Somalia 国連 1983 発行 |
切手で綴るアフリカ大陸一周航海シリーズ No.25
ソマリア Somalia |
大航海物語 地図編★ |
Jam.Dim.Soomaaliya アラブ連盟の加盟国地図 |
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J.D.SOOMAALIYEED ソマリア難民支援の寄付金付 Qaxootiga-Pro Rifugiati Refugees ソマリア 1981 発行 |
ソマリアとアラブ連盟の加盟国々旗 ソマリア 1974 発行 |
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SOMALIA | SOMALILAND | |||
ソマリアの地図 ソマリア 1956/4/30 発行 |
ソマリランドの地図
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COTE FRANCAISE DES SOMALIS ソマリア現地人 フランス領ソマリア 1947 発行 |
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SOMALIA ソマリアの場所地図 ソマリア独立記念 ソマリア 1960 発行 |
COTE FR SOMALIS ソマリア現地人 |
SOMALIA ITALIANA ソマリア現地人の母子 イタリア領ソマリア 1934/10 発行 |
砂漠のオアシス(Djibouti Mosque) フランス領ソマリア 1947 発行 |
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ソマリア Somalia 面積:63万8千km2(日本の約1.8倍)、人口:895万人(2008)、1,025万人(2013)、GDP:約55億ドル(2008)、首都:モガディシオ、民族:ソマリ族、言語:公用語:ソマリ語、アラビア語、第二公用語:英語、イタリア語、宗教:イスラム教、1番切手:イタリアが1902/10/12発行。 ソマリアは北東アフリカでアフリカの角(つの)と呼ばれる地域を領域とする国家。1991年勃発の内戦で国土は分断され、事実上の無政府状態が続き、エチオピアの軍事支援を受けた暫定政権が首都を制圧したものの、依然として内戦状態が続いて、現在の国土は暫定政権の南部と、1998年7月に自治宣言したプントランド(首都:ガローウェ、暫定政権との連邦制に肯定的)の北東部、91年に独立宣言した旧英領のソマリランド共和国(首都:ハルゲイサ、国際的に未承認、東部に分離の動き)の北部に大きく3分割されています。また、ソマリアに面するアデン湾にはソマリア海賊が横行して、世界中の船がアデン湾を通過する時には緊張し、敢えてケープタウンまで迂回する船もあるとか。こちらで、アデン湾のソマリア海賊 をお楽しみください。 ・国名の変遷:〜 1884-1960:ソマリア北部イギリス領ソマリランド (British Somaliland) 1889-1936:ソマリア南部イタリア領ソマリランド (Italian Somaliland) 1936-1941:イタリア領東アフリカ (Italian East Africa:エチオピア、ソマリランド、エリトリア) 独立後:〜 1960〜1969:ソマリア共和国 (Republic of Somalia) 1969〜1991:ソマリア民主共和国 (Somali Democratic Republic) 1991〜2012:ソマリア(公式国名無し)、(Republic of Somalia) 2012〜現在:ソマリア連邦共和国 (英語:Federal Republic of Somalia) (ソマリ語:Jamhuuriyadda Federaalka Soomaaliya) ・ソマリア略史:〜 14世紀、モロッコのイブン・バットゥータがモガディシオに来訪 15世紀、中国の鄭和の船団がモガディシオに来訪 ロシアの商人ニキティンがインドからの帰路に寄港 16世紀、ポルトガルがモガディシオを支配 1503年、ポルトガルの第5次インド遠征艦隊ラヴァスコ船長がバラワ(Barawa)に来訪 1871年、ザンジバル島のスルタンがモガディシオを征服 植民地:〜 1886年、イギリスが北部をイギリス領ソマリランド(1884-1960)として領有 1892年、イタリアがモガディシオを租借地とする 1905年、イタリアがモガディシオを買い上げ、イタリア領ソマリランド(1889-1936)の首都とする 1908年までにイタリアが南部をイタリア領ソマリランドとして領有 第2次世界大戦中に一時はイタリアが全土を占領するも、 その後イギリスの施政下となり 第2次世界大戦中、ケニアを拠点とするイギリス軍がモガディシオを占領 1948年、北部がイギリスの保護領となる 独立後:〜 1960/6/26、イギリス領がソマリランド国として独立 1960/7/01、イタリア領も独立し、南北統合で合併してソマリア共和国(Republic of Somalia)が発足 1969/10月、クーデターでモハメド・シアド・バーレ少将が実権を握り、 最高革命評議会議長に就任,、国名をソマリア民主共和国に変更,、その後、大統領に 1970/10月、社会主義国家を宣言、ソマリ社会主義革命党の一党独裁体制 1977年、エチオピアのソマリ族によるオガデン州分離独立運動に端を発して エチオピアとの間でオガデン戦争勃発(1988年の両国の停戦合意まで続く) 1980/1月、人民議会はバーレを大統領に選出 1982年、反バーレの反政府武装闘争が表面化、ソマリア内戦勃発 1991年、モハメド・シアド・バーレ政権が崩壊し憲法が廃止されて以降、 国際的に認められた政府が出てきていない アイディード将軍派に首都を追われたモハメド暫定大統領が 国際連合に対しPKO部隊派遣を要請 1991/01月、バレ大統領追放、全武装勢力間の内戦状態に突入 1991/05月、反政府勢力ソマリ国民運動(SNM)が首都モガディシオを制圧、 バーレを追放し、暫定大統領にアリ・マハディ・モハメドが就任するも、 各勢力の内部抗争で南北は再び分裂、北部が「ソマリランド」と自称し独立宣言 反政府勢力統一ソマリア会議(USC)の内部で、 モハメッド・ファッラ・アイディード将軍派がモハメド大統領派と対立 1991/06月、北部の旧英国領地域がソマリランド共和国として独立宣言、 バーレ元大統領はナイジェリアのラゴスに亡命 1992/04月、国連ソマリア活動(UNOSOM)、 米を中心とする統一タスクフォース(UNITAF)が活動開始 国連PKO介入後:〜 1992/12月、国連がPKO部隊、多国籍軍を派遣 1993/05月、武力行使を認めた第2次国連ソマリア活動展開 アイディード将軍は国連に対して宣戦布告 1993/10/3、モガディシオの戦闘(米ヘリのブラックホーク墜落、Blackhawk down)勃発 1994年、アメリカのクリントン大統領がソマリアからの撤兵を発表 1995/03月、UNOSOMが、武装勢力間の抗争、武装勢力の激しい抵抗により 国連PKO部隊完全撤退、アイディード派がアリ・アト派と内部分裂 1995/12月、ナイジェリアに亡命した、バーレ元大統領が、ラゴスで亡くなる 1996/08月、アイディード将軍が亡くなる 1998/07月、ソマリア北東部が「プントランド」と自称し自治領宣言、 ガローウェを首都とする自治政府「プントランド共和国」を樹立 2000/05月、ハッサン暫定政権樹立、 アイディード派やソマリランドなど独立勢力を排除したので、 内戦は続き、更に国家の分裂が進み、 これ以降、氏族・軍閥・宗派など様々な勢力が対立する群雄割拠状態となる 2000/08月、ジブチの仲介により、暫定国民「政府」成立 2003年、暫定国民「政府」が崩壊 2005/01月、周辺諸国の仲介により、暫定連邦「政府」(TFG)成立 2006/06月、「イスラム法廷連合」(UIC)が首都モガディシオを占領、 バイドアを除く中・南部ソマリア地域を制圧 イスラム教とキリスト教という宗教対立で、対外戦争の火種となる 2006/12月、TFGの要請を受けたキリスト教国のエチオピア軍が侵攻してソマリアを制圧 暫定政府が国権を掌握する 2007/01月、アメリカ軍がエチオピア軍支援のため空襲、暫定政府は法廷会議に対し勝利宣言 法廷会議はケニア国境付近へ逃走、 国内の残党との連携で後のデモやテロの根源となり、 PKO再派遣が決定されるもアフリカ連合(AU)中心で参加国数も内容も低調に終わる 2007/09月、エチオピア軍に駆逐されたUICが、エリトリアで「ソマリア再解放連盟」(ARS)結成 2008/08月、TFGとARSの穏健派グループが、ジブチ合意(停戦等)に署名、 イスラム法廷勢力との間の停戦協定 2008/12月、アブドゥラヒ・ユスフ大統領が辞任 2009/01月、エチオピア軍撤退終了後、反TFG勢力アル・シャバーブがバイドアを掌握 シェイク・シャリフ(ARSの穏健派グループ指導者)が、 ユスフ初代TFG「大統領」の後任として就任 2009/01月、イスラム法廷会議の流れをくむソマリア再解放連盟(ARS)の指導者で穏健派の シェイフ・シャリーフ・シェイフ・アフマドが大統領に選出され、 オマル・アブディラシッド・アリー・シェルマルケを首相とする内閣が発足 2009/02月、シャマルケが首相に指名される 2010/07月、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR) は、難民流出の状況を発表、 ソマリアからケニアに逃れた難民は今年度前半の6ヵ月で約3万人、 2009年の同期の4万4000人から3分の1近く減少、アデン湾向岸のイェ−メンへの難民も 2009年同期の1万3000人から6700人に減少、 事務所の報道官は減少は安全でなく不安定さを増していると記者会見で語る 2012/8月、暫定政権の統治終了を受けて公式国名がソマリア連邦共和国に改称された。 ソマリアは1991年から内戦状態にあり現在も継続中で、おおよそ、 (1)北西部のソマリランド、 (2)幾つかの自治州が集まったソマリア暫定連邦政府、 (3)南部のイスラム勢力 の3つに分けられる。 (1)北西部のソマリランド:〜北部 旧イギリス領ソマリランド(British Somaliland, 1884-1960)とほぼ同じ地域 ソマリランドはソマリ族5大氏族の一つ、イサックが内戦早々の1991年に建てた国で、国際的には承認されていない。ソマリランドが主張している領土は、ソマリア独立前にイギリスの保護領だったところであり、独立当初の行政区分は6州であった。この行政区分は実際のソマリ族分布と一致していなかったため、2008年3月に12州に、同5月には13州に改変された。ただし東部の州はイサックとは別の大氏族ダロッドの居住区域であり、ここの領有権を巡ってプントランドと紛争状態にある。 1 サラル(Salal)、ゼイラ(Zeila) 2 アウダル(Awdal)、ボラマ(Borama) 3 ガビレイ(Gabiley )、ガビレイ(Gabiley ) 4 マローディ・ジェーハ(Maroodi Jeex )、ハルゲイサ(Hargeisa) 5 サヒル(Saaxil)、ベルベラ(Berbera)〜 1518年にポルトガルのアントニオ・デ・サルダーニャ(Antonio de Saldanha)が支配 6 オドウェイン(Odweyne)、オドウェイン(Odweyne) 7 トゲーア(Togdheer)、ブラオ(Burao) 8 ブーホードル(Buuhoodle)、ブーホードル(Buuhoodle)〜プントランドが実効支配 9 サラル(Sarar)、カイナバ(Ainabo) 10 ソール(Sool )、ラス・アノド(Las Anod)〜プントランドから取得 11 サナーグ(Sanaag)、エリガボ(Ceerigaabo)〜プントランドから取得 12 マーヒル(Maakhir)、バハン(Badhan)〜プントランドが実効支配 13 ハウド(Hawd)、バリグバドレ(Balegubadle) 参考HP:〜ソマリランドの区分地図(2008/5/15以降)。 (2)幾つかの自治州が集まったソマリア暫定連邦政府:〜北東部 2005年1月にアメリカ合衆国やエチオピアの後押しでソマリア暫定連邦政府が成立し、北西部のソマリランドと南部のイスラーム勢力を除くほぼ全ての勢力がこれに参加した。この新生ソマリアは連邦制を取っており、連邦を構成するそれぞれの自治州の思惑は必ずしも一致していない。また、南部ではアル・シャバブなどと領土を争っており、境界線は確定していない。 ・プントランド(Puntland):〜 プントランド はソマリ族5大氏族の一つ、ダロッドが建てた事実上の独立地域である。政府の実権は必ずしも政府が主張している領土の全域に及んでいないが、比較的安定している方である。ソマリア沖の海賊が本拠地にしているといわれているムダグ、エイルのいずれもプントランド内にある。 1.バリ州(Bari)、ボサソ(Bosaso) 2.カルカール州(Karkaar)、カードゥ(Qardho) 3.ヌガール州(Nugaal)、ガローウェ(Garoowe) 4.ムダグ州(Mudug)、ガルカイヨ(Gaalkacyo) 5.サナーグ州(Sanaag)、セーリガーボ(Ceerigaabo) 6.スール州(Sool)、ラス・アノド(Laascaanood) 7.アイン州(Ayn)、ブーホードル(Buhodle) このうちサナーグ州、スール州、アイン州はソマリランドとの紛争地域。 ・ガルムドゥグ(Galmudug ):〜 ガルムドゥグはソマリ族5大氏族の一つ、ハウィエが建てた事実上の独立地域である。ソマリア中部の領有を宣言しているが、実際にはプントランド州都ガローウェとソマリア首都モガディシュを結ぶ道路沿いの一部を支配しているに過ぎず、海岸沿いのホビョーやハラデヤなどには実権が及んでいない。しかもその道路沿いも南部のイスラーム勢力アル・シャバブに大きく侵食されている。 1.ムダグ州(Mudug)、ガルカイヨ(Gaalkacyo) 2.ホビョー州(Hobyo)、ホビョー(Hobyo)。 ・首都モガディシオ (Mogadisiho, Banaadir region) バナディール州、ソマリアの首都、(Mogadisiho、人口約60万人(2008)、約165万人(2014) イスラム勢力に制圧されているソマリア南部の中で、首都モガディシオの一部だけはアフリカ連合などの支援を受けてソマリア暫定連邦政府が押さえており、暫定大統領府もここにある。しかしその大統領府近辺も、2009年6月にはイスラム勢力の包囲を受けて消滅寸前の状態が続いている。なお、エチオピアから流れてくる近くのジュバ川(Webi Jubba)がサトウキビ、綿花、バナナの栽培の水源になっている。 (3)南部のイスラム勢力:〜南部 南部イスラム支配地域 最も大きな勢力はアル・シャバブであり、ソマリア暫定連邦政府との国境沿いを支配している。ソマリア南部の一部を別のイスラム勢力ヒズブル・イスラムが支配している。地元勢力は時々に応じてアル・シャバブ、ヒズブル・イスラム、ソマリア暫定連邦政府と組む相手を変えているため、ソマリア南部の支配体制は複雑であり、変動も大きい。 ・旧ソマリア(Transitional Federal Government)の18州(Regions and Districts of Somalia):〜 ソマリアは内戦前には18の州に分かれていた。現在でもこの区分で報道されることも多いが、当時の州境と現在の勢力区分は必ずしも一致しないので要注意。
※ソマリアでは石油や地下資源の埋蔵が発見されているが未開発になっている。
・モガディシオの戦い (Battle of Mogadisiho, 1993/10/3-10/4) 別名:ブラック・シーの戦い (Battle of Black Sea, 1993) 米軍を中心とする多国籍軍とゲリラとの市街戦 モガディシュの戦闘は、ソマリアの首都モガディシュでアメリカ軍とソマリア民兵とのあいだで発生し、後にアメリカがソマリア内戦介入から撤収するきっかけとなった戦闘。戦闘の激しかった地域の名を取って「ブラック・シーの戦い」とも呼ばれる。後にこの出来事は世界中のメディアによって「モガディシュの戦闘」と名づけられた。冷戦の終結と共に始まったソマリア内戦は泥沼化し、戦争による難民の飢餓が国際的な課題となった。国際連合(UN)は難民への食糧援助を行うため、平和維持活動から平和強制活動による軍事的介入を行った。アイディード派による敵対者たちへの軍事的包囲をやめさせ、飢餓状態を救おうとした。作戦は国連主導のものではなく、米国(当時はビル・クリントン大統領)が単独で行った。
1993/10/3に統合特殊作戦コマンド(JSOC)が実行したのは、ソマリアでの第一目標のソマリア民兵の将軍モハメッド・ファッラ・アイディード(Mohamed Farrah Aidid、1934-1996/8/2)とその副官二人を捕らえる作戦だった。主にレンジャー部隊とデルタフォース(第1特殊作戦部隊分遣隊-デルタ)から成るアメリカ特別作戦部隊が、アイディード派の外務大臣オマール・サラッド(Omar Salad Elmi)と最高政治顧問モハメッド・ハッサン・エワレ(Mohamed Hassan Awale)を捕らえるための作戦コード「アイリーン」を発動。米軍は作戦を30分程度で終わらせる自信があったが、実際には15時間を費やし、2機のヘリコプターを失い、銃撃戦によって18人の米兵を殺害され(国連軍兵士1名を入れると19人)、ソマリア民兵・市民350人以上(米国は1,000人以上としている)を殺害。撃墜されたヘリ「スーパー61」が”We got a Blackhawk down”(ブラックホークの墜落を確認)と墜落時に交信して、有名になった。なお、撃墜された2機のMH-60 ブラックホークのうち1機目が海の近くに墜落し、第一墜落地点が激戦地となった。翌10月4日午前6時30分、米軍は米兵18人とマレーシアの国連軍兵1人が死亡し、73人が負傷してパキスタンの国連軍基地に引き上げた。この戦闘は、ソマリアの国連活動の中でアメリカ軍が直面したもっとも激しい市街戦のうちの1つであった。また、この戦いの後、死亡した米兵(上記の降下した2人とブラックホークの乗員)の遺体が裸にされ、住民に引きずり回されるという悲惨な映像が公開され、アメリカのニュース番組で放映された(後に身体を切断された状態で発見される)。これに衝撃を受けたアメリカ国民の間で撤退論が高まった。アメリカ世論を背景にクリントン大統領は1994年、ソマリアからの撤兵を決定したが、この戦闘が平和維持活動から撤退したことの理由の1つとして挙げられている。また、クリントンはこの作戦の痛手によって、その後は地上軍の派遣を渋り、ミサイルや航空機によるハイテク戦争への方向を推し進めていく。この作戦の初期の目的は達成されたため「作戦上は成功」であったが、当初30分程度で終了する予定の任務が夜をまたいで15時間にもおよび、多くの犠牲を出した。1999年に、マーク・ボウデンにより'Black Hawk Down: A Story of Modern War'(邦題『ブラックホーク・ダウン アメリカ最強特殊部隊の戦闘記録』早川書房刊)という本として出版され、2001年にはリドリー・スコット監督により、「ブラックホーク・ダウン」として映画化された。 ・東アフリカ大旱魃 (2011 East Africa Drought) 東アフリカ大旱魃(だいかんばつ)は2011年から2012年まで東アフリカを襲った大規模な旱魃で、過去60年間で最悪とも言われて、ソマリア、エチオピア、ケニアが影響を受け、食糧不足で1200万人以上が生活を脅かされている。旱魃がひどい地域と食糧危機が発生している地域は必ずしも重ならないが、飢饉の被害は内戦が激しい南部ソマリアが特にひどく、住民の多くは隣国のケニアとエチオピアに逃れている。人口密度の高さ、不衛生、栄養失調で、多くの人が命を失っている。この3国以外にも、近隣のジブチ、スーダン、南スーダン、及びウガンダの一部も食糧危機の影響を受けている。 2010/7/20に国連は南西ソマリアの2地域(下部シェベリ州、バコール州)で飢饉が起こっていることを公式に宣言。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR) は、難民流出の状況を発表した。それによると、ソマリアからケニアに逃れた難民は今年度前半の6ヵ月で約3万人。2009年同期の44,000人から3分の1近く減少した。アデン湾向岸のイエメンへの難民も2009年同期の13,000人から6,700人に減少。事務所の報道官は、減少は安定でなく不安定さを増していると記者会見で語った。2011年11月、国連はベイ川、ベクール川、シェベリ川下流の3地域(ベイ州、バコール州、下部シェベリ州)に対する飢饉地域指定を解除した(国連人道問題調整事務所(OCHA)による)。 <ソマリアのユネスコ世界遺産>:〜不明 ※ソマリアへの渡航時には、現時点の正しい情報を外務省(MOFA)HPなどで確認の要有。 参考HP:〜 ・ソマリアの地図(日本語) ・ソマリアの区分地図(詳細) ・ソマリランドの地図(詳細) ・ソマリアの鉄道地図 ・ソマリアの地図(詳細, Glohar = Jowhar) ・ソマリアの地図(イタリア領ソマリランド) こちらで ・ジブチの鉄道 ・タンザン鉄道 ・スパイス (香辛料) ・ヌビア遺跡 (エジプト)世界遺産 ・パルテノン神殿 (ギリシャ)世界遺産 ・法隆寺 (日本)世界遺産 をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/8/31、10/9/9、19/3/15、2019/9/20 |