France 国連 1980 発行 |
切手で綴る 海戦大航海(Naval Battle Voyages)
グラス提督 1781 アメリカ独立戦争・チェサピーク湾の海戦・勝利 |
大航海物語 フランス編★ |
REPOBLIKA MALAGASY グラス提督 と ランドルフ号 1776 アメリカ独立戦争200年記念 1976 マダガスカル 1975/6/30 発行 |
U S A ロシャンボー将軍・ワシントン将軍・グラス提督 1781 アメリカ独立戦争ヨークタウンの戦い 150年 記念 1931 USA 1931/10/19 発行 |
POLYNESIE FRANCAISE グラス提督 と グレイブス提督 1776 アメリカ独立戦争200年記念 1976 ポリネシア 1976/4/15 発行 |
U S A チェサピーク湾口の封鎖 Virginia Capes 1781 フランス艦隊の配置 アメリカ独立 200年 記念 アメリカ 1981/10/16 発行 |
REPUBLIQUE DE HAUTE-VOLTA 米ワシントン将軍に投降する英コーンウォリス将軍 1781 アメリカ独立戦争ヨークタウンの戦い 150年 記念 1931 オートボルタ(ブルキナファソ) 1975 発行 |
フランスのグラス提督は1781年のアメリカ独立戦争チェサピーク湾口の海戦で、イギリスのグレイブス提督艦隊を撃破し、チェサピーク湾を封鎖して、ヨークタウンのイギリス軍への増援と補給を阻止し、イギリス軍の降伏によるアメリカ独立軍の勝利に貢献しました。 |
海軍中将フランシス・ジョセフ・ポール・デ・グラス侯爵 (Vice-admiral Francois Joseph Paul de Grasse, 1722/9/13-1788/1/11) フランシス・ジョセフ・ポール、マルキス・デ・グラス・ティリイ、コンテ・デ・グラス、マルタ騎士団 (Francois Joseph Paul, marquis de Grasse Tilly, comte de Grasse, SMOM) (侯爵:marquis、伯爵:comte)、(マルタ騎士団:SMOM:Sovereign Military Order of Malta) (海軍中将:Lieutenant general des Armees navales, 1652-1792:Vice-admiral) 生地:プロヴァンス-アルプ-コート・ダジュール地域アルプ=マリティム県ル・バール・シュル・ルーのヴァレット城 (Chateau des Valettes du Bar, Le Bar-sur-Loup, Alpes-Maritimes, Provence-Alpes-Cote d'Azur) 没地:イルドフランス地域イブリーヌ県ティリー(現イブリーヌ)コミューンの城、 65才 没 (Tilly, Tilly commune, Yvelines departement, Ile-de-France region, France) ・フランス王立海軍(French Royal Navy Officer、1750-1784)提督 フランス大革命(1789)前のアンシャンレジーム時代(Ancien regime:古い体制)の海軍提督 ・七年戦争(Seven Years War, 1756-1763)従軍 ・アメリカ独立戦争(United States War of Independence, 1775-1783)従軍 ・第一次ウェサン島の海戦(First Battle of Ushant、1778/7/27)従軍 ・マルティニーク島の海戦(Battle of Martinique, 1780/4/17)従軍 ・セント・キッツの海戦(Battle of St. Kitts, 1782/1/25 & 26)従軍 ・グラス提督の略年表。
1752年に地中海東部沿岸レヴァン(Levant)地方(現シリア・レバノン・ヨルダン・イスラエル方面)のジュノン(Junon)へ航海。1754年に中尉に昇進。1755年にカリブ海の仏領サンドマング(Saint Domingue、1659-1804、現ハイチ)のアンフィオン(L'Amphion、現ポルトープランス:Port-au-Prince)へ航海。
1756/11/9にグラス中尉乗艦のトンナー号と艦隊はフランスに戻るためにルイスバーグを出帆。悪天候が続き乗組員の健康は悪化し続け、壊血病が現れました。さらに深刻なことに、チフスも現れました。流行はすべての船に影響を及ぼしました。1757/11/23にブレストに到着すると、3隻の船が非常に多くの船員を失い、港での操船が非常に困難になりました。下船した患者が都市とその周辺を汚染し、ブレスト市民約10,000人が亡くなったと伝えられています。しかしながらルイスバーグは1758年に再度イギリスの手に落ちました。 1757年にゼファー号(Le Zephyr)でアフリカ海岸への航海に参加。1762年には海軍大尉 (Capitaine de vaisseau)になり、翌年、フランス帝国が植民地のほとんど失うという大敗を記録した七年戦争(1756-1763)が終わった時に西インド諸島のアンティル諸島でプロテウ号(Lle Protee)の艦長。パリ条約(1763)でイギリスがフランスに勝利した七年戦争後、グラス大尉は数年間フランス海軍の再建を支援しました。1765年に少佐に昇進。1765年にモロッコのララシュ遠征(Larache expedition, 1765/6、フランス敗北)にベスネ提督艦隊のフリゲート艦エロイン号(30gn Heroine)艦長で従軍。1772年にはベスネ提督艦隊のアイリス号(l’Iris)艦長。1775年に 西インド諸島でアンフィトリテ号(L'Amphitriteaux)艦長。1776年にイントレピッド号(L'Intrepide)艦長。 1776年に大英帝国に対するアメリカ独立革命(1775-1783)が勃発すると、フランスはアメリカ独立軍に助成して参戦(1778)。グラス少佐はフランス戦列艦27隻とイギリス戦列艦30隻がイギリス海峡西入り口付近(北緯48°28′西経5°5′)に有るウェサン島沖の第一次ウェサン島の海戦(1778/7/27)で、ルイ・ジロー提督ドルヴィリュー伯爵艦隊の74門戦列艦ロバスト号(Robuste)を指揮してアメリカ独立戦争支援戦の初陣を飾りました。1778年にカリブ海でデスタイン伯爵の艦隊に合流してグレナダの海戦(Battle of Grenada, 1779/7/6, 仏勝利)に参加。ドミニカとセントルシア方面でのセントルシアの海戦(1778/12/15, 英勝利)にデェスタイン艦隊の26門 フリゲート艦エンガガンテ号(Engageante)に乗艦して従軍。1779年にグレナダ占領(1779/7/4)に貢献し、サバンナ包囲戦(1779/9/16-10/18, 英勝利)に従軍。1780年のグッシェン提督艦隊とロドニー提督艦隊との3つの海戦に従軍。 @フィニステレ岬沖で英護送船団との遭遇戦(1780/1/8, 仏勝利) A8日後のサンビセンテ岬月光の海戦(1780/1/16, 英勝利) Bマルティニーク島沖で戦ったマルティニーク島の海戦(1780/4/17, 仏勝利)。 1781/3月に少将(シェフデスカドル:Chef d'escadre(ウィングコマンダー:戦列艦20隻未満の艦隊司令官)アンシャンレジーム(l'Ancien Regime)下のフランス海軍少将)に昇進し、最終的にはウィンドワード諸島の防衛をカバーするために西インド諸島に行くことを主な任務として、大艦隊の指揮を執りました。大艦隊はブレストから戦列艦20隻、フリゲート艦3隻と、3,200人の軍隊を運ぶ120隻の輸送船団が、3/22に出帆。艦隊は1781/4/28にマルティニーク島フォール・ド・フランス(Fort de France)に到着。5/6にフッド提督はグラス大艦隊が入港したフォール・ド・フランスの封鎖を解除せざるを得なくなりました。グラス提督艦隊がフランスの島々の総督ブイエ侯爵軍の兵士3,000人をトバゴ島に上陸させると、イギリス駐屯軍は急速に降伏して、6/2にトバゴ島を占領することに成功しました。援軍として到着したロドニー提督艦隊は戦闘に間にあいませんでした。 1781/7/5にグラス艦隊は大船団を護衛してハイチのサントドミンゴへ向けて出帆。艦隊はハイチのキャップフランセ(現サントドミンゴ島北西のキャップハイチ)停泊地に、フランス軍は7/11に上陸。そこで、米独立ジョージ・ワシントン軍の仏遠征軍指揮官ロシャンボー将軍から助けの救援要請を受領。グラス提督はワシントン将軍とロシャンボー将軍を応援するため、キャップフランセ停泊地から3000人のフランス軍を輸送してバージニアに上陸させてワシントン将軍に援軍を送り届けました。 チェサピーク湾口の海戦(1781/9/5)ではイギリス艦隊を決定的に破りました。グラス提督はイギリス艦隊を敗退させ、1781/10/19にイギリスのコーンウォリス卿が降伏するまで海岸を封鎖してアメリカの独立を確実にしました。 セント・キッツの海戦(1782/1/26)では、提督は74門戦列艦ゼール号(Zele 74gn)に座乗して戦い不運にもイギリスのフッド提督に打ち破られました。その直後の1782/4/12にはグアドループ島とドミニカ島の間の島でのセインツの海戦でグラス提督フランス艦隊(グラス乗船の旗艦は ヴィル・ド・パリ号、Ville de Paris)33隻はイギリスのロドニー提督艦隊36隻に敗れました。イギリスは戦死243人、負傷818人に対し、フランスは6隻(5人の艦長が戦死)を捕獲され2000人以上の戦死傷者をだして敗北し、グラス自身も捕らわれて捕虜となりました。数ヵ月後に釈放されてフランスに戻り、「正当化の備忘録」という本を出帆し、1784年に軍法会議にかけられましたが、無罪として放免されました。 グラス提督は1788年パリにて65才で亡くなりました。1840年に息子のアレクサンデル・ドゥ・グラスは「未公開文書によるグラス提督の伝記」というグラス提督伝記を発行。 フランス海軍にはグラス提督の名を冠した2隻の艦艇が有、 ・防空巡洋艦デ・グラス(French anti-aircraft cruiser De Grasse, 9,380t, 1956-1973) ・駆逐艦デ・グラス(French frigate De Grasse, 4,650t, 1977-) アメリカ海軍には3隻の艦艇が有、 ・駆逐艦コンテ・デ・グラス(Destroyer USS Comte de Grasse, 8,006t, 1978-1998)標的艦2006沈没 ・貨物輸送艦デ・グラス(cargo ship USS De Grasse, 4,023t, 1943-1946)第二次世界大戦に就役 ・哨戒艦デ・グラス(patrol boat USS De Grasse, 1918)地区巡視艇YP-506(武装ヨット)1942年。 アメリカのバージニア州バージニアビーチ、ストーリー砦のヘンリー岬記念公園(Cape Henry Memorial, Joint Expeditionary Base East, Virginia Beach, Virginia)には、彼の栄誉を記念する記念碑が有。 ・家族 グラス中尉は七年戦争(1756-1763)の間にインドでのフランスの海軍作戦に参加して、1760年代から1781年まで断続的にインドのカルカッタ(現在のコルカタ)に駐留していました。七年戦争中のインドでの勤務中に、カルカッタでインド人女性との間にインド人男子を設けたといわれています。1780年頃に生まれた男子はアザール・グエン(Azar Le Guen)と呼ばれていました。グラス大尉は教育のためにパリにその少年を呼び寄せ、ジョージ・デ・グラス(George de Grasse)と名付けました。父親没後は1799年までに米国に行き、ニューヨーク市に定住したとと伝えられています。 グラス大尉は1764/1/28に仏イブリーヌ県ベルサイユ(Versailles, Yvelines)でアントワネット・ロザリー・アッカロン(Antoinette Rosalie Accaron, 1744-1773)と結婚して子だからに恵まれ、その内の子供6人が成人し、長男アレクサンドル(アレクサンドル・フランソワ・オーギュスト、グラス伯爵、ティリー侯爵:Alexandre Francois Auguste, comte de Grasse, marquis de Tilly, 1765-1845)はフランス軍で出世して中佐(Lieutenant-colonel)になり、1788年に父親の称号を継承しました。ロザリー夫人は1773年に29才で亡くなりました。グラス大尉は1775/10/16にサンドミングのポールドペ(Port-de-Paix)でデビルヌーブ(M. de Villeneuve)の未亡人マリー・キャサリン・ピン(Marie Catherine Pin)と2回目の結婚。マリー夫人が亡くなると、1786/2/11にクリスティン・マリー・デルフィーヌ・ラザール・デ・シボン(Christine Marie Delphine Lazare de Cibon)と3回目の結婚をしました。 グラス提督の生涯年表
・ランドルフ号の装備:〜 USS Randolph、1776
フランス艦隊
<英の艦隊編成>:〜参加艦船名
・マルティニーク島の海戦(1780)の艦隊編成はこちら ・マルティニークの戦い(1762)はこちら。 こちらで ・サフレン提督 切手コレクションの ・イギリス皇太子ご成婚 ・切手で綴る 東海道五十三次 ・全米50州(アメリカ) ・世界で1番美しい 蝶々 世界遺産の ・富士山 (日本) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・ピラミッド (エジプト) 世界遺産の ・富士山 (日本) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・ピラミッド (エジプト) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2006/8/25、 令和 R.4/1/22(2022) |