Portugal 国連 1989 発行 |
切手で綴る 冒険大航海(Adventure Voyages)ポルトガル発見者の群像(3-1)
バーソロミュー・ディアス船長 1488 “喜望峰”を発見 喜望峰を回航・カラヴェル船・第2次インド遠征艦隊 |
大航海物語 ポルトガル編★ |
Portugal バーソロミュー・ディアズ船長 navegadores portugueses bartolomeu dias 1488 ポルトガル 昭和20年 1945/1/29 発行 |
PORTUGAL カラベル船 ポルトガル 1960/8/4 発行 |
LIBERIA アフリカ南端が 喜望峰 リベリア 昭和3年 1928 発行 |
GUINEE バーソロミュー・ディアズ船長の航路地図 ギニア 1984 発行 小型シートより |
バーソロミュー・ディアズ船長は1487年ポルトガル国王からプレスター・ジョンの国へ海路到達することを命ぜられ、アフリカ西海岸を南下、アフリカ南端を回るも、1488年乗組員の反乱にあって引き返して帰国しました。この時、アフリカ南端の岬を「嵐の岬」と名付けました。これが後に「喜望峰」となりました。船長はアフリカ南端を超えて喜望峰を回り、インド洋に到達した最初のヨーロッパ人として有名になりました。その後に大西洋に到達してインドへの海路が開かれました。 |
バーソロミュー・ディアズ船長 Barthrlomue Diaz(1450頃〜1500/5/29喜望峰で遭難没) バーソロミュー・ディアズ船長はポルトガルのテージョ河々口のリスボン出身で、ディアズ家は父祖以来エンリケ航海王子に仕え、祖父”ジョアン”(Joan Diaz)はボジャドール岬に到達、父”ディニス・ディアズ船長”は1445年セネガルのベルデ岬に到達していました。兄にディオゴ・ディアス船長(Diogo Dias)がいました。なお、1755 年のリスボン地震とその後の津波で、ほぼすべての海事記録が破壊されたため、この当時の歴史的な記録を詳述する現代の文書は見つかっていなくて、入手可能な情報の多くは、約60年後に歴史家ジョアン・デ・バロス(Joao de Barros, 1496-1570/10/21)によって書かれた16世紀の記録からのものだとされています。 ディアズ船長はサン・クリストファー号(San Christovao)の航海長を勤めた後、1481年にディオゴ・デ・アザンブージャ船長(Diogo de Azambuja)のゴールドコースト(黄金海岸:現ガーナ)遠征に参加しました。そして、ポルトガル国王ジョアン2世の命で、エチオピア方面に有るという伝説のプレスター・ジョンの国とインディアス(Indias、インド:India)への航路を求めて、1487/8月に3隻のカラヴェル型帆船(50トン2隻と兄弟のペロ・ディアス船長(Pero Dias)の補給船)でアフリカからインディアスへの探検航海へとリスボン港を出帆しました。 そして、・・・・・ |
バーソロミュー・ディアス船長 1488 “喜望峰”を回航、到達・発見 |
バーソロミュー・ディアズ |
カラヴェル船隊 |
上陸してパドラを建立 |
航海後に出版された”マルテルス”の古地図 アフリカの南端に喜望峰を追加している地図 |
1488 喜望峰発見 500年記念 1988 南アフリカ(RSA) 1988 発行 |
3隻の船隊はコンゴへ直行。そこからアフリカ西岸沿いに、アンゴラのポルトアレクサンドル(Porto Alexandre)で補給船を残して、これまで”ディオゴ・カン船長”が1482年に到達していた最南端のナミビア大西洋岸”クロス岬”を越えて航海。コンゴ河を過ぎ、1487/12/8にナミビアのコンセイソン湾(Golfo da Conceicao, 現ウォルビス湾:Walvis Bay)を発見。そこをサンタ・マリア・ダ・コンセイソン湾(O Golfo de Santa Maria da Conceicao)と名づけました。そして南アへと向かいオレンジ川(Orange River, 2,200km)を過ぎて、南緯29度付近の現南アのポートノロス(Port Nolloth)付近から、南ア西岸のセントへレナ湾(St. Helena Bay)に到達後に、暴風のため13日間漂流。海岸を離れていたので、南東から東に転進するも陸地が見えず、さらに北に進路を変え、1488/2/3にアングラ・ドス・バケイロス(Angra dos Vaqueiros)現南アの東ケープ州フレッシュ湾(Fresh Bay)or 同州グレートフィッシュリバー(Great Fish River, 730km)説有)から、大陸の南の岬の現モッセルベイ(Mossel Bay, Western Cape, South Africa)に到達しました。知らぬまにアフリカ南端を東に回航していたわけで、アルゴア湾(Algoa Bay)のセントクロイ島(St Croix Island、現ポート・エリザベス(Port Elizabeth)付近)に上陸しました。
なお、1487年にバーソロミュー船長が発見・命名したサンタ・マリア・ダ・コンセイソン湾は、1793年にオランダが占領してオランダ領と宣言し、「ウォルビス(オランダ語で鯨)」と名付け、ウォルビス湾(Walvis Bay)となりました。 1488年にはアフリカ西岸を探検航海中に難破・沈没して船を失ったペレイラ船長を、喜望峰からの帰りにプリンシペ島で救出しました。 その後、ヴァスコ・ダ・ガマ船長がインドへの航海の命を受けると、バーソロミュー船長もその準備に参画し、ダ・ガマ船長の航海にも加わり、1497/7/8 リスボンを出帆しました。ダ・ガマ船長の水先案内をヴェルデ岬までつとめて、ダ・ガマ船長の船団と分かれ、エル・ミナへと航海して無事にリスボンに帰港しました。 1500/3/8にはカブラル船長の13隻の大船団に船長として参加、弟ディオゴ・ディアズ(Diogo Dias)と共にリスボンからインドへ向け出帆しました。その後、たびたび暴風雨に見舞われ船団は散り散りとなり損傷するも、偶然にもブラジルを発見しました。1ヵ月後インドへ向かうも、南大西洋上で暴風雨に遭遇して4隻を喪失。バーソロミュー船長もこの時(1500/5/29説有)に亡くなり、50才で海難没となりました。 ・カラヴェル船 Portuguese caravel ship、15世紀中頃に登場
参考HP〜 ・喜望峰の地図 ・バーソロミュー・ディアズの航海地図 2004/4/22、07/2/3、09/12/25、10/4/28、12/6/21 |
第2次インド遠征艦隊 1500、喜望峰で遭難 バーソロミュー・ディアズ船長 |
PORTUGAL バーソロミュー・ディアズ船長 ポルトガル 1990-94 発行 |
CISKEI アフリカ最南端の古地図 喜望峰で遭難 シスカイ 1991/5/11 発行 |
ANGOLA カブラルの船隊 1468 カブラル生誕500年記念 1968 アンゴラ 1968/4/22 発行 |
南アメリカ |
CABO VERDE 航海地図 縦の赤線はトルデシリャス条約線 カンティーノの古地図、1502 カーボヴェルデ 1968/4/22 発行 |
ア フ リ カ |
1500年にバーソロミュー・ディアズ船長は、カブラル船長の第2次インド遠征艦隊(13隻, 1500/3/8-1501/6/23、4隻が帰港)に参加して、ポルトガルのリスボン港を出帆しました。 ・ディアズ船長(50才)の大航海:〜 1500年 03/08、マヌエル1世の命により、テージョ河々口リスボン港ベレン周辺に13隻が集結 03/08〜09、13隻がリスボンを順次、出帆 03/14、カナリア諸島最大の島グラン・カナリア島(スペイン領)沖を通過 03/22、カーボヴェルデ諸島着 ルイス・ピレス船長の船がヴェルデ岬で破損し船隊を外れ、リスボンへ帰港 03/23、カーボヴェルデを出帆後、 ヴァスコ・デ・アタイデ船長のナオ船を見失う 04/09、赤道を通過
05/02、急遽、カブラルが補給船を発見報告で帰国させる説有 05/03、現:バイーア州ポルト・セグロ(Porto Seguro、Bahia)出帆
参考HP:〜 ・ガマとカブラルの航海地図 ・カブラルのブラジル到達の航海地図(トルデシリャス条約の境界線を表示) ・発見者の群像(3)喜望峰を越えて! (1)バーソロミュー・ディアズ船長 (2)バスコ・ダ・ガマ船長 (3)パウロ・ダ・ガマ船長 (4)ジョアン・デ・リスボア船長 (5)ペドロ・カブラル船長 (6)ペドロ・デ・アタイデ船長 (7)ジョアン・ダ・ノーヴァ船長 (8)トリスタン・ダ・クーニャ船長 (9)ペドロ・デ・ソーサ船長。 こちらで ・エンリケ航海王子の船長たち(※)エンリケ王子の探検航海事業! ・ジル・エアネス船長(0)ボジャドール岬を突破! ・トリスタン・ヴァス・テイシェイラ船長(1)アフリカ西岸を越えて! ・ジョアン・デ・サンタレン船長(2)赤道を越えて! ・アルメイダ提督(5)インド洋支配!
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/11/11、2017/2/26 |
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