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★アメリカ | ジョン・スミス船長 1607 ジェームス・タウン上陸 |
大航海物語★ |
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ジョン・スミス船長 |
ジェームス・タウン上陸 |
1607 ジェームス・タウン入植300年記念 1907 USA 明治40年(1907)発行 (200%) |
Turks & Caicos Islands スミス船長とスリーマスター帆船 タークスカイコス諸島 1972/7/4 発行 |
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スミス船長はヴァージニア会社の新大陸探検隊に加わり、1607年に新大陸の北アメリカ(現)ヴァージニア州チェサピーク湾の海岸に上陸し、ジェームス・タウン入植地を建設しました。 |
ジョン・スミス 船長 Captain John Smith (1580〜1631) スミス船長の生涯は自伝で伝えられています。イギリス・リンカンシャーのウィロビー(Willoughby, Lincolnshire)で生まれ、1580/1/8に洗礼を受け(1579年説有)、彼の父の借地農場で働きながら教育を受けました。1596年に父親が亡くなると、新世界に憧れを持ち、海外雄飛を志して、当時オランダが戦争の真っ最中だったこともあって、16才でフランスのアンリ4世の陸軍に「外国人雇い兵」として入隊しました。1600年にオランダでトルコとの戦争に従軍してフランス・イタリ−・エジプト沿岸までの地中海を流れ歩きました。オーストリアに行きウィーンで神聖ローマ帝国の軍隊に入隊。騎兵隊の大尉から陸軍少佐になりました。その後1602年に負傷し、トルコ軍の捕虜となり、奴隷として売られました。コンスタンティノープルに送られ農業奴隷としてひどい仕打ちを受けたので、主人を殺して北方へ逃れました。ロシアのモスクワ公国からポーランド、神聖ローマ帝国、ドイツ・フランス・スペイン・モロッコを巡り、アフリカ沿岸での海戦にも参加して、イギリスへ1605年に戻りました。そして1605年にロンドンで共同出資会社「ヴァージニア会社」の後援で、新大陸ノース・カロライナのロアノーク入植地「失われた植民地」への、100人の植民団が編制された時に、スミス船長は7人の評議員の一人に選ばれました。 ・参考:〜 なお、当時オランダは独立80年戦争(1568-1648)を戦っていました。ネーデルラントのプロテスタント勢力が、カトリック国スペインの支配から脱するため起こした反乱で、宗教戦争の側面を持ち、1568年から1648年まで停戦期間をはさんで80年間続いたため80年戦争と呼ばれています。1581年にプロテスタント側はフェリペ2世の統治権を否認する布告を出し、1600年頃までに北部7州は”ネーデルラント連邦共和国”として実質的に独立を果たしました。共和国が成立してもスペインとの戦争は終わりませんでした。ネーデルラント連邦共和国は1602年、連合東インド会社(オランダ東インド会社)を設立してアジアに進出し、ポルトガルから香料貿易を奪取して、世界の海に覇を唱えました。このため貿易の富がアムステルダムに流入して、17世紀の共和国は黄金時代を迎えることとなりました。1609年にはスペインとの12年停戦協定が結ばれ、1621年に停戦が終わると、独立戦争はヨーロッパ全体を巻き込んだ30年戦争(1618ー1648)にもつれ込みました。1648年に30年戦争を終結させたヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)の一部であるミュンスター条約で、スペインはネーデルラント連邦共和国の独立を正式に承認し、ようやく80年にわたる戦争が終結しました。 |
スミス船長 1607 ジェームス・タウン入植 |
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1606年12月20日3隻の船に144人が乗船してイングランドを出帆、洋上を144日(?)かかって横断し1607年4月26日チェサピーク湾ケープ・ヘンリー(Cape Henry、ジェームス1世の王子に因んで命名して最初に上陸した岬)にたどり着いたのは104人で、上陸後ジェームス・タウンの入植地建設に取り掛かりましたが、飢えや病気や寒さや原住民の襲撃で入植地はほとんど破壊されました。入植者はインディアン(アルゴンキン族 Algonquian)からトオモロコシの栽培方法を教わって飢えをしのぎました。スミス船長はジェームス・タウンの資材調達官となって、交易所でインディアンと物々交換をして食料の獲得に務めました。またスミス船長は町を守るために入植者に軍事訓練を行いました。1607年12月には食料を探してチェカホニー川付近に差し掛かった時に、インディアンのポーハタン酋長に捕えられましたが、酋長の娘のポカホンタスに助けられました。1608年1月には入植地の住民は38人に減少してしまいました。 1610年にはジョージ・ソマーズ提督とサー・トーマス・ゲイツがジェームス・タウンの救援に来着しましたので、入植地は定住地として再建されました。 スミス船長は1614年には北部を探検し、パマンキー族を征服してニューイングランドと命名しました。金銀財宝には見切りをつけ、農作物生産の植民地として入植者を定着させました。そして農産物生産の成功により、ヴァージニア会社は新たな入植者を募集するに当たり、1618年すでに入植している人には100エーカーの土地を与え、新しい入植者には50エーカーの土地を与える、さらに年期奉公人を呼び寄せると1人当たり50エーカーの土地を与える事としました。こうしてジャームス・タウンを中心とするヴァージニアの人口は1680年には8100人と成りました. 1608年にジョン・スミス船長は植民地での最初の本「ヴァージニア実話」をイギリスで出版しました。イギリスに戻っていた彼は、1631年6月51才でロンドンで亡くなりました。 |
失われた植民地 Lost Colony、Rowanork、1586 ロァノーク |
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Turks & Caicos Islands
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USA エリザベス号 失われた植民地 1584 Roanork Voyage, North Carolina1984 アメリカ 1984 発行 |
一攫千金を目指したサー・ウォルター・ローリーは、1584年に2隻の船をノース・カロライナのロアノ−ク島へ派遣して探検させました。そして先遣隊はアメリカ大陸カロライナ沿岸に新天地を築き始めました。ローリーはそこをイギリスの新領土として、生涯独身を通した処女女王エリザベス1世女王にちなんで、ヴァージニアと名付け(命名)ました。ところが、最初の植民団は女王の持舟1隻と多少の資金の提供を受けただけで、彼の従兄弟のリチャード・グレンビル船長の指揮のもと出帆したのですが、内部抗争や規律の欠如、原住民(インディアン)の敵意のため失敗しました。それでノース・カロライナのロアノーク入植地は「失われた植民地」と呼ばれるようになりました。生存者は、1586年にドレーク船長の遠征艦隊に分乗して帰国しました。この時、ジャガイモと葉タバコがイギリスに伝来したとされています。 1587年第2次植民団がジョン・ホワイトに率いられて出港しました。この頃スペイン無敵艦隊”アルマダ”の来襲があったため、新植民地への補給船を2年間も派遣することが出来ませんでした。ようやく1591年救援の船がアメリカに到着してみると、植民地はすでに消滅していました。その後もローリーは再三にわたってヴァージニアへ遠征隊を送りましたが恒久的な植民地は建設できませんでした。 1607年ジョン・スミス船長が104人で、ジェームス・タウンの建設に取り掛かりました。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 |