Portugal 国連 1989 発行 |
切手で綴る 冒険大航海(Adventure Voyages)ポルトガル発見者の群像(2-7)
ディオゴ・カン船長 1482 ”コンゴ河の河口”発見 クロス岬に上陸 |
大航海物語 ポルトガル編★ |
Portugal ディオゴ・カン船長 ポルトガル 1945/1/29 発行 |
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PORTUGAL |
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ディオゴ・カン船長 ポルトガル 1990−94 発行 |
カラベル船 ポルトガル 1960/8/4 発行 |
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ANGOLA コンゴ河々口に停泊するガレオン船 1572 ウス・ルジ−アダス400年記念 1972 アンゴラ 1972/5/25 発行 |
アンゴラ→ |
JERSEY ユニセフ子供基金 1946 UNICEF 50年記念 1996 ジャージィー 1996/2/19 発行 |
アフリカの子供 |
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GHANA | ||
南西アフリカ→ ギニア湾→ |
南西アフリカの地図 ギニア湾 ガーナ 1959/10/15 発行 |
←ビオコ島 ←プリンシペ島 ←サントメ島 ←アンノボン島 ←ガボン |
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”コンゴ河々口”到達・発見 | アンゴラの地図 | ||
コンゴ河→ ルアンダ港→ |
ペレイラ総督 |
コンゴ アンゴラ |
現在の地図 アンゴラ 1955/8 発行 |
ペレイラ総督(在任1603-06) | |||
アンゴラの古地図 ポ領アンゴラ 1967 発行 (200%) |
ディオゴ・カン Diogo Cao (生年没年不詳) カン船長はポルトガル北部ノルテ地方(Regiao Norte)中部ドゥロ準地域(Douro、旧ヴィラ・レアル県)ヴィラ・レアル市(Vila Real)で、15世紀中頃(1452年頃)にゴンサロ・カン(Goncalo Cao, 生年没年不詳)の私生児として生まれました。祖父ゴンサロ・カンはポルトガル王国(1139-1910)とカスティーリャ王国(1035-1715)が戦ってポルトガルが勝利したアルジュバロータの戦い(Battle of Aljubarrota, 1385/8/14)でポルトガルの独立のために従軍しました。 ディオゴ・カン船長の大航海 第1回航海:1482〜84年:サンタ・カタリナ岬からコンゴ河々口に到達・上陸。 第2回航海:1484〜86年:ネグロ岬、サンタ・マリア岬から南下しクロス岬に到達・上陸。 ・第1回航海:1482〜コンゴ河々口 ギニア貿易の経験を積んだディオゴ・カン船長はエンリケ航海王子の探検航海事業を引き継いだ国王ジョアン2世の「赤道を越えて探検航海せよ」との命で、1482年6月にテージョ川河々口のリスボンを出帆してアフリカ西海岸を南下してエルミナへ向かい、ポルトガル人として始めて赤道を越えて、アンゴラのサンタ・カタリナ岬(Cape St. Catherine)まで南下し、さらに海岸線を1360kmほど探検航海しました。そして1482/8月頃にコンゴ河(Congo River, 4,700km)の河口を発見し、河口付近に見られる三角江(エスチュアリー:estuary)に上陸してシャーク・ポイント(Shark Point)にパドラ(Padrao:発見碑)を建立し、ポルトガル王の領土であると宣言しました。 コンゴ河々口に数ヵ月留まり、現地に有った「ンドンゴ王国」(NDongo)内に基地サン・サルヴァドールを築き、部下数名をその地方の有力者のもとへ使節として派遣しました。岬を越えてコンゴ河に戻ったときに、部下がまだ戻っていなかったため族長4人を人質としてポルトガルへ向かい、リスボンに着いたのは1484年4月でした。国王ジョアン2世に「ンドンゴ王国」の存在を報告すると、1484/4/14にこの探検航海とサントメ島の南方にあるアンノボン島(1473/1/?)発見の恩賞として、国王はカン船長を騎士に叙任し年金を与えました。 注:〜ンドンゴ王国(1515-1909)は現アンゴラにあったコンゴ王国(1395-1914)の従属国だった王国との説も有。 参考HP:〜 ・コンゴ川の地図 ・ンドンゴ王国の場所地図 |
ディオゴ・カン 1485年 ナミビアのクロス岬に到達・上陸 SWA |
クロス岬にパドラを建立 |
カラベル船 |
1486 ディオゴカンのナミビア再訪500年記念 1986 南西アフリカ 1986/1/24 発行 |
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スコロス・ドゥウィシブ砦 schloss duwisib 南西アフリカ 1986/1/24 発行 |
荒れ狂うナミブ海岸の難破船 南西アフリカ 1977/3/29 発行 |
▼第2回航海:1484〜1486年 1484年のコンゴ河々口までの探検航海には地図製作者のマーティン・ベハイム(Martin Behaim 1459-1507)とエスコラール船長が同行しました。現在のアンゴラ海岸のネグロ岬に達し、上陸しました。その後、さらに南下して、1485年南回帰線から320kmほどの所に有るナミビアのクロス岬を視認するまで探検航海してコンゴ河に戻りました。 そして、再度アンゴラのサンタ・マリア岬から南下し、ナミビア沿岸中部で大西洋に面する天然の良港ウォルビス・ベイ(Walvis Bay)からクロス岬に到達、上陸してパドラを建立しました。帰途コンゴ河でエスコラール船長と再会しました。その後、コンゴ河の左岸でコンゴの港町マタディ (Matadi) の町からコンゴ河の上流にかけてコンゴ河を100マイル(約161km)ほど遡り、イエララ(Ielala)で、コンゴ河航海の限界の記念(落書き、Graffiti)としてそこの岩に彫刻(Stone of Ielala)を記しました。そして、住民の首長カスータを大使として連れて帰り、1486年ポルトガル・リスボンに帰港しました。 イタリアのフローレンス(Florence)で1480年から1496年に活動したヘンリカス・マルテルス・ゲルマナス(Henricus Martellus Germanus)によれば、カン船長ははクロス岬沖で遭難死したことになっていますが、ポルトガルの歴史家バロス(Joao de Barros 1496-1570)は、カン船長は1482-85年の探検航海で4本のパドラをサンタ・マリア岬とクロス岬に建立してコンゴ河に戻っていると言っています。クロス岬のパドラはドイツのキールに保存されており、もう1本はリスボンのモンテ・ネグロ(Monte Negro)博物館に有ります。
参考HP:〜 ・ナミビアの地図 ・ウォルビス・ベイ付近の地図 ・カンの残した記念の岩の写真 ・アンゴラの地図(Cabo de Santa Maria) ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。平成19年 2007/12/20追記。09/7/25、令和6年 2024/6/24 |