★イギリス
フィリップ・ドーヴェルニュ提督
1773、北極探検
1779、ロングアイランドの戦い
1781、ラットルスネーク号の遭難
1794、ジャージー島防衛艦隊司令官

大航海物語★
JERJY
ドーベルニュのニューヨーク上陸作戦

アメリカ独立200年記念
英領ジャージー 1976/5/29 発行

フランス王党派を支援するドーヴェルニュ艦長

The last Chouannerie, 1799
1789 フランス革命200年記念 1989
ジャージー 1989/7/7 発行
最晩年のドーヴェルニュ艦長

Prince de Bouillon - the end
Prince de Bouillon, 1816

ジャージー 1991/1/22 発行

ジャージー島
チャネル諸島



オルダーニー島→




ガーンジー島 →



ジャージー島 →





ジャージー1982/4/20発行
フランス
英仏海峡内のチャネル諸島
ジャージー島


ジャージー 1976-77 発行
オルグル山城

Mont Orguell Castle
ジャージー 1987/7/9 発行
王子の塔、ラ・ウーグ・ビエ

Prince's Tower, La Hougue Bie, 1801
ジャージー 1991/1/22 発行

北極探検

カナダ→



ハドソン湾→




パフィン湾→

グリーンランド→
SWEEDEN
北極の地図
ベーリング↓海峡

スウェーデン↑(黒い所)
スウェーデン 1989/8/22 発行小型シートより

ユ|ラシア大陸
NORGE
スパールバル諸島
スピ
ッツベルゲン島
ノールウェイ 1986 発行
JERJY
レースホース号とカルカス号
北極の氷に囲まれた探検船隊


Racehorse trapped in the Arctic
ジャージー 1987/7/9 発行


アメリカ独立戦争に従軍
アラーム号の焼き捨て
フランス艦隊
Alarm burned at Rohd Island
アレトォサ号の遭難

Arethusa wrecked off Urshant
ラットルスネーク号の座礁

Rattlesnake stranded on Trinidad
ジャージー 1987/7/9 発行


フランス革命
1789 フランス革命200年記念 1989
ルイ16世に謁見






ュ艦長


meets Luis XVI, 1786
バスチーユ牢獄の襲撃

Storming of the Bastille, 1789/7/14
ジャージー 1989/7/7 発行
ナバラ城前のマリー夫人

Marie de Bouillon
at the Chateau de Navarre, 1790


フランス革命戦争
ジョルジュ・カドゥーダルのギロチン処刑

Cadoudal to the Guillotine
Excution of Cadoudal, 1804
サーリー号の戦い

HM Cutter "Surly" in Action, 1809
ジャージー 1991/1/22 発行
ジャージー島オルグル港から出撃

Mission from Mount Orgueil, 1795
キブロンの戦い、1795


ナポレオン戦争
ナポレオン・ボナパルト

モザンビーグ 2009 発行

ジャージー島で生まれのドーヴェルニュ提督は、先祖にフランス系ブイヨン公爵を持つ家柄でしたが、アメリカ独立戦争・フランス革命戦争・ナポレオン戦争の勃発という激動の時代を、探検航海で遭難したり、海戦で戦いながら、2度も軍法会議に召還され、敵国の捕虜となり、また敵国の警察に逮捕されながらも、なんとかクリアーして生き抜き、ブイヨン公爵の称号を獲得しました。

16才で王室ヨットの艦長給仕として大英帝国海軍に入隊しました。1773年にフローラ号に乗組んで士官候補生となり、北西航路探索の北極探検隊にはカルカス号に乗組んで参加しました。新大陸アメリカで独立の機運が高まってくると、1775年にアジア号に乗組みボストン港艦隊へ派遣されました。新大陸ではアメリカ独立戦争に従軍し、レキシントン・コンコードの戦い、ニューヨーク上陸作戦などなどに従軍。1778年仏艦隊に追われて捕獲されるのを嫌ってアラーム号を焼き捨てると、軍法会議に召喚されました。独立戦争が終わると帰国して、フランス艦隊との戦いで乗艦のアレトォサ号が座礁してフランスの捕虜になりましたが、ブイヨン公の縁故で救出され、やがて英仏の捕虜交換で帰国できました。帰国して英海軍に復帰し、カーボ・ヴェルデ諸島沖でポルト・プラヤの海戦を戦い、その後のラットルスネーク号の探検では、ブラジル東1,200kmに浮ぶトリニダード・マーチン・ヴァズ諸島で遭難。約10ヵ月もの困難な遭難生活を乗り切って救出され、英領インドへ無事に到着しました。帰国すると、又もや軍法会議に召喚されました。そして、今度はフランス革命戦争とナポレオン戦争が勃発して、故郷のジャージー島がフランスのコタンタン半島の直ぐ近くだったため島の防衛と、フランスへの出撃の支援に活躍しました。戦争が終わると自分の出自の公爵家の後継者問題に参入して、パリへ渡航してパリ警察に逮捕されるも、公爵家の嘆願などで救出され、帰国できました。一応、公爵の称号は認められたものの、その間に莫大な借金を抱え、ロンドンのホテルで自らの命を絶って亡くなりました。
フィリップ・ドーヴェルニュ中将 (洗礼日1754/11/13〜1816/9/18)
 Vice Admiral Philippe d'Auvergne
RN(1775-18)
  英海軍(British naval officer:RN)勤務
  ブイヨン公爵ラ・トゥール・ドーヴェルニュ家(1206-1802)の子孫
  (Maison de La Tour d'Auvergne、Duche(英:Duke) de Bouillon)
  生地:英仏海峡のジャージー島生
  没地:イングランドのロンドン、61才没、結婚歴無
生立ちの記
ドーヴェルニュ中将はフランスのオーヴェルニュ地方ラ・トゥール(現:ピュイ・ド・ドーム県)ブイヨン(Bouillon)に所領を営む領主だったラ・トゥール・ドーヴェルニュ家(La Tour d'Auvergne)の子孫でイギリス陸軍々人の父チャールス大尉(Captain Charles)と、ジャージー総督(Lieut-Bailiff of Jersey, 1729-1746)の娘で出産直後に亡くなった母エリザベス(Elizabeth)の子供としてジャージー島で生まれました。ジャージー島で勉学した後、 イギリスとフランスで学び、英仏2ヵ国語を流暢に話し、数学が得意で科学に興味を持っていました。学業を終えるとジャージー島周辺の船に乗って過ごしました。
ジャージー島

ジャージー 1978 発行

1770年16才で、父チャールスと面識のあった伯爵リチャード・ハウ提督(Richard Howe, 1st Earl Howe、1726-1799)が座乗していた縁で、通常は選ばれた海軍士官の訓練艦として使用されていたスマック(smac)型4門艦王室ヨットのメアリー号(Royal Yacht HMS Mary, 4-gun smack, 1702進水, 1728改造, 1778沈没)ジョン・キャンプベル艦長(John Campbell 1720-1790)に艦長給仕(Captain's Servant)で乗組みました。次いで乗組んだ32門5等戦列艦フローラ号(HMS Flora, 32-gun 5th rate ship of the line)で、イギリス海軍の士官候補生(midshipman)に認証されました。バルチック海(Baltic Sea)へ遠洋航海に出帆し、ロシアのクロンシュタット港(Cronstadt)に到着。サンクトペテルブルグのロシア女帝エカテリーナ2世(Empress Yekaterina II (Catherine II), 1729-在位1762-1796)との謁見に随行しました。帰途、デンマークのコペンハーゲン港(Copenhagen)に寄港して、仏フリゲート艦ラ・フロウ号(French Frigate La Flou)に出会いました。乗艦していたフランス人科学者チームに会って大いに影響を受け、海上での時間計測と晴雨計の気圧測定の問題解決を数学で解く方法を試験しました。 艦長給仕(Sea Cadet Jr)

ジャージー 198 発行

フィップス北極探検隊に参加 (1773/6/10-1773/9/17)
   Phipps North Pole Expedition Voyage
1773年に海軍省(Admiralty)が北西航路(Northwest Passage)探索の北極探検を計画し、ロンドン(London, England)東74kmほどの所にあるケント州北岸テームズ川(River Thames, 346km)河口シェピー島(Isle of Sheppey, Kent, England)北西角を流れるメドウェイ川(River Medway 113km)河畔シアネス(Sheerness)で僚船の船首8門臼砲艦カルカス号(8-gun Bomber sloops HMS Carcass 1759, 309t)を、その近くのノア港(Nore)では18門艦レースホース号(18-gun sloop of war. HMS Racehorse 1757, 385t)のスループ帆船2隻を探検用に改装して準備しました。1773/6/4に男爵コンスタンチン・ジョン・フィップス隊長(Constantine John Phipps, 2nd Baron Mulgrave, PC 1744-1792)指揮の北西航路探検船隊、レースホース号艦長フィップス隊長120人乗組には15才の若きネルソン提督が士官候補生で乗組んでおり、僚船のカルカス号艦長スケフィントン・ルトウィッジ副隊長(Skeffington Lutwidge 1737-1814)110人乗組にはドーヴェルニュ候補生が乗組み、2隻
スパールバル諸島
スピ
ッツベルゲン島
はシアネスで合流して、1773/6/10にロンドンのテ-ムズ川河畔デプトフォード港(Deptford)を出帆。
北極へと大西洋を北上しました。そして、ノルウェー領スヴァールバル諸島最大の島スピッツベルゲン島(Spitsbergen、面積37,673ku:九州島とほぼ同じ)に到達。同島の沿岸を航行し、スヴァールバル諸島北のショエーン(Sjuoyane、Seven Islands:七島群島)に到達。その最北島をジョン・ウォーデン候補生(John Walden)が1773/8/5に上陸(後にウォーデン島(Walden Island)と命名)するも、北極から10度の所(80°48'N、20' E)で、厚い氷の氷海に阻まれて、1773/9/17に空しくイギリスのイースト・オブ・イングランド・リージョン(East of England region)サフォーク(Suffolk)のオフォード・ネス(Orford Ness)に帰港しました。この北極探検で若きネルソン提督がシロクマ(polar bears)狩りをして土産話にしました。なお後日、ショエーン群島の他の島がフィップス探検隊に因んで、フィップソヤ島(Phippsoya)や、ネルソニア島(Nelsonoya of Sjuoyane)が命名され、またカミンゴヤ島(Cummingoya)はフィップス探検隊の振り子(pendulum)を作った時計職人(watchmaker)アレクサ レースホース号とカルカス号
北極の氷に囲まれた探検船隊


Racehorse trapped in the Arctic
ジャージー 1987/7/9 発行
サンダー・カミングス(Alexander Cummings)に因んで命名されました。1774年にはドーヴェルニュ候補生はフィップス探検隊の科学的な検証などを研究しました。

アメリカ独立戦争に従軍の記
   American Revolutionary War、1775-1783
バンカーヒルの戦い

USA 1975 発行
レキシントン・コンコードの戦い

USA 1975 発行
ポール・リビア

USA 1958 発行
・ボストン包囲攻撃戦
  Siege of Boston、1775/4/19-1776/3/17、アメリカの勝利
イギリスはフランスとの北アメリカでのフレンチ・インディアン戦争(1754-1763、七年戦争:1756-1763)で2万人もの軍勢を派兵し、1763年のパリ条約でカナダとミシシッピ川以東のルイジアナを獲得したものの、その一連
の戦争の戦費として、1億3千万ポンドの負債が生じたといわれています。イギリス本国は植民地にこの費用の一部を負担させるため、従来の緩やかな統治を転換し、印紙法(1765-1766)や、タウンゼンド諸法(1767-1770頃)を制定して増税しましたが失敗し、茶税だけを残し諸法を撤廃しました。その中でボストン市民5人が駐留英軍に射殺されるボストン虐殺事件(Boston Massacre 1770/3/5)が起こり、反イギリス急進派があおって世論の反発が強まりました。また、茶法に反対するボストン市民の反発でボストン茶会事件(1773/12/16)が起り、イギリス政府はボストン港の閉鎖、マサチューセッツの自治を剥奪してボストンを軍政下に置きました。植民地側はフィラデルフィアに12の植民地代表を集めて第1回大陸会議を開いて(1774/9/5-10/26)イギリスとの経済的断交を決議しました。翌年4月にボスト ボストン茶会事件

コスタリカ 1795 発行
ン郊外のレキシントンとコンコードでイギリス軍と植民地民兵が衝突(レキシントン・コンコードの戦い)し、ついに独立戦争が勃発しました。

ボストンの包囲は1775/4/19のレキシントン・コンコードの戦いの終わった夜に始まりました。アメリカ植民地兵(大陸軍は未結成)がイギリス軍をマサチューセッツ州北東部サフォーク郡ボストン市内に追い込み、ボストン市があるショーマット半島(Shawmut Peninsula, Massachusetts Bay)の付け根を占領したことで始まりました。

1775年にドーヴェルニュ候補生は64門戦列艦アジア号(HMS Asia 64-gun third-rate ship of the line 1764, 1364t)艦長(Captain van de Put)に乗組を命じられました。1775年夏にグレーヴス提督(Admiral Graves)艦隊と、風雲急を告げる新大陸ニューイングランド(New England)のボストン港(Boston Suffolk Massachusetts)でイギリス軍の補給任務につきました。

・レキシントン・コンコードの戦い
  Battles of Lexington & Concord、1775/4/19、アメリカの勝利
1775/4/19に勃発したアメリカ独立戦争の始まる契機となった英米間の戦闘「レキシントン・コンコードの戦い」に、アジア号でイギリス軍(British Army)を輸送する任務に従軍しました。その戦いはイギリス軍がボストン北西にあるコンコードにあったアメリカ植民地民兵部隊(Massachusetts militia)の武器庫の接収作戦を実施。それに反発すべく動いた植民地民兵隊と武力衝突。レキシントン広場(米75人、英250人)とコンコード橋(米400人、英95人)にてイギリス軍(当初700人、援軍1,500人)と民兵隊(援軍3,800人)の激しい戦闘が行われ、植民地軍はイギリス軍を撃破しました。規模は小さいながらアメリカ独立戦争の緒戦を飾るものと
レキシントン・コンコードの戦い
なり、イギリス軍がアメリカ植民地軍に撃破されて敗北しました。

ドーヴェルニュ候補生は数隻のボート(boats)で「レキシントン攻撃」に従軍する兵員を輸送しました。ところが、ポール・リビア(Paul Revere、1735-1818)がイギリス軍の進撃を伝えるために徹夜で馬を飛ばして警告
し、アメリカ軍が反撃。イギリス軍800人が戦死73人・戦傷185人の被害を受けました。

・バンカーヒルの戦い
  Battle of Bunker Hill、1775/6/17、イギリスの勝利
1775/6/17にドーヴェルニュ候補生は独立戦争で2番目の戦闘になった戦い「バンカーヒルの戦い」への兵員輸送任務に従軍しました。その戦いはアメリカ独立戦争初期のボストン包囲攻撃戦中に起こった戦いで、大陸軍(2,400人)が占領していた丘のバンカーヒルをイギリス軍(3,000人)が攻撃し、イギリス軍の3回目の攻撃でアメリカ植民地軍が撤退した戦闘で、イギリス軍の損失はアメリカ独立戦争の戦闘中でも最大のものになって、からくもイギリス軍が辛勝しました。大陸軍はイズラエル・パットナム少佐(Major Israel Putnam、1718-1790)が、イギリス軍はウィリアム・ハウ将軍(General William Howe, 5th Viscount Howe、1729-1814)が指揮を執っていました。
バンカーヒルの戦い

・転属、1775/8/27
  Assignment & Court martial
1775/8/27にドーヴェルニュ候補生は、14門スループ艦スワン号クラス2番艦のキングフィッシャー号(HMS Kingfisher 14-gun Swan class of ship sloops, 302t)125人乗組に転属となり、准尉(Acting-Lieutenant)に昇進。そして、イギリス軍をレキシントンに輸送する任務に従軍しました。

・ファルマス焼き討ち
  Burning of Falmouth、1775/10/18、イギリスの勝利
ドーヴェルニュ候補生は、アメリカ独立戦争の始まった1775/10/18にイギリス海軍の艦隊が、マサチューセッツ湾植民地ファルマスの町(現在のメイン州ポートランドで、現:マサチューセッツ州ファルマスやメイン州のファルマスとは別)に対して加えた攻撃「ファルマス焼き討ち」時の艦隊の1隻、キングフィッシャー号に乗組んで、ファルマスへの艦砲射撃を行いました。なお、ファルマス焼き討ちは、イギリス海軍艦隊からの焼夷弾を含む艦砲射撃で始まり、続いて部隊が上陸して町の完全な破壊を行いました。

・ロングアイランドの戦い
  Battle of Long Island、1776/8/22-8/30、イギリスの勝利
1776年にはイギリス軍のニューヨーク(ロングアランド)上陸作戦に従軍し、ロングアイランドの戦いが勃発。

やがて、モリノー・シュルダム提督(Admiral Molyneux Shuldham, 1717-1798)の旗艦50門5等戦列艦プレストン号(Flag ship HMS Preston, 50-gun fourth rate ship of the line, 1757,1044t)に転属となり、ボストン港(Boston Harbour)艦隊司令官シュルダム提督がドーヴェルニュ候補生を、1777/6/2に少尉(Lieutenant)任官させました。1777/10/25にアメリカ大陸軍グレナディーン艦隊(Grenadiers)のデラウェア号(Delaware)を捕獲しました。

・アラーム号の焼却処分(1778/7/30)
  軍法会議(1778/9/28)
1778/3/9にドーヴェルニュ少尉は8門ガレー船アラーム号(Alarm, 8-gun galley)艦長に就任。1778/5/27に海兵隊(marines)1個中隊をロードアイランドのフォッグランド・フェリー(Fogland Ferry)に上陸させ、守備隊基地(guard house)を破壊させました。仏米同盟のアライアンス条約(1778/2/6)が調印されてフランス海軍デスタイン伯爵チャールズ・ヘクター提督(Admiral Charles Hector, comte d'Estaing 1729-1794)の艦隊(French squadron)がアメリカ軍を支援するためロードアイランドのナラガンセット湾(Narragansett Bay, Rhode Island)沖に姿を現した時(1778/7/29)に、ドーヴェルニュ少尉のアラーム号とガレー船2隻の小艦隊が、英海軍の主力艦隊と切り離されました。それで、退避させようとしましたが退避できず、捕獲されないため、ロードアイランド海峡北側に面したナラガンセ
アラーム号の焼き捨て
フランス艦隊
Alarm burned at Rohd Island
ジャージー 1987/7/9 発行
ット湾のノース・サンディ・ポイント(North Sandy Point)海岸に乗上げ乗組員が上陸後、アラーム号を焼却処分(1778/7/30)しました。上陸後は現地イギリス軍に准少佐(Brigade-Major)に指名され、陸戦を戦いました。1778/9/28にドーヴェルニュ少尉はアラーム号を焼き捨て処分したかどで、ロイヤル・オーク号(HMS Royal Oak, 74-gun 3rd rate ship of the line 1769, 1,606t)の軍法会議(court martial)に召還されるも、無罪になりました。なお、スピッツファイアー号(HMS Spitfire, 8-gun galley, Falmouth Massachusetts 1776購入)も同日にノース・サンディ・ポイントへ逃げて焼き捨てられ、1778/8/7にはキングフィッシャー号(HMS Kingfisher, 14-gun sloop, 1770, 302t, 125人)艦長クリスチャン少尉(Cat.Lieutenant Christian)が同様にニューポート(Newport, Rhode Island)で焼き捨てられました。

・フランス軍の捕虜、アレトォサ号の座礁
  Prisoner of War、1779/3/19
イギリスに帰国すると短期間、予備役(half-pay)になりましたが、イギリス海峡艦隊(Channel Squadron)38隻に属する32門フリゲート艦アレトォサ号(5th-rate frigate HMS Arethusa, 1759, 32-gun, 700t)チャールス・エリオット艦長(Cpt. Charles Holmes Everitt)に乗組み、大尉(First Lieutenant)に昇進しました。1779/3/19にアレトォサ号がフランス艦隊68隻の内のフリゲート艦エイグレット号(Frigate Aigrette)と、フランスのブルターニュ半島(Bretagne、英:Brittany)西端沖で、イギリス海峡の南東に浮ぶウェサン島(Ile-Ouessant、英:Ushant)沖で遭遇、戦闘になりました。大きいフランス艦隊の攻撃を避けるも、薄暮の中でウェサン島東のモレン島(Ile-Molene)海岸の岩礁に乗上げ座礁しました。乗組員200人の内、13人が逃れただけで、残りは捕虜になり、
アレトォサ号の座礁

Arethusa wrecked off Urshant
ジャージー 1987/7/9 発行
ブルターニュ地域圏フィニステール県カレ・プルゲール(Carhaix-Plouguer)に捕われました。

・ブイヨン公爵家が捕虜のドーヴェルニュ大尉を救出
  Duke of Bouillon
ラ・トゥール・ドーヴェルニュ家のゴドフロア(Godefroy de La Tour d'Auvergne (Godefroy Charles Henri) 1728-1792)がフランス軍ドーヴェルニュ大元帥(テュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ:Henri de la Tour d'Auvergne, Vicomte de Turenne, 1611-1675)の子孫だった縁で、ドーヴェルニュ大尉の身柄が仮釈放され、ルクセンブルク大公国(Grand Duchy of Luxembourg)近くのブイヨン公国(Duchy of Bouillon (1456-1794)-1830ベルギー吸収)のナバラ城(Chateau of Navarre)行きとなりました。

・イギリス海軍に復帰
  Further naval duties
1780/6月にドーヴェルニュ大尉は英仏の捕虜交換で、イギリスに帰国。16門カッター艦ラーク号(HMS Lark, 16-gun cutter, 1779、1781:sloop改装)艦長となり、北海(North Sea)やバルチック海(Baltic Sea)で、輸送船(convoy)護衛の任務につきました。

1781/1/6にフランス軍がジャージー島に侵攻してきて首都セント・へリア(Saint Helier)に上陸し、ジャージー島の戦いが勃発するも、ジャージー島防衛軍が勝利しました。

・ポルト・プラヤの海戦
  Sea Battle of Porto Praya、1781/4/16
1781/3月にドーヴェルニュ大尉はラーク号で、フランスにみかたした喜望峰のオランダを攻撃・占領する艦隊の指揮官ジョージ・ジョンストン代将(Commodore George Johnstone 1730-1787)指揮の艦隊と共に喜望峰へと出帆。1781/4/16にポルトガル領カーボベルデ諸島の首都で南部のソタヴェント諸島にあるサンティアゴ島プライア港(Porto Praya)に飲料水と新鮮な食糧を補給するため寄港しました。そこへオランダの希望峰から仏領インドへ向うフランス艦隊が到着して、ポルト・プラヤの海戦が勃発しました。そして激戦の末に、英艦隊が追撃を中止したので、仏艦隊は喜望峰に先着して、オランダに危急を告げることができました。イギリス艦隊は喜望峰に部隊を上陸させることは出来ませんでしたが、オランダの東インド航路船(Dutch East Indiamen)5隻を捕獲して、主力艦隊は帰国の途につきました。
戦うラーク号

図案は胴型艦サーリー号

・ラットルスネーク号の探検航海、遭難
  Shipwrecked、1781/10/21
ドーヴェルニュ大尉はラットルスネーク号(HMS Rattlesnake)の艦長が喜望峰にてラーク号でロンドンへと帰国したので、その後任の艦長に就任しました。そして、ラットルスネーク号とジュピター号(4-rate ship of the line HMS Jupiter 1778, 350人, 1061t)は、南太西洋にあるブラジルのエスピリトサント州南東部の州都ヴィトーリア(Vitoria, Espirito Santo)東1,200kmに浮ぶトリニダード・マーチン・ヴァズ諸島(Trindade and Martim Vaz archipelago、大きいトリニダード島(Trindade、10.1ku)とマーチン・ヴァズ小島(Martim Vaz islets、0.3ku)など5島と岩礁で構成)が、東インド航路から外れているので、イギリスの補給基地にするための探検航海に出帆しました。そこは火山島(volcanic islands)でコキジバト(turtle doves)、陸カニ(land crabs)以外はなにもいませ
ラットルスネーク号の遭難

Rattlesnake stranded on Trinidad
ジャージー 1987/7/9 発行
んでした。1781/10/21にラットルスネーク号が嵐でトリニダード島の海岸へ流されて座礁して遭難しました。乗組員の内の5人だけがジュピター号に救助された他は、同諸島に置き去りになりました。1782/12/28に東インド航路の船団12隻を護衛していた50門戦列艦ブリストル号(HMS Bristol, 4-rate ship of the line, 1775, 50gun)で、艦長はクック船長第2回航海(1772-1775)時の僚船アドヴェンチャ号(HMB Adventure)に乗組んでいたジェームス・バーニー艦長(Capt. James Burney 1750-1821)が、ドーヴェルニュ艦長以下生存者30人を救出して、インドのマドラス(Madras)へ送り届けました。ドーヴェルニュ艦長はインドで、再び1783年に軍法会議に召喚されましたが、無罪となりました。

ドーヴェルニュ艦長がインド滞在中に、ムガール帝国(Mughal Empire 1526-1858)の南インド、カルナータカ地方(Karnataka)のアルコット太守(Nawab of Arcot)ムハンマド(Muhammad Ali Khan Wallajah, 1723-1795)に会うと、イギリス東インド会社に領地を奪われているので、取り戻して欲しいと嘆願されました。1783年にイギリスに帰国してムハンマドの嘆願をイギリス当局に報告すると、その嘆願は承認されて、ムハンマドへ領地が戻されました。帰国後、1784/1月に勅任艦長(Post-captain)の大佐(Captain)に任命されました。

・ルイ16世に謁見
  (グランドツアー)
1784/秋〜1787年の間、シドニー子爵トーマス・タウンゼント(Thomas Townshend, 1st Viscount Sydney PC 1733-1800)の子息ジョン・タウンゼント(John Thomas Townshend, 2nd Viscount Sydney of St Leonards 1764-1831)のグランドツアー(Grand Tour)に随行してヨーロッパを旅行しました。1785/末に老ブイヨン公爵をフランスのナバラ城に訪問して、ブイヨン公爵の相続を承認されました。1786年にパリでルイ16世(Luis XVI, 1754- 在位1774/5/10-1792/8/10-1793/1/21フランス革命で処刑38才没、ブルボン朝第5代国王)に謁見しました。1786/6/11に王立協会の会員(Fellow of the Royal Society)、1793/4/18にロンドン古書籍収集協会の会員(Fellow of the Society of Antiquaries of London)、1793/5/8にロンドンの王立美術協会の会員(Member of the Royal Society of Arts)に指名されました。
ルイ16世に謁見するドーヴェルニュ

ジャージー 1989/7/7 発行

・ナルシサス号の艦長
  HMS Narcissus
1787年に20門6等戦列艦ナルシサス号(20-gun 6th-rate post ship of the line HMS Narcissus, 1781, 140人, 429t)艦長となり、ジャージー島の収税官(Revenue officer)に指名されました。また、1787年には、ジョージ3世(George III, 1738-在位1760-1820)が、ブイヨン公爵ジャック・レオポルド・デ・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ(Jacques Leopold de La Tour d'Auvergne (Jacques Leopold Charles Godefroy; 1746-1802)が亡くなって以来、絶えていたブイヨン公爵ラ・トゥール・ドーヴェルニュ家(Duke of Bouillon)の復活を承認したことをロンドン・ガゼット紙(London Gazette)が報じたので、ドーヴェルニュ艦長はブイヨン公爵家を継承するブイヨン王子(Prince of Bouillon)になりました。するとフランスがフランスに帰化したら、フランスでブイヨン公爵の再興を認めるといってきましたが、それはイギリス国王への裏切りになるので、断りました。

フランス革命戦争
  French Revolutionary Wars、1792-1802
・フランス大革命
  French Revolution、1789-1799
  1789/7/14バスティーユ襲撃〜発端
  (革命の混乱が最終的に収まったのは第三共和政(1870-1940)の成立時)
・フランス革命戦争
  French Revolutionary Wars、1792/4/20-1802/3/25
  (1794年前後を境に形勢逆転、フランスの侵略戦争に変貌)
バスティーユ牢獄襲撃、1789/7/14

フランス革命182年記念
フランス 1971 発行
”民衆を導く自由の女神”

フランス七月革命、1780/7/27
日本 1998 発行
バスチーユ牢獄の襲撃、1789/7/14

Storming of the Bastille,
処刑されたルイ16世、1793/1/21

ジャージー 1989/7/7 発行
ナバラ城前のマリー夫人、1790

Marie de Bouillon, Chateau de Navarre

・ジャージー島防衛艦隊司令官(移民助成官)、1794
  Commander of Jersey Island Defence Fleet
  (Administrator of Relief Grants to Emigres)
1793年にフランス大革命(French Revolution 1789-1799)の兆候が始まりだすと、ジャージー島総督アレクサンダー・リンジー伯爵(Alexander Lindsay, 6th Earl of Balcarres and de jure 23rd Earl of Crawford 1752-在任1793-1794-1825)が王党派と連絡を取り始めるも、1794年にジャマイカ島の総督に転任して去ってしまいましたので、同年にジャージー島の防衛委員会(Defence Committee)がドーヴェルニュ艦長を通じて、海軍省に防衛強化の請願を送りました。すると、64門3等戦列艦ノンサッチ号を旗艦として、軍艦として建造されていない小型の船舶を砲艦(ガンボート:Gunboats)に仕立てたスループ帆船ダッチ・ホイ(オランダ式舟艇)5隻、レパルス号、ライオン号、スコーピオン号、タイガー号、イーグル号の船隊が、浮き砲台(floating battery)としてドーヴェルニュ艦長のもとに派遣されてきました。

ジャージー島の浮き砲台艦隊:〜1794年
・ノンサッチ号〜旗艦、64門3等戦列艦
  (64-gun 3rd-rate ship of the line HMS Nonsuch, 1774, 500人, 1,373t)
・レパルス号、スループ帆船ダッチ・ホイ(オランダ式舟艇)
  (Dutch hoy HMS Repulse, 1794, 30人, 54t)24ポンド砲1門:カロネード砲32ポンド3門搭載)
・ライオン号、同型艇
  (Dutch hoy HMS Lion, 1794, 30人, 74t、同じ武装)
・スコーピオン号、同型艇
  (Dutch hoy HMS Scorpion, 1794, 30人, 70t、同じ武装)
・タイガー号、同型艇
  (Dutch hoy HMS Tiger, 1794, 30人, 80t、同じ武装)
・イーグル号、同型艇
  (Dutch hoy HMS Eagle, 1794, 30人, 71t、同じ武装)

1794/12月にナルシサス号が売り払われましたが、代わりに16門砲艦ブラヴォー号(16-gun floating battery Bravo)が来着し、28門フリゲート艦(28-gun 6-rate frigate)に格上げされました。また、小型の借上げ武装艦で私掠免許状(Letter of Marque)を持つ2本マストのラガー式ダフネ号、同型艦ロイヤリスト号、アリストクラット号が増援されました。

増援艦隊:〜増援期間:1794/11/2-1796/12/19
・ダフネ号、2本マストのラガー式
  (Hired armed lugger Daphne, 60人, 160t, 4ポンド砲22門)
  仏ノルマディーの王党派の艦長ロベルト・ピアソン少尉(Lieutenant Robert Pearson)
・ロイヤリスト号、同型艦
  (Hired armed lugger Royalist, lugger 1798-1800, brig 1799-1801, 砲8門)
・アリストクラット号、同型艦
  (Hired armed lugger Aristocrat, , lugger 1794-1798, 172t, 4ポンド砲22門)

フランス侵攻、キブロンの戦い、1795/6/23-7/21
  Invasion of France (Combat de Quiberon)
ドーヴェルニュ艦長はフランスのブルターニュ地域圏モルビアン県キブロン半島の南端キブロン(Quiberon)に上陸して攻撃する軍勢を支援しました。フランス王党派軍(Royalist forces)約750人がジャージー島オルグルから、フランスのキブロン半島に何の支障もなく上陸しましたが、作戦は失敗に終わりました。

・ブイヨン公爵家継承問題
  Claims to the Throne of Bouillon
・第1次継承問題
  1st claim to throne of Bouillon
平和が訪れると防衛艦隊は解散して、ドーヴェルニュ艦長は司令官の任を解かれて、予備役(half pay)になりました。1792年ジャージー島東部ロイアル湾(Royal Bay of Grouville)のあるグーヴル(Grouville)地域のラ・ウーグ・ビエ(La Hougue Bie)の屋敷で、科学関係の書物4000冊に囲まれて暮らしました。

1794年にゴドフロワ・ド・ブイヨン公爵(Duke of Bouillon Godefroy III、Godefroy de La Tour d'Auvergne)が亡くなると、子息ジャック・レオポルド(Jacques Leopold La Tour d'Auvergne、 (Jacques Leopold Charles
王子の塔、ラ・ウーグ・ビエ

Prince's Tower, La Hougue Bie, 1801
ジャージー 1991/1/22 発行
Godefroy; 1746-1802/2/7)がブイヨン公爵(Duke of Bouillo)家を相続するも、亡くなると、1802/3/3にドーヴェルニュ艦長が全てを踏襲しました。1798年に代将(Commodore)に昇進。

・パリで投獄される
  Under arrest at Paris、1802/9/7
フランス革命戦争の講和条約のアミアンの和約(Peace of Amiens、1802/3/25)がイギリスとフランスとの間で締結されると、10年ぶりにヨーロッパが平和になったので、ドーヴェルニュ艦長はブイヨン公爵家の継承問題の解決のためにフランスに渡りました。

1802/9/7にジャージー島での活躍を知っていたフランス警察が何の断りもなしに突然にパリのホテル滞在中のドーヴェルニュ艦長を捕え持ち物全てを没収して、投獄しました。その知らせの手紙を受取ったパリのイギリス大使がフランス当局に掛け合って、5日後に、24時間以内にフランスから退去する条件で釈放され、ジャージー島に戻りました。
パリで捕われ投獄される艦長

Arrested in Paris, 1802
ジャージー 1991/1/22 発行
ナポレオン戦争
   Napoleonic Wars、1803-1815)
ヨーロッパでは10年ぶりに、1年余りにわたって平和な期間が続きましたが、イギリスとフランスとの間で締結されたフランス革命戦争の講和条約アミアンの和約(Peace of Amiens、1802/3/25/)における取り決めはほとんど遵守されませんでした。1803/5月にイギリスがオランダでフランスの船舶を拿捕したことを契機に両国の関係は再び悪化し、5/16にイギリスは和約を破棄して、再度フランスへ宣戦布告しました。以降、両国はナポレオン戦争へと突入していきました。

1803年にドーヴェルニュ艦長はジャージー島で44門艦セヴァーン号(44-gun ship HMS Severn)を旗艦とする砲艦(gunboats)と小型艦(small craft)による混成艦隊を再度、編成しました。
ナポレオン・ボナパルト

モザンビーグ 2009 発行

1804/10/26に44門旗艦セヴァーン号(44-gun Severn)がジャージー島グルーヴィル湾(Grouville Bay)に座礁するも、犠牲者は無し。以降数年間、ドーヴェルニュ艦長はジャージー島防衛艦隊の編成を当局に訴えましたが、却下されました。時々ロンドンへ行って公務をこなしながら、ジャージー島のスプリングガーデン(Spring Gardens)で過ごしました。1805/11/9、青色艦隊少将(Rear-Admiral of the Blue)、1810/7/30、白色艦隊少将(Rear-Admiral of the White)1813/10/4、青色艦隊中将(Vice-Admiral of the Blue)、1814、赤色艦隊中将(Vice-Admiral of the Red)に昇進しました。

1805/10/21にトラファルガーの海戦(Battle of Trafargal)でフランスとスペイン連合艦隊が敗北すると、ドーヴェルニュ艦長はジャージー島のラ・バガテル(La Bagatelle)屋敷に住んで、島の主要人物となりました。
ナポレオン対戦の作戦を練る

Protting aganst Napoleon, 1803
ジャージー 1991/1/22 発行

・ナポレオンの没落とブイヨン公国の復活問題
1812年のナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte、1769-在位1804-1814、1815-1821)によるロシア遠征の開始を契機として、イギリス(United Kingdom of Great Britain and Ireland, 1801-1927)とロシア帝国(Russian Empire, 1721-1917)の二国間で締結された同盟に始まった第6次対仏大同盟(Sixth Coalition, 1812 -1814)は、フランス軍にとって致命的な損失を招いたロシア遠征で、兵員37万が死亡し、20万が捕虜となり、イベリア半島戦争(Peninsular War, 1808-1814)で傷ついたナポレオンの不敗神話はここに完全に崩れ落ち、フランスに支配されていた諸国は次々に離反して、プロイセン(Kingdom of Prussia, 1701-1918)はフランスとの同盟を破棄し、オーストリア(Austrian Empire, 1804-1867)、スウェーデン(Kingdom of Sweden)、ライン同盟諸邦(Confederation of the Rhine, 1806-1813)も第6次対仏大同盟に加わりました。ロシア遠征で多大な損害を被ったフランス軍は、四方から迫る連合軍に圧倒され、ついにナポレオンは退位(1814/4/11)に追い込まれ、エルバ島の小領主として追放(1814/5/4)されました。1814/5/23に停戦になって、フランス君主の後継者は最終的にフランス上院議決で、フランス革命以来亡命していたブルボン家のルイ18世(Louis XVIII、1755-在位1814/4/6-1815/3/20、1815/7/8-1824/9/16)がパリに帰還して皇帝に即位(1814/4/6)し、王政復古がなされました。

パリに復帰して復位したルイ18世が、ブイヨン公爵(Duke of Bouillon)の継承を承認して、ドーヴェルニュ艦長が、1814年に60才で公位承継王子(公太子)となりました。イギリスのジョージ3世(George III)も認めました。

・第2次ブイヨン公爵家継承問題
  2nd claim to throne of Bouillo
1830年の7月革命でイギリスに亡命していたアルトワ伯爵(Charles、comte d'Artois 1757-在位1757-1824:1836、 ルイ18世没後にフランス王シャルル10世(在位1824/9/16-1830)になる)と第6次対仏大同盟の連合軍がパリ条約(Treaty of Paris, 1814/5/30、第1次)を締結。ナポレオン戦争中フランス第一帝国領となっていたネーデルラントに、1815年のウィーン会議(Congress of Vienna, 1814/9-1815/6)のウィーン議定書(Vienna Protocol, 6/9)で、ネーデルラント連合王国(United Kingdom of the Netherlands, 1815-1839)が設置されました。そして、ブイヨン公国はフランス領内に組み込まれて消えてしまいました。

エルバ島を脱出してパリでフランス皇帝に復活したナポレオンが、第7次対仏大同盟の軍勢との戦いのワーテルローの戦い(Battle of Waterloo, 1815/6/18)に敗れると、1815/11/20にイギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンの4ヵ国で締結されたパリ条約(第2次)で、フランスは「1790年当時の領土」へ縮小されました。さらに、フランスは7億フランの賠償金の支払いを課せられ、最長5年間もの同盟軍のフランス駐留と駐留経費の負担も認めさせられ、ルイ18世のブルボン朝による王政復古体制が復活(第2次在位1815/7/8-1824)しました。

▼終章
ドーヴェルニュ艦長はジャージー島だけで£12,000ポンドにのぼる負債を抱えて孤立無縁となって、1816/9/18にロンドンのホルメス・ホテル(Holmes Hotel, Great Smith Street, Westminster, London)で自の命を絶って亡くなり、ウェストミンスターの聖マーガレット教会(St. Margaret's Church, Westminster)に埋葬されました。

なお、ドーヴェルニュ艦長の借財は、1779年フランス軍の捕虜になって救出される時の費用、1781年ジャージー島の戦い支援の費用、1782年ラットルスネーク号座礁からの救出とインド滞在費用、1784-1787年のグランドツアー随行費用(含:ルイ16世謁見)、1792年からのフランス革命戦争によるジャージー島防衛とフランス侵攻キブロンの戦いにかかる私費支援、1802年パリで投獄された救出の費用、1803年からのナポレオン戦争によるジャージー島防衛(艦隊編成)への私費投入費用の他に、ブ
最晩年のドーヴェルニュ艦長

Prince de Bouillon - the end
Prince de Bouillon, 1816
イヨン家継承問題の費用などなど、イギリスへの忠誠心とフランス王党派への援助、また、自分の家系相続などなどで、多大の借財を抱えましたが、晩年の英海軍からの年金だけでは容易に返済できずに苦慮して、激動の時代を生き抜いたブイヨン公太子・イギリス海軍提督も、遂に思い悩んでの自殺と相成った次第と推測できます。ああ無情〜(涙)。

ドーヴェルニュ艦長の屋敷と図書館は競売に付されるも、ジャージー遺産(Jersey Heritage)として残り、ブイヨン公国は激動の時代の中で1825年まで存続し、1830年にベルギー王国領となり、完全に姿を消しました。

・フィリップ・ドーヴェルニュ提督の生涯略年表:〜
記 事 備 考
1754 0 ジャージー島で誕生、11/13に洗礼を受ける 洗礼
1770 16 艦長給仕で海軍に入隊 メアリー号
1773 19 士官候補生 フローラ号
フィップス探検隊の北極探検に参加 カルカス号
1775 21 新大陸へ、夏にボストン港で補給任務 アジア号
8/27、准尉 キングフィッシャー号
1776 22 7/2、アメリカ独立宣言 独立戦争
8/27、ロングアイランドの戦い キングフィッシャー号
1777 23 少尉(Lieutenant)、ボストン港 プレストン号
1778 24 3/9、初めて艦長になる アラーム号
7/30、仏艦隊に追われ戦闘艦を海岸に乗上げ乗員が上陸後、焼却処分 アラーム号
7/31、准少佐(Brigade-Major)、現地のイギリス軍 ロードアイランド
9/28、軍法会議 ロイヤル・オーク号
1779 25 帰国、大尉、乗艦が座礁 アレトォサ号
3/19、フランス軍の捕虜 虜囚
1780 26 6月、捕虜交換で帰国後、艦長 ラーク号
1781 27 1/6、ジャージー島の戦い 支援
4/16、ポルト・プラヤの海戦を戦う ラーク号
艦長、10/21遭難、トリニダード・マーチン・ヴァズ諸島 ラットルスネーク号
1782 28 12/28、救出されてマドラスへ インド
1783 マドラスで軍法会議、ラットルスネーク号の喪失 インド
帰国、インド太守ムハンマドの嘆願をイギリス当局に報告 インド
1784 30 1/22、勅任艦長 大佐
秋、グランドツアー(-1787) 随行
1786 32 パリでルイ16世に謁見 謁見
1787 33 艦長、ブイヨン王子となる:ジョージ3世 ナルシサス号
1789 7/14、バスティーユ牢獄襲撃 フランス大革命
1792 38 ジャージー島グーヴルで島の防衛策を練る 予備役
1794 40 ジャージー島防衛艦隊司令官 12月、ブラヴォー号
1795 41 フランス侵攻、キブロンの戦い 支援
1798 44 代将
1800 46 アン(Anne Lowrie)との結婚説が有 (?)
1802 48 パリで逮捕される 投獄
1803 49 5/6、ナポレオン戦争が勃発
艦長、ジャージー島防衛艦隊を編成 セヴァーン号
1804 50 10/26、座礁、ジャージー島グルーヴィル湾 セヴァーン号
1805 51 10/21、トラファルガーの海戦
1814 60 仏ルイ18世(英ジョージ3世)がブイヨン公太子を承認
1815 61 6/18、ワーテルローの戦い
1816 62 9/18、借金苦で自殺 ロンドン没
階 級 (Rank)
1770 16 艦長給仕(Captain's Servant) メアリー号
1773 18 士官候補生(Midshipman) フローラ号
1775 21 08/27、准尉(Acting-Lieutenant) キングフィッシャー号
1777 23 06/2、少尉(Lieutenant)、ボストン港 プレストン号
1778 24 03/9、艦長(Captain)、中尉(?) アラーム号
1779 25 大尉(First Lieutenant) アレトォサ号
1780 26 艦長(Captain)、少佐(?) ラーク号
1781 27 08/18、司令官(Commander)、中佐(?) ラットルスネーク号
1784 30 01/22、大佐:勅任艦長(Post-Captain)
1794 40 艦隊司令官(Commander of Jersey Defence Fleet) ブラヴォー号
1798 44 代将(Commodore)
1805 51 11/09、少将(Rear-Admiral of the Blue)青色艦隊
1808 54 04/28、少将(Rear-Admiral of the White)白色艦隊
1810 56 07/31、中将(Vice-Admiral of the Blue)青色艦隊
1813 59 12/04、中将(Vice-Admiral of the White)白色艦隊
1814 60 06/04、中将(Vice-Admiral of the Red)赤色艦隊

参考:〜
ブイヨン公国とブイヨン公爵の略史
  Duchy of Bouillon, (1456-1794)、
    終いにはベルギーが吸収合併(1830)
  ブイヨン公爵
    Duke of Bouillon、1456-1794
ラ・トゥール・ドーヴェルニュ家のゴドフロア(Godefroy de La Tour d'Auvergne (Godefroy Charles Henri) 1728-1792)がフランス軍ドーヴェルニュ大元帥(テュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ:Henri de la Tour d'Auvergne, Vicomte de Turenne, 1611-1675)の子孫だった縁で、ドーヴェルニュ大尉の身柄が仮釈放されて、ルクセンブルク大公国(Grand Duchy of Luxembourg)近隣にあったブイヨン公国のナバラ城(Chateau of Navarre)行きとなりました。(ブイヨン公爵家が捕虜のドーヴェルニュ大尉を救出)。
ブイヨン公国ナバラ城前の
マリー夫人、1790

Marie de Bouillon, Chateau de Navarre
ジャージー 1989/7/7 発行
988、ガリア・ローマ帝国(Gallo-Roman)時代の記録に初見有
1095、リエージュ教区(bishops of Liege)の時代(-1678)
    (リエージュ:ベルギー東部ワロン地域のリエージュ州)
1456、ブイヨン公爵がブイヨン公国の当主となる
1651、ラ・トゥール家(La Tour Family)の時代
1678、オランダ侵略戦争(1672-1678)の講和条約ナイメーヘンの和約(Treaties of Nijmegen)で承認された
    ラ・トゥール・ドーヴェルニュ家(La Tour d'Auvergne Family)の時代(-)
1787、フィリップ・ドーヴェルニュ艦長公太子ブイヨン王子となる(英国王ジョージ3世が認可)
1793、(1793年の危機)
    ブイヨン公国ジェームス公(Duke James)のパリ屋敷がフランス共和国軍に占領され、財産が没収さる
1794、ブイヨン公国が消滅
1795/10/25、フランスがブイヨンを併合して、ブイヨン公国が完全に消滅
1802、ラ・トゥール・ドーヴェルニュ家の第7代当主が亡くなり、ブイヨン公爵が消滅するも、従兄弟の子チャー
    ルス・ロハン(Charles-Alain-Gabriel de Rohan-Guemene 1764-1836)が公位継承を主張
1814、フィリップ・ドーヴェルニュ艦長がブイヨン公爵の継承を主張して訴え出る(訴訟-1816)
    ルイ18世がパリに復帰すると、ドーヴェルニュ艦長が60才で公位承継王子(公太子)となる
1814/05/30、第1次パリ条約でルクセンブルグ大公国(grand duke of Luxemburg)がブイヨン公国を併合
1815/11/20、第2次パリ条約でブイヨン公国が復活するも、訴訟は続く
1816、ドーヴェルニュ艦長が自殺して訴訟(費用)が台無しになる
1830、ベルギー王国が吸収合併

歴代ラ・トゥール・ドーヴェルニュ家(La Tour d'Auvergne Family)の当主(Duke)
・初代、エマユエル・テオドス・デ・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ
   (Henri de La Tour d'Auvergne, Duke of Bouillon 1555-在位-1623)
・第2代、フレドリック・モーリス
   (Frederic Maurice de La Tour d'Auvergne, duc de Bouillon, 1605-在位1623-1652)
・第3代、ゴドフロイ・モーリス
   (Godefroy Maurice de La Tour d'Auvergne 1636-在位1652-1721)
・第4代、エマユエル・テオドス
   (Emmanuel Theodose de La Tour d'Auvergne 1668-在位1721-1730
・第5代、チャールス・ゴドフロイ
   (Charles Godefroy de La Tour d'Auvergne 1706-在位1730-1771)
・第6代、ゴドフロイ・チャールス・アンリ
   (Godefroy Charles Henri de La Tour d'Auvergne, 1728-在位1771-1792)
・第7代、最期の公爵、ジャック・レオポルド・ゴドフロイ
   (Jacques-Leopold-Charles-Godefroy 1746-在位1792-1794-1802)
   二人の子供が若くして亡くなって公国相続人が絶える
・第8代、フィリップ・ドーヴェルニュ艦長(1754-在位1815-1816/9/18)
   1792/3/23、ブイヨン公爵を承認(英国王ジョージ3世認可)
   皇位継承をめぐってチャールス・ロハンと訴訟沙汰となるも、艦長が亡くなり沙汰止み
   その後に公国が消滅すると、ロハンが公国の復活を訴え続けるも、遂にベルギーに併合される

パリ条約
  Treaty of Paris、1783
  アメリカ独立戦争の講和条約

アミアンの和約
  Peace of Amiens、1802/3/25
アミアンの和約はフランス革命戦争の講和条約で、イギリスとフランスとの間で締結されました。講和条約で、イギリスは、マルタ島、ケープ植民地、エジプトといった占領地から軍を撤収することを約束しました。これでマルタ島はヨハネ騎士団へ、ケープ植民地はオランダ(バタヴィア共和国)へ返還されることになりました。フランスは、ナポリ王国、ローマ教皇領から軍を撤収することを約束しました。 以降、ヨーロッパでは1年余りにわたって平和な期間が続きましたが、アミアンの和約における取り決めはほとんど遵守されませんでした。1803/5月にイギリスがオランダでフランスの船舶を拿捕したことを契機に両国の関係は再び悪化し、5/16にイギリスは和約を破棄して、再度フランスへ宣戦布告しました。以降、両国はナポレオン戦争へと突入していきました。

第1次パリ条約
  First Treaty of Paris、1814/5/30
第1次パリ条約は、第6次対仏大同盟諸国とフランスとが講和した条約で、フランスの領土は「1792年当時の領土」となりました。

第2次パリ条約
  (Second Treaty of Paris、1815)、1815/11/20
第2次パリ条約は、第7次対仏大同盟諸国とフランスとが講和した条約で、ナポレオンの百日天下へフランス国民が広範な支持を与えたので、フランスの領土は「1790年当時の領土」へと縮小されました。さらに、フランスは7億フランの賠償金の支払いを課せられ、最長5年間の同盟軍のフランス駐留と駐留経費の負担も認めさせられました。プロイセンなどはより厳しい講和条件を要求するも、ブルボン朝による王政復古体制の安定のため、要求は緩められたのでした。

アライアンス(仏米同盟)条約
  (Treaty of Alliance 1778/2/6)
1778/2/6にフランスとアメリカ合衆国の間の防衛同盟の仏米同盟条約が調印されました。アメリカ独立戦争の最中に結ばれた条約で、フランス革命で処刑されたフランス国王ルイ16世と、当時のアメリカ合衆国政府を代表する第二次大陸会議の代表団(ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin, 1706-1790)など)が、仏米友好通商条約と共に仏パリのオテル・ド・クリヨンでこの条約に調印して、イギリス軍に攻撃された場合に互いの軍事的な支援を無期限に約束しました。

アランフェス条約
  (Treaty of Aranjuez 1779/4/12-1783)
1779/4/12にフランスとスペインは対英防衛のアランフェス条約に調印しました。
アライアンス条約

USA 1978 発行

ポルトプラヤ海戦 (1781/4/16)
  (Battle of Porto Praya)

グランドツアー
  (Grand Tour)
グランドツアーとは、18世紀イギリスの裕福な貴族の子弟が、その学業の終了時に行った一種の修学旅行ともいえる大規模な国外旅行で、当時、文化的な先進国だったフランスとイタリアが主な目的地でした。旅行というのが、おおよそ数ヵ月から8年というのがヨーロッパの人たちにとって普通だった時代のものでした。同行の家庭教師が付くのが一般的で、イングランドの哲学者トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes, 1588-1679)や、スコットランド生まれのイギリスの経済学者・神学者・哲学者で「国富論」の著者アダム・スミス(Adam Smith、1723-1790)も家庭教師役を務めたことがありました。旅行の間、若者は近隣の諸国の政治、文
郵便馬車の旅行客

スペイン 1975/1/2 発行
化、芸術、そして考古学などを同行の家庭教師から学び、彼らは見物したり、勉強したり、買い物に精を出したりしました。グランドツアーは、若いイギリスの青年達にとっては、様々な実情や状況にあった生きた知識を手に入れるための実用的な好機でもありました。家庭教師の監視のもと、又、お付きの者の世話を受けながら、若者たちは旅行に出かけ、旅行の最初のスタートは英仏海峡を渡ることで、カレーを経てフランスに入りました。多くの若者にとっては、度重なる両国間の激動の時代以来、これ自体がすでに1つの試練でもありました。

フランスはその礼儀作法や社交生活の洗練さで、イギリスの貴族階級の高貴さとはまた違った上品なマナーを身につけ、態度振る舞いに磨きをかけるということから人気がありました。パリでは、彼らはフランス風の衣服を身にまとい、イギリスらしい田舎じみた痕跡を抹消しようとしました。フランス人のような服装に変えても彼らはまだまだフランスの社会に入ったことにはなりませんでした。フランスに入った後、フランス東部ブルゴーニュ地域圏(Bourgogne Region)コート=ドール県(Cote-d'Or Department)の首都(旧ブルゴーニュ公国(Duchy of Burgundy, 1032-1477)の都)ディジョン(Dijon)、フランスの南東部ローヌ=アルプ地域圏(Rhone-Alpes Region)ローヌ県(Rhone Department)の首都リヨン (Lyon)、そしてフランス南部で仏最大の港湾都市プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏 (Provence-Alpes-Cote d'Azur Region) ブーシュ=デュ=ローヌ県(Bouches-du-Rhone Department)の首都マルセイユ (Marseille)などにも足を運びました。イタリアは、古代ローマやルネサンスの遺産が多く、最も人気のある場所の1つでした(同時に、芸術を志す若者がヨーロッパ各国から古代の彫刻などから学ぶために集まっていました)。ルネサンスに影響を受けた若者によって、やがてイギリスにも新古典主義の建物が多く造られるようになりました。

19世紀に入ってからも、最良の教育を受けた若者達は、グランドツアーに出かけるのが常でした。その後、これは若い女性達にとっても一種のファッションになっていきました。パトロンとなってくれるオールドミスの叔母様とイタリア旅行をするというのは、上流階級の淑女にとって教育の1つとなっていました。トーマス・コーヤット(Thomas Coryat 1577-1617)の著作本「コーヤットの生きた旅行(Coryat's Crudities)」は大ヒットとなり、グランドツアーに出かける若者達にマニュアルが求められていたことの証になりました。19世紀にアルプス山脈にはグランドツアーの伝統でイギリス人若者が多く訪れ、アルプス山脈の主峰39座のうち、31座の「初登」はイギリス人によることになりました。

(日付は諸説有)

こちらで
ロングアイランド戦い (Battle of Long Island、1776/8/22〜8/30)
ジャージー島の戦い (Battle of Jersey 1781/1/6)
キブロンの戦い (Combat de Quiberon、1795/6/23-7/21)
米英戦争 (War of 1812、1812/6/18〜1815/2/18 )
エリー湖の戦い (Battle of Lake Erie、1813/9/10)
ワーテルローの戦い (Battle of Waterloo, 1815)
をお楽しみください。

参考HP:〜
ロードアイランドの地図(ナラガンセット湾(Narragansett Bay)有)
オフォードネスの場所地図
イースト・オブ・イングランドの地図
ブルターニュ半島付近の地図(ウェサン島、モレン島、ブレスト港が有)
キブロン湾付近の地図
ブイヨン公国の場所地図
ブイヨンの場所地図
ベルギーの場所地図(Liege有)
ベルギーの場所地図(日本語:リエージュ有)
北西航路の地図(現在)
グランドツアーの旅行地図(イギリス〜フランス〜イタリア)

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     13/11/13
スタンプ・メイツ
Copyright(C):Spice
無断転載禁止