大航海物語
ポルトガル国王
マヌエル1世
在位:1495〜1521

参考資料
CARBO BERDE
マヌエル1世

1469 マヌエル1世生誕500年記念 1969
ポルトガル領カーボヴェルデ 1969/12/1 発行
GUINE
マヌエル王の紋章

ポルトガル領ギニア 1969/8/29 発行

マヌエル1世 (1469/5/31〜在位1495〜1521/12/13)
 Manuel-I、第14代ポルトガル王(アヴィシュ朝)

マヌエル1世はポルトガル・リスボン近郊のアルコシェテで生まれ、「幸運王」と呼ばれた。第14代ポルトガル王。父は、第11代国王ドゥアルテ1世の三男ヴィゼウ公フェルナンド(1433-1470)。母はドゥアルテ王の弟アヴェイロ公ジョアンの娘ベアトリス(1430-1506)。彼女の姉イザベルはカスティーリャ王フアン2世の王妃で、マヌエルがポルトガル王に即位した時点におけるカスティーリャの女王イサベル1世の母である(したがってマヌエルとイサベル1世は従姉弟の関係)。 マヌエル1世には5人の兄、2人の姉、1人の妹がいた。上の姉レオノールは1473年に従兄の王太子ジョアン(ジョアン2世)と結婚、ジョアンの即位(1481年)により王妃となった。このため、マヌエル1世は国王の従弟であり、かつ義弟という関係にあった。ジョアン2世は貴族や自治共同体(コンセーリョ)の特権を縮小し、王権を強化しようとしたため、それに反対する貴族らと対立した。マヌエル1世の兄、ヴィゼウ公ディオゴは1484年に反対派貴族の盟主として国王暗殺を企てるが失敗し、ジョアン2世によって殺された。さらなる叛逆の盟主として祭り上げられる可能性の高くなったマヌエル1世は、国王から危険視され、非常に不安な時期を過ごす。陰謀が渦巻く中の1493年、マヌエル1世は国王からの召還命令を受け取り、覚悟を決めて王宮に赴く。しかし、そこで国王から告げられたのは、マヌエル1世を王太子に、つまり次期国王として指名するとの言葉であった。2年前の1491年にジョアン2世の子である王太子アフォンソが事故死し、他に男子があったが非嫡出子で幼少であり、後ろ盾を得られず後継者候補からは外された。一方で、マヌエル1世の兄も既に全員他界していた。王妃である姉の働きかけもあり、貴族からも支持されてマヌエル1世は王太子となった。

1495年10月にマヌエル1世はジョアン2世の死去に伴い即位する。即位後直ちに、前王の治世下で財産・権限を奪われていたブラガンサ公などの貴族らに大部分の財産を返還し、懐柔した。一方で、中央集権化とアジアとの海上貿易路開拓という基本路線は、前王からそのまま受け継いだ。 内政では、各地域ごとに異なる租税制度や度量衡を近代化・統一化し、貴族の領地や自治共同体を含む全地方の行政・裁判を王の代官であるコレジェドール(Corregedor)の監督下に置いた。これらの諸法規の改正を全てまとめ、アフォンソ5世により公布された「アフォンソ法典」に代わる「マヌエル法典」として1521年に公布された。ただし、度量衡の統一に関しては不完全な結果に終わった。また、マヌエルの治世の間にはコルテス(身分制議会)は3度召集されたのみで(いずれもリスボンで開催)、ここにも絶対王政の特徴が現れている。 さらに、即位した年にキリスト騎士団長となり、主に海外にある騎士団領を王領に併合し、王室財産を拡大した。騎士団長の称号は、1516年にレオ10世によって正式に公認された。教皇に対しては、レオ10世が即位した1513年に祝賀の使節を送り、関係を強化した。マヌエルが新教皇に寄進した贈り物には、海外交易で得られた中国の磁器、真珠、宝石、そして外来の珍しい動物、例えば象(アンノーネと名付けられた)、豹、ペルシア馬などが含まれていた。1521年、リスボンで死去。マヌエルが巨額を投じて建設させたジェロニモス修道院付属のサンタ・マリア教会に葬られた。

マヌエル1世は傍流の六男として生まれながら偶然が重なり平和裡に王位につき、さらにその治世においてインド航路の開設等の吉事に恵まれてポルトガル王国の黄金期を築いたことから、幸運王と呼ばれた。先王ジョアン2世の推し進めた中央集権化政策を継承し、海外交易による莫大な利益を背景に、ポルトガルの絶対王政を確立した。

マヌエル1世はポルトガルの探検隊や商業の発展を積極的に支援した。マヌエルの命令により、1497年7月にリスボンを出港したヴァスコ・ダ・ガマは、1498年5月にインドのカリカットに到達。これにより、ポルトガルから喜望峰を経てインドへ至る海上ルートが発見された。1500年には、マヌエルによってインドに派遣されたペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルに漂着した後、東航してインドに着いた。トルデシリャス条約の締結時(1494年)には予想されていなかった位置に存在していたブラジルは、条約の取り決めに基づきポルトガル領となった。 一方、インド洋では古くからアラブのイスラム商人が活発に交易をしていたが、彼らをここから締め出し、この交易路をポルトガル商人に独占させることを目的として、1505年にフランシスコ・デ・アルメイダを初代インド総督に任命した。この地でのポルトガルの影響力拡大に危機感を抱いたエジプト(マムルーク朝)、オスマン帝国、ヴェネツィアは同盟を組み、ポルトガルに対抗する。1509年にポルトガル艦隊はディウの海戦でエジプト艦隊を破った。 同年、2代目総督にアフォンソ・デ・アルブケルケを任命。彼は1510年にゴアを占領し、その地をインド領の首府とした。続いて1511年にマラッカを占領し、そこを東南アジアでの中心拠点として、周辺の島々から集めた香辛料などをゴアに送る体制をつくった。さらに1517年には、中国の広東に入港している。この2人の総督時代に、インド洋とペルシア湾での海上ルートは、ポルトガルの独占となり、アジアとポルトガルを直接結びつける海上交易路が完成した。アフリカでは、海岸沿いに寄港拠点が点在するのみで、内陸の各王朝とは対等な友好関係が築かれ、国王同士で手紙や贈答品が交換された。例えば、コンゴ王国との間の、アフォンソ1世(コンゴ王と呼ばれた)とマヌエル1世とで交換された書簡は、両者の関係が良好であったこと、さらには当時のコンゴ王国の実態を知る上で貴重な史料である。 また、大西洋のマデイラ島での砂糖生産を王室の直轄とし、生産量を大幅に拡大させ、ヨーロッパ各地へ輸出可能となった。ポルトガルはアジアからの香辛料、アフリカからの金、そしてマデイラ島からの砂糖によって、莫大な利益を得た。

海外交易によって豊かになったマヌエル1世は宮廷に芸術家や科学者を多く招き、パトロンとして彼らの活動を後援した。また、リスボンのジェロニモス修道院(1502年着工、1551年完成)やベレンの塔(1515年着工、1521年完成)、トマールのキリスト教修道院(1481年に回廊を増築)に代表される華美な建造物を新築または増改築した。これらには、アフリカ・アジアの珍しい動物や、珊瑚やロープなど海に関するものをモチーフとした装飾が過剰なほどに施された。このポルトガル独自の建築様式は、後に19世紀になって「マヌエル様式」と呼ばれるようになった。

隣国スペイン(カスティーリャ)では、1492年にユダヤ人追放令が出され、少なくとも10万人 のユダヤ人が陸路でポルトガルに逃れて来た。前王ジョアン2世は、わずかな例外を除き、8ヶ月の滞在しか許さず、それを超えて滞在する者は奴隷の身分に落とした。マヌエルは即位するや、これらのユダヤ人を奴隷身分から解放した。しかし、カトリック両王の王女イサベル(事故死したアフォンソ王太子の未亡人)を妃として迎えるに当たって、スペイン側はポルトガル領内でのユダヤ教徒追放を求め、1496年にマヌエルもこれに応じた。ポルトガルでもキリスト教以外の宗教儀式は違法となり、ユダヤ人に対しては追放令が出された。しかし、商業、金融業で主要な役割を果たし、また医師などの知的専門職や職人となっている者も多いユダヤ人を追放することは、ポルトガルの経済上大損失であることを認識していたマヌエルは、彼らを国内に引き留めるために、形式的な強制改宗を断行する。1497/3/19をもってポルトガル国内に在住する全ユダヤ教徒はキリスト教に改宗したことにして、内心での信仰の調査は20年間猶予するというものである。この期間は、さらに延長され、マヌエルの治世下では結局行われなかった。しかし、表面的にキリスト教徒となったユダヤ教徒たちは、「新キリスト教徒」と呼ばれ、さまざまな場面で差別を受けた。14才未満の子は親許から引き離され、キリスト教徒の家庭に里子に出すことが義務づけられ、そこでキリスト教の価値観や習慣を身につけさせようとした。

マヌエル1世は3度結婚した。最初の妃は、スペインのカトリック両王(アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世)の長女イザベル(スペイン語名イサベル)。彼女は前王ジョアン2世の嫡子アフォンソ王太子の妃だったが、1491年に未亡人となりスペインに帰っていた。マヌエルとの結婚後、長子ミゲルを出産したが体調を崩し、そのまま数日後に死去した。次に前妻の妹、カトリック両王の三女マリアと結婚した。彼女との間には、マヌエルの後を継いで王となるジョアン3世(次のポルトガル王ジョアン3世)を初めとして10人の子が誕生した。最後にハプスブルク家のフィリップ美公(ブルゴーニュ公、オーストリア大公、カスティーリャ王フェリペ1世)とカトリック両王の次女フアナ(カスティーリャ女王)との長女レオノール(つまり前妻の姪)と結婚した。彼女は、マヌエルの死後しばらくは未亡人として過ごすが、1530年にフランス王フランソワ1世と再婚することになる。



ジョアン1世 (1357/4/11〜在位:1385〜1433/8/14)
 Joao I, o de Boa Memoria 第10代ポルトガル王、アヴィシュ王朝の創始者

ジョアン1世は、「大王」と呼ばれ、ペドロ1世の庶子で、フェルナンド1世の異母弟。エンリケ航海王子の父にあたる。父王が3番目の王妃イネス・デ・カストロの死後、妾妃テレサ・ロレンソとの間に誕生した。武勇に優れ、青年期はアヴィシュ騎士団の団長を務めていた。1383年に異母兄フェルナンド1世が死去すると、その王妃レオノール・テレスと貴族による専制政治が始まる。それに対してジョアン1世は反王妃派に支持され、ポルトガル王国内における勢力基盤を築き上げた。一方、このようなポルトガルの乱れを見た時のカスティーリャ国王フアン1世は、先王とレオノール・テレスの娘ベアトリスの婿であることを理由にポルトガルに侵攻した。ジョアン1世はこれをリスボンで迎え撃って撃退し、国民から救国の英雄として讃えられるにまで至った。レオノール・テレスは摂政を辞任したが、フアン1世に背いたことが発覚し、トルデシーリャスの修道院に幽閉された。そして1385年、コルテス(身分制議会)においてカスティーリャ軍を撃退した功績を評価されて、ジョアン1世はポルトガル王に選出された。同年8月、フアン1世が再度侵攻してきたが、アルジュバロータの戦いでこれを破った。さらにカスティーリャ王国の背後に同盟国フランスがいるのに対抗して、1386年にイングランドとウィンザー条約を結んで同盟を締結した。 1387/2/2、この同盟の証としてジョン・オブ・ゴーントの娘フィリッパとポルトで結婚した。2人の間に生まれた王子たちはいずれも優秀であった。王位を継承した長男はジョン・オブ・ゴーントの父エドワード3世の名前からドゥアルテと名付けられ、学究者として多く著作を出した。次男ペドロは学問と外国旅行を好み、後に摂政となり卓越した政治家となった。3男エンリケは近代探検の父と呼ばれ、エンリケ航海王子として知られる。五男フェルナンドは後年のモロッコ遠征での自己犠牲(捕虜)により、聖人に祀られた。長女イサベルはブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)妃となった。1411年にカスティーリャ王国と和睦を結んで側背の脅威を排除すると、いよいよ積極的な勢力拡大に乗り出した。1415年エンリケ航海王子と共にモロッコに進出し、同地に勢力を拡大したのである。その後も、積極的な勢力拡大に努めてポルトガルの全盛期の基礎を築き上げた。 1433年77才で死去。政治・軍事の多くに成功を収め、ポルトガルの全盛期の基礎を築き上げた経緯から、「大王」と呼ばれている。



ドゥアルテ1世 (1391/10/31〜在位:1433〜1438/9/13)
 Duarte I,、第11代ポルトガル王(アヴィシュ朝)。

ドゥアルテ1世は、「雄弁王」ともいわれる。ジョアン1世とランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘フィリパの息子。王妃はアラゴン王フェルナンド1世の娘レオノール。なお弟であるエンリケ航海王子を描いたとされる肖像画は、実はドゥアルテ1世を描いた物であると言う説が近年出ている。 1437年に行われたタンジール遠征で、アラブ軍に実弟フェルナンド王子が人質となったが、「セウタ返還がかなえば王子を釈放する」というアラブ側の要請にコルテス(議会)が難を示し、交渉は難航した。王子の救出に有効な措置がとれないことで精神的に追いつめられた王は、当時流行していたペストに罹患して死去した。 娘レオノール(エレオノーレ)は神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の皇后となり、マクシミリアン1世らを生んだ。


アフォンソ5世 (1432/1/15〜在位:1438〜1481/8/28)
 Afonso V (Affonso V)、第12代ポルトガル王(アヴィシュ朝)。

アフォンソ5世は、アフリカ王(Africano)と呼ばれる。ドゥアルテ1世とアラゴン王フェルナンド1世の娘レオノールの子。父王の急な逝去により、わずか6才で即位。王の遺言により、王妃レオノールが摂政となったが、外国人ということで国民に支持されず、コルテス(議会)はドゥアルテ王の実弟であるコインブラ公ペドロ王子を摂政に選んだ。ペドロ王子は善政を行い、庶出で異母弟のバルセロス伯爵をブラガンサ公爵にした。が、ペドロ摂政に代わり実権の掌握を狙う公爵は、幼いアフォンソ王に「摂政は王位を狙っている」と吹き込み、王はペドロ王子を敵視するようになった。 1443年にドゥアルテ1世の弟フェルナンド王子がフェスで獄死した。遺骸は城壁から逆さまにつり下げられた。従者たちは遺骸をもらい受けると、遺骨に塩をふりかけ壷に入れて埋葬した。アフォンソ5世は捕虜にしたモロッコの貴族たちと交換に、叔父フェルナンド王子の遺骸を取り戻し、1452年バターリャ修道院に埋葬した。 1446年に14才で親政を始めた。もう一人の叔父、エンリケ航海王子の斡旋により、ペドロ王子は政治顧問に退き、国政の実権はブラガンサ公爵とその子息オウレン伯爵へ移った。1448年にコインブラ公ペドロの娘イサベルと結婚。1449年に領地のコインブラの通過をブラガンサ公爵に認めなかったペドロ王子の措置に王は怒り、国軍を派遣して王子を戦死に追い込んだ。1458年にアルカセル・セゲール征服。1474年にアルジラ、タンジール征服。これにより、モロッコでセウタ他四都市を掌握するアフリカ・ポルトガル帝国を形成、「ポルトガル・アルガルヴェ、アフリカ海内海外王」を名乗った。同年にカスティーリャ王エンリケ4世死去により、エンリケの異母妹イサベル(後のイサベル1世)とエンリケの長女フアナ・ラ・ベルトラネーハ王女との間に王位を巡り抗争が起こった。フアナは、妃に先立たれて独身だったアフォンソ5世と婚約し、その救援を求めた。43才の叔父と14才の姪との結婚でも、教皇の許可を取得すれば可能だった。この結婚でカスティーリャ・ポルトガルの両国王になれると乗り気になった王は、ジョアン皇太子も同意したので、2万もの兵とともに挙兵しカスティーリャへ侵攻した。しかし、カスティーリャの国民と軍の大半は、出自の明らかでないフアナよりも、アラゴン王太子妃となったイサベルを支持していたため、1476年3月にトロの合戦で敗れた。 膠着状態に陥った継承戦争のさなか、王はフランスに赴いてルイ11世とブルゴーニュ伯爵の援助を求めたが失敗した。教皇庁から、結婚の許可はついに出なかった。1477年7月にアルカソヴァ和親条約により、戦争は終結した。アフォンソ5世は、フアナとの結婚を解消し、カスティーリャ王位継承を放棄すること。フアナは、カスティーリャの王位継承者フアン王子(カトリック両王の長男)と将来結婚するか、あるいは修道院に入るか、半年以内に決める。ポルトガル王太子ジョアンの長男アフォンソ王子とカスティーリャ王女イサベル(カトリック両王の長女)の婚約。フアナに味方して戦ったカスティーリャ人に恩赦を与える。フアナは17才でカスティーリャの王冠を放棄し、コインブラのサンタ・クララ修道院へ入った。王は晩年の治世にジョアン王太子を摂政にし、実権から退いた。


ジョアン2世 (1455/3/3〜在位:1481〜1495/10/25)
 Joao II、アヴィシュ朝の第13代ポルトガル王(アヴィシュ朝)。

ジョアン2世は、「無欠王」(O Principe Perfeito)と称された。アフォンソ5世の子。 父王の時代から摂政の地位にあり、1481年に即位する。即位後は強力な中央集権化を目指し、コルテス(身分制議会)の援助を得て貴族階級を弾圧した。1481年には国土の3分の1を支配してポルトガルで権力をほしいままにしていたうえ、カスティーリャ王国と内通していたブラガンサ公を滅ぼした。内政においてはエンリケ航海王子のアフリカ西海岸開拓事業を継承して1484年はコンゴ河々口、1488年には喜望峰に到達する。
        ジョアン2世

カーボ・ヴェルデ 1994 発行

1483年に謀反の疑いで、ブラガンサ公爵(アフォンソ5世の幼年期の摂政)を処刑した。レオノール王妃の兄で王には従兄に当たるヴィゼウ公爵も、謀反に加わっていたため同年、王に殺された。1490年にアフォンソ王太子がカスティーリャ王女イサベル(カトリック両王の娘)とエヴォラで結婚。翌年、王太子は落馬事故で死去し、王太子妃イサベルは故国へ戻った。クリストファー・コロンブスの航海事業には協力しなかったため、大西洋開拓ではスペインに遅れをとった。王の血を引くのは庶出のジョルジェ王子しかいなかったが、王妃レオノールが彼を嫌っていたため、後継指名できなかった。王妃の勧める、彼女の弟ベージャ公マヌエルを皇太子に指名した。1495年に41才で死去。精力的で覇気に溢れた名君として高く評価されている。



マヌエル1世 (1469/5/31〜在位1495〜1521/12/13)



ジョアン3世 (1502/6/6〜在位:1521〜1557/6/11)
 Joao III、第15代ポルトガル王(アヴィシュ朝)。

ジョアン3世は「敬虔王」(Piedoso)と呼ばれる。マヌエル1世とカトリック両王(アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世)の三女マリアの息子。父王の死去により19才で王位を継承する。 1536年に教皇パウルス3世の教書により、ポルトガルで初めて反宗教改革による異端審問を開始した。1537年にコインブラ大学を創設する。イグナティウス・デ・ロヨラがパリでイエズス会を創設したことを耳にした王は、ポルトガル植民地内の異教徒へキリスト教を伝道する神父を派遣するよう依頼。ロヨラが推薦したのが、フランシスコ・ザビエルとシモン・ロドリゲスである。 1557年に心臓麻痺で死去。王は王妃カタリナ・デ・アウストリア(神聖ローマ皇帝カール5世すなわちスペイン王カルロス1世の妹)との間に9人、庶子2人がいたにもかかわらず、いずれも亡くなっており、五男の息子でわずか3才の孫セバスティアンが王位を継いだ。



セバスティアン1世  (1554/1/20〜在位:1557〜1578/8/24)
 Sebastiao I,、第16代ポルトガル王(アヴィシュ朝)。

セバスティアン1世は「熱望王」(o Desejado)と呼ばれる。ジョアン3世の五男(第8子)ジョアンとスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の娘フアナの子。 父ジョアンの母カタリナはカルロス1世の妹、母フアナの母イサベルはジョアン3世の妹であり、セバスティアンの両親は父方と母方の双方で従姉弟の関係にあった。 未成年の間、初めは祖母カタリナが、次いで大叔父の大司教エンリケが摂政を務めた。1562年にスペイン王フェリッペ2世の王女イサベル・クララ・エウヘニアに婚約を申し込むが、フェリペが延期を申し出る。1567年に南アメリカで、ポルトガル軍は砦を築いていたフランス軍を撃退し、リオ・デ・ジャネイロを占領した。1570年にはアンゴラの植民地化を開始した。着々と進むインド、アフリカ、ブラジルの植民地拡大に加え、ジョアン3世が熟慮の末放棄したモロッコの要塞の再征服を夢見るようになる。1578/8/24に「アルカセル・キビールの戦い」でポルトガル軍は惨敗、王は戦死したが、遺体は見つからなかった。嫡子がなかったため、摂政エンリケが王位を継承した。



エンリケ1世 (1512/1/31〜在位:1578〜1580/1/31)
 Henrique I、第17代ポルトガル王(アヴィシュ朝)。

エンリケ1世は「枢機卿王(o Rei-Cardeal)」あるいは「純潔王(o Casto)」と呼ばれる。マヌエル1世と王妃マリア(アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世の娘)の息子で、ジョアン3世の弟。 エンリケは王位に即くとは思われておらず、ブラガ大司教、エヴォラ大司教、異端審問所長官を経て枢機卿となった。また、植民地に派遣するためイエズス会士をポルトガルへ招こうと努力した。1555年からエンリケは従甥のセバスティアンの摂政となり、セバスティアンが1578年にアルカセル・キビールの戦いで戦死すると王位を嗣いだ。王家の維持のためにエンリケ1世は聖職を辞して結婚相手を探そうとしたが、ハプスブルク家の影響下にあった教皇グレゴリウス13世はそれを認めなかった。 次期王位継承者として5人が立候補したが、いずれもマヌエル1世の孫であった。 クラト修道院長アントニオ。ジョアン3世の弟でエンリケ1世の兄ルイスの庶子。ブラガンサ公妃カタリナ。ジョアン3世の弟ドゥアルテの娘。スペイン(カスティーリャ=レオン連合王国)フェリペ2世。ジョアン3世の姉イザベルの子。 サヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルト。ジョアン3世の妹ベアトリスの子。 パルマ公ラヌッチョ1世。ブラガンサ公の長女マリアの長子。このうち国民の支持を集めていたのは修道院長アントニオであったが、エンリケ1世はブラガンサ公妃を支持していた。フェリペ2世はエンリケ王に働きかける他、主だったポルトガルの貴族、聖職者、官僚に賄賂をばらまいた。ブラガンサ公は先祖がジョアン3世に処刑された先例があり、フェリペ2世と張り合うことを望まなかった。1580/1/11に自身で決断のできないエンリケ王がアルメリンでコルテス(身分制議会)を招集した。フェリペ2世は自分が選ばれると期待していたが、外国人支配を嫌う雰囲気の中で多数を制することができなかった。 1580/1/31にエンリケ1世は後継者を定めることなく死去した。7/24にセバスティアン戦死のときにも王位を請求していたアントニオは即位を宣言した。しかし11月、フェリペ2世は王位を請求してアルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドを派遣した。リスボンはたちまち陥落してアントニオはアゾレス諸島へ退却し、ポルトガルとスペインが合同しないという条件の下、フェリペはフェリペ1世としてポルトガル王に即位した。この後1640年まで、スペインとポルトガルはハプスブルク家の王を戴く同君連合(1580〜1640)となった。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       08/8/15
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