大航海物語 切手で綴る 大航海時代の
冒険の原動力(キッカケ)と成った動機 (Adventure Motivation)
プレスター・ジョン大王
Prester John

幻の救世主を求めて!
資料

PORTUGL
伝説のプレスター・ジョン大王


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ペロ・ダ・コヴィリャンの東方冒険旅行500年記念
Journey of Pero da Convilha to the East 500th Anniv.
ポルトガル 1988/2/3 発行

GRENADA
Carriacou & Petite Martinique

マリ帝国の王 マンサ・ムーサ (伝説の大王?)

Mansa Musa rules Mali (1280頃-位1312-1337頃)
2000年紀の記念

グレナダ領カリアク島とプティト・マルティニーク島 2000/2/1 発行
ESPANA
伝説の大王?

King Sanco Ramirez 900th Death
図案は”サンチョ1世”(1042-位63-94)
スペイン 1994/7/7 発行

SENEGAL
マリ帝国の王 アブバカリ2世 (伝説の大王?)
BAKARI II SUR LA CARTE DE .....S 1413
(Bakari II on the map of .....s 1413)
オルメカの巨石人頭
Abu Bakr II rules Mali (1312頃)
TETE COLOSSALE VERA CRUZ - MEXIQUE
マンサ


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伝説の救世主の大王?
BAKARI II
マリ帝国の王 マンサ・ムーサ と カタロニア地図


Mansa Musa rules Mali (1413頃)
BAKARI II SUR CARTE DE L'ATLAS CATARAN DE 1375
セネガル 1992 発行
マリ帝国の王の一人がアメリカ大陸に航海して、オルメカの王になった説が有(オルメカの巨石人頭像・王の顔)。 カタロニア地図(Catalan Atlas 1375)の複製は万博記念公園の国立民族学博物館に有。

・プレスター・ジョン大王伝説
  King Prester John (プレステ・ジョアン)
ラテン語ではプレスピュテル・ヨハネス(Presbyter Johannes)。プレスター(Prester)は聖職者、司祭を意味し、アジアあるいはアフリカに存在すると考えられていた伝説上のキリスト教国の国王。プレスター・ジョン伝説ではネストリウス派キリスト教の司祭が東方に王国を建国し、イスラム教徒に勝利を収めたことが述べられています。十字軍遠征の成果があがらぬため、イスラム勢力に対抗する勢力の出現を強く望んでいたヨーロッパ人のところに、プレスター・ジョンというキリスト教徒が東方に王国を建設したという「ウワサ」が、中世ヨーロッパに流布して伝説となったものです。

12世紀にドイツの司教で歴史書記者の「フライジングのオットー」(Otto of Freising, 1114頃-1158/9/22)という人が著した年代記の1145条に、シリアの一人の主教の報告に基づいて、「ネストリア派キリスト教徒でペルシャ・アルメニア以東に広大な領土を持つ王が聖地エルサレムを奪回のため西進し、ペルシャのメディア王国(Median Kingdom, BC715-BC550)首都エクバタナ(Ecbatana, 現:ハマダ−ン:Hamadan)を占領するも、目標を達せず帰還した」とあるのが、この伝説の初見です。そして、やがて同王の書簡の写しなるものがヨーロッパに流布し、またその王の使節が来たとの噂も流れ、モンゴル帝国以前のケレイト部族(Keraites)やモンゴル帝国(Mongol Empire, 1206-1368)皇室にネストリュス派キリスト教徒が実際にいたことなどが、ヨーロッパに、この伝説が流布する要因となりました。東方旅行をした修道士や商人はプレスター・ジョンが何者かの探索につとめ、ヴェネツィア共和国の修道士ヨハンネス・デ・プラノ・カルピニ(Iohannes de Plano Carpini、1182頃-1252/8/1)、仏のフランシスコ会修道士ウィリアム・ルブルック(Guillaume de Rubrouck、1220-1293)やマルコ・ポーロなどがそれぞれの説を唱えました。

その後、東方での実在はカトリック修道士を中心に疑問視され、15〜16世紀になるとそれに代わり、エチオピアにプレスター・ジョン王の存在を求めるようになり、アフリカ探検の原動力ともなりました。

・参考:〜
ポルトガル王国のエンリケ航海王子が西アフリカの探検事業を推進した理由は黄金の発見のほかに、プレスター・ジョンの国の捜索が目的となっていたと言われています。エンリケ王子は、プレスター・ジョンの国の入り口となるエチオピア湾と思しき大きな湾の入り口を発見した場合には付近の住民にインドとプレスター・ジョンの情報を聞きまわるよう、船舶の乗組員に言いつけていました。1486年にジョアン・アフォンソ・デ・アヴェイロ(Joao Afonso de Aveiro (Afonso de Paiva), 1443頃-1490頃) に伴われてポルトガルの宮廷を訪れたベニン王国(12世紀から1897年までナイジェリア南部の海岸地帯に存在した王国で王都は現ナイジェリアの
マリ帝国の王 マンサ・ムーサ と カタロニア地図
エド州ベニンシティ:Benin City, Edo)の使者は、ベニンから約1,400km離れた場所のオガネーという王の存在をポルトガルに伝えました。ベニンの使者が述べたオガネーはナイジェリア南東部を支配したヨルバ人のオヨ王国(Oyo Empire, 1400-1905)の王だと考えられているも、オガネーは近隣の首長に対して錫の十字架を授与するなど教皇のように振る舞っていたと言われ、ポルトガル王ジョアン2世はオガネーがプレスター・ジョンの正体だと考えました。また、オガネーのほかには、ディオゴ・カンが「発見」したコンゴ王国(Kongo ya Ntotila, 1395-1914)の君主、莫大な富と強い権力を有するモノモタパ王国(Kingdom of Monomotapa, 1430-1760)の王も、一時期プレスター・ジョンと見なされていました。

ベニンからの使者の報告を受け取ったジョアン2世は、地中海方面と西アフリカ方面にプレスター・ジョンの国とインドへの到達を目的とする探検隊を派遣しました。現マリのトンブクトゥや、セネガル河上流のテクルル(Sstate of Takrur, 800頃-1285)など西アフリカ内陸部の都市に探索隊が派遣され、バーソロミュー・ディアスには西アフリカ沿岸の更なる南下が命じられました。地中海方面にはペロ・ダ・コヴィリャンアフォンソ・デ・パイヴァが派遣され、2人はイスラム教国のマムルーク朝が支配するエジプト(Mamluk Sultanate of Egypt, 1250-1517)に向かいました。地中海を渡った2人はエジプトを経てイエーメンアデンに到達して別れ、パイヴァはエチオピアに、コヴィリャンはインド亜大陸に向かいました。パイヴァはエチオピアに到着した後に病死し、コヴィリャンは西インドを探索した後にカイロに戻りました。カイロに戻ったコヴィリャンはジョアン2世が派遣した使者に会い、インド探検の報告書を託してプレスター・ジョン捜索のためエチオピアに向かいました。1493年にコヴィリャンはエチオピアに到着し、帝国から厚い待遇を受けるも、帰国は許されませんでした。エチオピアに向かったコヴィリャンとポルトガル本国との連絡は途絶えているも、1520年にエチオピアからの要請を受けて派遣されたドン・ロドリゴ(Dom Rodrigo de Lima)を団長とする使節団はこの地でコヴィリャンを発見し、エチオピアをプレスター・ジョンの国、当時のエチオピア王ダウィト2世をプレスター・ジョンとしてポルトガル本国に報告しました。ドン・ロドリゴがコヴィリャンと再会した1520年以後、ポルトガルはエチオピアの王を「プレスター・ジョン」として認定。使節団に随行した司祭ドフランシスコ・アルヴァレス神父はエチオピアの見聞録を「プレステ・ジョアンの国」の記録として記し、1540年にリスボンで刊行されました。

1572年にアブラハム・オルテリウスによって作成されたアフリカ大陸の地図には「月の山」などの架空の土地が多く描かれており、その中にはプレスター・ジョンの国も含まれていました。17世紀に入るとプレスター・ジョンの国は地図上から消滅するも、大航海時代の後も「プレスター・ジョンの国」はエチオピアの文学的な呼称として使われ続けられました。

・マリ帝国の王 マンサ・ムーサ
 (Mansa Musa, 在位:1312-1337)(”Mansa”は称号で”王”)
マンサ・ムーサ王は現マリ共和国にあったマリ帝国(Mali Empire, 1230頃-1645)の第9代の王で、アラビア語の文献にその名が記録されています。1324年にメッカ巡礼を行って、その贅沢で派手な旅行が有名です。巡礼の帰りに立ち寄ったマムルーク朝治下のカイロで、イスラム教の教えに従ったホドコシを行って、大量の金を惜しみなく分け与えたので、金相場が下落したと伝えられています。この王の時代からマンサ・スレイマン(在位:1341-1360)の時代まで、マリ帝国は最盛期を栄えました。現在の価値にして約4000億ドル(約35兆円)という人類史上最高の総資産を保有したとも伝えられています。1352年頃にモロッコイブン・バトゥーダ博士がマリ帝国のジェンネを訪れ”泥のモスク”を見に行って、その繁栄ぶりを伝えています。
マンサ・ムーサ王
・マリ帝国の王 アブバカリ2世
 (Mansa Abu Bakr II, 在位:14世紀頃)
アブバカリ2世はマリ帝国のマンサ(Mansa)の一人とされる王の名前で、1310年頃に王位についているも、大西洋横断探検をするため、王位を退きました。そして彼の弟もしくは息子が、1324年のメッカ巡礼で有名なマンサ・ムーサだと言われています。ところが実在しなかった説もあってアブバカリ2世の実像は、西アフリカ史を専門とする歴史研究者によって明らかにされつつあるも、むしろ、アメリカにおける「アフロセントリズム(Afrocentrism)」で、その虚像に焦点があたっているというのが現状です。アフロセントリズム的解釈においては、アブバカリ2世はコロンブスよりも200年早くアメリカに到達し、そこでアフリカ文化を先住民に広めたとされています。さらにそのイスラム主義的解釈で、アメリカでイスラムを先住民に広めたとされています。

なお当時、アラブ人の地図学者・地理学者のムハンマド・アル=イドリーシー(Muhammad al-Idrisi, 1100 -1165)が、1154年に史上初めて正確な上が南の世界地図を作成していたので、アブバカリ2世もそれを見ていたともいわれています。
イドリーシー古地図(1154)

スペイン 2006 発行

・カタロニア地図
  (Catalan Atlas、1375)
カタロニア地図はスペイン・バレアレス諸島州マヨルカ島パルマ・デ・マヨルカ(Palma de Mallorca, Mallorca, Islas Baleares, Spain)のアブラハム・クレスク(Abraham Cresques, 1325-1387)が1375年に作成しました。カタロニア地図は、古代ローマ時代のプトレマイオスの世界地図とは違い、マルコ・ポーロの東方見聞録(1300年頃説有)の情報や十字軍の遠征などで、ヨーロッパの世界地図の正確さが大きく改善された情報をもとにして作られました。特に十字軍は海路で方位磁針を使って地形を測定したため、地中海の輪郭は特に正確になって
           カタロニア地図
います。アジアの地形はまだかなり不正確でも、アラビア半島と紅海、ペルシア湾、インドの位置関係はかなり正確です。一方で、アフリカの描写は北部のみで、この地図からは喜望峰周りに航路があることは読み取れません。なお、この世界地図には日本に相当する島や地名は描かれていません。それはオルテリウス世界地図(1597)には登場しています。

参考HP:〜
プレスター・ジョン王の絵(16世紀の地図より)
プレスター・ジョン王国の場所地図(エチオピア設の古地図)

こちらで
ペロ・ダ・コヴィリャン
世界遺産の
ラスコー洞窟の岩絵 (フランス)
クレムリン(ロシア・モスクワ)
マルタ騎士団 (イタリア)
アトス共和国 (ギリシャ)
ヌビア遺跡 (エジプト)
ペトラ遺跡 (ヨルダン)
パルテノン神殿 (ギリシャ)
法隆寺 (日本)
をお楽しみください。

上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     2008/1/1追加、2018/9/10
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