United States 国連 1981 発行 |
切手で綴る 冒険大航海(Adventure Voyage) ユグノー教徒 1624 新大陸へ移住 |
大航海物語 アメリカ編★ |
ユグノー教徒の上陸
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フォートオレンジ上陸 | メイポートの記念碑 | ||
ユグノー教徒の上陸の図 |
ユグノー教徒上陸の記念碑 |
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Huguenot Walloon Tercentenary 1624 ユグノー・ワルーン新大陸移住300年記念 1924 USA 大正13年 1924/5/1 発行 |
BERMUDA 大西洋の地図 移民船 ニューネザーランド号の航海地図 |
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カ ナ ダ ア メ リ カ カ リ ブ 海 |
←イギリス ←オランダ ←ベルギー ←フランス ←スペイン ア フ リ カ |
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シー・ヴェンチャー号航海地図の切手小型シートより バーミューダ 1984 発行 |
・ユグノー教徒の新大陸移住 (Huguenot Walloon) 1624年ベルギー南部の新教徒カルヴィン派ワルーン人がニュー・ネザーランド号に乗船、船長コーネリス・ジェイコブス(Cornelis Jacobs)に率きいられて、新大陸のオランダの毛皮交易所ニューアムステルダムにに上陸、フォート・オレンジ(Fort Orange (New Netherland), Albany, New York)にデュバル・カントリー(Duval County)を開拓・建設しました。
約2ヵ月航海後、1624/5月初旬に現ニューヨーク市のオランダ領ニューネーデルランドのニューアムステルダム停泊地フォート・オレンジ(Fort Orange, Albany, New York)に、主にワルーン人の30家族が到着しました。到着すると、船の乗組員は国旗を掲げ、アムステルダム砦に向かって銃で礼砲を撃って敬礼しました。乗客が上陸する前に、砦の係員が船の貨物を検査しました。 ・フォート・オレンジ (Fort Orange, New Netherland) オランダ語:オラニエ砦(Fort Oranje) 1624年5月にアメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタン区でマンハッタン島の南約730mにあるアッパーニューヨーク湾(Upper New York Bay)のガバナーズ島(Governors Island, 70ha)に、オランダ西インド会社(Dutch West India Co., 1621-1792)初代ニューネーデルラント総督(1st Director of New Netherland, 在任1624-1625)になったコーネリアス・ヤコブセン船長(Captain Cornelius Jacobsen May, 在任1624-1625)指揮のもと、ニューネーデルラント号でネーデルラント連邦共和国(オランダ)からやって来て、ニューネーデルラントの領土を獲得する目的で家族30世帯と共にこの島に、ニューネーデルラント最初の入植者たちが上陸しました。1625年にはハドソン川々口のマンハッタン島にその首都デュバル・カントリー(Duval County)フォート・オレンジこと、ニューアムステルダム(現ニューヨークのオルバニー)を建設しました。 1624年、ニューネーデルラントに上陸した30家族のプロテスタントワルーン人男性のうち18人は、現在のオルバニーの近くの場所に送られました。オランダ人の指示の下で、彼らは洪水が発生しやすいナッソー砦の北約2マイル(3.2 km)、モホーク川とノース川の合流点の南約5マイルにオラニエ砦(フォート・オレンジ)を建設したのでした。 ・参考:〜 ワルーン人(現在のベルギー南部のフランス語を話す人々)はもともとフランスにいましたが宗教改革で、カルヴィン派のキリスト教は予定説を説き勤労の尊重と利潤を肯定したので多くの商工業者が新教カルヴィン派に帰依し、旧教カトリックの国であるフランスでの迫害から逃れてネーデルランド南部へと移住した人達でした。ネーデルラントの人達は経済的な利害を共にしていて団結力もありました。飛び抜けた英雄や指導者がいるわけではないけれど、市民たち一人ひとりが協力してネーデルラントを発展させてきたという気風が伝わっていました。これに対してスペインのフェリペ2世はネーデルラントの都市に重税をかけ、宗教もカトリックを強制して弾圧、スペインから軍隊を送り込みました。これが原因で1568年独立戦争が勃発。名目的な指導者はネーデルラントの名門貴族オラニエ公ウィレムでした。ネーデルラントはもともと国になっていないので都市や州という地域ごとに団結を確認しながらスペインと戦っていました。そういう中でネーデルラントの南部10州が独立戦争から脱落。南部はカトリックの信者が比較的多かったのも脱落の原因でした。北部の7州はあくまで戦い抜く覚悟を固めて、1579年ユトレヒト同盟という対スペイン軍事同盟を結成。ユトレヒト同盟は1581年には独立を宣言して、ここにネーデルラント連邦共和国が成立しました。ところがスペインはあきらめたわけでなく、この後も戦争は続いて、1609年スペインと休戦条約が結ばれてようやく事実上の独立を達成しました。脱落した南部10州はのちにベルギーとなりました。ネーデルラントの商人達はスペインと戦争をしながら海外貿易を繰り広げて、当時、海外貿易に利用できる大型帆船がヨーロッパ全体で2万、その内ネーデルラントの船が1万6千だったといわれています。17世紀前半のネーデルラントは最先端の造船技術を持っていたこと。またフランスなどから新教徒の商工業者がネーデルラントに移住してきたことなどにより、ヨーロッパの中で飛び抜けた経済的な地位を獲得し、アムステルダムは国際商業・金融の中心として繁栄しました。貿易の中心をになったのが1602年に設立されたオランダ東インド会社です。その関連でも新大陸への移住がおこなわれました。 そのベルギーの中でも南部に居住していた人々の事をワルーン人といいます。ワルーン人(Wallon[仏]、Waal[蘭]、Waloon[英])とはベルギー南部に住むラテン系言語を使用するケルト系の住民ワロン人のことで、ベルギーという国はオランダ語に近いフラマン語(フランデレン語)を話す北部のフラマン人と、フランス語に近いワロン語(ワルン語。ワロニー方言)を話す南部のワロン人に分かれています。こうした違いは中世の神聖ローマ帝国とフランス王国のどちらの勢力範囲に含まれたか、ということによって形成されました。彼らは16・17世紀のオランダ独立戦争にも荷担しませんでした。ワロン人の住む地域のことを「ワロニー」といいます。現在のベルギーの人口は約1000万人、その内55パーセントがフラマン人、44パーセントがワロン人で、フラマン語・ワロン語・ドイツ語の三つが公用語です。ベルギーはフラマン語では「ベルヒエ」、ワロン語では「ベルジック」。日本語名「ベルギー」はフラマン語から派生。ベルギーの言語問題は深刻で、1988年には東部のフーロンで武力衝突まで起きています。1932年に言語法が制定され、1963年には言語境界線を設定、1980年には南北の言語地域に限定的自治を認める法律を制定、1993年にはワロン、フラマン、ブリュッセルの地域政府とオランダ語、フランス語、ドイツ語の言語共同体政府に分かれ、君主制にして連邦国家という珍しい政体となっています。一般的に、フラマン人は実直で大柄、ワロン人は小柄で社交的な人達だと言われています。 1562年フランスでユグノー戦争という内乱が勃発(1562-1598)。ちょうど、ネーデルラント独立戦争、イギリスではエリザベス1世が即位していた頃の時代です。ユグノー戦争は宗教戦争で、フランスはカトリックの国ですが宗教改革の影響で新教、とくにカルヴィン派の影響力が強まり宗教対立が激しくなって、その結果起きた戦争でした。カルヴィン派のことをフランスではユグノーといいます。国王を中心とするカトリック勢力とユグノーの諸侯が対立しダラダラと内戦がつづき、1572年にはサン・バルテルミ(同名聖人の祝日の事)の虐殺事件が起こりました。国王側と新教側が和解することになって、王の妹マルグリットがユグノーの指導者ブルボン家のアンリと結婚し、この結婚を祝うために全国からユグノーの有力者がパリに集まってきたのですが、国王側が彼らをだまし討ちで虐殺したという事件です。この虐殺事件の影の演出者として悪名高いのが王の母親カトリーヌ・ド・メディシス。イタリアの名門メディチ家出身の女性です。この女性が虐殺事件を起したわけではないのですが、イタリア女ということで、虐殺事件の責任者にされてしまって悪役扱いになりました。 この結果さらにユグノー戦争が続く中、王家ヴァロワ家の血統が絶えて王の妹マルグリットを妻にしていたブルボン家アンリに王位がめぐってきました。1589年有力なユグノー教徒のブルボン家から、アンリ4世35才(在位1589〜1610)が国王として即位しブルボン朝を開きました。彼は、国内で多数を占めるカトリック教徒の支持を得るため、1593年にカトリックに改宗し、1598年に「ナントの勅令」を発し、西ヨーロッパで初めて個人の信仰の自由を認めました。当時はカトリックの国が国民に違う宗派の信仰を認めるというのは、画期的なことだったのです。スペインやイタリアではカトリック以外を信じていたら火あぶりの刑でした。これにより国内で新旧両教徒の争いであるユグノー戦争は終結しました。フランスでもユグノーの公認により、ユグノーが多数を占める商工業者の勤労意欲が増し国の財政も潤いました。 この内乱でフランスの大諸侯の力が衰えました。そのため、アンリ4世に続くブルボン朝の王様たちにとって、絶対主義を実現しやすい条件ができあがりました。アンリ4世をついだのがルイ13世で 1610年即位し、フランスの絶対主義が確立してゆきました。彼は1302年に当時の国王フィリップ4世が設立した身分制議会である三部会を、1614年の開催を最後に解散させ、王権を強化し、宰相にリシュリュー公爵を登用して王権のさらなる強化と、ハプスブルグ家の打倒のために、1618年からドイツで行われた宗教戦争である三十年戦争(1618-1648)に介入し、旧教側を支持するハプスブルグ家に対して、新教徒側にたって参戦、1648年のウェストファリア条約で戦争は終結し、フランスはライン川の左岸のアルザス・ロレーヌなどを獲得しました。 ルイ13世の次の王がパリから南西約20キロ離れたところにヴェルサイユ宮殿を造営したルイ14世(位1643〜1715)で、フランス国王絶対主義を代表する王となりました。1643年フランス国王にルイ14世が5才で即位すると、幼い彼に代わって政治を担当したのが宰相のマザランで、フランスの貴族たちが起こしたフロンドの乱を鎮圧して不平貴族を一掃し、フランス絶対王政は最盛期を迎えました。1661年ルイ14世は王権神授説をとって親政を開始。この時ヴェルサイユ宮殿の建設が始まりました。この宮殿は40年もの才月をかけて完成させた奢侈と浪費以外の何物でもありませんでした。彼が財務長官に登用したコルベールは典型的な重商主義政策を展開して王立マニファクチュアの育成をはじめ、1604年の設立以来経営不振が続いていた東インド会社の再建(1664年)を行い、新大陸のルイジアナに植民地を建設。これにより、フランスの財政は充実し、国王は自然国境論や相続権を口実に、機会があれば侵略戦争を行いました。ヨーロッパ最強の陸軍を建設した国王は、まず1667年に南ネーデルランド継承戦争(1667〜68)を行いましたが、オランダの干渉で失敗し、この報復に1672年からオランダ侵略戦争(1672〜78)を開始するも1678年にあまり成果無く終結しました。 ルイ14世は1685年にナントの勅令を廃止しました。これにより、迫害を恐れた商工業者が次々とフランスから逃れてオランダなどに移住・亡命してしまい、これ以後フランスの産業は衰退しました。ユグノーは豊かな商工業者が多かったから、結果として富裕な市民階級がフランスからごっそりいなくなってしまいました。結局、政府の税収は減るし、産業の発展という意味でも大きな損失となりました。ルイ14世治世の末期には、人口の一割が乞食同様だったといわれています。農民反乱もしばしば起こりました。見た目の華やかさの陰で、フランスの政治、経済の矛盾は大きくなっていきました。また、そのような中で1689年、ファルツ継承戦争(1689〜97)を起こし、新大陸植民地でのウィリアム王戦争と結合して1697年まで継続するも成果無く終わり、1701年にはスペイン継承戦争(1701〜13)を起こしてイギリス・オーストリア・オランダと単独で戦い、翌年の新大陸でのアン女王戦争と結合して13年まで継続し、1713年ユトレヒト条約によって終結しました。この条約でルイ14世は自分の孫をスペイン王にする事を列国に認めさせることができましたが、将来にわたってフランスとスペインが合体しないことを条件とされました。この条約で海外の植民地の多くを失いました。領土と引き換えに反対する国を買収したということです。特にイギリスが北アメリカや地中海に領土を増やして得をしました。ルイ14世のフランスは、たび重さなる戦争で、少しばかり領土を拡大しますが、戦争の負担は重税という形で国民にのしかかりました。これが、徐々にフランスの経済を悪化させていきました。1715年になるとルイ15世が即位。彼もまたオーストリアの国王にマリア・テレジアが即位して発生したオーストリア継承戦争や、この戦争中にプロイセンがオーストリアから火事場泥棒的に奪った領土の回復を目指す七年戦争に参戦して、財政をさらに悪化させました。この財政悪化とフランスの政治、経済の 矛盾が爆発するのがルイ14世の次の次の王ルイ16世の時のフランス大革命でした。 かくして、ユグノーは新大陸へ夢を託し、家族を連れて移住しました。フロリダではフォートカロリーヌの開拓地が建設されましたが、1565年にスペイン国王フェリペ2世の命を受けたペドロ・メネンデスの艦隊により襲撃されて全滅の憂き目に遭いました。マタンサスという地名で現在もその名残をフロリダに留めています。スペイン人はカロリーヌ砦の跡地にサン・マテオを、そしてサン・ガブリエル、サン・エステパンの砦と居住地を建設しました。 1568年フランスのドミニク・ド・グルグという人物がフロリダのフォートカロリーヌの復讐戦を行いました。彼は私費で揃えた3隻の船で1567/8/2ボルドーを出帆。フロリダではスペイン人がインディオに対しひどい迫害を加えていたため、スペイン人を攻撃するのにインディオの支援を得ることができました。1568年4月24日、サン・マテオ(カロリーヌ砦)、サン・ガブリエル、サン・エステパンを攻撃。グルグはスペイン軍の捕虜としてガレー船に繋がれたことがあったので、ほとんどのスペイン人を殺害し、3つの砦を破壊しました。メネンデスはスペインに戻って、いませんた。6月にフランスへ帰った彼はラ・ロシェルやボルドーでは歓迎されましたが、シャルル9世の対応は冷たいもので、宮廷でグルグを支持したのはコリニー提督だけだったといわれています。一方、スペイン国王.フェリペ2世はグルグの首に多額の懸賞金をかけました。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和 R.4/5/31(2022)追記 |