France

国連 1980 発行
切手で綴る 海戦大航海(Naval Battle Voyages)
ラ・ファイエット将軍
1777、アメリカ独立戦争
1789、フランス大革命

大航海物語
フランス編

US POSTAGE
アメリカ国旗 ラ・ファイエット将軍
フランス国旗
Arrival of La Fayet in America 1777
1777 ラ・ファイエット将軍アメリカ到着175年記念 1952
アメリカ 昭和27年 1952/6/13 発行

U S
REPOBLIKA MALAGASY
チャールストン北方海岸
上陸 200年 記念

アメリカ 1977/6/13 発行
レキシントン号とHMSエドワード号の海戦
1776 アメリカ独立戦争200年記念 1976

マダガスカル 1975/6/30 発行

United States Postage

ラファイエット
生誕 200年 記念

アメリカ 1957/9/6 発行
REPUBLIQUE FRANCAIES
フランス国旗
トリコロール

フランス  1964/10/1 発行
REPUBLIQUE FRANCAIES
フランスの人権宣言

フランス人権宣言 200年 記念
フランス 1989/7/7 発行

フランスのラ・ファイエット将軍は、19才で義勇兵として大西洋を越えてアメリカへ渡り、1781年アメリカ独立戦争の最後の大きな戦い”ヨークタウンの戦い”を、ワシントン将軍と共に勝利に導きました。1789年に勃発したフランス大革命ではフランス国民軍総司令官に任命されました。また”人間平等、人民主権、思想・言論の自由、所有権の不可侵”をうたったフランス人権宣言を起草し、フランスの三色旗(現在のもの)を作りました。そしてラ・ファイエット将軍は、フランス革命とアメリカ独立革命との双方における活躍で「両世界の英雄」(仏:Le Heros des Deux Mondes、米:The Hero of the Two Worlds)と讃えられました。
ラ・ファイエット将軍 (1757/9/6 〜 1834/5/20)
 Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert du Motier, Marquis de La Fayette

(ラ・ファイエット侯爵、マリー=ジョセフ・ポール・イヴ・ロック・ギルバート・デュ・モティエ)
生地:オーヴェルニュ地域圏オート=ロワール県ル・ピュイ=アン=ヴレイ郡シャヴァニアック城※
(Chateau de Chavaniac, Le Puy-en-Velay Arrondissement, Haute-Loire department, Auvergne)
没地:イル=ド=フランス(パリ)地域圏パリ 76才 没
  (Paris, Ile-de-France(Paris) Region, France, 1834/5/20)
 ・仏:陸軍中将(Lieutenant General)
 ・米:陸軍少将:Major general)
  ・アメリカ独立戦争(United States War of Independence)従軍
・ラ・ファイエット将軍の略年表、フランスの侯爵・軍人・政治家
※シャヴァニアック城(シャトー・ド・シャヴァニアック:Chateau de Chavaniac、別名:Chateau Lafayette)は現在、一般に公開されている美術館。
ラ・ファイエット将軍はフランス擲弾兵大佐ラ・ファイエット侯爵(French Grenadiers colonel, 1731-1759/7/9)の子供としてシャヴァニアック城で生まれました。父は2才の時に七年戦争(1756-1763)独ミンデンの戦い(Battle of Minden、1795/3月中旬-1759/8/1)に従軍してミンデン要塞占領前日に戦死しました。14才で軍隊に入隊して16才でマリー・アドリアンヌ・フランソワーズ・デ・ラ・ノワイユ(Marie Adrienne Francoise de Noailles, 1759-1807)と結婚し、 フランスのシャトー(城)

フランス 1952 発行
4人の子供に恵まれました。3番目の息子に米ワシントン将軍に因んで、ジョルジュ・ワシントン・ルイ・ギルバート(Georges Washington Louis Gilbert, 1779-1849)となづけました。
1775年にアメリカ独立革命(1775-83)が勃発すると、支援を求めて1776年に来仏したベンジャミン・フランクリンに会ってその考えに共鳴し、周囲の反対を押し切って自費を投じて帆船ドラゴン号(dragoons)を購入。その船長となって、20才で義勇兵として大西洋を越えてアメリカへ渡りました。アメリカ独立を決定的にした最後の戦い、ヨークタウンの戦い(Battle of Yorktown、1781/9/28-10/17)で、重要な役割を果たして独立軍を勝利へ導きました。その戦いはヴァージニア東岸のイギリス軍最終拠点であったヨークタウンで、1781年にワシントン将軍がラファイエット将軍率いるフランス軍と共同して、イギリス軍の不意をつき、コーンウォリス将軍が率いるイギリス軍約8,000人を フランクリンと
アライアンス条約

USA 1978 発行
包囲することに成功し、その年の10月にヨークタウンのイギリス軍は降伏し、米仏連合軍の勝利となるというアメリカ独立戦争を事実上終結させた決定的な戦いで、ヨークタウンの戦いと呼ばれています。この戦いによってアメリカ独立戦争における植民地軍の勝利は確定し、独立戦争は事実上の終結をみました。翌年フランスに帰国すると「両大陸の英雄」と称えられ、一躍名声を得ました。

1789年に国王ルイ16世が召集した三部会でラファイエット侯爵は第2身分(貴族)代表として選出されました。しかし米独立革命を戦った侯爵はフランスの絶対王政を立憲君主制に変革するべきだという構想を持ち第2身分でありながら第3身分の側に立って議会政治の実現に向けて行動しました。
ラファイエット侯爵は、7月14日のバスティーユ牢獄襲撃(フランス大革命勃発)後に新設された国民軍(フランス革命軍)は自由主義貴族のラファイエット侯爵を市民軍(革命軍)総司令官に任命し、彼の提案による三色旗(現在のフランスの国旗)が革命の旗となりました。そして侯爵はフランス人権宣言の起草に着手し、国民議会で採択されました。その人権宣言は、 トリコロール
・第1条で「人は自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」という人間平等
・第2条で「天賦の人権」
・第3条で「人民主権」
・第11条で「思想の自由・言論の自由」
・第17条で「所有権の不可侵」
などをうたっており、近代民主主義発展史上に記念碑的な位置を占めるものとなりました。

ラファイエット侯爵は、ヴェルサイユ行進者達の監視と管理の責任を負っていましたが、全く役に立ちませんでした。ラファイエット侯爵は、立憲王政という方向で革命を収拾しようとしましたが、王政打倒を主張する共和派が急速に勢力を増大させました。1791/7月パリ西部のシャン・ド・マルスでの共和派の集会に対して、国民軍に無警告での弾圧を命じてこれを鎮圧しました。この事件は死者が50人にも上ったため「シャン・ド・マルスの虐殺」と呼ばれ、彼は共和派の激しい非難を浴び、国民軍総司令官の職を辞しました。

1792/4月オーストリアとプロイセンに対する革命戦争(欧州諸王国が市民革命を危惧して対仏大同盟を結成したので、1792/4/20フランスがオーストリアへ宣戦布告〜1802/3/25(講和条約)アミアンの和約で休戦)が勃発すると、ラファイエット侯爵は一方面軍の司令官に復帰しました。8月に王権が停止される(8月10日事件)と、王権擁護派のラファイエット侯爵は司令官を解任され、逮捕される危険もあったため、オーストリアに亡命しましたが、オーストリア政府は侯爵を戦争捕虜として投獄しました。5年間の獄中生活を送ったのち、ナポレオンが政権を握った1799年に帰国し、故郷で隠退生活を送りました。

その後の1824年にアメリカ政府は国賓としてラファイエット侯爵をアメリカに招待しました。ラファイエット侯爵は15ヵ月に渡ってアメリカ各地を旅行し、国を挙げての歓迎を受けました。

1830年に七月革命が勃発すると再び国民軍総司令官に任命され、ブルジョワジーの推すルイ・フィリップ王(Louis-Philippe I、1773-1850)を支持しましたが、翌年には解任されて下野し、3年後の1834年にパリで亡くなりました。

ラ・ファイエット将軍の生涯年表
 記  事
1757 お城で誕生
1771 14 軍隊に入隊
1773 16 結婚
1776 19 ベンジャミン・フランクリンと会談、義勇兵でアメリカへ渡り、独立軍に加わる
1781 24 ヨークタウンの戦い勝利、2年後アメリカ13州がイギリスより独立
1782 25 フランスへ帰国
1789 32 フランス革命が勃発、国民軍総司令官、三色旗
1791 34 ジャン・ド・マルスの虐殺、総司令官を辞任
1792 35 革命戦争の方面軍司令官となるも、オーストリアへ亡命、5年間投獄
1799 42 ナポレオンが政権を掌握後、フランスへ帰国
1824 67 アメリカに国賓として招待される
1830 73 七月革命で国民軍司令官
1831 74 国民軍司令官を解任され、引退生活
1834 77 パリで亡くなる

・参 考:〜
第3代アメリカ大統領(1797-1801)となったトーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson, 1743-1826)は独立戦争を通じてラファイエット将軍を良く知っており、「ラファイエット将軍の弱点は人気と評判に対して飢えきっていることである」と評したそうです。ラファイエット将軍は「両大陸の英雄」と称賛されたときから、いつも人々の注目を浴びることを願い、それがその後の彼の行動を律したとも言われています。
ジェファソン大統領

USA 1968 発行

・レキシントン号の装備:〜
  USS Lexington
、1776
船 型 米ブリガンティン艦(Brigantine レキシントン号、1776
帆 柱 2本
全 長 26 m
全 幅 7.47 m:(ビーム Beam)
乗組員 110人
進 水 1776年
最 後 1777年、イギリスが捕獲
武 装 4ポンド(pdr)砲14門
6ポンド(pdr)砲02門
swivels砲12門、合計:砲16門(+12)

こちらで
サフレン提督
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・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   2006/8/20、令和 R.3/12/23(2021)
スタンプ・メイツ
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