★歴史の証人
  シリーズ

西サハラ
1884〜1975
Spanish Western Sahara

スペイン領★
ESPANA-SAHARA
西サハラの地図
モロ
ボジャドール岬→ ←西サハラ

リオ・デ・オーロ→


ブランコ岬→
アルギン湾→
モ|リタニ
1936 フランコ総統25年記念 1961
サハラ 1961/4/18 発行

アイウンの紋章、 ラクダ乗り

サハラ 1956/11/23 発行
フラミンゴ
Flamingo


サハラ 1967/11/23 発行
ダチョウ
Ostrich


サハラ 1957/4/10 発行
ESPANA

スペイン 1970 発行
現地フ

ッシ
ョン

スペイン領西サハラ
 Spanish Western Sahara

アフリカのモロッコの南にある地域で、紛争が続いているのが西サハラです。その大半は砂漠で、ベルベル人などの遊牧民が部族ごとに散在して暮らしていましたが、列強諸国によるアフリカ分割(1884)でギニア湾岸を除く西アフリカのほとんどの地域が東西5000km、南北4000kmにも及ぶ広大なフランスの植民地(フランス領西アフリカ)となった中で、西サハラとモロッコ最南部タリファや地方はフランス領に囲まれたスペイン領でした。1番切手:1924〜1975年発行。

8世紀、イスラム教が伝来
11〜13世紀、ベルベル人などが住む地をモロッコ王朝が支配してくる
1434年、ポルトガルのジル・エアネス船長がボジャドール岬(Cape Bojador)を回航
1441年、ポルトガルのアンタン・ゴンサルヴェス船長船長がリオ・デ・オーロに到達
      ポルトガルのヌーノ・トリスタン船長がブランコ岬(Cape Blanco)に到達
1444年、ポルトガルのゴンサロ・デ・シントラ船長がブランコ岬に到達
1445年、ポルトガルのエンリケ航海王子がブランコ岬南のアルギン島に交易所を建設
1476年、カナリア諸島のスペイン領主ディエゴ・ガルシア(Diego Garcia de Herrera)が
      対岸の西サハラに漁業、奴隷交易、貿易基地としてサンタクルス砦を建設
1524年、ムーア人の攻撃でスペインが西サハラ要塞を放棄して撤退
1860年モロッコのサルタンがイフニをスペインに割譲
1884年、ベルリン会議の列強によるアフリカ分割でスペイン領サハラの地理的原型が成立
1884/11/3、スペインが西サハラの領有を宣言、
      実質支配地はリオ・デ・オーロ地方の海岸部で、ボジャドール岬〜ブランコ岬の間
1886年、スペインの保護領となる
1906年、サギア・エル・ハムラ(Sheikh Ma' al-'Aynayn)でスペインへの反乱勃発(-1934)
1912年、イフニとモロッコ南部保護領(タルファヤ地方)が合併、スペイン領西アフリカを形成
      リフ戦争が勃発(-1925年スペイン・フランス連合軍が勝利)
1913年、フェス条約(1912)で、スペイン領モロッコ(北部保護領、リーフ地域)が成立
1916年、スペインがジュビィ岬(Cape Juby)を占領、タルファヤ村(Villa Bens aka Tarfaya)となる
1920年、スペインがラ・グェラ(La Guera)を占領
1924年、スペインの領土からリオ・デ・オロとサギア・エル・ハムラでスペイン領サハラが成立
1934年、リオ・デ・オーロ地方の内部からサギア・エル・ハムラ地方も占領(フランスが軍事協力)
1936/10/1、フランコ総統が反乱軍(国民戦線軍)の総司令官に指名され国家元首に就任
1939/3/31、スペイン内戦が終結、フランコ政権がスペイン国内を統一
1946年、イフニがサハラ領となる
1951/7/18、フランコ総督が訪問
1956/3/02、モロッコがフランスから独立
04/07、スペインがセウタメリリャ、イフニを除くスペイン領モロッコ(北部保護領)を返還
04/10、イフニで反スペイン暴動が発生
1958年、スペインがモロッコ南部保護領(タルファヤ地方)をモロッコに返還
1962年、ブ・クラウでリン鉱石開発が本格化
1963/5/25、アフリカ統一機構(OAU)が発足、モロッコが加盟
1965年、国連は住民投票の実施を要請するも、スペインは回避
1966年、モロッコとモーリタニアは、国連でスペイン領サハラの領有権を主張
1969年、セウタとメリリャの領有をモロッコが黙認することを条件にイフニをモロッコに返還
1973/5月、ポリサリオ解放戦線(Frente Popular para la liberacion de Saguia el hamra y
      Rio de oro =サギア・エル・ハムラとリオ・デ・オロ人民解放戦線)が結成され
      スペインを相手に地元で武力闘争を開始
1974年、ポリサリオ戦線へリビアとアルジェリアから武器の援助
1975年、フランコ総統が亡くなり、マドリード協定でスペインは領有権を放棄して撤退
      アルジェリアでポリサリオ戦線はサハラ・アラブ民主共和国の建国を宣言
      ティンドゥフにある難民キャンプを拠点として、武装闘争を続ける

1975/11月、モロッコは35万人を動員してスペイン領サハラへ「緑の行進」を行う
11/14、スペインとモロッコ、モーリタニアがマドリード協定を締結、スペイン撤退後の
      西サハラ分割について密約(=スペインの了承で、西サハラ北部をモロッコ、
      南部をモーリタニアが分割統治をする秘密協定が結ばれ両国が領有)
      その後、国連視察団が派遣される、
      スペインはモロッコ、モーリタニアに分割譲与する協定を結び、
     モロッコとモーリタニアの2国軍が侵攻、住民はアルジェリアに避難
11/20、フランコ総統が亡くなる
1976年、モーリタニアとモロッコ が分割統治を開始する一方で、
      アルジェリアの首都アルジェで亡命政権サハラ・アラブ民主共和国 (SADR) を樹立
      西サハラの独立を目指すサギアエルハムラ・リオデオロ解放戦線
      (POLISARIO、通称ポリサリオ戦線)はアルジェリア の支援を得て武力闘争を開始
      ポリサリオ戦線はまずモーリタニアを集中的に攻撃し、
      同国の首都ヌアクショットまで攻撃するなど戦闘を有利に進めた。
      度重なる多額の戦費支出によってモーリタニアの国家財政は圧迫されていき、
1976/2/26、スペインが西サハラを放棄、西サハラはモロッコとモーリタニアが南北に分割
02/27、ポリサリオ戦線はサハラ・アラブ民主共和国建国を正式に宣言し亡命政権を樹立
     モロッコとの間にゲリラ戦を開始(-1991年停戦)
04/14、モロッコとモーリタニアが西サハラの分割ラインを決定
1977年、ポリサリオ戦線の軍事的勝利
1978年、モーリタニアで無血クーデター起こり、ポリサリオと停戦
1979/02月、スペインが撤退
08/07、モーリタニア政府がポリサリオ戦線と和平協定締結、領有権を正式に放棄
08/14、モーリタニアが放棄した領域をモロッコ軍がすぐ不法占領したため、
      モロッコが西サハラのほぼ全域を占領、現在に至るまで独立をめぐる問題が続く
1980年、モロッコはイスラエルの協力で砂漠に鉄条網を張る防衛線の「砂の壁」を建設
      (外側はサハラ・アラブ国の解放区)、西サハラ地域の道路建設などを進め始める
1982/2/22、サハラ・アラブ民主共和国がアフリカ統一機構に加盟
1984年、憤慨したモロッコがアフリカ統一機構を脱退、
      モーリタニアがサハラ・アラブ民主共和国を国家承認
1988年、東西冷戦終結でアルジェリアも民主化を発表すると、西サハラを取り巻く国際環境も一変
      国際連合事務総長の和平提案をポリサリオ戦線とモロッコの双方が合意を受け入れ
      提案内容は、独立かモロッコへの帰属を決める住民投票を実施するというもの
1991/4月、国際連合(UN)の仲介でポリサリオ戦線とモロッコは停戦、
      国連安全保障理事会の決議で和平案がまとめられ、
      国連西サハラ住民投票監視団(MINURSO)が設置される
      国連提案にあった住民投票を実施することになり、国連平和維持活動 (PKO) として
      国連西サハラ住民投票監視団 (MINURSO) が創設され、その地域は遊牧民が多く
      有権者の認定が困難を極めるためという理由で、投票は現在に至るまで無期延期
1992年、停戦が実現、独立あるいはモロッコ併合かを問う住民投票が延期となる
2002年、サハラ・アラブ民主共和国はアフリカ統一機構のみの加盟で、
      アフリカ・中南米・南アジア諸国を中心に約80か国から国家承認を得ている
      モロッコは国際連合のみの加盟となっている。

西サハラの街と地方区分:〜
スペイン・モロッコ南部保護領(1912-1958):〜タルファヤ地方(Tarfaya strip)
  South Zone of the Spanish protectorate of Morocco
・ヴィラ・ベンス(Villa Bens)〜別名:タルファヤ(Tarfaya)
  タルファヤは、1912年にモロッコ南部保護領として
  イフニ、スペイン領サハラと共に、スペイン領西アフリカとなり、
  タルファヤ市はスペイン領西アフリカの中心地となるが、1958年にモロッコへ返還
・アス・サクン(As-Sakn)〜
  スマラの北100kmに有
・ケープ・ジュビー(Cape Juby)〜旧称:ヴィリャ・ベンス(Villa Bens)
  ケープ・ジュビー地方(Cape Juby Strip)ジュビー岬が有
  (1番切手:"MARRUECOS"加刷"CABO JUBY"首都:ヴラベンス 1916〜1942年発行)

サギア・エル・ハムラ地方(strip、州)
  Saguia el-Hamra

西サハラの北半分はサギア・エル・ハムラ地方(州)(Saguia el-Hamra、「赤い運河」の意味で、エル・アイウン(El Aaiun)が州都で、その他のこの地方の主な町(村)は次の通りです。
・ティファリティ (Tifariti)〜
  2008年2月27日のサハラ・アラブ民主共和国建国宣言32周年を期して、
  亡命政府によって新たな臨時首都として宣言された都市
  (亡命政府の本拠地はアルジェリア領内の難民キャンプの行政区画ラブニ(Rabouni)
・ビル・ラフルー (Bir Lahlou)〜
  2008年まで、サハラ・アラブ民主共和国の臨時首都とされていた都市
・ブーカラー (Bou Craa)〜別名:ブクラ
  1963年豊富なリン鉱床が発見され、現在も採掘中
・ボジャドール(Cape Bojador)〜
  ボジャドール岬の海岸沿いの街
・ファルシア(Farciya)〜
  ビル・ラフルーの北80kimの砂漠の村
・ハウザ(Hawza)〜砂漠の町
・アル・マーバス(Al Mahbass)〜
・メハリズ(Meharrize)〜
・レムセイダ(Lemseid)〜
・ハグニア(Hagunia)〜
  アイウンの北東にある砂漠の村
・スマラ (Smara)〜別名:セマラ
  内陸部に広がる都市
アイウン
  El Aauin
,Western Sahara、別名:ラーユーヌ、ラーユーン、ラユーン、エル・アイユーンとも呼ばれ、1928年スペインが建設。西サハラの最大都市で、サハラ・アラブ民主共和国亡命政府は自らの首都と主張するも、現状はモロッコの実効支配下にある。サギア・エル・ハムラ(Sheikh Ma' al-'Aynayn)の州都。人口:183,691人(2004)、196,331人(2010)。ハッサン空港(Hassan Airport)がある。他に西サハラの中にはダフラ (Ad-Dakhla)やスマラ(Semara)など、4ヶ所に飛行場がある。
 アイウンの紋章

リオ・デ・オーロ地方(strip、州)
  Rio de Oro

リオ・デ・オーロとはオーロ川の意味で、現在はワジ(Wadi、流水のない涸れ川、水無川)になっており、西サハラの南半分を、リオ・デ・オーロ地方(州)といい、ダフラ(Dakhla、ダクラ:Ad Dakhla)が州都で、その他のこの地方の主な町(村)は次の通りです。(1番切手:"COLONIA DE RIO DE ORO" 首都:ヴィラシスネロス 1905〜1922年発行)
・ダフラ (Ad-Dakhla)〜旧称:ビリャ・シスネロス(Villa Cisneros)リオ・デ・オーロの州都
  ダクラとも呼ばれる良好な港を持つ港湾都市で、アイウン南約550kmに有、空港有
・グエルタ・ザマーGuelta Zemmur)〜一般人は侵入禁止
  モロッコ軍のポリサリオ戦線監視のための駐屯地
・ゾウグ(Zoug)〜
  南部国境線近くの集落
・ビル・アンザラン(Bir Anzarane)〜
  ダフラの東方に有
・エル・アールガブ(El Aargub)〜港町
・グエルタ・ザマール(Guelta Zemmur)〜
  砂漠のオアシスの町で、アルジェリアの都市ティンドゥフ(Tindouf)への交通の要衝
・ドゥガジ(Dougaj)〜
  東方の奥地の砂漠の村
・アゴウニト(Agounit)〜
  東方の国境の村
・ミジェク(Mijek)〜
  東方の国境に近い村
・ザグ(Zug)
  南東奥地の国境に近い砂漠の村
・ラゴウイラ (Lagouira)〜
  ブランコ岬の町

亡命政府:〜
サハラ・アラブ民主共和国
 Sahrawi Arab Democratic Republic
ポリサリオ戦線
  首都:ラユーン(アイウン)、臨時首都:ティファリティ(Tifariti)、人口:267000人(2004)、面積:26.6万u、住民:アラブ・ベルベル系、言語:アラビア語、ハッサニヤ語(アラビア語の方言)など、宗教:イスラム教、国土のほとんどがサハラ砂漠。沿岸は世界で指折りの漁場。内陸部は砂漠気候で、海岸部は比較的穏やかな気候。世界約50ヵ国が正式な外交関係を結ぶ砂漠の中の亡命政府。アルジェリア領内のオアシスの街ティンドゥフで難民キャンプの亡命政府を作っています。

西サハラの独立を目指すサギアエルハムラ・リオデオロ解放戦線(POLISARIO、通称ポリサリオ戦線(Frente Popular de Liberacion de Saguia el Hamra y Rio de Oro,POLISARIO)が、「サハラ・アラブ民主共和国」という国の独立を宣言するも、
ラクダの郵便配達

サハラ1959/11/23発行
領土のほとんどはモロッコが占領し続けています。

西サハラは「砂の壁」と呼ばれる軍事境界線をはさんで、7〜8割に相当する地域をモロッコが実効支配しています。砂の壁の東側、2〜3割に相当する地域がサハラ・アラブ共和国(ポリサリオ戦線)の実行支配地域で、境界線をはさんで両者は今もにらみ合っています。これが「西サハラ問題」といわれています。

参考:〜
スペイン領アフリカ
  Spanish Africa

スペイン領アフリカは、第2次大戦戦後にアフリカ諸国の独立が相次ぐなかで最後の植民地となっていましたが、サハラ以外にも、飛び地などが有って複雑に入り組んでいました。それをおおよそに分けてみると、次のように呼ばれていた地域になります。

・プラサス・デ・ソベラニア(Plazas de soberania)と呼ばれていた地域
  セウタメリリャなどは現在もスペイン領ですが、

スペイン領モロッコ〜リーフ地方(Rif strip、1913-1956)
 (Spanish Protectorate of Morocco、北部保護領)
 (1番切手:"MARRUECOS" 首都:テトゥアン 1903〜1955年発行)
・スペイン南部保護領モロッコ〜タルファヤ地方(Tarfaya strip、1912-1958)
 (South Zone of the Spanish protectorate of Morocco)、イフニ他、
 (1番切手:"AFRICA OCCIDENTAL ESPANOLA"
   首都:シジ・イフニ 1949〜1951年発行)
・スペイン領サハラ〜西サハラ(Spanish Western Sahara、1884〜1975)
 (Spanish Sahara Occidental)
 (1番切手:"SAHARA ESPANA" 首都:アイウン 1924〜1961年発行)
・スペイン領ギニア(Spanish Guinea、1926-1959)、別名:リオムニ
 (1番切手:"GUINEA ESPANOLA" 首都:サンタイサベラ 1902〜1957年発行)
リオムニ(Rio Muni、1778-1959)
フェルナンドポー(Fernando Poo、1778-1968)
などは返還されました。
ギニアのオーム

ギニア1957/6/1発行

参考HP:〜
西サハラの地図
西サハラの地図(拡大有)
西サハラの地図(ティファリティの村名が有の道路地図)
西サハラの地図(日本語、アイウン(Aauin)有)
西サハラの地図(詳細地図:1958年)
西サハラの場所地図
西サハラの区分地図(SEGUIRA EL HAMRA、 RIO DE OROの境界が有、拡大有)
西サハラの区分地図(CUP JUBY、 SEGUIRA EL HAMRA、 RIO DE OROの境界が有)
アフリカ分割の地図(1912年のアフリカ)
西サハラ「砂の壁」の地図
ダフラとアンザランの場所地図
スペイン領モロッコの場所地図(北部保護領(リーフ地域) 1913-1956)
リーフ共和国の場所地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       11/4/11

スタンプメイツ
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