Portugal

国連 1989 発行
  切手で綴る 冒険大航海 (Adventure Voyage)ポルトガル発見者の群像(0-0
エンリケ航海王子
HENRIQUE O NAVEGADOR
1417〜1460

“探検航海事業”創始・推進

アフリカ西岸発見年表没後金貨不帰の岬帆船マデイラ 
大航海物語
 ポルトガル編

PORTUGAL
エンリケ航海王子
カラベル船


サン・ヴィセンテ岬

S.Vicente



ポルトガル最南端

アルカルヴェ州
サグレス岬

Sagres




1460 エンリケ航海王子没後500年記念 1960
ポルトガル 1960/8/4 発行

ポルトガルエンリケ航海王子が1417年頃から、アフリカ西海岸の探検事業に着手して大航海時代が始まったことは、よく知られていますね。66才で他界する時点では、シェラレオーネまでのアフリカ西海岸が探検されました。

エンリケ王子の肖像画は1450年頃ヌーノ・ゴンザルヴェス(Nuno Goncalves. 1425頃-1491頃)作の聖ヴィセンテ礼拝堂の祭壇画のもので、リスボン国立古代美術館に収蔵されていて、1883年に発見されたポルトガルの国宝です。多くの人物を描く宗教画で、中央にリスボンの守護聖人サン・ヴィセンテの前にひざまずく「アフォンゾ5世」(アフリカのムーア人に対する成功でアフリカ王と呼ばれた人物)、サン・ヴィセンテの右側に「エンリケ王子」と「子供」(後のジョアン2世)、そして、後ろに彼らを取り巻く多くの人物が描かれている絵です。
参考HP:〜聖ヴィセンテ礼拝堂の祭壇画

1960/8/4、エンリケ航海王子の没後500年を記念して、下図の
1e、2.5e,3.5e,5e,5e,10e の6種の切手が発行されました。
PORTUGAL
1e
2.5e
3.5
5e
5e
10e
ポルトガル 1960/8/4 発行
エンリケ航海王子
  Henrique O Navegador (1394〜1460)

英語では "Henry the Navigater" となるそうです。「ヘンリー航海王子」と言うわけです。
切手には ”INFANTE don HENRIQUE" と印刷されています。ドン・エンリケ王子ですかしら。ポルトガルのジョアン一世の三男で、母のフィリパはイギリスのランカスター公”ジョン・オブ・ゴーント”の娘で、ポルトガルのオポルトで生まれました。両親のはぐくむ素朴で宗教的な雰囲気のもとで、狩りと乗馬を愛するたくましい若者に成長しました。

1415年に北西アフリカのムーア人の要都セウタの攻略戦に21才で出征し、武勲をたてて華やかにナイトに叙せられ、ヴィゼウ公となりました。4年におよぶセウタ滞在中に耳にしたアフリカの内陸部に君臨するというプレスター・ジョン大王の話や、黄金を運ぶというキャラバン隊(隊商)、あるいはアフリカ西海岸に延びる海岸線の話などに、いたく刺激されました。帰国後、アフリカ西海岸・インド航路の開拓を志し、ポルトガルのアルカルヴェ州南端サグレス岬に住んで航海者を養成し、学術・文化の発展にも貢献しながら、探検事業に着手しました。その結果1418年にはザルコ船長テイシェイラ船長によるマデイラ諸島(ポルトサント島とマデイラ島)、1427年ディオゴ・デ・シルベスによるアゾレス諸島の発見など、大西洋の島々が発見されました。また、騎士修道会統括者として自由にできる資金を手にして、1434年ポジャドール岬(スペイン領西サハラ、別称:ボハドル岬)を突破、1441年リオ・デ・オウロ(オーロ川)に到着、1443年にはアルギン湾(モーリタニア)に到達、同年アルギン島占領、1444年ブランコ岬(現モーリタニ沿岸)到達、1444年 セネガル河の河口発見、さらに1445年にはヴェルデ岬諸島セネガルダカール付近の沖合)に到達、1446年ガンビアのガンビア河々口発見、1446年(1462年説有)シェラ・レ・オーネ(別名:奴隷海岸)に到達しました。

なお、1447年にポルトガルのアルヴァロ・フェルナンディスがシェラ・レ・オーネに上陸。1462年にポルトガルのペドロ・ダ・シントラ (Pedro da Cintra) がシエラレオネの半島(フリータウン半島)に到達し、「ライオン山脈」(Serra de Leao:英: Lion Mountains)と命名して、ベニン(Benin Empire 1440-1897)まで航海しました。






エンリケ物語 エンリケ航海王子
1417〜1460
アフリカ西岸、探検航海事業で発見
ポルトガル


GAMBIA
アフリカ西岸の地図
GHANA
南西アフリカの地図
     ギニア湾

ガーナ 1959/10/15 発行
アゾレス諸島            .
マデイラ諸島 ポルト・サント島
カナリア諸島   .
西サハラ〜ボジャドール岬
オーロ川
西サハラブランコ岬
モーリタニアアルギン
セネガルセネガル川
ヴェルデ岬諸島 ヴェルデ岬
ガンビア川

ギニア
シェラレオーネ




エルミナ
アフリカ大
ガンビア 1992 発行
黒い突起は上から ・ボジャドール岬
・ブランコ岬
・ヴェルデ岬(ダカールのあるヴェルデ岬半島に有)

現在の国名 アフリカの地図 現在の国名
1418 マデイラ諸島 1431 アゾレス諸島 1434 ボジャドール岬 モロッコ
モーリタニア(青)→
セネガル(黄)→
ガンビア
ギニアビサウ(赤)→
ギニア
シェラレオーネ
リベリア
コートジボアール
ガーナ
トーゴ
ベナン
ナイジェリア
カメルーン
赤道ギニア
ガボン
コンゴ共和国
コンゴ
アンゴラ
ナミビア


ギニア 1970/2/3 発行



ソマリア
ケニア
タンザニア
モザンビーク
マダガスカル島
南アフリカ共和国

喜望峰
1441 オーロ川 1443 アルギン 1444 ブランコ岬
1445 セネガル川 1446 ガンビア川 1446 シェラレオーネ

1460 エンリケ王子逝去
1462 ヴェルデ岬諸島 1469 ガーナ、エル・ミナ 1479 カナリア諸島 スペイン
1470 プリンシペ島 1470 サントメ島 1482 エル・ミナ城
1482 サンタカタリナ岬 1482 コンゴ川 1484 サンタマリア岬
1484 クロス岬 1488 喜望峰 1497 ナタール
1498 モザンビーグ 1498 マリンディ 1498 ソコトラ島 1498、インド

1460/11/13にエンリケ航海王子がサグレス近くのビラ・ド・インファンテ(王子の町)で、66才で他界する時点では、大西洋の島々の発見・植民と シェラレオーネまでの延べ2400kmのアフリカ西海岸沿岸が探検されるに至りました。こうした背景にはプレスター・ジョンと連絡をとって、イスラム勢力を挟み撃ちにしょうとの十字軍精紳もあったと考えられています。事実、彼は生涯、妻をめとらず敬虔なキリスト教徒として一生を終えました。

・エンリケ航海王子の略年表:〜
1394 オポルトでジョアン1世の三男として誕生
1415 父ジョアン1世と共にセウタの攻略に従軍(21才)
アフリカ内陸部にいるというプレスター・ジョン大王の話や、
黄金の国「レックス・メリ」、黄金を運ぶキャラバン隊の話を聞く
セウタ出征の武功でヴィセウ公に叙任される
1416 ポルトガル最南端サグレス岬に、「王子の村」を建設
造船所、気象台(天体観測所)、航海術や地図製作術などの学校建設
地図製作の権威ジェフダ・クレスケスを招聘し既存の地図の集成を行わせる
1418 派遣したザルコとテイシェイラが、マデイラ諸島発見
1420 テンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団の指導者となる
1427 シルベスがアゾレス諸島を発見
以後、ゴンサロ・ベーリョ・カブラルらが探検
1434 ジル・エアネスがボジャドール岬を踏破
同岬以遠の新規到達益 1/5 を得る旨、兄ドゥアルテ王が約す
1437 周囲の反対を押し切って北アフリカのタンジールに派兵
フェルナンド王子が捕えられる
1438 ドゥアルテ王崩御
特権の保証の見返りに、アフォンソ5世即位(6才)
前王ドゥアルテ王の妃(アフォンソ5世の母)レオノールが摂政
1439 レオノールに反対のリスボン市民が反乱、兄ペドロが摂政、エンリケが支持する
1441 ゴンサルヴェスがリオ・デ・オウロ(オーロ川)に到達
1443 人質のフェルナンド王子がフェスにて40才で獄死
トリスタンがアルギン湾のアルギン島に達し要塞を建設
1444 1444年ブランコ岬(現モーリタニ沿岸)到達、セネガル河の河口発見
1445 ディニス・ディアス(バーソロミューの父)、ヴェルデ岬諸島に到達
サハラ砂漠の最南端に到達してサハラ砂漠を通過するキャラバンに頼ることなく
アフリカ南部の富を手に入れる航路を確立
1446 ガンビアのマスト岬に到達ガンビア河々口発見、シェラ・レ・オーネに到達
1452 フェルナンド王子の遺骸をポルトガルのバターリャ修道院に埋葬
1457 アフリカ南部からの大量の金でポルトガル初の金貨鋳造
1460 「王子の村」で66年の生涯を閉じる。
1488 没後28年、
バーソロミュー・ディアスがアフリカ最南端の喜望峰を回航
1498 ドアルテ・ペレイラ船長ブラジルに到達するも
ポルトガル王が秘匿する
1960 没後500年を記念して、
発見のモニュメント建立
1994 ポルトガル政府からの贈り物として、
ヘンリー航海王子公園(アメリカのニューベッドフォードに建設)。




エンリケ航海王子の没後
フリカ各地への上陸と植民


PORTUGAL
コンゴに上陸 1491

Congo 500
ポルトガル 1991/8/2 発行
セネガルに上陸 1494

Senegal 500
ポルトガル 1994/11/17 発行

ポルトガルで制作された古地図
エンリケ航海王子没後
1630制作


Anonymous map
 1519制作

インド・インダス河
Pedro Reinel
1554年制作

西アフリカ・ギニア湾岸
Lopo Homen-Reineis
ポルトガル 1997/10/9 発行

1554年制作のギニア湾岸地図(世界地図の部分図)には
目印となる「岬」や「湾」などの名前を記入・表示






←地名
ポルトガル 1997/10/9 発行
Lopo Homen-Reineis(生年不詳〜1565)
ロポ・オーメンの古地図(世界地図の部分図)を500%に拡大
・ガーナのエル・ミナ城(Sao Jorge da Mina Fort)と
・ガーナのヴォルタ河(Volta River.1600km)河口の
 セント・ジョージ商館(Mine of Saint George factory)が描かれています。

なお、SCOTT 2007の説明では
・49e〜Map from atlas of Lopo Homen-Reineis,1519
・80e〜Map from atlas of Joao Freire ,1546
・140e〜Anonymous map,1630
となっています。
参考HP:〜
ロポ・オーメンの世界地図
 (1554 Lopo Homem world map)
ロポ・オーメンのブラジル古地図
 ("Terra Brasilis", Miller Atlas, 1519, French National Library in Paris)
アフリカの古地図=地図外部リンク集参照






エンリケ物語 ポルトガル金貨
1457
ポルトガル

Estard da India
マヌエル1世金貨

ポルトガル領インド 1959/12/1 発行

CARBO VELDE
エンリケ航海王子

ポルトガル領カーボヴェルデ 1960/6/25 発行
ANGOLA
アフリカ西部の古地図

Jorge Reinei 1540
ポルトガル領アンゴラ 1960/6/25 発行
1460 エンリケ航海王子没後500年記念 1960

エンリケ航海王子が大西洋上の諸島での積極的な殖民事業や、ギニアに対する通航税と交易税の徴収や黒人奴隷の売買による利益取得になんら躊躇しなかった事などは、鋭い経済観念の持ち主である一面を持っていた事を表しています。こうしたアフリカの発見はポルトガルに経済的かつ政治的に重大な結果をもたらしました。アフリカとの交易で大量の金を獲得したポルトガルは、1383年以来とだえていた金貨の鋳造を1457年に実に74年ぶりに再開しました。またアフリカの赤コショウ(マラゲッタ・品質はあまりよくない)を得て、初めてイタリア人の香料貿易独占の一角にくい込むこととなりました。

そして、彼こそが大航海時代の先駆けを飾る人物であり、航海術・地理学をポルトガルに蓄積させ、殆ど半世紀の間、ポルトガルの航海探検の核心でありました。と同時に、コロンブスなどの後の発見者たちもポルトガルで学んだように、僅か一世紀の間に地球の半ばを越えた海洋探検というものについては、エンリケ航海王子に負うところが大きいのであり、その探検と航海の精神は彼の死後も多くの航海者によって引き継がれました。しかしながら、その結果として、アフリカ、アジア、そして新大陸の人々が苦難にあったことを忘れてはならないと思うところです。






エンリケ物語 ボジャドール岬を越えて
1434
不帰の岬 Cabo Bojador
ポルトガル

GAMBIA

ボジャドール岬

ブランコ岬→


ヴェルデ岬→

シェラレオーネ
アフリカ大陸
ガンビア 1992 発行

Portugal
ジル・エアネス

ポルトガル 1945/1/29 発行
Cabo Berde
(左)バルダイア(BALDAYA)

ポルトガル領ベルデ岬諸島 1952/2/24 発行

・ボジャドール岬はポルトガル南西1300kmのカナリヤ諸島の南約240km、現スペイン領西サハラのほぼ中央付近の小さな土地のふくらみで、当時は海の終わりと信じられ「不帰の岬」と呼ばれていました。ジル・エアネスはそこを越えることが出来て、ポルトガル人として初めて岬を越えた人物として歴史に名をとどめました.。歴史では目立たちませんが当時とすれば、それは恐ろしい未知の海に乗り出した記念すべき第一歩ですね。この後、多くの航海者が彼に続いてボジャドール岬を越えて大航海へと船出しました.。

・1433年ジル・エアネス失敗のわけ(理由)
エンリケ王子はセウタで見聞したことなどで、アフリカのギニア方面へ向けて船乗り達を派遣していました。黄金の国「レックス・メリ」や、どこかにいるキリスト教徒の王「プレステ・ジョアン」を捜す意図もありました。しかし当時の船乗りの常識では、ボジャドール岬より先は 「海が奈落の底に落ち込むところで、海の果てであり、そこには灼熱地獄があり、海が煮えたぎっていて岬を越えると生きては帰れない、生きて帰っても白人が黒人になってしまう」と信じられていました。それで航海に派遣された船乗り達は、岬より北で新しい島を発見したり、異教徒を捕虜にしたり、セウタの対岸でイベリヤ半島南部のイスラム教国「グラナダ」の海岸を攻撃したりしてポルトガルに帰っていました。こうしてアフリカ海岸から576km(リスボン南西約1000km)の 大西洋上の島のマディラ島(1418)、そこから約60kmのポルト・サンド島(1418年)などが発見されることになりました。ボジャドール岬はポルトガルから南西1300kmのカナリア諸島 から、さらに240km以上も南です。岬の突破には王子が思い立ってから17年以上もかかりました。






エンリケ物語 帆船の改良・発達
帆船の大型化・高速化
ポルトガル

PORTUGAL CABO VERDE PORTUGAL
王子の紋章
エンリケ航海王子
バルカ船
カラベル船
ポルトガル 1960/8/4 発行 ポ領ヴェルデ岬諸島 1938 発行 ポルトガル 1960/8/4 発行

PORTUGAL
1本マストのバルカ船
2本マストのバルカ船
1本マストのカラベル船
2本マストのカラベル船
ポルトガル 1990/9/21 発行

日本大百科全書(小学館)には以下の記述がありました。
・エンリケ航海王子の事業<帆船の大型化・高速化>
実質的な帆船の大きな発達は、15世紀のポルトガルのエンリケ航海王子以来開始されたといえる。彼はインドへの新航路発見を一生の仕事と考え、これについてあらゆる努力をしたが、その中の一つに帆船の改良があった。それまでの帆船は、追い風の時には横帆をあげることによってよく走ったが、逆風になった場合には帆を下ろして櫂で漕がなければならなかったために、船体を大型にすることができなかった。しかしエンリケは、当時地中海の東部のレバント地方で漁船が使用していた三角帆すなわち縦帆の有効性に着目し、これを航洋船に取り入れることによって、逆風に対しても櫂を使わずに、帆の操作のみによって船を進めることが可能であることを確認した。これによって三本マストに縦帆を張ったカラベル船を大型につくることに成功した。しかしその後、縦帆(南方型)船が逆風には都合がよいが、追い風のときに効率が悪いことを知り、三本マストのいちばん前にだけ横帆(北方型)を張り、また同時に横帆も、帆桁を、マストを支点として回転できるようにして船首尾線に対して自由な角度に張れるようにし、効率のよい大型帆船へと改良を加えていった。エンリケの時代から約200年間で、30数人乗り程度の小型船が100トンほどのものにまで大型化することができた。これによっていわゆる、大航海時代の実現を見るに至った。

こちらで  エンリケ航海王子の船長たち をお楽しみください。






エンリケ物語 マデイラ諸島
1418、発見
ポルトガル

マデイラ諸島の発見者
PORTUGAL
ザルコ船長
PORTUGALL
テイシェイラ船長
ポルトガル  1990-1994 発行

PORTUGAL-MADEIRA
マデイラ諸島ポルトラノ古海図

ポルトガル 1981/7/1 発行
・マデイラ諸島
 Arquipelogo da Madeira (Madeira Islands)

ポルトガル・リスボン南西約1000kmにある大西洋上のポルトガル領の島々。北緯32°38′、西経16°54′のマデイラ島が主島です。有人のマデイラ島,、ポルト・サント島、無人のデゼルタス島、セルパージェス島で構成されている諸島。総面積796ku、人口257、822人(1981年)、主島のマディラ島は火山島で、1861mのルイボ・デ・サンタナ山が有、7月は22℃、1月は16℃、年間降水量552oの気候温暖な、「大西洋の真珠」と呼ばれる観光地となっています。

1418年からのジョアン・ゴンサルベス・ザルコトリスタン・ティシェイラの探検により、正式にポルトガル領となりました。1433年にはエンリケ航海王子に譲渡され、カピタニアという領主制で本格的に植民がなされ、シチリアからサトウキビが移植され、15世紀末までにマデイラ島の主産業となり、ヨーロッパの砂糖市場を支配しました。マデイラ植民の成功はその後の探検航海の原動力となりました。

ブラジルの砂糖が優勢となると、ワインの生産が盛んとなりましたが、同島フンシャルの英国商人に牛耳られていました。18世紀には人口過剰となり、ブラジルへ移民が起きました。1869年のスエズ運河開通までは、ケープタウンへの航路の重要な寄港地となっていました。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。   令和 R.2/11/2(2020) 追記

スタンプ・メイツ
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