Spain

国連 1988 発行
切手で綴る スペインの大航海 (Conquest Voyage)フロリダ植民(III-4
ペドロ・メネンデス
1565
フロリダ植民地建設

大航海物語
 スペイン編

ESPANA
ペドロ・メネンデス

スペイン 1960/10/12 発行


甲冑姿のペドロ・メネンデス

1519 ペドロ・メネンデス生誕500年記念 2019
スペイン 2019 発行


ESPANA
スペインの戦列艦ナオ船
サンテズマ・トリニダード号


Warship Santisima Trinidad
スペイン 1964/7/16 発行
CUBA
フロリダ半島

メキシコのユカタン半島キューバハイチ
ジャマイカ島

キューバ 1971 発行

ペドロ・メネンデスはスペインの海軍軍人で、殖民団を率いて、フロリダに開拓地を建設し、先住のフランス人ユグノー教徒の開拓地を壊滅させてスペインの支配権を確立させました。後にキューバ総督を経て、生涯に6回の大西洋横断航海をなし最後にはスペイン無敵艦隊(アルマダ)の初代総司令官を務めました。

ペドロ・メネンデス・ド・アビレス提督
 Pedro Menendez de Aviles (1519/2/15〜1574/9/17)
ペドロ・メネンデス提督はスペイン北部アストゥリアス地方の港町アビレス(Aviles, Asturias, Spain)の古い貴族の家に生まれました。兄弟が20人もいて、資産の相続分が少ないことを知っていたので、船乗りとして自分の道を切り開くことを考え、14才で海に出ました。この時はカンタブリア州サンタンデルから乗船し、フランス人海賊(ロベルヴァルなど)の掃討作戦に参加しました。

その航海の後、故郷に帰ったメネンデス提督は親の財産分与を処分して、船を一隻購入し、本格的な海賊狩りの生活に入りました。メネンデス提督の剛勇ぶりは数多くの逸話を残しているそうですが、なかでも1549年に、当時最も恐れられていたフレンチ・コルセール海賊ジャン・アルフォンス (Joao Alfonso, 1484頃ポルトガル生-1549/12月、ラ・ロシェル沖没)と対決した時は、海賊船に乗り移り、サーベルで決闘を挑み手傷を負わせ、後日その傷がもとで海賊アルフォンスは落命したそうです。こうしてメネンデス提督は、持ち前の豪胆さと海戦での手腕により富と名声を手中に収め、次々と重要な任務に就いてゆきました。1554年スペイン国王カルロス一世より、インド艦隊総司令官に任命されましたが、私服を肥やすことを潔しとせず、私利私欲に溺れることはありませんでした。そして1555年36才で、初めて大西洋を越えて新大陸へと航海し、生涯に6回の大西洋を越える航海をしました。

1565年には国王フェリペ2世により、「フロリダへ派遣する開拓団を編成し、フロリダのセントジョーンズ河口にあるフランス人ユグノー教徒の開拓地を潰してフランス人を一掃し、フロリダ沿岸に防備を固めた開拓地を数ヵ所建設せよ」との命を受けました。これらの開拓地は新大陸からの財宝を積んでフロリダ海峡経由でスペインへ帰航する船団が、ハリケーンや海賊に襲われた時の避難所として使用するものでした。1565/6/28メネンデス提督の一行はスペイン・アンダルシ州カディスを出港、8/28フロリダのケープカナベラル沖に到着し、さらに北上して9/8に入江を見つけ、その土地に開拓地と砦を建設して、サンアグステイン(現セントオーガスティン)と名付けました。この砦は現存しているそうです。

フランス人との戦い(ユグノー教徒移民のフォート・カロリーヌ(Fort Caroline)砦)では海戦はフランスには運が無く、大半が乗り込み迎撃に出ていたフランス船隊がハリケーンで全滅してしまいました。フォートカロリーヌの陸上部隊の砦は1565/9/20に陥落しメネンデス提督のスペイン軍が占領。1565/9月末に暴風雨で難破した船の生き残り共ども容赦なく処刑されました。この虐殺が行われた場所は今日でもマタンサス(大虐殺)と呼ばれています。

1568年にはキューバ総督に任命されました。そして、以前のインド艦隊総司令官時代の経験から、護送船団制にメスを入れ、より完全なものとして、新大陸からの財宝を運ぶ輸送船団を海賊の手から守ることに貢献しました。1572年、フェリペ2世はメネンデス提督をスペインに呼び戻し、イギリス侵攻に備えてスペイン無敵艦隊(アルマダ)の総司令官に起用しました。しかしメネンデス提督は艦隊編成中の1574/9/17に55才で亡くなりました。メネンデス提督の突然の死で、無敵艦隊は1588年に、勇気にかけては人後に落ちないが、海のことは無能なメデイナ・シドニア公アロンソ・ペレス・ド・グスマン(Alonso Perez de Guzman y de Zuniga-Sotomayor, 7th Duke of Medina Sidonia、1550-1615)の手にゆだねられ、イギリスとのアルマダの海戦(Battle of Armada, 1588/7/31-8/8)に大敗北を喫しました。メネンデス提督が生きておれば、あるいは歴史が変わったかもしれませんね。

・サンテズマ・トリニダード号の装備:〜
  Santisima Trinidad
、1769
   (ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・サンテズマ・トリニダード
     Nuestra Senora de la Santisima Trinidad)
船 型 スペイン1等戦列艦、世界最大
(140-gun First-rate ship of the line)
サンテズマ・トリニダード号、1805
スペインの戦列艦ナオ船


Warship Santisima Trinidad
帆 柱 3本、サン・ビセンテ岬の海戦に従軍
全 長 63.36m(砲列甲板)
全 幅 16.67m
喫 水 8.50m
重 量 4,950屯
乗組員 1,071人
進 水 1769年、キューバ(Havana, Cuba)
最 後 1805年、トラファルガーの海戦でマストが折れ
     降伏後、漂流中に嵐で沈没
武 装 36-pdr砲30+2門、砲列甲板(Gundeck)
24-pdr砲32+2門、中甲板(Middle gundeck)
12-pdr砲34+2門、上甲板(Upper gundeck)
08-pdr砲08門、後甲板(Quarterdeck)
08-pdr砲08門、艦首楼甲板(Forecastle)
     当初計:砲112門、4層砲列甲板
24-pdr榴弾砲16門、4-pdr砲4門、
その他2門、1795年32門追加=合計:砲140門

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 08/9/18、 10/6/30追記、令和 R.2:2020/6/25

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