大航海物語 |
ルイジアナ買収 1803 Lousiana Purchase |
参考資料 |
ルイジアナ買収 当時のルイジアナの地図 メキシコ湾岸がニューオリンズ 1804 ルイジアナ買収100年記念博覧会 1904 アメリカ 明治37年 1904/4/30 発行 |
ルイジアナ州旗 USA 1962/4/30 発行 |
1812 ルイジアナ州150年 1962 ミシシッピ河の川船・外輪船 USA 1962/4/30 発行 |
・ルイジアナ買収 (1803) Lousiana Purchase ルイジアナには1528年にスペインのカベサ・ド・ヴァカがガルベストン湾ミシシッピ河々口に到達し、1541年にはスペインのヘルナンド・ド・ソトがこの地域を横断しましたが、スペインは全く放置しました。1682年にフランス領カナダから南下したフランスのラ・サールがこの地をルイ14世にちなんでルイジアナと命名し、1699年にはフランス人が最初の植民を行いました。フランス領ルイジアナはミシシッピ川流域からカナダに至る広大な領域でしたが、実際にはいくつかの交易拠点の網の目によって構成されていて、フランスは1722年フランス領ルイジアナの首府をニューオーリンズ市(フランス語ではヌーベル・オルレアン=新オルレアン)に移動。北米ではフレンチ・インディアン戦争と呼ばれる七年戦争の結果、フランスはカナダ植民地と(ニューオリンズ付近を除く)ミシシッピ川以東の地をイギリスに割譲し、残りのニューオーリンズ市及びミシシッピ川以西も1762年のフォンテヌブロー条約でスペインに譲渡。なおカナダ東部沿海アカディア植民地(英名ノヴァスコシア)のフランス系住民は1755年英国王に対する忠誠表明を拒んで強制追放され、当時まだフランス領だったルイジアナに大挙して移住、ルイジアナのフランス系人口を飛躍的に増大させました。これらフランス系住民はケイジャンと呼ばれています。スペインを支配したナポレオンは1800年にルイジアナをスペインから取り戻しましたが、1803年には財政上の必要などからアメリカ合衆国に売却しました。 ルイジアナは1762年から1800年までスペイン領で、この間の行政官はスペイン人だったとしてもスペイン人植民者はほとんど入らず、フランス系社会が存続して、ルイジアナ州はフランス系植民社会としての歴史を100年以上もっています。1812年アメリカ合衆国としてのルイジアナ州が成立、1849年に州都がニューオーリンズ市からバトンルージュ市に移された。豊饒なルイジアナの大地に綿花と砂糖のプランテーションが形成され、非常に豊かな州となりましたが、1861年に勃発した南北戦争では南部連合に加盟して合衆国から分離、1862年には北軍に占領されました。北軍占領中、州都はバトンルージュ市から戦略的に重要なニューオーリンズ市に置かれました。1868年合衆国への復帰が認められました。 ▼1803年のルイジアナ買収以降:〜 1804年のハイチ革命の結果として、多くの難民がルイジアナに流れ、主にニューオーリンズに上陸しました。数千ものハイチ人移民には多くの有色自由人、白人および奴隷にされたアフリカ人がいて、難民の中にはまずキューバに行った者もおり、キューバ人の移民も1809年の大規模移民で到着。有色自由人は基本的にニューオーリンズでは有色クレオール社会に加わり、またフランス語を話す社会も大きくしました。 ルイジアナの西の国境はスペイン領テキサスと接しており、1819年のアダムズ・オニス条約まで紛争が続き、サビーン自由州が中立の緩衝地帯として働き、受刑者の天国にもなりました。ここは「人のいない土地」とも呼ばれ、ルイジアナの中部及び南西部はレッドボーンと呼ばれる混血の人々によって開拓されました。19世紀初期の数十年間に中西部(Central Louisiana 元は北西部領土)と深南部(Acadiana)での開拓が進み、ニューオーリンズでは交易と海運が著しく増加。中西部から出荷された農産物や工業製品がミシシッピ河を下って海外に向けて船積みされ、ニューオーリンズ港に入った国際船で輸入された物が内陸に送られました。港は蒸気船、平底船および帆船で賑わい、多くの国から来た様々な言語を話す労働者がいました。ニューオーリンズは綿花と砂糖の主要輸出港でした。市の人口は増加し、この地域は極めて豊かになりました。深南部の他の地域以上に市内の職を求める移民が集まり、最も富裕な市民層はワイン、装身具および布地など洗練された商品を輸入しました。 1840年までに、ニューオーリンズは合衆国最大の奴隷市場となりました。国中でも最大級の富裕な都市となり、人口では3番目になりました。奴隷輸入の禁止によって国内市場に対する需要が増加。アメリカ独立戦争後の数十年間、百万人を越える奴隷化されたアフリカ系アメリカ人がアップランドサウスから深南部への移動を強制され、その3分の2は奴隷取引によっていました。他の者は奴隷所有者としての主人によって西部の新天地に移動させられ、アップランドサウスにおいて、農園主達がタバコから労働集約的ではない作物の組み合わせに移行するという農業の変化で、農園主は過剰な労働力を持つにいたりました。多くの者は新しい辺境に行くために奴隷達を取引業者に売ることになり、奴隷達は取引業者によってアップランドサウスから陸路を連れて行かれるか舟でニューオーリンズに運ばれました。ニューオーリンズで売られた後はミシシッピ河を運航する蒸気船で、ナチェズやメンフィスなど上流の市場やプランテーションに運ばれました。 ・参考地図HP:〜 フランス領のルイジアナ 現在のルイジアナ州 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/5/5 |