ラ・ペルーズ伯爵ジャン・フランソワ・ド・ガロー船長
Jean Francois de Galaup, comte de La Perouse (1741/8/23〜1788)
フランスの太平洋探検家で、南フランスのアルビ(Albi)で1741年に生まれました。プロテスタントのコレージュ(Jesuit College)で学び、1756年に15才でブレストの仏海軍学校に入隊しました。
その頃、7年戦争(1756-63)がヨーロッパで勃発。7年戦争はプロイセン及びそれを支援するイギリスと、オーストリア・ロシア・フランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた戦争なのでしたが、新大陸ではボストン茶会事件(Boston Tea Party)が1773/12/16に起こり、その後、米国の独立革命(1776-78年)が勃発して、フランスは独立軍を支援したので、1776-78年は北米からカリブ海方面へ遠征しました。1776年ラ・ペルーズ艦長はアメリカ独立戦争(1775 - 83年)にフランス海軍艦隊を率いて独立軍を支援するべく、西インド諸島でイギリス艦隊と交戦しました。1782/8月にカナダのハドソン湾のイギリス交易所攻撃で、かなりの犠牲を出しながらも交易所を破壊、陥落させました。 |
ロドニー提督 と ラ・ペルーズ船長
アメリカ独立戦争 200年 記念
ポリネシア 1976 発行 |
1778年にラ・ペルーズ探検隊が南太平洋(オセアニア)方面の探検航海中に、1774年にキャプテン・クックが発見していたニューカレドニア島を調査しました(同島は1853年よりフランス領)。
1782/4/9〜12に起ったセインツの海戦にグラス提督が指揮するフランス艦隊ル・トリオンファン号(Le Triomphant, 80 guns)艦長で参戦するも、敗戦となりました。
フランス革命2年前の1785/8/1月にルイ16世の命を受け北西航路発見のためフリゲート艦2隻、ラ・ブソル号(La Boussole)とラ・アストロラープ号(La Astrolabe)でフランスのブレスト軍港(Brest)を出帆、南米大陸沖のホーン岬から太平洋に向いました。その後ソロモン諸島のサンタクルーズ諸島で消息を断つまで、1786/4/9にイースター島到達、サンドウィッチ諸島(ハワイ)からアラスカまで北上中、1786/7月にリツヤ湾をラ・ペルーズ船長が初めて調査、フランセ湾(Port des Francais)と命名しました。1786/11/6の深夜にはフレンチ・フリゲート礁(French
Frigate Shoals、北西ハワイ諸島で最大の環礁)を発見。その後、北米沿岸をカリフォルニアまで南下、太平洋を横断し、1787年マカオ着。再びマカオから北上し対馬海峡から日本海に入り間宮海峡まで航海。ラ・ペルーズ(宗谷)海峡を発見(1787)を通過して日本近海を測量しました。1787年にデ・カストリ湾(チハチョーフ湾)を発見、海軍大臣デ・カストリー(Charles Eugene Gabriel de La Croix de Castries,
marquis de Castries, baron des Etats de Languedoc, 1727-1801)に因んで命名。 |
ラ・ブソル号と
アストロラーブ号
ノーフォーク1987-88発行 |
ラ・ペルーズ船長は1787年北海道に上陸して5日間過ごしましたが、日本の鎖国政策はフランスとの接触を許さず長崎のオランダ商館が仲介したと記録されています。その後、カムチャッカやアラスカの沿岸を経て南太平洋へ向いニューヘブリデス諸島のヴァヌアツ、サモア、ノーフォーク島から、1788/1/26に最後に寄港したことの確認ができるオーストラリアのシドニー近くのボタニー湾までの海域を調査し、イギリスの総督フィリップ提督と会見した後、シドニーを出帆してから消息不明となりました。
1787/9/7にはラ・ペルーズ船長の探検隊がカムチャッカのペトロパブロフスクに寄港し、ここで下船させたロシア語通訳のバルテルミ・ド・レセップス(Jean-Baptiste Barthelemy de Lesseps 1766:仏エロー県セット(Sete)生-1834:リスボン没、スエズ運河開発者レセップスの叔父)に、日本列島やサハリンの近海調査の結果(※世界航海記)をフランスのパリまで報告させました。このレセップスが探検隊の唯一の生存者になりました。その後、ラ・ペルーズ探検隊は遭難し全員が船と運命を共にしたので、この町からヨーロッパにもたらされた地理的知識は非常に大きな価値を持つことになりました。 |
カムチャッカ、1779年
クック諸島 1968/9/12 発行 |
1787(天明7)年には、ペルーズ船長が宗谷海峡を発見しました。ペルーズ船長はロシアのクルーゼンシュテルンやイギリスのブロートンとならび世界の三大航海士の一人に数えられるようになりました。1776年にはクック船長も北西航路発見のため第3回航海に出帆しました。
ラ・ペルーズ船長が1788/3月に自分の記録と手紙を、シドニー停泊中のイギリス艦シリウス号へ託してヨーロッパへ送り、上陸して食料と新鮮な水を手に入れ、1788/3/10に其処を出帆してから、3年後の1791/9/28にダントルカストー提督がラ・ペルーズ探検隊の捜索のために、3本マストのフリゲート艦ラ・ルチェルシュ号(La Recherche)と同型艦のル・エスペランス号(L'Esperance)と共に、ブレスト港を出帆し、2年弱に渡る捜索にもかかわらす消息をつかめぬまま、提督は1793/7/21にニューカレドニア島で亡くなりました。
1827年には、イギリスのピーター・ティセン(Peter Dillon, 1788-1847)がソロモン諸島サンタクルーズ諸島のバニコロ島で一行の遺品の一部を発見。翌年(40年後)の1828年に仏のデュモン・デュヴィルが船体の一部(座礁した2艦の残骸)を確認したといわれていますし、さらに1964年には多数の遺品が発見されました。
※世界航海記
(”The voyage of La Perause round the world” GAIDAI BIBLIOTHECA 129、London、1798)
「世界航海記」の原著は、遭難に至るまでに本国へ送られていた資料をもとに1797年に刊行されたもので、調査海域の諸状況が著されています。また、この英語版は翌年にイギリスで出版されており、彼自身の名前も同国方式で表記される中、随所に51枚の海図やスケッチを挿入した2巻本。
・ラ・アストロラープ号の装備:〜
La Astrolabe、Frigate、1781
船 型 |
フリュート型輸送艦(Fluyt) |
アストロラーブ号 1785
ラ・ペルーズ船長 .
ヴァヌアツ 1999/2/17 発行 |
帆 柱 |
3本マスト、1784年フリゲート艦(Frigate)に改装 |
全 長 |
32.87m |
全 幅 |
8.5m |
喫 水 |
5m |
重 量 |
500屯 |
武 装 |
6ポンド砲20門 |
乗組員 |
110人(士官10人) |
進 水 |
1781年、ル・アーヴル(Le Havre) |
最 後 |
1788年、バニコロ島(Vanikoro)で座礁・沈没 |
参考:〜
・宗谷海峡(No.9)
(Soya Strait) |
宗谷海峡付近の古地図
フランス 1942 発行 |
←宗谷海峡 |
|
宗谷海峡(そうやかいきょう)は、北海道の宗谷岬と、ロシアの樺太の西能登呂岬(露:サハリン島クリリオン岬:Cape Crillon, Sakhalin
Island)との間にある海峡。東西方向の海峡で、日本海(Sea of Japan)とオホーツク海(Sea of Okhotsk)を結び、海峡幅は最狭部で約42km、深さは最深部で60m。
宗谷海峡は、地理的に最も関係が深い日本ではこう呼ばれていますが、外国では宗谷海峡の発見者の名前に因みラ・ペルーズ海峡(La Perouse Strait)と呼びます。我が国で鎖国政策が施行されている真っ最中の1787(天明7)年、ペルーズ船長がこの海峡を発見しました。 |
・チハチョーフ湾
Tsjichatsjovbaai
チハチョーフ湾は、日本海の湾で、間宮海峡の西岸、北緯51度28分、オルロヴァ岬(クロステル=カンプ岬とダッサ岬の間)、アムール川流域のキジ湖付近に有。1952年までの旧名はデ・カストリ湾(de Castries)。長さ約12.5km、湾口の幅9km、水深9m。湾を取り巻く断崖と3つの島々により全方向の風が防がれる天然の良港。結氷期間は5ヶ月で、夏季の水温は14℃に達する。潮汐は半日周潮で、1m差。 |
ラ・ブソル号とアストロラーブ号
ノーフォーク 1967-68 発行 |
・リツヤ湾
(Lituya Bay)
リツヤ湾は北アメリカ大陸の北西部、アメリカ合衆国アラスカ州の南東部にある太平洋に面した小さな湾で、アラスカ州の州都ジュノーの西方約200kmに有。氷河に削られて形成された急峻なフィヨルドで奥行き約12km、幅約3kmと細長く、湾の奥でT字型に曲がった両側から氷河が流れ込む。
|
アラスカ
アメリカ 1959 発行 |
1786/7月にリツヤ湾をラ・ペルーズ船長が初めて調査、フランセ湾(Port des Francais)と命名。この時に湾口付近の測深に向かった2隻のボートが激しい潮流にさらわれ転覆し、乗員21人が落命する事故が起きました。犠牲者の死を悼んで湾の中央に浮かぶ島の名は墓碑を意味するセノタフ島(英Cenotaph、仏IslandIsle
du Caenotaphe)と命名されました。
・ルイ16世
(Louis XVI, 1754-在位1774-1792-1793/1/21、仏革命で刑死)
ルイ16世はブルボン朝第5代フランス国王(在位1774-1792/8/10)。ルイ15世(Louis
XV, 在位1715/9/1-1774/5/10)孫。王妃は神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの娘マリー・アントワネット(1755-1793/10/16)。在位中の1789年にフランス革命が起こり、1792年に王権が停止、翌年ギロチン処刑されたフランス最後の絶対君主にして1791年憲法に宣誓したフランス最初の立憲君主。ルイ16世は、ルイ14世やルイ15世の積極財政(主に対外戦争費による負債)の結果を受け継いだため、即位直後から慢性的な財政難に悩まされ続けた |
ルイ16世
チャド 1971 発行 |
にも関わらず、イギリスの勢力拡大に対抗してアメリカ独立戦争に関わり、アメリカを支援するなどしたため、イギリスから新大陸の利権の大部分を奪い去ることには成功したものの、
財政はさらに困窮を極めました。特に海軍力の整備には力を入れ、コタンタン半島先端シェルブール(Cherbourg,
Cotentin)に軍港を建設し、イギリス海軍を圧倒する活躍を成し遂げてフランス海軍の威信を高めることには成功。一方でローヌ男爵テュルゴーや銀行家ネッケルなど、経済に詳しい者を登用して改革を推進。また1780年には拷問の廃止を王令で布告するなど、人権思想にも一定の理解を示しました。1783年には名士会の開催と三部会招集を布告。少なくともルイ16世は政治に積極的に関わり、フランスの変革に努力を注ぐも、ルイ15世が弱体化させた高等法院を |
ルイ16世に謁見、ドーヴェルニュ船長
ジャージー 1989 発行 |
1774年に復活させたことで常にその抵抗に遭い、改革は妥協を強いられ抜本的な変革には至らず、また財政の決定的な建て直しには及ばず。保守派貴族は国王の改革案をことごとく潰し、結局改革は挫折したばかりか、結果的にその咎は後年のフランス革命で国王一族に向けられてしまいました。なお、アメリカ独立戦争を支援したことから、「アメリカ建国の父」たちにはルイ16世に崇敬の念を抱く者が多かったものの、フランス革命で窮地に陥った国王一族を助ける動きにまでは至らりませんでした。また、冒険旅行の本を好んだルイ16世はラ・ペルーズ船長を太平洋探検大航海に派遣したり、イギリスからグランドツアーでパリに来ていたドーベルニュー船長に会いました。
参考HP:〜
・ぺルーズ(宗谷)海峡の場所地図
・ボタニー湾の衛星写真(オース
・ブレスト軍港の場所地図トラリア)
・コタンタン半島の地図
こちらで
・サフレン提督
・ブルドネス提督
・マゼラン (海峡) ・マミヤ (海峡)
・スパイス (香辛料)
・コーヒー (嗜好飲料)
・ピラミッド (エジプト)世界遺産
・パルテノン神殿 (ギリシャ)世界遺産
・法隆寺 (日本)世界遺産 をお楽しみください。
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2007/11/20、08/10/20、11/5/25、令和 R4:2020/6/7
|