Egypt

国連 1981 発行
 切手で綴るアフリカ大陸一周航海シリーズ No.29
エジプト
Arab Republic of Egypt

大航海物語
  地図編

U A R
(United Arab Republic)
アラブ連合共和国
(エジプトとシリアの連合)
(1958〜1971)

UAR ・ Yemen 国旗

UAS1周年記念
エジプト 1959/3/8 発行
スエズ運河の地図

エジプト 1974/7/23 発行
エジプト綿

国際綿カイロ会議記念
エジプト 1927/1/25 発行

デイル・ヤシーン

エジプト 1965/4/9 発行
アスワン・ハイダムの地図

ナイル河の開発記念
エジプト 1964/5/15 発行
シナイ半島の地図

シナイ半島の開発(緑化)記念
エジプト 1966/7/23 発行

UARは1958/2/22 エジプトとシリアが合併、アラブ連合共和国(UAR)が成立。ナセル大統領時代。首都はカイロ。なお、アラブ連合(UAS)には”北イェーメン王国”がアデンの併合をもくろんで加わっていた。

1961/9/28、シリアがクーデターでアラブ連合共和国を離脱。
1961/12月、アラブ連合(UAS)が解散するも、エジプトは国名表記を続行。
1971/9/11、サダト大統領が”アラブ共和国連邦”をシリアとリビアと3ヵ国で結成したため
          アラブ連合共和国をエジプト・アラブ共和国に改称。

・ナセル(Jamal;Abd al-Nasir, Gamal Abdel Nasser, 1918〜1970)は1952年の自由将校団によるクーデターを経て1954年に政権を握ると、ナイル河にアスワン・ハイ・ダムを建設して砂漠を農地に変えようと計画したが、ナセルの中立外交に反発したアメリカイギリスはダム建設の援助を破棄。するとナセルは1956年、植民地時代から英仏資本の会社が運営していたスエズ運河を国有化して、その通行料収入で建設費を賄おうとした。驚いた英仏両国はエジプトに侵攻するが、いかにも時代遅れな植民地主義丸出しのこの出兵は国際世論の大反発を受け、英仏両軍はほどなくエジプトから撤退。このスエズ動乱でアラブにおけるナセルの名声は不動のものとなり、ダムもソ連と東ドイツの援助を受けて完成させた。 アスワン・ハイダム

・第2次中東戦争「スエズ動乱」
1956年10月29日に、スエズ運河を国有化すると宣言したエジプトに対して、スエズの利権を譲りたくない株主のイギリスとフランスイスラエルを誘ってエジプトに侵攻した。イギリスとフランスが1956年11月6日、停戦受諾。イスラエルも8日に受諾。


参考HP:〜エジプトの地図







ムハンマド・アリのエジプト王朝 ”最大版図”
EGYPTE

ナイル河から紅海・アラビアの地図
地中海→






アフリカ大陸→




←ムハンマド・アリ






←ペルシャ湾
←アラビヤ半島
←紅海
←アデン湾
ムハンマド・アリ没後100年記念
エジプト 1949/8/2 発行

ムハンマド・アリ (1769?〜1849/8/2)
 Muhammad ‘Ali

ムハンマド・アリは、オスマン帝国の属州だったエジプトの支配者です。オスマン帝国のエジプト総督でありながらエジプトに半独立政権を樹立し、専制支配のもとで富国強兵政策を強行して近代エジプトの基礎を築き、エジプトの南のスーダンアラビヤからトルコの数州までを勢力圏とした王朝”ムハンマド・アリ朝”の創始者です。そして、近代エジプトの基礎を作りあげた人物です。この王朝は、19世紀初頭からおよそ150年間にわたってエジプトを支配した王朝(1805年〜1953年)です。駐エジプト・アルバニア人非正規軍の隊長ムハンマド・アリがオスマン帝国主権下でエジプトの総督(ワーリー)の地位を獲得したのに始まり、イギリスによる占領、オスマン帝国の形式的な主権からの離脱を経て、エジプト革命によって王制が打倒されるまで続きました。

1798年にナポレオン・ボナパルト戦争)率いるフランス軍がエジプト遠征を開始すると、エジプトの宗主国であるオスマン帝国は、フランス軍との戦いのためにバルカン半島方面から軍隊を派遣しました。この時はアリのいたアルバニア人部隊はエジプトに敵前上陸できずに帰国しました。その後、アルバニア軍隊をまとめあげ、フランスの遠征後、勢力が弱まっていたエジプトのマムルーク(藩王)達と戦い数々の勝利を勝ち取りました。

1803年、2年前のフランス撤退後もエジプトに駐留していたイギリス軍がエジプトを撤収すると、たちまちオスマン帝国軍はエジプトの主導権を巡る内紛を起こしました。この内紛において、ムハンマド・アリーは暗殺された司令官に代わってアルバニア人不正規軍の司令官となり、権力闘争の一方の主役となりました。彼はエジプト総督、マムルークを次々に破って混乱を収拾し、1805年にカイロのウラマー(宗教指導者)、市民による推挙という手続きをとって自らエジプト総督(ワーリー)に就任することを宣言しました。オスマン帝国のセリム3世はムハンマド・アリーの実力を認めざるを得ず、前任の総督の罷免、ムハンマド・アリーの総督就任とパシャの称号授与を勅許しました。これにより、ムハンマド・アリーは名実ともにエジプトの支配者としての第一歩を踏み出しました。

マムルーク覆滅
1811/3/11、ムハンマド・アリーは式典を名目としてマムルークたちをカイロのシタデル(城塞)に招き、その帰路にシタデルからカイロの町に降りる途中の隘路で挟撃・虐殺し、降服したものも斬首するという強硬手段を行ってマムルークを一掃しました。これにより過去300年間にかつて存在しなかったエジプト全域に対する総督の支配が実現しました。

財源の改革
ムハンマド・アリーは、エジプトの近代化を進めるにあたっての資本として、「ナイルの賜物」と呼ばれる豊かなエジプトの農業生産力に目をつけました。彼は服属した地方に対して検地を行って税源を確立させ、戦乱で荒廃したデルタ地方の灌漑水路を復興させました。古代エジプト時代以来、エジプトの灌漑は伝統的な自然の洪水に頼っていましたが、ムハンマド・アリー以降は水路によって常に豊かな水が供給されるようになり、新たな農地の開墾や綿花や桑などの商品作物の栽培が進みました。

富国強兵
ムハンマド・アリーは改革で得た豊かな収入を財源として、西洋式の新式軍を整備し、軍需工場を中心に近代的な工場を国営で設立しました。また、これらを支える人材を確保するためにフランスをはじめヨーロッパ諸国から軍人や技術者、教師を招きました。エジプト人に近代的な知識を身につけさせるためヨーロッパ出版物の翻訳・出版を行う翻訳局が設立され、優秀な若者はパリに留学生として送られました。

1822年にはムスリム(イスラム教徒)を対象とする徴兵制が実施されるも、翌年その対象はエジプト社会の少数派であるコプト教会のキリスト教徒にまで拡大されました。またヨーロッパ人を教師とする近代的な高等学校や伝統的なイスラム教育にかわって実用的な学問を教える中等・初等学校が設立されました。

このように、ムハンマド・アリーは税制や教育、兵役など民衆の義務は、あらゆる面で全エジプト人が宗教の帰属にかかわりなく平等に扱われる新時代の道を開きました。その結果、伝統的なイスラム共同体の枠組みを越えた近代的なエジプト国民の意識が創出されていくことになりました。

軍事的拡大
ムハンマド・アリーがエジプトで着々と改革を進めていた頃、アラビア半島の内陸部ナジュド地方では第一次サウード王国がイスラム教の改革思想であるワッハーブ主義を掲げて勢力を拡大しつつありました。オスマン帝国は、ワッハーブ運動の拡大を防ぐためサウード王国と戦う必要に迫られたが、軍事的な衰退著しく、独力でワッハーブ運動を鎮圧する力をもたなかったので、ムハンマド・アリーに応援を要請しました。

1818年、ムハンマド・アリーの長男イブラーヒーム率いるエジプト軍はアラビア半島に進軍し、ワッハーブ軍を打ち破ってサウード王国を滅亡に追いやりました。これに自信を得たムハンマド・アリーは1820年から積極的な拡大政策を取り、ナイル川上流のスーダンに進出してその北部を版図に加えました。

これと同じ頃、1821年に勃発したギリシャ独立戦争でもギリシャ軍を独力で鎮圧できないオスマン帝国の求めに応じ、ギリシャに派兵する。しかしこの戦いではイギリス、フランス、ロシアがギリシャ側に参戦し、1827年のナヴァリノの海戦でオスマン・エジプト連合艦隊が大敗を喫するなど大きな犠牲を払った末に失敗に終わりました。

1847年、ムハンマド・アリーは高齢を理由に政治の実権を長男のイブラーヒーム・パシャに譲りました。しかし翌1848年、イブラーヒームは総督即位がオスマン帝国政府の承認を得た矢先に父に先立って病没し、かわって孫のアッバース・パシャが即位しました。

失意と老衰によって衰弱したムハンマド・アリーはカイロ市中の自邸内に篭りきりになり、翌年8月に没しました。遺骸はカイロのシタデルの丘に運ばれ、丘の上に生前建設されたムハンマド・アリー・モスクに葬られました。







エジプトの建造物(遺跡)
EGYPTE
ギザの三大ピラミット

エジプト 1933〜38 発行 通常切手

ROYAUME de LAOS
アスワン方面のヌビア遺跡保存地図

エジプトのUNESCO遺跡保存活動記念
ラオス 1964/3/8 発行
大韓民国
ヌビア遺跡・アブシンベル神殿

UNESCO アスワン・ハイダム水没 遺跡保存活動記念
韓国 1963/10/1 発行

・1960年1月9日、エジプトのアスワン・ハイ・ダム(Aswan High Dam)の起工式。文字通りナセル政権の命運をかけた大事業だった。 ナセル大統領(Gamal Abdel Nasser,或いは Jamal Abdal-Nasir, 1918-1970)はこのダム建設のためにソ連から4億ドル(1440億円)の借款と多くの技術支援を受けた。工期11年。高さ111メートル、長さ3800メートル。水門180門。12基の水力発電装置が210万kwの電力を供給。 この電力を利 用して鉄鋼や化学の工場を稼動させ、ダムにより出現した人工湖「ナセル湖」から供給される水は不足がちの農業用水を安定させ、砂漠の緑化もおこなわれた。

・この工事の際、ヌビア遺跡のアブシンベル神殿やフィラエ神殿などの遺跡が人工湖に沈むはずだった。これに対して、世界的に遺跡を守ろうという運動が発生。ユネスコが中心になって資金を集め、これらの遺跡は無事数百メートル移動されて水没を免れた。アブ・シンベル神殿は、1964〜1968の間に正確に分割されて約60m上方の丘に移築された。


・なお、アスワンダムは、イギリス支配時代の1898年にイギリスが着工し1902年に完成したダム。完成時は世界最大のダムだった。(長さ2,140m、高さ51m)アスワンハイダムは1970年東ドイツとソ連の協力で完成したダム。ここからナイルの上流に向けて巨大な人造湖・ナセル湖が続いている。

参考:〜
▼ギザの三大ピラミット
 (ギザの大ピラミッド、Great Pyramid of Giza)
こちらでエジプトのピラミッドをお楽しみください。

▼アブシンベル神殿
 Abu Simbel

アブ・シンベル神殿はエジプト南部のスーダンとの国境近くにあるヌビア遺跡にある。オリジナルは、砂岩でできた岩山を掘り進める形で作られた岩窟神殿。大神殿と小神殿からなる。建造主は新王国時代第19王朝の王、ラムセス2世。 大神殿は太陽神ラーを、小神殿はハトホル女神を祭神としている(小神殿は最愛の王妃ネフェルタリのために建造されたものでもある)。建設後、長い年月の内に砂に埋もれていたが、1813年にスイスの東洋学者ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトによって小壁の一部が発見され、1817年にブルクハルトの知人であったイタリア人探検家
ヌビア遺跡・アブシンベル神殿
ジョヴァンニ・バッティスタ・ベルツォーニによって出入り口が発掘された。

1960年代、ナイル河にアスワン・ハイ・ダムの建設計画により、水没の危機にあったが、ユネスコによって、国際的な救済活動が行われた。1964年から1968年の間に、正確に分割されて、約60m上方、ナイル川から210m離れた丘に移築された。このことが、
世界遺産の創設のきっかけとなった。アブ・シンベル神殿は世界遺産の象徴的な遺跡で、世界文化遺産に登録されている。

この神殿では、年に2回も神殿の奥まで日の光が届き、神殿の奥の4体の像のうち、冥界神であるプタハを除いた3体を明るく照らす。これを一目見ようと多くの観光客がその日に訪れる(場所を移した際にもともとの日から、1日ずれてしまったが)。その2回とは元は2/22と10/22である。ラムセス2世の生まれた日と、王に即位した日にこの現象が起こる。ラムセス2世はアスワン・ハイ・ダムの建設によってできた人造湖のナセル湖のほとりにたたずんでいる。

アブ・シンベル大神殿
ラムセス2世が建てたとされる。大神殿の四体の像はラムセス2世で、その前に並んでいるのは家族の像である。 奥にはプタハ神、アメン・ラー神、ラー・ホルアクティ神、そしてラムセス2世の像がある。神聖化された聖なる船の前で儀式を行う場面が描かれている。浮き彫りには王の業績、北の壁にはカディシュの戦い、南の壁にはシリア・リビア・ヌビアとの戦いが描かれている。オリジナルは岩山をくりぬいた神殿だが、移動後はカモフラージュしたコンクリートのドームを基礎としている。

アブ・シンベル小神殿
ハトホル神と王妃ネフェルタリに捧げられた神殿。立像が6体あって、そのうちの4体は王、2体はネフェルタリである。脇には王子と王女を配置している。

▼ヌビア遺跡の保存
・アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群
 Nubian Monuments from Abu Simbel to Philae

ヌビア遺跡群は、エジプト南部のナイル流域にある、古代エジプト文明の遺跡。1960年代、エジプトでナイル流域にアスワン・ハイ・ダムの建設計画が持ち上がったが、このダムが完成すると、ヌビア遺跡が水没する危機が懸念された。これを受けて国連のユネスコが、ヌビア水没遺跡救済キャンペーン開始。世界の60ヵ国の援助により、技術支援、考古学調査支援などが行われた。これがきっかけとなり、開発から歴史的価値のあ
アスワン方面のヌビア遺跡保存地図
る遺跡、建築物、自然等を国際的な組織運営で守ろうという機運がうまれ、1972/11/16にユネスコのパリ本部で開催された第17回ユネスコ総会で、世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)が満場一致で成立。1975年、20ヵ国が条約締結し正式に発効した。ヌビア遺跡群も1979年、世界遺産(UNESCO World Heritage Site、文化遺産=Cultural heritage)に登録された。

アブ・シンベル神殿(ヌビア遺跡水没救済・保存キャンペーン)
1964年から1968年の間に、正確に分割されて、約60m上方の丘に移築された。

フィラエ神殿
1972年から1980年の間に、フィラエ島からアギルキア島に移築された。

・カラブシャ神殿
アスワンの南約50キロのナイル川西岸に建てられていたが、1970年に現在の場所(アスワン・ハイ・ダムの近く)に移築された。

エジプトの世界遺産〜(7)
文化遺産
・メンフィスとその墓地遺跡〜ギザからダハシュールまでのピラミッド地帯 (1979)
  (Memphis and its Necropolis - the Pyramid Fields from Giza to Dahshur)
・古代都市テーベとその墓地遺跡 (1979)
  (Ancient Thebes with its Necropolis)
・アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群 (1979)
  (Nubian Monuments from Abu Simbel to Philae)
・カイロ歴史地区 (1979)
  (Historic Cairo)
・アブ・メナ (1979年)
  (Abu Mena)
・聖カトリーナ修道院地域 (2002)
  (Saint Catherine Area)
自然遺産
・ワディ・アル・ヒタン (2005)
  (Wadi Al-Hitan)、(Whale Valley)

参考HP:〜
エジプトの地図
エジプトの観光地図
エジプトの県区分地図 (27)
メンフィスとその墓地遺跡の場所地図
カイロ歴史地区の場所地図
アブ・メナの場所地図
ワディ・アル・ヒタンの場所地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     11/9/10追記

スタンプ・メイツ
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