Spain 国連 1988 発行 |
切手で綴る 冒険大航海 (Adventure Voyage)
クリストファー・コロンブス 1492 西回りインド到達、"新大陸発見" |
大航海物語 スペイン編★ |
ESPANA コロンブス船長 |
(Merchant & Explorer Cristbal Colon) コロンブス司令官 (Commander Cristbal Colon) |
サンタ・マリア号の勇姿 "Santa Maria" |
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スペイン 昭和5年(1930/9/29) 発行 |
コーサ船長 サンタ・マリア号 |
マルティン・ピンゾン船長 ピンタ号 |
ヴィセンテ・ピンゾン船長 ニーニャ号 |
コロンブスの新大陸発見490年記念 キューバ 1982/10/12 発行 |
船乗りコロンブスはサンタ・マリア号に乗船、指揮して未知の海を70日以上の航海の後、1492年に新大陸を発見しました。本当は”西インド諸島”の発見でしたネ。。。。。生涯に8回(往復4航海)の大西洋横断航海をなし、スペインで亡くなりました。 |
新 大 陸 |
Bequia Grenadines of St.Vincent コロンブスの大航海の航海地図(緑) 1788 アメリカ合衆国憲法200年記念 1988 グレナディーン・セント・ヴィンセント(ベキア) 1988/7/11 発行 |
ヨ|ロ ッパ アフリカ |
バハマ諸島 . サンサルバドル島→ 西インド諸島 カリブ海→ |
St.Vincent コロンブスの第1回航海地図 (1492年) |
←スペイン コ ロ ン ブ ス と 紋 章 |
1788 アメリカ合衆国憲法200年記念 1988 セント・ヴィンセント 1988/1/11 発行 |
コロンブスの船出 1492/8/3 |
GRENADA
グレナダ 1992 発行 |
GUYANA
ガイアナ 1992 発行 |
ESPANA スペイン 1930/9/29 発行 |
CUBA 57年後に発行された同一図案の 左の切手を「切手の切手」として発行 キューバ 1987 発行 |
クリストファー・コロンブス Christopher Columbus (1451〜1506)
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PORTUGAL | ||
サンヴィセンテ岬→ S.Vicente |
ポルトガル 最南端 アルカルヴェ州 |
←サグレス岬 Sagres |
コロンブス 第1回航海 1492〜1493 |
9/23 | 9/21 | 9/19 | 9/17 | 9/15 | 9/13 | 9/11 | カナリア | 8/24 | 8/3 | ||||||||
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↑ |
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↓ | ||||||||||||||
9/24 | 9/22 | 9/20 | 9/18 | 9/16 | 9/14 | 9/12 | 9/10 | 9/6 | パロス |
10/12 | 10/10 | 10/8 | 10/6 | 10/4 | 10/3 | 10/1 | 9/29 | 9/27 | 9/25 | |||||||||
↓ |
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サンサルバドル | 10/11 | 10/9 | 10/7 | 10/5 | 10/2 | 9/30 | 9/28 | 9/26 | ||||||||||
セント・ヴィンセント 1992/5/22 発行 |
Jamaica 往路の航海地図 |
Republica Dominicana 往復の航海地図 |
コロンブスの新大陸発見500年記念 ジャマイカ 1992 発行 |
コロンブスの新大陸発見490年記念 ドミニカ共和国 1982 発行 |
GUANSEY | |
コロンブス コロンブスのサイン |
1492/8/3、サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号の3隻と乗組員120人を率いて、スペインのパロス港から念願の黄金の国「ジパング」や香料・スパイスの産地「インド」への航海に出発しました。カナリア諸島に停泊した後、9/6にゴメラ島を離れ、ほぼ北緯28度線上を一路西へと航海し、苦難の連続の航海の途中、乗組員が反乱寸前になるという極限状態を乗り切り、1492/10/12にグァナハニ島(サン・サルバドル島と命名:バハマ諸島中の現在のワットリング島)に到達。 | パロスの場所地図 スペイン 1988 発行 |
。 印 |
インド到着 1492/10/12 |
ピンタ号の見張りが島影を発見 | |
Grenada Grenadines グレナダ 1992 発行 |
Grenadines of St. Vincent セント・ヴィンセント 1992 発行 |
GRENADA GRENADINES グレナダ・グレナディーン 1992 発行 |
コロンブスはインドの一角に到着したと確信していたので、神への感謝の意を込めて、この島を「サン・サルバドル」(聖なる救済者)と命名しました。 |
コロンブス、ナビダーの砦を建設 1492 |
サンタ・マリア号が嵐で遭難・座礁 ガイアナ 1992 発行 サンタ・マリア号が座礁 セント・ルシア 1992 発行 |
BAHAMAS サンタ・マリア号を解体して砦を築く バハマ 1992 発行 |
その後、付近を探検、調査している時、サンタ・マリア号は12/24の夜にイスパニョーラ島で座礁してしまいました。残留を申し出た乗組員39人のために、サンタ・マリア号の木材でイスパニョーラ島に「ナビダーの砦」を築きました。1493/1/14にピンタ号、ニーニャ号の2隻でイスパニョ−ラ島から帰路につき、1493/3/15にスペインのパロス港に凱旋しました。 |
コロンブス 第2回航海 1493〜1496 |
Jamaica 往路の航海地図 ジャマイカ 1992 発行 |
TONGA 国王の”現地人謁見”の図 トンガ 1992 発行 |
NICARAGUA |
完全な成功と映った第1回航海にひかれて、第2回航海(1493/9/25出発)には17隻に1500名が競って参加しました。だが、現地に到着すると、イスパニョーラ島の「ナビダーの砦」は破壊され砦の39人は全滅していました。その上、香料・スパイスも黄金も無く、一行の夢と期待は失望から不満へと変ってゆきました。金鉱労働に徴発された原住民の反乱が始まったので、香料や黄金に代わる富として反乱を起こした原住民を奴隷としてスペイン本国に送り出したりして、かえってイサベラ女王の怒りをかいました。 |
コロンブス 第3回航海 1498〜1500 |
Jamaica 往路の航海地図 ジャマイカ 1992 発行 |
GUYNA 帰路の航海地図(鉄鎖での帰国) ガイアナ 1992 発行 |
1492 コロンブス500年記念発行 1992 |
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コロンブス 第4回航海 1502〜1504 |
Jamaica 往路の航海地図 ジャマイカ 1992 発行 |
Uruguay Correos 1502年の航海 ウルグアイ 2003 発行 |
フロリダ半島→ キューバ島→ ジャマイカ島→ ユカタン半島→ |
ANGUILA コロンブスの全4回の航路地図 アンギラ 1973 発行 画像200% |
←グアナハニ島 (サンサルバドル島) ←エスパニョラ島 (ハイチ・ドミニカ) ←トリニダード島 ←南米大陸 |
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St.Vincent カリブ海周辺の地図 (コロンブスの全4回(1-4)の航海地図)
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スペイン出帆 インディアス到着 スペイン帰港 第1回=1492/8/03〜1492/10/12〜1493/03/15 パロス港 第2回=1493/9/25〜1493/11/03〜1496/06/11 カディス港 第3回=1498/5/31〜1498/08/31〜1500/10/20(鉄鎖で本国強制送還)同上 第4回=1502/5/09〜1502/06/29〜1504/11/07 サンルカル・デ・パラメダ港 |
1502/5/9最後の第4回航海に出発、パナマ地峡地帯を徘徊するも太平洋を見ることもなく、空しく帰国(1504/11/7)しました。 この最後の航海の無理が嵩じて急速に健康を害し、アジアに到達したと信じたまま1506/5/20に失意の内にスペインのバリャドリード(Valladolid)で55才で永眠しました。 参考HP:〜 ・バリャドリードの場所地図 |
「海図」 & 「四分儀」 |
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ANTIGUA コロンブスの第1回(1492年)航海の航路地図(往路) ほぼ北緯28°線上を一路西へと航海(貿易風を発見) アンチグア 1992年 コロンブス500年記念発行(小型シート) |
現在の地図にコロンブスの全4回の航海を描く | ||
カリブ海の古地図 ベトナム コロンブス500年記念 1992/1/15 発行 |
左より キューバ島 イスパニェ−ラ島 プエルトリコ島 ワットリング島 (旗が立っている島) |
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グレナダ 1992 発行 |
象眼儀ともいい、古くから天体の高度観測に用いられた天文観測器です。円周の1/4の目盛環に0°〜90°を目盛り、これに円の中心を通る可動の視認尺を取り付けた物です。天文観測のためには円の半径が3mも有る物が製作されましたが、航海用には持ち運びに便利なように、上の切手のような小型の物が使用され、後世では六分儀へと進化してゆき、地球の緯度を調べました。 |
コロンブスの誤算 コロンブスがインドの一角に到着したと信じた理由 (コロンブスの誤算、本当は西インド諸島の発見でした) |
”当時のヨーロッパでは、”太平洋”の存在は不明でした” |
プトレマイオスの世界図には大西洋は大きく描かれていない (ユーラシア大陸とアフリカの一部) |
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ヨーロッパ→ アフリカ→ |
←アジア |
トスカネリの地図(真ん中はジパング・日本) | ||
アジア→ | ベトナム 1992 発行 |
←ヨーロッパ ←アフリカ |
コロンブスは1478年に砂糖の買い付けのためマデイラ島へ行き、その時のアフリカ西岸の航海で海(大西洋)の西方に魅せられました。その頃(27才)から、ラテン語やスペイン語を学び、ESピッコロミニ著「世界誌」やPダイイ著「世界像」、マルコ・ポーロの「東方見聞碌」などなどを猛勉強して、西回り航路によるジパング・カタイ(アジア)到達計画を作り上げました。 この時に、彼はダイイの著書や9世紀のアラブ地理学者ファルガーニの説などで使用されているアラビア・マイル(1975.5m)を、彼がイタリア人だったからイタリア・マイル(1477.5m)と誤解したため、地球一周長が約25%も短くなってしまいました。だからイベリア半島(スペイン)から西回りインド行きが、ちょうど太平洋がスッポリと抜け落ちたわけです。上記のカナリア諸島のゴメラ島から、彼の名づけたサン・サルバドル(ワットリング)島までが11,238リーグの地点に有って、彼の計算とほぼ同じになったのです。 当時の世界地図では、東の端はジパング、西の端はさほど広くない大西洋でしたので、彼は地理学者のトスカネリとも相談し、地図の両端をつないでみて、ヨーロッパから中国までは6千キロに満たないと算出したのです。本当は15000kmもの誤算をしていました。だから、これならば東回り航路よりも近い筈でした。また当時はアストロラーぺ、コードラント(四文儀)などで天体の高さを測って緯度を割り出す方法はすでに実用化されていましたが、経度を知る術がなかったのです(経度はキャップテン・クックの時代になって正確な時計(1761年のクロノメーター)が考案されるまで待たねばなりませんでした)。距離は移動に要した日数(短距離は砂時計)から推測するしか無く、旅行者の話は大げさになりがちですし、海上ではロープをつけた丸太を流して繰り出された長さで測っていたので、風や海流のために大きな誤差がでていました。その結果、彼の予想と現実が偶然にも一致してインドの一角に到着したと喜んだわけです。なにせ思いたってから41才での出帆まで、14年(ポルトガル国王に最初の提案をしてからでも8年以上)バロスを出港してから合計70日以上、しかも最後は36日以上にもおよぶ陸地の見えない海上を長く苦しく、インドへ着けるかどうか未知の 不安な航海を続けましたからね。 ところで、彼にひきかえ5年後に出帆したヴァスコ・ダ・ガマは、それは嵐にあったりとてつもなく長期の航海で難渋はしましたが、リスボンから喜望峰まではすでに バーソロミュー・ディアズが到達していて途中(ヴェルデ岬)まで水先案内をしましたし、喜望峰からケニヤのマリンディまでは陸地(アフリカ東岸)を遠望しながらの航海でしたし、その後はイスラム(又はインド)商人の水先案内でインドまで行くことが出来たのです。 アメリカ映画「1492・コロンブス」"1492 Conquest of Paradise"ではシガニー・ウィ−バーがイサベラ女王を演じ、ジェラール・ドバルデューが演じるコロンブスが長く苦しく不安な航海の後に1492/10/12にグアナハニ島へ到着し上陸する様子が描かれています。四分儀を使って船の位置を測定する場面も詳しく演じられています。そして アメリゴ・ヴェスプッチが、そこをインド(インディオス、アジア)ではなく新しい大陸だと主張し、それが認められてアメリカと命名される場面もかなり誇張して演じられています。 コロンブスはマルコ・ポーロの「東方見聞碌」の写本を持っていたそうで、それは現存しており、そこには300ヵ所以上の書き込みがあるそうです。 又「コロンブス航海誌」の原本は失われ,植民地におけるスペイン人の残虐をローマ法王に告発したことで知られているラス・カサス神父の写本は残っていると言われています。
参考HP〜 ・コロンブス第1回、第2回、第3回、第4回のルート・マップ(航海地図) ・第1回航海地図、パロス(Palos de la Frontera, Spain),、アンダルシア(Andalucia)地方地図 ・第2回航海地図、カディス(Province of Cadiz)、(Comarcas Cadiz) (Vista de Cadiz)地図 ・第3回航海地図 ・第4回航海地図、サンルカル・デ・パラメダ(Sanlucar de Barrameda)の地図 ・スペインの各地方(Ccaa-spain)の地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 12/4/17追記、12/6/9、12/10/20、17/2/14、令和 R.2:2020/7/1 |