Netherland 国連 1989 発行 |
切手で綴る ヨーロッパの国々
ネーデルランド 1581 オランダ(ネーデルランド7州)が独立宣言 |
大航海物語 地図編★ |
ネーデルランドの繁栄 ホブラーダ条約300周年 ブレダ、1667年 ライン川を行き交う商船 |
ブレダ、1667年 ブレダ城 |
ニューアムステルダム、1667年 新大陸ニューヨークの繁栄 |
1667 ブレダ条約300年記念 1967 スリナム 1967/7/31 発行 |
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1981年の地図→ | オランダの地図 |
←1531年の地図 | オランダの地図 (ライン河デルタ) |
1531 オランダ州会議450年記念 1981 オランダ 1981/10/1 発行 |
オランダ 1972 発行 |
・中世オランダの黄金時代と、その後の海外進出 ・北西航路の探検航海 ・東インドへ ・ケープタウン ・ニューアムステルダム ・ブレダの和約 ・オランダの12州 ライン河の河口にあるオランダは、その地理的条件のため、神聖ローマ帝国(962-1806)領であった時代から、都市間の移動・運搬手段として船による水上交通が発達し、その延長として北欧や南欧との海上貿易で栄え、富の備蓄が行われました。こうして形成された裕福な商工業者相互の間に、16世紀の宗教改革時代になって、質素・倹約・勤勉を尊ぶカルビニズム(新教一派)が広まり、オランダでは新教勢力が強まっていきました。1555年に退位した神聖ローマ皇帝カール5世は、スペインとオランダを息子のフェリペ2世に譲り、オランダは、新教徒が多い地域にもかかわらず、旧教国であるスペイン領になってしまいました。スペイン王フェリペ2世は、オランダで厳しい新教徒弾圧を開始しました。オランダの新教徒はドイツの貴族オレンジ公ウィリアムを指導者に迎え、1568年に対スペイン独立戦争を開始しました。 ネーデルランド(Nederland)北部7州(ヘルダーラント、ホラント、ゼーラント、ユトレヒト、フリースラント、オーファーアイセル、フローニンゲンの各州)が宗教改革以降、プロテスタントの勢力がカトリック国スペインの支配に抵抗し、オランダ独立戦争(1568年から1648年まで停戦期間をはさんで80年間続いたため、80年戦争ともいわれる)によってハプスブルク家の支配から独立。北部7州はネーデルラント連邦共和国となり、その後、フランスの支配(バタヴィア共和国、ホラント王国、フランス帝国への併合)を経て、オラニエ公ナッサウ家を王家とする現在のネーデルラント王国(オランダ)となりました。なお、南部は後にベルギー王国となりました。 1581年にオランダ連邦共和国が独立を宣言し、1609年にスペインとの休戦が成立し、1648年にオランダの独立が正式に認められました。このスペインとの休戦成立後の17世紀前半から、オランダはいわゆる「黄金時代」を迎え、経済・文化面で未曾有の繁栄をし、欧州の先進国となりました。しかし、16世紀のアジア貿易を牛耳っていたのはポルトガルで、オランダはアジア産の香辛料等をリスボン港で仕入れ、それらを欧州内で売りさばくことによって大きな利益を得ていました。 <オランダの12州>(2020年) (総面積41,543ku 九州とほぼ同じ, 人口17,407,585人、2020)
参考HP:〜 ・オランダの地図(1751年頃の区分地図)北部7州か? ・オランダの12州の場所地図(2020年) ・フリースランド州の場所地図 ・テルスヘリング島の場所地図(テセル島も有) ・西フィリシアン諸島の場所地図 ・テセル島の地図 ・テセル島の場所地図 ・フリースランド州付近の地図 参考:〜
参考HP:〜 ・ライン河の場所地図(GooGle) ・ライン河の場所地図() ・ライン河の場所地図(ドナウ河から黒海への地図) ・ライン河の流域地図(総流域図) ・ライン河の場所地図(オランダ国内) ・ライン河の場所地図(全体、拡大有) ・ドナウ河の流域地図() ・ドナウ河の場所地図(左にライン河が有,GooGle)
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★オランダ |
北西航路の探検航海 1594〜、バレンツ 1607〜、ハドソン |
大航海物語★ |
NORGE | CANADA | ||||
北極海のスパールバル諸島 ノールウェイ 1986 発行 |
カナダと付近の地図 中央がハドソン湾 カナダ 1981 発行 |
←グリーンランド ←パフィン島 ←ハドソン海峡 ←ラプラドル湾 ←ラプラドル半島 ←ニューアムステルダム 現在のニューヨーク |
POSTAGE USA ニューアムステルダム港の ダッチ・ガレオン船、1653
アメリカ 1953/11/20 発行 |
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・北西航路の探検航海 ところがオランダにとって運が悪いことに、1580年にポルトガル国王が後継者がないまま死去してしまい、スペイン王のフェリペ2世がポルトガル王位を継承してしまいました。そしてフェリペ2世は1585年にオランダ船のリスボン港寄港禁止令を出して、オランダ経済の息の根を止めようとしました。いよいよオランダは、富の源泉のアジアの香辛料を求めて、自らアジアへ航路を開拓することを余儀なくされました。 当初、オランダは、ポルトガルの航路とは反対の北回りルートを探しに、バレンツ探検隊が1594年に探索しましたが失敗し、探検隊は北極海のスパーバル諸島で越冬して引き返してきました。 オランダは1581年にスペインからの独立を勝ち取って、オランダ東インド会社が1602年に誕生し、会社が派遣したヘンリー・バドソンが1607年から4度の”北西航路”の探険航海に出帆し、ハドソン河やニューアムステルダム湾を発見、1610年の航海でカナダ北部でハドソン湾を発見しましたが、折からの冬の到来と共に海が凍りつき氷に閉ざされてしまいました。ところが準備していた食料が不足・欠乏してきたため、乗組員が反乱を起こし、小船に追放されて行方不明となり、遭難して亡くなったものと推測されました。 |
ハドソンはハドソン河やニューアムステルダム湾を発見、1610年の航海でカナダ北部でハドソン湾を発見、ハドソン川を遡って流域一帯をオランダ領ニューネーデルラントと宣言して入植地を建設しました。1626年にオランダ総督がマンハッタン島をインディアンから買い取り、その南に集落を作ったのが現ニューヨークの始まりとなりましたが、やがてイギリス人が進出征服し、蘭英戦争の和議の結果イギリスに割譲して、1664年にサー・ジョージ・カートレットの領地がニュージャージーとなり、またニューアムステルダムはニューヨークと名付けられ改名されました。 | ニューアムステルダム、1667年 新大陸ニューヨークの繁栄 |
オランダがポルトガルに対抗して敢えて南回り航路を開拓しようと決心したのは、オランダ人の書いた一冊の本がきっかけでした。ファン・リンスホーテンはインドのゴアへ渡り、5年間に渡ってポルトガルのもとで働き、この間に個人的に収集したポルトガルのアジア貿易に関する資料や航路図等をまとめ、1593年にオランダへ帰国した後に「Itinerario」という旅行記を発行しました。これを契機としてオランダのさまざまな都市で貿易会社が次々と設立され、1595年以降、オランダ船によるアジア貿易の航路開拓ラッシュが始まりました。(徳川家康の外交顧問になったウィリアム・アダムス(三浦按針)やヤン・ヨーステン(耶楊子)を乗せて1600年に日本の大分県に漂着した船”リーフデ号”もこのようなオランダ船のひとつでした)。多くのアジア貿易会社が乱立し、持ち帰った香辛料等で莫大な利益をあげ会社の競争が激化したところで、オランダは国家利益の促進のため、長い交渉の末にこれらの会社を一つにまとめました。こうして1602年に設立されたのがオランダ東インド会社でした。1600年にはイギリスでも東インド会社が設立されていましたが、当初の資本規模はオランダの方が10倍以上ありました。オランダ東インド会社は、喜望峰からマゼラン海峡までの極めて広範囲な地域における貿易独占権、条約締結権、行政権および司法権を与えられ、軍事力をも保有する国家のなかの国家のような存在でした。また、船の建造などに出資した株主に対し貿易であがった利益に応じて配当を出すといったオランダ東インド会社のシステムは、今日の「株式会社」の起源であると言われています。
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★オランダ |
東インドへ 1633、1638(1598) 中継基地(補給地)探検航海 |
大航海物語★ |
St.Helena 大西洋の絶海の孤島 セントヘレナ島 セントヘレナ 1633−1650 発行 |
アムステルダム号、1539 マダガスカル 1991/9/10 発行 |
MAURITIUS インド洋の絶海の孤島 モーリシャス島 モーリシャス 1638−1710 発行 |
FIJI 太平洋と世界地図 フィジー 1977/4/12 発行 |
・東洋貿易の補給基地としての中継地点の模索 東インドへ 欧州からアジアまでの航路は長く、航海中に栄養失調や壊血病(ビタミン不足)による船員の死亡率が高かったため、オランダ東インド会社は水と食料を補給する中継地点を確保する必要性に迫られました。まず目につけられたのは大西洋のセント・ヘレナ島で、オランダは1633年に占領しました。しかし同じこの島に目をつけたイギリスとの競争を避け、1638年にはより適した中継地としてインド洋のモーリシャス島を選びました。モーリシャスは1638年から1710年までの間、島の南部に要塞が築かれ、寄港するオランダ船に水・食料が供給されました。オランダ東インド会社はあくまで利潤追求のための会社であり、中継地点は会社の負担にならないように、自給自足を達成したうえで、その余剰物を船に供給することを建前としていました。しかし、モーリシャス島はサイクロン被害の影響や、歴代のモーリシャス総督に卓越した人物がいなかったこともあり、自給自足どころか時として寄港する船への食料供給さえもままならず、次第に会社の負担になっていきました。 オランダ人のケープ入植後、モーリシャスの存在意義は薄れ、1710年にオランダはモーリシャスから自ら撤退します。(その直後にフランスが入植しました。今でもモーリシャスの言語は、フランス語から発生したマウリ語が使用されています)。ところで、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」に登場する”ドードー鳥”は17世紀までモーリシャスに生息していた鳥で、食用に捕らえて絶滅しました。 |
★オランダ |
南アフリカ・ケープタウン 1652 喜望峰へ入植 |
大航海物語★ |
SOUTH AFRICA−SUID AFRIKA | ||
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オランダ船・ドロメダ号 | オランダの船団 | オランダ人のケープ上陸 |
南アフリカ 1926 発行 | 南アフリカ 1952/3/14 発行 | |
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LIBERIA アフリカ南端が喜望峰 リベリア 1928 発行 |
ケープ・タウン→ 喜望峰→ アグラス岬→ |
アフリカ大陸南端の地図 ボツワナ 1991/9/12 発行 |
マダガスカル島 |
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・オランダ人の南アフリカのケープ(喜望峰)への入植 1647年3月のある日、喜望峰を回って本国へ帰るオランダ船団の中の1隻「ハーレム号」がテーブル・ベイの北方でたまたま運悪く座礁してしまいました。座礁した船には数多くの高価な商品が満載されていたため、船団長は乗組員のレンダード・ヤンセン以下58名に対しこれらの商品を守って、翌年の本国向けオランダ船の到来を待つように指示を与えました。こうして彼らは今日のケープタウン北方のリートフレイ近辺に砦を築き、年を越すはめになりました。彼らは原住民と取り引きを行ったり、テーブルベイ近辺の様子を視察してまわり、翌年にアジアから本国へ帰る船に拾われて無事に本国へ戻りました。たまたまその船の中にいたのが、長崎の出島勤務時代に闇取り引きの嫌疑をかけられ、本国召還処分とされたヤン・ファン・リーベックでした。 オランダ東インド会社は、ヤンセンにテーブルベイ付近の状況に関する報告書を提出させました。この報告書に基づきオランダの東インド会社は、テーブルベイ近辺の気候・風土が食料補給地として適していると判断し、ケープ入植を決定しました。入植の指揮官の人選にあたっては、若いヤンセンは見送られ、リーベックに白羽の矢が立ちました。彼は再びアジアで勤務する夢を捨てきれれず、そのための踏み台としてケープ入植の指揮官職に自ら応募していたのです。 1488年ポルトガル人のバーソロミュー・ディアス船長がアフリカ大陸最南端(本当の最南端はアグラス岬)の喜望峰を発見し、1497年ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがヨーロッパ人としては初めてナタール(現南アフリカ連邦)へ足を踏み入れましたが、その地に入植したのは1652年(1651年説有)にリーベック率いるオランダ人でした。 では、なぜオランダ人は南アフリカに来たのでしょうか? それはオランダ東インド会社がアジア貿易の中継地とするためにケープタウンのテーブル・マウンテンの麓に要塞を築いたからなのでした。そして1652年が南アフリカ連邦の国家起源となったのでした。 こちらで ・蘭英戦争(1652-1674) ・第1次蘭英戦争(1652-1654) ・第2次蘭英戦争(1665-1667) ・第3次蘭英戦争(1672-1674) ・第4次蘭英戦争(1780-1784)
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 平成21年 2009/3/25追記、令和5年 2023/5/29 |