Portugal 国連 1989 発行 |
切手で綴る ポルトガルの大航海 (Discovery Voyage) エンリケ航海王子の船長たち (No.0)
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大航海物語 ポルトガル編★ |
GAMBIA 西アフリカの地図 |
カラベル船 ポルトガル 1960 発行 |
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アゾレス諸島 . マデイラ諸島 ポルト・サント島 カナリア諸島 . 西サハラ〜ボジャドール岬→ オーロ川 西サハラ〜ブランコ岬→ モーリタニア〜アルギン セネガル〜セネガル川 ヴェルデ岬諸島 ヴェルデ岬→ ガンビア川 ギニア シェラレオーネ |
エルミナ城 |
アフリカ大陸 | ||
ガンビア 1992 発行 | ||||
黒い突起は上から | ・ボジャドール岬 ・ブランコ岬 ・ヴェルデ岬(ダカールのあるヴェルデ岬半島に有) |
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ドン・フェルナンド王子 Infante Don Fernando (?〜1448/6) ポルトガルのジョアン1世の5人の息子の1人でエンリケ王子の弟です。ポルトガルの北アフリカ介入に伴い、1437年にドゥアルテ1世とエンリケ航海王子によるセウタ近くのタンジール征服戦が始まり、フェルナンド王子も出征しました。ところがポルトガル軍はイスラム軍に完敗してしまい、王子はイスラムの捕虜となりました。彼を救うべく兄のドゥアルテ王子はイスラム教徒と交渉しましたが、セウタとの交換ならば返そうとの返事だったので、ポルトガル王室評議会へ計りました。評議会は多大な犠牲を払って勝ち取ったセウタは離せないと、 イスラムの要求を拒否しました。その結果、フェルナンド王子はモロッコ・フェズの土牢で、その生涯を閉じることとなりました。 |
ドン・エンリケ航海王子 Infante Don Henrique (1394〜1460) 航海王子(ポ:Henrique O Navegador、英:Henrique The Navigator)と言われ、ポルトガルのジョアン1世の三男。1415年に北西アフリカのムーセア人の要都セウタの攻略戦に出征し、セウタに豊富な物資があるのを見たり、捕虜のイスラム教徒の話を聞いて帰ったエンリケ王子は新航路発見を一生の仕事と考え、これについてあらゆる努力をしました。帰国後、船でアフリカ西海岸沿いにギニア方面へ行くことを思い立ち、南部のサグレスのサン・ヴィセンテ岬に住んで、航海学校を建設し、多くの学者を集め、船乗りを養成すると共に造船についての研究を続けました。そしてアフリカ西海岸を南下する航海事業を推し進め、自らは航海はしていませんが、次々と船乗り達を探検航海に派遣しました。 |
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なお、 第11代ポルトガル王ドゥアルテ1世は1437年に行われたタンジール遠征で、アラブ軍に実弟フェルナンド王子が人質となるも、「セウタ返還がかなえば王子を釈放する」というアラブ側の要請にコルテス(議会)が難を示し、交渉は難航。王子の救出に有効な措置がとれないことで精神的に追いつめられた王は、当時流行していたペストに罹患して逝去。 第12代ポルトガル王アフォンソ5世はアフリカ王(Africano)と呼ばれるも、父王の急な逝去で、わずか6才で即位。王の遺言で、スペインのカスティーリャ出身の王妃レオノールが摂政となるも、外国人ということで国民に支持されず、コルテス(議会)はドゥアルテ王の実弟であるコインブラ公ペドロ王子を摂政に選んだ。ペドロ王子は善政を行い、庶出で異母弟のバルセロス伯爵をブラガンサ公爵にした。が、ペドロ摂政に代わり実権の掌握を狙う公爵は、幼いアフォンソ王に「摂政は王位を狙っている」と吹き込み、王はペドロ王子を敵視するようになった。1443年にドゥアルテ1世の弟フェルナンド王子がフェスで獄死し、遺骸は城壁から逆さまにつり下げられた。従者たちは遺骸をもらい受けると、遺骨に塩をふりかけ壷に入れて埋葬した。アフォンソ5世は捕虜にしたモロッコの貴族たちと交換に、叔父フェルナンド王子の遺骸を取り戻し、1452年バターリャ修道院に埋葬。1446年、14才で親政を始めた。もう一人の叔父、エンリケ航海王子の斡旋で、ペドロ王子は政治顧問を退き、国政の実権はブラガンサ公爵とその子息オウレン伯爵へ移った。1448年、コインブラ公ペドロの娘イサベルはポルトガル王アフォンソ5世妃と結婚。 |
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こちらで ・ジル・エアネス船長(0)ボジャドール岬を突破!
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 令和 R.2/12/3(2020) 追記 |