France

国連 1980 発行
切手で綴る 海戦大航海(Naval Battle Voyages)
グラス提督
1781
アメリカ独立戦争・チェサピーク湾の海戦・勝利

大航海物語
フランス編

REPOBLIKA MALAGASY
グラス提督 と ランドルフ号

1776 アメリカ独立戦争200年記念 1976

マダガスカル 1975/6/30 発行

U S A
ロシャンボー将軍ワシントン将軍・グラス提督

1781 アメリカ独立戦争ヨークタウンの戦い 150年 記念 1931
USA  1931/10/19 発行
POLYNESIE FRANCAISE
グラス提督 と グレイブス提督

1776 アメリカ独立戦争200年記念 1976

ポリネシア 1976/4/15 発行

U S A
チェサピーク湾口の封鎖
Virginia Capes 1781
フランス艦隊の配置


アメリカ独立 200年 記念

アメリカ 1981/10/16 発行
REPUBLIQUE DE HAUTE-VOLTA
米ワシントン将軍に投降する英コーンウォリス将軍


1781 アメリカ独立戦争ヨークタウンの戦い 150年 記念 1931
オートボルタ(ブルキナファソ)  1975 発行

グラス提督

1776 アメリカ独立戦争200年記念 1976
チャド 1974 発行

フランスのグラス提督は1781年のアメリカ独立戦争チェサピーク湾口の海戦で、イギリスのグレイブス提督艦隊を撃破し、チェサピーク湾を封鎖して、ヨークタウンのイギリス軍への増援と補給を阻止し、イギリス軍の降伏によるアメリカ独立軍の勝利に貢献しました。
海軍中将フランシス・ジョセフ・ポール・デ・グラス侯爵
 (Vice-admiral Francois Joseph Paul de Grasse, 1722/9/13-1788/1/11)
フランシス・ジョセフ・ポール、マルキス・デ・グラス・ティリイ、コンテ・デ・グラス、マルタ騎士団
  (Francois Joseph Paul, marquis de Grasse Tilly, comte de Grasse, SMOM)
  (侯爵:marquis、伯爵:comte)、(マルタ騎士団:SMOM:Sovereign Military Order of Malta)
  (海軍中将:Lieutenant general des Armees navales, 1652-1792:Vice-admiral)
  生地:プロヴァンス-アルプ-コート・ダジュール地域アルプ=マリティム県ル・バール・シュル・ルーのヴァレット城
  (Chateau des Valettes du Bar, Le Bar-sur-Loup, Alpes-Maritimes, Provence-Alpes-Cote d'Azur
  没地:イルドフランス地域イブリーヌ県ティリー(現イブリーヌ)コミューンの城、 65才 没
  (Tilly, Tilly commune, Yvelines departement, Ile-de-France region, France
 ・フランス王立海軍(French Royal Navy Officer、1750-1784)提督
  フランス大革命(1789)前のアンシャンレジーム時代(Ancien regime:古い体制)の海軍提督
  ・七年戦争(Seven Years War, 1756-1763)従軍
  ・アメリカ独立戦争(United States War of Independence, 1775-1783)従軍
  ・第一次ウェサン島の海戦(First Battle of Ushant、1778/7/27)従軍
  ・マルティニーク島の海戦(Battle of Martinique, 1780/4/17)従軍
  ・セント・キッツの海戦(Battle of St. Kitts, 1782/1/25 & 26)従軍
・グラス提督の略年表
フランスの海軍提督でフランスの侯爵にして伯爵のグラス提督はフランスのプロヴァンス地方のプロヴァンス-アルプ-コート・ダジュールの貴族の子供として、ル・バール・シュル・ルーのシャトー・デ・ヴァレット・デュ・バー城(Chateau des Valettes du Bar)で生まれ、幼少期のほとんどをそのヴァレット城で過ごましした。 フランスのシャトー(城)

フランス 1952 発行
1733年11才のグラス少年は聖ヨハネ騎士団(Order of St. John of Jerusalem)で、兄弟騎士(Knight Brother)としての誓いをたててマルタ島にてマルタ騎士団の団長グランドマスター(Grand Master of the Order)給仕のページ(Page:小さな男の子の使用人(petit Boy servant)ギ語(Paidion)ペイディオン)として入団が認められました。1734年には聖ヨハネ騎士団のガレー船団初級士官(少尉:Ensign)になりました。6年間を過ごして1740年に17才で騎士団を辞去し、フランス王立海軍ギャルド・マリン(Gardes-Marin)に士官候補生(Midshipman)として入隊しました。 団長給仕のページ

ジャージー 19 発行
1743年に少尉に任官して50門戦列艦ディアマン号(Diamant)に乗艦。1744年にオーストリア継承戦争(1740-1748)のツーロンの海戦(1744/2/22)に従軍して、仏サフレン提督主力(Centre)艦隊のディアマン号マシューズ提督イギリス艦隊と戦い、その後カリブ海のアンティル諸島作戦に従軍しました。1746年にキャスター号(Le Castor)にてカナダのニューブランズウィック州アカデア海岸沖でイギリスのコルベット艦(corvette)の捕獲に参加しました。1747年にジョンキエール提督艦隊の40門戦列艦グロワール号(La Gloire)に乗艦して第一次フィニステレ岬の海戦(1747/5/15)に従軍。スペイン北西ガリシア州のフィニステレ岬沖で英アンソン提督艦隊との戦いで負傷し、乗艦は捕獲されて マルタ騎士団の旗印

フランス 1956 発行
捕虜になりました。1748/10/18に独アーヘンでオーストリア継承戦争の講和条約アーヘンの和約が締結されて戦争が終わると釈放されました。

1752年に地中海東部沿岸レヴァン(Levant)地方(現シリアレバノンヨルダンイスラエル方面)のジュノン(Junon)へ航海。1754年に中尉に昇進。1755年にカリブ海の仏領サンドマング(Saint Domingue、1659-1804、現ハイチ)のアンフィオン(L'Amphion、現ポルトープランス:Port-au-Prince)へ航海。
1756年にイギリスとの七年戦争が勃発、オーストリア継承戦争での1745年にイギリスの米国ニューイングランド植民地兵に侵攻(ルイスバーグの戦い, 1745)されて占領されたカナダ・ノバスコシア州ケープ・ブレトン島の要塞の町ルイスバーグがアーヘンの和約でフランスに返還されたので、ニューイングランドの英行政官は守備を強化するため、ノバスコシア半島にハリファックス(Halifax)を建設(1749)しました。それがルイスバーグへのイギリス遠征軍の上陸で危機に陥りました。その当時のルイスバーグ要塞(Fortress of Louisbourg)仏駐屯部隊は ハリファックス

カナダ 1949 発行
わずか3,000人でした。この1756年早春に、やがて起こるであろうイギリスの奇襲に備えて、港を守るために、5隻のフランス軍艦が来航。それは1757年にデュ・ボア・デ・ラ・モット伯爵艦隊がフランスのブレストを出帆して、西インド諸島で任務を遂行。その艦隊の5隻がミルボー侯爵リッスノワ王子ボッフルモン少佐(ジョセフ・デ・ボッフルモン=クルテネイ、神聖ローマ帝国リッスノワ王子、ミルボー侯爵:Joseph de Bauffremont-Courtenay, prince de Listenois et du Saint-Empire, marquis de Mirebeau, 1714-1781)艦隊の、旗艦はグラス中尉乗組の80門戦列艦トンナー号(Tonnant, 80gn, 1743)で、サン・ドマングからルイスバーグにフリゲート艦と共に1756/5月末に到着。この配備でルイスバーグ遠征中のフランス軍を支援して、その年のイギリスの侵略からルイスバーグを救った重要な海軍の作戦にグラス中尉は参加しました。1756/10月末にルイスバーグを嵐が襲い英仏両艦隊とも甚大な被害を受けたうえ、チフスの流行があって、上陸した兵士が市内へ伝染病を持込、市民数千人が死亡という深刻なチフスの被害をもたらしました。

1756/11/9にグラス中尉乗艦のトンナー号と艦隊はフランスに戻るためにルイスバーグを出帆。悪天候が続き乗組員の健康は悪化し続け、壊血病が現れました。さらに深刻なことに、チフスも現れました。流行はすべての船に影響を及ぼしました。1757/11/23にブレストに到着すると、3隻の船が非常に多くの船員を失い、港での操船が非常に困難になりました。下船した患者が都市とその周辺を汚染し、ブレスト市民約10,000人が亡くなったと伝えられています。しかしながらルイスバーグは1758年に再度イギリスの手に落ちました。

1757年にゼファー号(Le Zephyr)でアフリカ海岸への航海に参加。1762年には海軍大尉 (Capitaine de vaisseau)になり、翌年、フランス帝国が植民地のほとんど失うという大敗を記録した七年戦争(1756-1763)が終わった時に西インド諸島のアンティル諸島でプロテウ号(Lle Protee)の艦長。パリ条約(1763)でイギリスがフランスに勝利した七年戦争後、グラス大尉は数年間フランス海軍の再建を支援しました。1765年に少佐に昇進。1765年にモロッコのララシュ遠征(Larache expedition, 1765/6、フランス敗北)にベスネ提督艦隊のフリゲート艦エロイン号(30gn Heroine)艦長で従軍。1772年にはベスネ提督艦隊のアイリス号(l’Iris)艦長。1775年に 西インド諸島でアンフィトリテ号(L'Amphitriteaux)艦長。1776年にイントレピッド号(L'Intrepide)艦長。

1776年に大英帝国に対するアメリカ独立革命(1775-1783)が勃発すると、フランスはアメリカ独立軍に助成して参戦(1778)。グラス少佐はフランス戦列艦27隻とイギリス戦列艦30隻がイギリス海峡西入り口付近(北緯48°28′西経5°5′)に有るウェサン島沖の第一次ウェサン島の海戦(1778/7/27)で、ルイ・ジロー提督ドルヴィリュー伯爵艦隊の74門戦列艦ロバスト号(Robuste)を指揮してアメリカ独立戦争支援戦の初陣を飾りました。1778年にカリブ海でデスタイン伯爵の艦隊に合流してグレナダの海戦(Battle of Grenada, 1779/7/6, 仏勝利)に参加。ドミニカとセントルシア方面でのセントルシアの海戦(1778/12/15, 英勝利)にデェスタイン艦隊の26門 フリゲート艦エンガガンテ号(Engageante)に乗艦して従軍。1779年にグレナダ占領(1779/7/4)に貢献し、サバンナ包囲戦(1779/9/16-10/18, 英勝利)に従軍。1780年のグッシェン提督艦隊とロドニー提督艦隊との3つの海戦に従軍。
@フィニステレ岬沖で英護送船団との遭遇戦(1780/1/8, 仏勝利)
A8日後のサンビセンテ岬月光の海戦(1780/1/16, 英勝利)
Bマルティニーク島沖で戦ったマルティニーク島の海戦(1780/4/17, 仏勝利)。

1781/3月に少将(シェフデスカドル:Chef d'escadre(ウィングコマンダー:戦列艦20隻未満の艦隊司令官)アンシャンレジーム(l'Ancien Regime)下のフランス海軍少将)に昇進し、最終的にはウィンドワード諸島の防衛をカバーするために西インド諸島に行くことを主な任務として、大艦隊の指揮を執りました。大艦隊はブレストから戦列艦20隻、フリゲート艦3隻と、3,200人の軍隊を運ぶ120隻の輸送船団が、3/22に出帆。艦隊は1781/4/28にマルティニーク島フォール・ド・フランス(Fort de France)に到着。5/6にフッド提督はグラス大艦隊が入港したフォール・ド・フランスの封鎖を解除せざるを得なくなりました。グラス提督艦隊がフランスの島々の総督ブイエ侯爵軍の兵士3,000人をトバゴ島に上陸させると、イギリス駐屯軍は急速に降伏して、6/2にトバゴ島を占領することに成功しました。援軍として到着したロドニー提督艦隊は戦闘に間にあいませんでした。

1781/7/5にグラス艦隊は大船団を護衛してハイチのサントドミンゴへ向けて出帆。艦隊はハイチのキャップフランセ(現サントドミンゴ島北西のキャップハイチ)停泊地に、フランス軍は7/11に上陸。そこで、米独立ジョージ・ワシントン軍の仏遠征軍指揮官ロシャンボー将軍から助けの救援要請を受領。グラス提督はワシントン将軍とロシャンボー将軍を応援するため、キャップフランセ停泊地から3000人のフランス軍を輸送してバージニアに上陸させてワシントン将軍に援軍を送り届けました。

チェサピーク湾口の海戦(1781/9/5)ではイギリス艦隊を決定的に破りました。グラス提督はイギリス艦隊を敗退させ、1781/10/19にイギリスのコーンウォリス卿が降伏するまで海岸を封鎖してアメリカの独立を確実にしました。

セント・キッツの海戦(1782/1/26)では、提督は74門戦列艦ゼール号(Zele 74gn)に座乗して戦い不運にもイギリスのフッド提督に打ち破られました。その直後の1782/4/12にはグアドループ島とドミニカ島の間の島でのセインツの海戦でグラス提督フランス艦隊(グラス乗船の旗艦は ヴィル・ド・パリ号、Ville de Paris)33隻はイギリスのロドニー提督艦隊36隻に敗れました。イギリスは戦死243人、負傷818人に対し、フランスは6隻(5人の艦長が戦死)を捕獲され2000人以上の戦死傷者をだして敗北し、グラス自身も捕らわれて捕虜となりました。数ヵ月後に釈放されてフランスに戻り、「正当化の備忘録」という本を出帆し、1784年に軍法会議にかけられましたが、無罪として放免されました。

グラス提督は1788年パリにて65才で亡くなりました。1840年に息子のアレクサンデル・ドゥ・グラスは「未公開文書によるグラス提督の伝記」というグラス提督伝記を発行。

フランス海軍にはグラス提督の名を冠した2隻の艦艇が有、
・防空巡洋艦デ・グラス(French anti-aircraft cruiser De Grasse, 9,380t, 1956-1973)
・駆逐艦デ・グラス(French frigate De Grasse, 4,650t, 1977-)
アメリカ海軍には3隻の艦艇が有、
・駆逐艦コンテ・デ・グラス(Destroyer USS Comte de Grasse, 8,006t, 1978-1998)標的艦2006沈没
・貨物輸送艦デ・グラス(cargo ship USS De Grasse, 4,023t, 1943-1946)第二次世界大戦に就役
・哨戒艦デ・グラス(patrol boat USS De Grasse, 1918)地区巡視艇YP-506(武装ヨット)1942年。

アメリカのバージニア州バージニアビーチ、ストーリー砦のヘンリー岬記念公園(Cape Henry Memorial, Joint Expeditionary Base East, Virginia Beach, Virginia)には、彼の栄誉を記念する記念碑が有。

・家族
グラス中尉は七年戦争(1756-1763)の間にインドでのフランスの海軍作戦に参加して、1760年代から1781年まで断続的にインドのカルカッタ(現在のコルカタ)に駐留していました。七年戦争中のインドでの勤務中に、カルカッタでインド人女性との間にインド人男子を設けたといわれています。1780年頃に生まれた男子はアザール・グエン(Azar Le Guen)と呼ばれていました。グラス大尉は教育のためにパリにその少年を呼び寄せ、ジョージ・デ・グラス(George de Grasse)と名付けました。父親没後は1799年までに米国に行き、ニューヨーク市に定住したとと伝えられています。
グラス大尉は1764/1/28に仏イブリーヌ県ベルサイユ(Versailles, Yvelines)でアントワネット・ロザリー・アッカロン(Antoinette Rosalie Accaron, 1744-1773)と結婚して子だからに恵まれ、その内の子供6人が成人し、長男アレクサンドル(アレクサンドル・フランソワ・オーギュスト、グラス伯爵、ティリー侯爵:Alexandre Francois Auguste, comte de Grasse, marquis de Tilly, 1765-1845)はフランス軍で出世して中佐(Lieutenant-colonel)になり、1788年に父親の称号を継承しました。ロザリー夫人は1773年に29才で亡くなりました。グラス大尉は1775/10/16にサンドミングのポールドペ(Port-de-Paix)でデビルヌーブ(M. de Villeneuve)の未亡人マリー・キャサリン・ピン(Marie Catherine Pin)と2回目の結婚。マリー夫人が亡くなると、1786/2/11にクリスティン・マリー・デルフィーヌ・ラザール・デ・シボン(Christine Marie Delphine Lazare de Cibon)と3回目の結婚をしました。

グラス提督の生涯年表
 記  事 座乗艦
1722 /9/13、コート・ダジュール地方のヴァレット城で誕生
1733 11 マルタ騎士団に団長グランドマスター給仕のページにて入団
1734 12 騎士団の初級士官(少尉) ガレー船
1740 17 フランス王立海軍ギャルド・マリンに士官候補生として入隊
1743 20 海軍少尉に任官 ディアマン号
1744 21 /2/22、ツーロンの海戦ディアマン号で英艦隊と戦う、、その後カリブ海 ディアマン号
1746 24 カナダのアカデア海岸沖で英コルベット艦捕獲作戦に参加 キャスター号
1747 25 4第一次フィニステレ岬の海戦に従軍
アンソン提督艦隊との戦いで負傷し、乗艦は捕獲されて捕虜になる
グロワール号
1748 26 オーストリア継承戦争講和条約アーヘンの和約で戦争が終わって釈放
1752 30 東部地中海沿岸レヴァン地方のジュノンへ航海
1754 32 中尉に昇進
1755 33 カリブ海仏領サンドマング(現ハイチ)アンフィオン(現ポルトープランス)へ航海
1756 34 七年戦争勃発
/11/9仏艦隊がフランスに戻るためにルイスバーグを出帆
/5月末に到着
/10月末ルイスバーグを嵐が襲い英仏両艦隊とも甚大な被害を受け、チフス流行
トンナー号
1757 35 /11/23にブレストに到着、チフス流行
アフリカ海岸への航海に参加
トンナー号
ゼファー号
1758 36 ルイスバーグが再度イギリスの手に落ちる
1762 40 海軍大尉 (Capitaine de vaisseau)に昇進、ロザリー夫人(20才)と結婚
1763 41 /2/15七年戦争が終結(1763/2/10英仏間のパリ条約)
西インド諸島アンティル諸島
プロテウ号
1765 44 少佐に昇進、モロッコのララシュ遠征 エロイン号
1772 50 ベスネ提督艦隊の西インド諸島で艦長 アイリス号
1773 51 ロザリー夫人(29才)没
1775 53 マリー夫人(才)と再婚、アメリカ独立戦争(1775-1783)勃発 アンフィトリテ号
1776 54 少佐に昇進、アメリカ独立軍に助成してフランス参戦 イントレピッド号
1778 56 第1次アーシャントの海戦(1778/7/27)
セントルシアの海戦(1778/12/15, 英勝利)
ロバスト号
エンガガンテ号
1779 57 グレナダ占領(1779/7/4)、サバンナ包囲戦(1779/9/16-10/18, 英勝利)従軍
1780 58 /1/8にフィニステレ岬沖英護送船団との遭遇戦(仏勝利)
/1/16のサンビセンテ岬月光の海戦(英勝利)
/4/17にマルティニーク島の海戦(仏勝利)
1781 59 3月、少将に昇進
/4/28グラス大艦隊がマルティニーク島フォール・ド・フランスに到着
/5/6フッド提督はフォール・ド・フランスの封鎖を解除
/6/2トバゴ島を占領
/7/5グラス艦隊は大船団を護衛してハイチのサントドミンゴへ向けて出帆
/9/5チェサピーク湾口の海戦でイギリス艦隊を撃破
/10/19にイギリスのコーンウォリス卿が降伏するまで海岸を封鎖
1782 60 /1/26セント・キッツの海戦(敗北)
/4/12セインツの海戦(敗北)、捕虜となる
ゼール号
1784 62 軍法会議、無罪
1786 64 クリスティン夫人と再々婚
1788 65 /1/11、イルドフランス地方のお城で亡くなる

・ランドルフ号の装備:〜
  USS Randolph
、1776
船 型 アメリカ独立軍フリゲート艦(32-gun frigate ランドルフ号、1778
帆 柱 3本
全 長 40.46m
全 幅 10.52m
喫 水 3.20m、(Draft:5.5m)
武 装 12-pdr砲26門、6-pdr砲10門
進 水 1776年、フィラデルフィア(Philadelphia)
最 後 1778年、ニューヨーク近海で、
英:HMS Yarmouthと交戦後、炎上・沈没

・第一次ウェサン島の海戦
 (First Battle of Ushant、1778/7/27)引分
第一次ウェサン島の海戦は、アメリカ独立戦争中にウェサン島(フランスの北西端にあたるイギリス海峡入り口のフランス領の島)の沖160kmでフランス艦隊とイギリス艦隊の間で行われた戦いで、大艦隊同士であったにもかかわらず双方ともに大きな戦果をあげずに終わって、イギリスでは政争に発展。イギリス艦隊は軍艦「ヴィクトリー」上のオーガスタス・ケッペル提督が指揮する戦列艦30隻、フランス艦隊はドルヴィリュー伯ルイ・ジロー提督の指揮する戦列艦29隻でした。1778/7/9にスピットヘッドから戦列艦30隻で出帆した英艦隊
ヴィル・ド・パリ号

マーシャル諸島 1998 発行
は、7/23にウェサン島の西で、風上側に29隻のフランス艦隊を視認。ドルヴィリュー伯は戦いを避けよという命令を受けているも、仏ブレスト港との間を遮断されていたので戦いとなりました。仏艦隊のうち2隻は風上へ避退して港へ退避したので、仏戦列艦隊は27隻になりました。
仏英の艦隊 戦列艦 その他 戦列外 総司令官 乗艦 グアス乗艦
・フランス 27隻 フリゲート艦3隻 フリゲート艦5隻
コルベット艦7隻
伯爵ドルヴィリュー提督 ラ・ブルターニュ号 ル・ロバスト号
・イギリス 30隻 フリゲート艦5隻
スループ艦2隻
カッター艦1隻
--- ケッペル提督 ヴィクトリー号
<仏の艦隊編成>:〜参加艦船名
フランス艦隊
白青戦隊:シャフォール提督
・第2分隊 戦列艦
・ドーファン・ロワイヤル号 Dauphin-royal 70
・ル・アンフィオン号 L'Amphion 50
・ル・エヴェイエ号 L'Eveille 64
・第1分隊
・ル・ビヤンネーメ号 Le Bienaime 74
・ラ・クーローヌ号 La Couronne 80 シャフォール提督旗艦
・ル・パルミエ号 Le Palmier 74
・第3分隊
・ル・ヴァンジュール号 Le Vengeur 64
・ル・グロリュー号 Le Glorieux 74
・ル・インディヤン号 L'Indien 64
・ラ・ジュノン号 La Junon 12 フリゲート艦
白戦隊:伯爵ドルヴィリュー提督
・第3分隊
・ル・アルテジャン号 L'Artesien 64
・ル・オリエント号 L'Orient 74
・ル・アクシヨネール号 L'Actionnaire 64
・第1分隊
・ル・ファンダン号 Le Fendant 74
・ラ・ブルターニュ号 La Bretagne 110 ドルヴィリュー提督旗艦
・ル・マニフィック号 Le Magnifique 74
・第2分隊 コルベット艦

セント・ヴィンセント 1989 発行
・ル・アクティフ号 L'Actif 74
ラ・ヴィル・ド・パリ号 La Ville de Paris 100
・ル・レフレシ号 Le Reflechi 64
・ラ・シビル号 La Sibille 12 フリゲート艦
青戦隊:シャルトル公爵
・第2分隊
・ル・ロラン号 Le Roland 64
ル・ロバスト号 Le Robuste 74 グラス艦長
・ル・スファンクス号 Le Sphinx 64
・第1分隊
・ル・イントレピード号 L'Intrepide 74
・ル・サン・エスプリ号 Le St Esprit 80 シャルトル公爵旗艦
・ル・ゾディアック号 Le Zodiaque 74
・第3分隊
・ル・ディヤデーム号 Le Diademe 74
・ル・コンケラン号 Le Conquerant 74
・ル・ソリテール号 Le Solitaire 64
・ラ・フォルテュネ号 La Fortunee 12 フリゲート艦
・戦列外
フリゲート艦
・ラ・レゾリュー号 La Resolue 12
・ラ・サンシーブル号 La Sensible 12
・ラ・ナンフ号 La Nymphe 12
・ラ・シュルヴェイヤント号 La Surveillante 12
・ラ・ダナエー号 La Danae 8
コルベット艦
・クリウーズ号 Curieuse
・ファヴォリット号 Favorite
・イロンデル号 Hirondelle
・リュネット号 Lunette
・シルフィード号 Sylphide
・ルーグル号 Lougre 沿岸航海用の帆船形式
・ル・エスピエーグル号 L'Espiegle

<英の艦隊編成>:〜参加艦船名
・イギリス艦隊 戦列艦(Ship:HMS) ヴィクトリー号

グレナダ 1990 発行
青戦隊(前衛):ハーランド中将
モナーク号 Monarch 74
・ヘクター号 Hector 74
・セントー号 Centaur 74
・エクゼター号 Exeter 64
・デューク号 Duke 90
・クイーン号 Queen 90 ハーランド中将旗艦
・シュリューズベリー号 Schrewsbury 74
・カンバーランド号 Cumberland 74
・バーウィック号 Berwick 74
・スターリング・カースル号 Stirling castle 64
白戦隊(中央):ケッペル提督
・カレイジュー号 Courageux 74
・サンダラー号 Thunderer 74
・サンドウィッチ号 Sandwich 90
・ヴァリアント号 Valiant 74
・ビエンファイザント号 Bienfaisant 64 マクブライド艦長
ヴィクトリー号 Victory 100 ケッペル提督旗艦、42ポンド砲30門など
・フォードロヤント号 Foudroyant 80 ジャーヴィス艦長(John Jervis, GCB, 1735-1823)
・プリンス・ジョージ号 Prince George 90
・ヴィジラント号 Vigilant 64
・テリブル号 Terrible 74
・ヴェンジャンス号 Vengeance 74
赤戦隊(後衛):ヒュー・パリサー中将
・ウースター号 Worcester 64
フリゲート艦 アリアドネ号 砲20門

首フ






リベリア 1972 発行
・エリザベス号 Elisabeth 74
・ロバスト号 Robust 74
・フォーミダブル号 Formidable 90
・オーシャン号 Ocean 90
・アメリカ号 America 64
・デファイアンス号 Defiance 64
・エグモント号 Egmont 74
・ラミリーズ号 Ramillies 74
フリゲート艦
・アリシューザ号 Arethuse 32
・プロサーパイン号 Proserpine 28 9ポンド砲24門など
・ミルフォード号 Milford 28
・フォックス号 Fox 28
・アンドロミード号 Andromede 28
スループ艦
・プルートー号 Pluto 8 6ポンド砲など
・ヴァルカン号 Vulcan 8
カッター艦
・アラート号 Alert 10 4ポンド砲、後にスループに改造。


・マルティニーク島の海戦
 (Sea Battle of Martinique, 1780/4/17)、フランスの戦術的勝利
マルティニーク島沖の海戦はアメリカ独立戦争(1775-1783)の一環で、マルティニーク島沖の海上でイギリス海軍とフランス海軍の間で戦われた海戦。イギリス艦隊がフランス艦隊を追撃するも、イギリスのロドニー提督の命令の不徹底が原因で取り逃がす結果となる。1780/1月にフランス総司令官の伯爵グッシェン提督は強力な艦隊とともに西インド諸島に派遣され、イギリスのロドニー提督と対峙。1780/4/13にグッシェン伯爵は
仏フリゲート艦

セント・ヴィンセント 1989 発行
全艦隊にジャマイカ侵攻のための地上部隊3,000人を乗せて出撃。報せを受けたロドニー提督はこれを捕捉すべく出撃し、遭遇して激戦となるもフランス艦隊は逃げ去り、ジャマイカ攻撃に向かいました。なお、
 ・マルティニーク島の海戦(1780)の艦隊編成はこちら
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富士山日本
パルテノン神殿ギリシャ
ピラミッドエジプト
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・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   2006/8/25 令和 R.4/1/22(2022)
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