★イギリス |
フィリップ・ドーヴェルニュ提督
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大航海物語★ |
フランス王党派を支援するドーヴェルニュ艦長 The last Chouannerie, 1799 1789 フランス革命200年記念 1989 ジャージー 1989/7/7 発行 |
最晩年のドーヴェルニュ艦長 Prince de Bouillon - the end Prince de Bouillon, 1816 ジャージー 1991/1/22 発行 |
ジャージー島 |
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英仏海峡内のチャネル諸島 ジャージー島 ジャージー 1976-77 発行 |
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オルグル山城 Mont Orguell Castle ジャージー 1987/7/9 発行 |
王子の塔、ラ・ウーグ・ビエ Prince's Tower, La Hougue Bie, 1801 ジャージー 1991/1/22 発行 |
北極探検 |
カナダ→ ハドソン湾→ パフィン湾→ グリーンランド→ |
SWEEDEN 北極の地図 ベーリング↓海峡 スウェーデン↑(黒い所) スウェーデン 1989/8/22 発行小型シートより |
← ユ|ラシア大陸 ← |
NORGE スパールバル諸島
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JERJY レースホース号とカルカス号 北極の氷に囲まれた探検船隊 Racehorse trapped in the Arctic ジャージー 1987/7/9 発行 |
アメリカ独立戦争に従軍 |
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アレトォサ号の遭難 Arethusa wrecked off Urshant |
ラットルスネーク号の座礁 Rattlesnake stranded on Trinidad |
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ジャージー 1987/7/9 発行 |
フランス革命 1789 フランス革命200年記念 1989 |
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ルイ16世に謁見
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バスチーユ牢獄の襲撃 Storming of the Bastille, 1789/7/14 ジャージー 1989/7/7 発行 |
ナバラ城前のマリー夫人 Marie de Bouillon at the Chateau de Navarre, 1790 |
フランス革命戦争 |
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ジョルジュ・カドゥーダルのギロチン処刑 Cadoudal to the Guillotine Excution of Cadoudal, 1804 |
サーリー号の戦い HM Cutter "Surly" in Action, 1809 ジャージー 1991/1/22 発行 |
ジャージー島オルグル港から出撃 Mission from Mount Orgueil, 1795 キブロンの戦い、1795 |
ナポレオン戦争 |
ジャージー島で生まれのドーヴェルニュ提督は、先祖にフランス系ブイヨン公爵を持つ家柄でしたが、アメリカ独立戦争・フランス革命戦争・ナポレオン戦争の勃発という激動の時代を、探検航海で遭難したり、海戦で戦いながら、2度も軍法会議に召還され、敵国の捕虜となり、また敵国の警察に逮捕されながらも、なんとかクリアーして生き抜き、ブイヨン公爵の称号を獲得しました。 16才で王室ヨットの艦長給仕として大英帝国海軍に入隊しました。1773年にフローラ号に乗組んで士官候補生となり、北西航路探索の北極探検隊にはカルカス号に乗組んで参加しました。新大陸アメリカで独立の機運が高まってくると、1775年にアジア号に乗組みボストン港艦隊へ派遣されました。新大陸ではアメリカ独立戦争に従軍し、レキシントン・コンコードの戦い、ニューヨーク上陸作戦などなどに従軍。1778年仏艦隊に追われて捕獲されるのを嫌ってアラーム号を焼き捨てると、軍法会議に召喚されました。独立戦争が終わると帰国して、フランス艦隊との戦いで乗艦のアレトォサ号が座礁してフランスの捕虜になりましたが、ブイヨン公の縁故で救出され、やがて英仏の捕虜交換で帰国できました。帰国して英海軍に復帰し、カーボ・ヴェルデ諸島沖でポルト・プラヤの海戦を戦い、その後のラットルスネーク号の探検では、ブラジル東1,200kmに浮ぶトリニダード・マーチン・ヴァズ諸島で遭難。約10ヵ月もの困難な遭難生活を乗り切って救出され、英領インドへ無事に到着しました。帰国すると、又もや軍法会議に召喚されました。そして、今度はフランス革命戦争とナポレオン戦争が勃発して、故郷のジャージー島がフランスのコタンタン半島の直ぐ近くだったため島の防衛と、フランスへの出撃の支援に活躍しました。戦争が終わると自分の出自の公爵家の後継者問題に参入して、パリへ渡航してパリ警察に逮捕されるも、公爵家の嘆願などで救出され、帰国できました。一応、公爵の称号は認められたものの、その間に莫大な借金を抱え、ロンドンのホテルで自らの命を絶って亡くなりました。 |
フィリップ・ドーヴェルニュ中将 (洗礼日1754/11/13〜1816/9/18) Vice Admiral Philippe d'Auvergne RN(1775-18) 英海軍(British naval officer:RN)勤務 ブイヨン公爵ラ・トゥール・ドーヴェルニュ家(1206-1802)の子孫 (Maison de La Tour d'Auvergne、Duche(英:Duke) de Bouillon) 生地:英仏海峡のジャージー島生 没地:イングランドのロンドン、61才没、結婚歴無
Siege of Boston、1775/4/19-1776/3/17、アメリカの勝利 イギリスはフランスとの北アメリカでのフレンチ・インディアン戦争(1754-1763、七年戦争:1756-1763)で2万人もの軍勢を派兵し、1763年のパリ条約でカナダとミシシッピ川以東のルイジアナを獲得したものの、その一連
ボストンの包囲は1775/4/19のレキシントン・コンコードの戦いの終わった夜に始まりました。アメリカ植民地兵(大陸軍は未結成)がイギリス軍をマサチューセッツ州北東部サフォーク郡ボストン市内に追い込み、ボストン市があるショーマット半島(Shawmut Peninsula, Massachusetts Bay)の付け根を占領したことで始まりました。 1775年にドーヴェルニュ候補生は64門戦列艦アジア号(HMS Asia 64-gun third-rate ship of the line 1764, 1364t)艦長(Captain van de Put)に乗組を命じられました。1775年夏にグレーヴス提督(Admiral Graves)艦隊と、風雲急を告げる新大陸ニューイングランド(New England)のボストン港(Boston Suffolk Massachusetts)でイギリス軍の補給任務につきました。
ドーヴェルニュ候補生は数隻のボート(boats)で「レキシントン攻撃」に従軍する兵員を輸送しました。ところが、ポール・リビア(Paul Revere、1735-1818)がイギリス軍の進撃を伝えるために徹夜で馬を飛ばして警告 ・転属、1775/8/27 Assignment & Court martial 1775/8/27にドーヴェルニュ候補生は、14門スループ艦スワン号クラス2番艦のキングフィッシャー号(HMS Kingfisher 14-gun Swan class of ship sloops, 302t)125人乗組に転属となり、准尉(Acting-Lieutenant)に昇進。そして、イギリス軍をレキシントンに輸送する任務に従軍しました。 ・ファルマス焼き討ち Burning of Falmouth、1775/10/18、イギリスの勝利 ドーヴェルニュ候補生は、アメリカ独立戦争の始まった1775/10/18にイギリス海軍の艦隊が、マサチューセッツ湾植民地ファルマスの町(現在のメイン州ポートランドで、現:マサチューセッツ州ファルマスやメイン州のファルマスとは別)に対して加えた攻撃「ファルマス焼き討ち」時の艦隊の1隻、キングフィッシャー号に乗組んで、ファルマスへの艦砲射撃を行いました。なお、ファルマス焼き討ちは、イギリス海軍艦隊からの焼夷弾を含む艦砲射撃で始まり、続いて部隊が上陸して町の完全な破壊を行いました。 ・ロングアイランドの戦い Battle of Long Island、1776/8/22-8/30、イギリスの勝利 1776年にはイギリス軍のニューヨーク(ロングアランド)上陸作戦に従軍し、ロングアイランドの戦いが勃発。 やがて、モリノー・シュルダム提督(Admiral Molyneux Shuldham, 1717-1798)の旗艦50門5等戦列艦プレストン号(Flag ship HMS Preston, 50-gun fourth rate ship of the line, 1757,1044t)に転属となり、ボストン港(Boston Harbour)艦隊司令官シュルダム提督がドーヴェルニュ候補生を、1777/6/2に少尉(Lieutenant)任官させました。1777/10/25にアメリカ大陸軍グレナディーン艦隊(Grenadiers)のデラウェア号(Delaware)を捕獲しました。
・ブイヨン公爵家が捕虜のドーヴェルニュ大尉を救出 Duke of Bouillon ラ・トゥール・ドーヴェルニュ家のゴドフロア(Godefroy de La Tour d'Auvergne (Godefroy Charles Henri) 1728-1792)がフランス軍ドーヴェルニュ大元帥(テュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ:Henri de la Tour d'Auvergne, Vicomte de Turenne, 1611-1675)の子孫だった縁で、ドーヴェルニュ大尉の身柄が仮釈放され、ルクセンブルク大公国(Grand Duchy of Luxembourg)近くのブイヨン公国(Duchy of Bouillon (1456-1794)-1830ベルギー吸収)のナバラ城(Chateau of Navarre)行きとなりました。 ・イギリス海軍に復帰 Further naval duties 1780/6月にドーヴェルニュ大尉は英仏の捕虜交換で、イギリスに帰国。16門カッター艦ラーク号(HMS Lark, 16-gun cutter, 1779、1781:sloop改装)艦長となり、北海(North Sea)やバルチック海(Baltic Sea)で、輸送船(convoy)護衛の任務につきました。 1781/1/6にフランス軍がジャージー島に侵攻してきて首都セント・へリア(Saint Helier)に上陸し、ジャージー島の戦いが勃発するも、ジャージー島防衛軍が勝利しました。
ドーヴェルニュ艦長がインド滞在中に、ムガール帝国(Mughal Empire 1526-1858)の南インド、カルナータカ地方(Karnataka)のアルコット太守(Nawab of Arcot)ムハンマド(Muhammad Ali Khan Wallajah, 1723-1795)に会うと、イギリス東インド会社に領地を奪われているので、取り戻して欲しいと嘆願されました。1783年にイギリスに帰国してムハンマドの嘆願をイギリス当局に報告すると、その嘆願は承認されて、ムハンマドへ領地が戻されました。帰国後、1784/1月に勅任艦長(Post-captain)の大佐(Captain)に任命されました。
・ナルシサス号の艦長 HMS Narcissus 1787年に20門6等戦列艦ナルシサス号(20-gun 6th-rate post ship of the line HMS Narcissus, 1781, 140人, 429t)艦長となり、ジャージー島の収税官(Revenue officer)に指名されました。また、1787年には、ジョージ3世(George III, 1738-在位1760-1820)が、ブイヨン公爵ジャック・レオポルド・デ・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ(Jacques Leopold de La Tour d'Auvergne (Jacques Leopold Charles Godefroy; 1746-1802)が亡くなって以来、絶えていたブイヨン公爵ラ・トゥール・ドーヴェルニュ家(Duke of Bouillon)の復活を承認したことをロンドン・ガゼット紙(London Gazette)が報じたので、ドーヴェルニュ艦長はブイヨン公爵家を継承するブイヨン王子(Prince of Bouillon)になりました。するとフランスがフランスに帰化したら、フランスでブイヨン公爵の再興を認めるといってきましたが、それはイギリス国王への裏切りになるので、断りました。 ▼フランス革命戦争 French Revolutionary Wars、1792-1802 ・フランス大革命 French Revolution、1789-1799 1789/7/14バスティーユ襲撃〜発端 (革命の混乱が最終的に収まったのは第三共和政(1870-1940)の成立時) ・フランス革命戦争 French Revolutionary Wars、1792/4/20-1802/3/25 (1794年前後を境に形勢逆転、フランスの侵略戦争に変貌)
・ジャージー島防衛艦隊司令官(移民助成官)、1794 Commander of Jersey Island Defence Fleet (Administrator of Relief Grants to Emigres) 1793年にフランス大革命(French Revolution 1789-1799)の兆候が始まりだすと、ジャージー島総督アレクサンダー・リンジー伯爵(Alexander Lindsay, 6th Earl of Balcarres and de jure 23rd Earl of Crawford 1752-在任1793-1794-1825)が王党派と連絡を取り始めるも、1794年にジャマイカ島の総督に転任して去ってしまいましたので、同年にジャージー島の防衛委員会(Defence Committee)がドーヴェルニュ艦長を通じて、海軍省に防衛強化の請願を送りました。すると、64門3等戦列艦ノンサッチ号を旗艦として、軍艦として建造されていない小型の船舶を砲艦(ガンボート:Gunboats)に仕立てたスループ帆船ダッチ・ホイ(オランダ式舟艇)5隻、レパルス号、ライオン号、スコーピオン号、タイガー号、イーグル号の船隊が、浮き砲台(floating battery)としてドーヴェルニュ艦長のもとに派遣されてきました。 ジャージー島の浮き砲台艦隊:〜1794年 ・ノンサッチ号〜旗艦、64門3等戦列艦 (64-gun 3rd-rate ship of the line HMS Nonsuch, 1774, 500人, 1,373t) ・レパルス号、スループ帆船ダッチ・ホイ(オランダ式舟艇) (Dutch hoy HMS Repulse, 1794, 30人, 54t)24ポンド砲1門:カロネード砲32ポンド3門搭載) ・ライオン号、同型艇 (Dutch hoy HMS Lion, 1794, 30人, 74t、同じ武装) ・スコーピオン号、同型艇 (Dutch hoy HMS Scorpion, 1794, 30人, 70t、同じ武装) ・タイガー号、同型艇 (Dutch hoy HMS Tiger, 1794, 30人, 80t、同じ武装) ・イーグル号、同型艇 (Dutch hoy HMS Eagle, 1794, 30人, 71t、同じ武装) 1794/12月にナルシサス号が売り払われましたが、代わりに16門砲艦ブラヴォー号(16-gun floating battery Bravo)が来着し、28門フリゲート艦(28-gun 6-rate frigate)に格上げされました。また、小型の借上げ武装艦で私掠免許状(Letter of Marque)を持つ2本マストのラガー式ダフネ号、同型艦ロイヤリスト号、アリストクラット号が増援されました。 増援艦隊:〜増援期間:1794/11/2-1796/12/19 ・ダフネ号、2本マストのラガー式 (Hired armed lugger Daphne, 60人, 160t, 4ポンド砲22門) 仏ノルマディーの王党派の艦長ロベルト・ピアソン少尉(Lieutenant Robert Pearson) ・ロイヤリスト号、同型艦 (Hired armed lugger Royalist, lugger 1798-1800, brig 1799-1801, 砲8門) ・アリストクラット号、同型艦 (Hired armed lugger Aristocrat, , lugger 1794-1798, 172t, 4ポンド砲22門) ・フランス侵攻、キブロンの戦い、1795/6/23-7/21 Invasion of France (Combat de Quiberon) ドーヴェルニュ艦長はフランスのブルターニュ地域圏モルビアン県キブロン半島の南端キブロン(Quiberon)に上陸して攻撃する軍勢を支援しました。フランス王党派軍(Royalist forces)約750人がジャージー島オルグルから、フランスのキブロン半島に何の支障もなく上陸しましたが、作戦は失敗に終わりました。
・ナポレオンの没落とブイヨン公国の復活問題 1812年のナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte、1769-在位1804-1814、1815-1821)によるロシア遠征の開始を契機として、イギリス(United Kingdom of Great Britain and Ireland, 1801-1927)とロシア帝国(Russian Empire, 1721-1917)の二国間で締結された同盟に始まった第6次対仏大同盟(Sixth Coalition, 1812 -1814)は、フランス軍にとって致命的な損失を招いたロシア遠征で、兵員37万が死亡し、20万が捕虜となり、イベリア半島戦争(Peninsular War, 1808-1814)で傷ついたナポレオンの不敗神話はここに完全に崩れ落ち、フランスに支配されていた諸国は次々に離反して、プロイセン(Kingdom of Prussia, 1701-1918)はフランスとの同盟を破棄し、オーストリア(Austrian Empire, 1804-1867)、スウェーデン(Kingdom of Sweden)、ライン同盟諸邦(Confederation of the Rhine, 1806-1813)も第6次対仏大同盟に加わりました。ロシア遠征で多大な損害を被ったフランス軍は、四方から迫る連合軍に圧倒され、ついにナポレオンは退位(1814/4/11)に追い込まれ、エルバ島の小領主として追放(1814/5/4)されました。1814/5/23に停戦になって、フランス君主の後継者は最終的にフランス上院議決で、フランス革命以来亡命していたブルボン家のルイ18世(Louis XVIII、1755-在位1814/4/6-1815/3/20、1815/7/8-1824/9/16)がパリに帰還して皇帝に即位(1814/4/6)し、王政復古がなされました。 パリに復帰して復位したルイ18世が、ブイヨン公爵(Duke of Bouillon)の継承を承認して、ドーヴェルニュ艦長が、1814年に60才で公位承継王子(公太子)となりました。イギリスのジョージ3世(George III)も認めました。 ・第2次ブイヨン公爵家継承問題 2nd claim to throne of Bouillo 1830年の7月革命でイギリスに亡命していたアルトワ伯爵(Charles、comte d'Artois 1757-在位1757-1824:1836、 ルイ18世没後にフランス王シャルル10世(在位1824/9/16-1830)になる)と第6次対仏大同盟の連合軍がパリ条約(Treaty of Paris, 1814/5/30、第1次)を締結。ナポレオン戦争中フランス第一帝国領となっていたネーデルラントに、1815年のウィーン会議(Congress of Vienna, 1814/9-1815/6)のウィーン議定書(Vienna Protocol, 6/9)で、ネーデルラント連合王国(United Kingdom of the Netherlands, 1815-1839)が設置されました。そして、ブイヨン公国はフランス領内に組み込まれて消えてしまいました。 エルバ島を脱出してパリでフランス皇帝に復活したナポレオンが、第7次対仏大同盟の軍勢との戦いのワーテルローの戦い(Battle of Waterloo, 1815/6/18)に敗れると、1815/11/20にイギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンの4ヵ国で締結されたパリ条約(第2次)で、フランスは「1790年当時の領土」へ縮小されました。さらに、フランスは7億フランの賠償金の支払いを課せられ、最長5年間もの同盟軍のフランス駐留と駐留経費の負担も認めさせられ、ルイ18世のブルボン朝による王政復古体制が復活(第2次在位1815/7/8-1824)しました。
ドーヴェルニュ艦長の屋敷と図書館は競売に付されるも、ジャージー遺産(Jersey Heritage)として残り、ブイヨン公国は激動の時代の中で1825年まで存続し、1830年にベルギー王国領となり、完全に姿を消しました。
1095、リエージュ教区(bishops of Liege)の時代(-1678) (リエージュ:ベルギー東部ワロン地域のリエージュ州) 1456、ブイヨン公爵がブイヨン公国の当主となる 1651、ラ・トゥール家(La Tour Family)の時代 1678、オランダ侵略戦争(1672-1678)の講和条約ナイメーヘンの和約(Treaties of Nijmegen)で承認された ラ・トゥール・ドーヴェルニュ家(La Tour d'Auvergne Family)の時代(-) 1787、フィリップ・ドーヴェルニュ艦長が公太子ブイヨン王子となる(英国王ジョージ3世が認可) 1793、(1793年の危機) ブイヨン公国ジェームス公(Duke James)のパリ屋敷がフランス共和国軍に占領され、財産が没収さる 1794、ブイヨン公国が消滅 1795/10/25、フランスがブイヨンを併合して、ブイヨン公国が完全に消滅 1802、ラ・トゥール・ドーヴェルニュ家の第7代当主が亡くなり、ブイヨン公爵が消滅するも、従兄弟の子チャー ルス・ロハン(Charles-Alain-Gabriel de Rohan-Guemene 1764-1836)が公位継承を主張 1814、フィリップ・ドーヴェルニュ艦長がブイヨン公爵の継承を主張して訴え出る(訴訟-1816) ルイ18世がパリに復帰すると、ドーヴェルニュ艦長が60才で公位承継王子(公太子)となる 1814/05/30、第1次パリ条約でルクセンブルグ大公国(grand duke of Luxemburg)がブイヨン公国を併合 1815/11/20、第2次パリ条約でブイヨン公国が復活するも、訴訟は続く 1816、ドーヴェルニュ艦長が自殺して訴訟(費用)が台無しになる 1830、ベルギー王国が吸収合併 歴代ラ・トゥール・ドーヴェルニュ家(La Tour d'Auvergne Family)の当主(Duke) ・初代、エマユエル・テオドス・デ・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ (Henri de La Tour d'Auvergne, Duke of Bouillon 1555-在位-1623) ・第2代、フレドリック・モーリス (Frederic Maurice de La Tour d'Auvergne, duc de Bouillon, 1605-在位1623-1652) ・第3代、ゴドフロイ・モーリス (Godefroy Maurice de La Tour d'Auvergne 1636-在位1652-1721) ・第4代、エマユエル・テオドス (Emmanuel Theodose de La Tour d'Auvergne 1668-在位1721-1730 ・第5代、チャールス・ゴドフロイ (Charles Godefroy de La Tour d'Auvergne 1706-在位1730-1771) ・第6代、ゴドフロイ・チャールス・アンリ (Godefroy Charles Henri de La Tour d'Auvergne, 1728-在位1771-1792) ・第7代、最期の公爵、ジャック・レオポルド・ゴドフロイ (Jacques-Leopold-Charles-Godefroy 1746-在位1792-1794-1802) 二人の子供が若くして亡くなって公国相続人が絶える ・第8代、フィリップ・ドーヴェルニュ艦長(1754-在位1815-1816/9/18) 1792/3/23、ブイヨン公爵を承認(英国王ジョージ3世認可) 皇位継承をめぐってチャールス・ロハンと訴訟沙汰となるも、艦長が亡くなり沙汰止み その後に公国が消滅すると、ロハンが公国の復活を訴え続けるも、遂にベルギーに併合される ・パリ条約 Treaty of Paris、1783 アメリカ独立戦争の講和条約 ・アミアンの和約 Peace of Amiens、1802/3/25 アミアンの和約はフランス革命戦争の講和条約で、イギリスとフランスとの間で締結されました。講和条約で、イギリスは、マルタ島、ケープ植民地、エジプトといった占領地から軍を撤収することを約束しました。これでマルタ島はヨハネ騎士団へ、ケープ植民地はオランダ(バタヴィア共和国)へ返還されることになりました。フランスは、ナポリ王国、ローマ教皇領から軍を撤収することを約束しました。 以降、ヨーロッパでは1年余りにわたって平和な期間が続きましたが、アミアンの和約における取り決めはほとんど遵守されませんでした。1803/5月にイギリスがオランダでフランスの船舶を拿捕したことを契機に両国の関係は再び悪化し、5/16にイギリスは和約を破棄して、再度フランスへ宣戦布告しました。以降、両国はナポレオン戦争へと突入していきました。 ・第1次パリ条約 First Treaty of Paris、1814/5/30 第1次パリ条約は、第6次対仏大同盟諸国とフランスとが講和した条約で、フランスの領土は「1792年当時の領土」となりました。 ・第2次パリ条約 (Second Treaty of Paris、1815)、1815/11/20 第2次パリ条約は、第7次対仏大同盟諸国とフランスとが講和した条約で、ナポレオンの百日天下へフランス国民が広範な支持を与えたので、フランスの領土は「1790年当時の領土」へと縮小されました。さらに、フランスは7億フランの賠償金の支払いを課せられ、最長5年間の同盟軍のフランス駐留と駐留経費の負担も認めさせられました。プロイセンなどはより厳しい講和条件を要求するも、ブルボン朝による王政復古体制の安定のため、要求は緩められたのでした。 ・ポルトプラヤ海戦 (1781/4/16) (Battle of Porto Praya)
フランスはその礼儀作法や社交生活の洗練さで、イギリスの貴族階級の高貴さとはまた違った上品なマナーを身につけ、態度振る舞いに磨きをかけるということから人気がありました。パリでは、彼らはフランス風の衣服を身にまとい、イギリスらしい田舎じみた痕跡を抹消しようとしました。フランス人のような服装に変えても彼らはまだまだフランスの社会に入ったことにはなりませんでした。フランスに入った後、フランス東部ブルゴーニュ地域圏(Bourgogne Region)コート=ドール県(Cote-d'Or Department)の首都(旧ブルゴーニュ公国(Duchy of Burgundy, 1032-1477)の都)ディジョン(Dijon)、フランスの南東部ローヌ=アルプ地域圏(Rhone-Alpes Region)ローヌ県(Rhone Department)の首都リヨン (Lyon)、そしてフランス南部で仏最大の港湾都市プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏 (Provence-Alpes-Cote d'Azur Region) ブーシュ=デュ=ローヌ県(Bouches-du-Rhone Department)の首都マルセイユ (Marseille)などにも足を運びました。イタリアは、古代ローマやルネサンスの遺産が多く、最も人気のある場所の1つでした(同時に、芸術を志す若者がヨーロッパ各国から古代の彫刻などから学ぶために集まっていました)。ルネサンスに影響を受けた若者によって、やがてイギリスにも新古典主義の建物が多く造られるようになりました。 19世紀に入ってからも、最良の教育を受けた若者達は、グランドツアーに出かけるのが常でした。その後、これは若い女性達にとっても一種のファッションになっていきました。パトロンとなってくれるオールドミスの叔母様とイタリア旅行をするというのは、上流階級の淑女にとって教育の1つとなっていました。トーマス・コーヤット(Thomas Coryat 1577-1617)の著作本「コーヤットの生きた旅行(Coryat's Crudities)」は大ヒットとなり、グランドツアーに出かける若者達にマニュアルが求められていたことの証になりました。19世紀にアルプス山脈にはグランドツアーの伝統でイギリス人若者が多く訪れ、アルプス山脈の主峰39座のうち、31座の「初登」はイギリス人によることになりました。 (日付は諸説有) こちらで ・ロングアイランド戦い (Battle of Long Island、1776/8/22〜8/30) ・ジャージー島の戦い (Battle of Jersey 1781/1/6) ・キブロンの戦い (Combat de Quiberon、1795/6/23-7/21) ・米英戦争 (War of 1812、1812/6/18〜1815/2/18 ) ・エリー湖の戦い (Battle of Lake Erie、1813/9/10) ・ワーテルローの戦い (Battle of Waterloo, 1815) をお楽しみください。 参考HP:〜 ・ロードアイランドの地図(ナラガンセット湾(Narragansett Bay)有) ・オフォードネスの場所地図 ・イースト・オブ・イングランドの地図 ・ブルターニュ半島付近の地図(ウェサン島、モレン島、ブレスト港が有) ・キブロン湾付近の地図 ・ブイヨン公国の場所地図 ・ブイヨンの場所地図 ・ベルギーの場所地図(Liege有) ・ベルギーの場所地図(日本語:リエージュ有) ・北西航路の地図(現在) ・グランドツアーの旅行地図(イギリス〜フランス〜イタリア) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 13/11/13 |