 1816-1821) ・准将アレクサンダー・ウォーカー(Brigadier GeneraL Alexander Walker 1823-1828) ・チャールス・ダラス(Charles Dallas 1828-1834) イギリス領(1834〜)の総督、初代1836年指名:〜 (British Crown Governor of Saint Helena, Ascension & Tristan da Cunha) 1)1836-少将ジョージ・ミドルモア(Major General George Middlemore) 2)1842-大佐ハミルトン・トレナウニー(Colonel Hamelin Trelawney) 3)1846-少将パトリック・ロス(Major General Sir Patrick Ross) 4)1851-大佐トーマス・ゴア・ブロウン卿(Colonel Sir Thomas Gore Browne) 5)1856-エワード・ヘイ・ドラモンド・ヘイ卿(Sir Edward Hay Drummond Hay) 6)1863-大将チャールス・エリオット卿(Admiral Sir Charles Elliot) 7)1870-中将チャールス・パテイ(Vice Admiral Charles George Edward Patey) 8)1873-ハドソン・ラルフ・ジャニシュ(Hudson Ralph Janisch) 9)1890-ウィリアム・グレイ-ウィルソン(William Grey-Wilson) ・略 31)1995-デイヴィッド・レスリ-・スマールマン(David Leslie Smallman) 32)1999-デイヴィッド・ホランビー(David Hollamby) 33)2004-ミカエル・クランシー(Michael Clancy) 34)2007-アンドリュー・ガー(Andrew Gurr) 35)2011-マーク・アンドリュー・ケイプス(Mark Andrew Capes) 参考HP:〜 ・セントヘレナ島の場所地図 ・セントヘレナ島の地図 ・セントヘレナ島の区分地図 こちらで 世界遺産の ・ピラミッド (エジプト) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・姫路城 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/7/28、14/6/7, 2021/9/2 |
この島の大西洋上の位置はこちら。 こちらで「亜麻プランテーション」をお楽しみください。 この島の大西洋中央海嶺上の場所はこちらでお楽しみください。 |