大航海物語 | United States 国連 1981 発行 |
切手で綴る アメリカ独立戦争 (US Revolutionary War) チェサピーク湾(ヴァージニア岬)の海戦 1781 アメリカ独立戦争・チェサピーク湾口の封鎖 アメリカ vs イギリス |
United Kingdom 国連 1983 発行 |
参考資料 | アメリカ編 |
USA チェサピーク湾口 ヴァージニア岬沖の封鎖 フランス軍の艦隊配置 Virginia Capes 1781 1776 アメリカ独立200年記念 1976 アメリカ 1981 発行 |
ANGUILA ワシントン将軍とチェサピーク湾の地図(赤丸) 1776 アメリカ独立革命200年記念 1976 アンギラ 1975 発行 |
・チェサピーク湾口の海戦 (Battle of the Chesapeake, 1781/9/5) 別名:ヴァージニア岬の海戦 (Battle of the Virginia Capes)、フランス勝利 1781/9/5に起こった、ヴァージニア岬沖の海戦とも呼ばれ、グラス伯爵率いるフランス艦隊24隻と提督グレイブス少将率いるイギリス艦隊19隻がチェサピーク湾口で戦った海戦で、イギリス艦隊は数隻がダメージを受けましたが、フランス艦隊は被害がほとんどありませんでした。フランス艦隊が勝利して、イギリス艦隊がヨークタウンのイギリス軍侯爵コーンウォリス将軍(Charles Cornwallis, 1st Marquess Cornwallis, 最高位(KG), PC, 1738-1805)への援軍と補給を阻止しました。これによりヨークタウンの戦いはワシントン将軍とラファイエット将軍率いる米仏連合軍の奇襲戦ともあいまって、植民地独立軍の勝利となりました。 この海戦はイギリス艦隊が決定的な敗北を喫して、18〜19世紀に於ける唯一の完敗の戦例となりました。チェサピーク湾口の海戦の艦隊編成はこちら。 |
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★アメリカ | ヨークタウンの戦い 1781/10/19 アメリカ独立戦争・イギリス軍降伏 |
大航海物語★ |
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Grenada Grenadines ヨークタウンの戦い 英コーンウォリス郷の降伏
アメリカ独立革命200年記念 1778 The American Revolution Bicenteniar 1978 グレナダ 1975/9/30 発行 |
USA ヨークタウンの戦い チェサピーク湾口の封鎖 ヨークタウン付近の地図 と フランス軍の艦隊配置 Yorktown 1781、Virginia Cape 1781 アメリカ独立 200年 記念 アメリカ 1981/10/16 発行 |
GUERNSEY 上カナダの英雄ブロック少将(Major General Isaac Brock) 英ニューイングランド総督アンドロス卿の アメリカ現地人との会見 米国の英領ニューイングラン方面の地図 5大湖と、チェサピーク湾(西)とデラウェア湾(東)とに挟まれたデルマーヴァ半島(Delmarva Peninsula)の地図
Capex '96 World Philatelic Exhibition, Toronto, Canada 1996 ガーンジー 1996 発行 |
・ヨークタウンの戦い (Battle of Yorktown, 1781/9/28-10/19) 別名:ヨークタウン包囲攻撃戦(Siege of Yorktown)アメリカ・フランス連合軍勝利 アメリカ独立戦争において、植民地側の勝利を決定づけた戦いで、1781年の”ノースカロライナの戦い”(Battle of North Carolina、別名:ギルフォード郡庁舎の戦い、Battle of Guilford Court House, 1781/3/15)で多くの犠牲者を出したコーンウォリス将軍率いる南部イギリス軍は、イギリス艦隊と接触して陣容を立て直すため、ヴァージニア海岸のヨークタウンに撤退しました。 当時ニューヨーク攻撃を準備中のワシントン将軍、そしてラ・ファイエット侯爵とロシャンボー伯爵が率いるアメリカ・フランス連合軍約16,000人は、予定を変更してヨークタウン攻撃計画を立ててデラウェア川を渡りました。ワシントン将軍(George Washington, 1732-1799)の意図に気づいたイギリスは艦隊を南へ派遣しましたが、ヨーク川入口(チェサピーク湾口)でグラス提督率いるフランス艦隊に阻止されました。 海陸からイギリス軍を包囲したアメリカ独立連合軍は、10/5から約2週間に渡ってヨークタウンを砲撃し、ついに1781/10/19にコーンウォリス将軍と約8,000人の将兵を降伏させました。この戦いによってアメリカ独立戦争は事実上終結しました。国際的孤立の深まるイギリス国内では平和を望む声が高まり、やがて1783/9/3にパリで平和条約(パリ条約)が結ばれました。 |
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★アメリカ | サラトガの戦い 1777/6/17 アメリカ独立戦争・イギリス軍降伏 |
大航海物語★ |
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REPUBLIQUE DE HAUTE-VOLTA ”サラトガの戦い” アメリカのホレイショ・ゲイツ将軍に降伏する イギリスのジョン・バーゴイン将軍 Surrender at Saratoga 1777 1776 アメリカ独立戦争 サラトガの降伏200年記念 1976 オートボルタ(ブルキナファソ) 1975 発行 |
ゲイツ将軍 |
USA ”サラトガの戦い” アメリカのホレイショ・ゲイツ将軍に降伏する イギリスのジョン・バーゴイン将軍 Surrender at Saratoga 1777 by John Trmbull(1756-1843)トランブル画 1777 アメリカ独立戦争 サラトガの降伏200年記念 1977 アメリカ 1977/10/7 発行 |
REPUBLIC MALDIVES 英ジョン・バーゴイン将軍 1777 アメリカ独立戦争200年記念 1977 モルジブ 1976/2/5 発行 |
・サラトガの戦い (フランス参戦のキッカケとなった戦い) (Battle of Saratoga, 1777/9/19 & 10/7)アメリカ独立軍の決定的勝利 アメリカ独立戦争中の1777年9〜10月に戦われた重要な戦いで、サラトガはニューヨーク州オルバニーの北約50kmの所にあります。1777/6/1にカナダから南下したイギリスのジョン・バーゴイン将軍(General John Burgoyne, 1722-1792)指揮下のイギリス軍はタイコンデロガに達し、9/13にハドソン川を渡ってサラトガ地域に進出して、9/19にホレイショ・ゲーツ将軍(General Horatio Gates, 1727-1806)のアメリカ軍と戦いました。ついで10/7、10/8にイギリス軍が攻撃を再開するも、撃退され退却してサラトガで包囲されました。10/17にバーゴイン将軍は6,000人の兵とともに降伏しました。 この戦いはアメリカ軍が、たとえ訓練や給与は貧弱であっても、戦闘能力を持ち、一定の条件下ではイギリス軍に十分対抗できることを立証し、それまで劣勢であったアメリカ軍が各地で盛り返しました。また、それまで静観をつづけていたフランスを、アメリカ側に参戦(1778年2月同盟を結ぶ)させる直接の原因となり、アメリカ軍の勝利の展望が開け、戦争の転機となって、ついにはアメリカ独立軍が勝利しました。
なお、タイコンデロガ砦は事実上難攻不落と広く信じられており、アメリカの防衛のためには重要な地点だったので、それが抵抗も無く陥ちたことはアメリカの世論と軍事集団のなかに大騒ぎを引き起こしました。セントクレア将軍とその上官であるフィリップ・スカイラー将軍は大陸会議に非難されました。この2人とも軍法会議では無罪となるも、その軍歴は傷つけられ、スカイラー将軍はこの軍法会議の時までにその指揮権をゲイツ将軍に渡しており、セントクレア将軍はアメリカ独立戦争で、以後は野戦指揮官に就くことはありませんでした。 こちらで ・サフレン提督
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 11/12/22追記, 令和 R.4/1/23(2022) |