Guinea-Bissau 国連 1989 発行 |
切手で綴るアフリカ大陸一周航海シリーズ No.5
ギニアビサアウ共和国 Republic of Guinea-Bissau |
大航海物語 地図編★ |
ギニアビサウの場所地図 乗客70人乗り貨客船 リタ・マリア号、就航:1953-1971 パケット船 リタ・マリア号(PAQUETE RITA MARIA FROM 1953 TO 1971) ギニアビサウ 2001 発行 |
セネガル ギニアビサウ ギニア |
ヤツガシラ:Hoopou 学名:Upupa (Upopa) epops 背景:ギリシャの地図 |
チャップマン シマウマ:Chapman's Zebra 学名:Equus burchelli antiquorum 背景:アンゴラの地図 |
ギニア ホロホロチョウ:Guineafowl 学名:Acrylliam vulturinum 背景:エチオピアの地図 |
アカ スズメ フクロウ:Ferroginaus Pygmy Owl 学名:Glaucidium brazilianum 背景:カナダの地図 |
アフリカ ゾウ:African Elephant 学名:Loxodonta (Lexodonta) africana 背景:ニジェールの地図 |
クロ サイ:Black Rhino 学名:Diceros bicornis 背景:ザイールの地図 |
アフリカ ライオン:African Lion 学名:Panthera leo 背景:スーダンの地図 ギニアビサウ 1988 発行、文字誤(正) |
マンドリル:Mandrill (Baboon) Macacos Africanos 学名:Mandrillus Sphinx |
ギニアビサウ 1983 発行 |
ギニアビサウ共和国 Republic of Guinea-Bissau 旧称:ポルトガル領ギニア (Portuguese Guinea、1474-1974) 面積:36,1250ku(九州とほぼ同じ)、人口:1,611,000人(2008)、1,815,698人(2016) 通貨:CFAフラン、GDP:8億ドル(2008)購買力平価説(国際比較(169位2020)こちらを参照) 首都:ビサウ(Bissau)、民族:バランタ族、フラ、マンジャカ、マンディンカ、パペウ、など 言語:ポルトガル語(公用語)、民族語など 宗教:原始宗教、イスラム教、キリスト教 ポルトガル領ギニア1番切手:カーボヴェルデ1877年に "GUINE" 加刷で〜1973/12/15迄発行 ギニアビサウ共和国1番切手:1974/9/10発行。国連加盟:1974/9/17。 ギニアビサウ共和国は西アフリカにある共和制国家で、ポルトガルの植民地だったのが、1973年に独立。1990年代以降は内戦が続発し、軍の反乱やクーデターが頻発するなど不安定な政治が続き、経済的にも依然として世界最貧国の一つ。ポルトガル語諸国共同体、ポルトガル語公用語アフリカ諸国に加盟。アフリカ大陸では比較的面積の小さい国の一つで、北はセネガルに、南と南西はギニアと国境を接して西は大西洋にビジャゴス諸島が浮んでいる。 ・ギニアビサウの略史:〜 1446、ポルトガル人のトリスタン船長がジェバ川に到達、上陸してポルトガルの領有を宣言 その後、南北アメリカ大陸への奴隷貿易の中継地となる 1458、ポルトガルのディオゴ・ゴメス船長がビジャゴス諸島に到達、発見 1535、ポルトガルがビジャゴス諸島を占領 1630、ポルトガルが総督府を設置 1687、奴隷貿易の拠点としてビサウが建設される 1792、イギリスがビジャゴス諸島ボラマ島に居住地を建設するも、1794年放棄(1814にも再来) 1860、イギリスがボラマ島をシエラレオーネに併合を宣言、ポルトガルが抗議し臨戦態勢となる 1870、アメリカ合衆国のグラント大統領の仲裁で、ボラマ島がポルトガルの領有と正式に決定 1879、カーボベルデ植民地だったポルトガル領ギニアが単独でポルトガルの植民地となり、 ボラマ島(islas de Bolama)が首都となるも、内陸部や離島地域の植民地支配は混迷する 1936、ビジャゴス諸島が完全にポルトガル領ギニア政府の支配下となる 1941、首都がボラマからビサウに遷都 1942、第2次世界大戦中にビサウが正式にポルトガル領ギニアの首都と定められる 1951、アントニオ・サラザール政権のポルトガルの植民地法の改正により、 ポルトガルの全海外植民地は法的に植民地からポルトガルの海外州となる ポ領植民地時代のギニア、アンゴラ、モザンビークの非識字率は99% 1956、カーボベルデのアミルカル・カブラル(Amilcar Lopes Cabral, 1924-1973)がポルトガル領ギニア (ギニアビサウ)でギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)を結成して民族解放運動を開始 1959/8/3、ビサウでストライキを起こした港湾労働者がポルトガル軍によって多数殺害された 「ピジギチの虐殺」以降は、農村を根拠地にした武装ゲリラ闘争による独立闘争を開始 1963、PAIGCがティテ(Tite, Quinara Region)のポルトガル軍基地を襲撃、 ギニアビサウ独立戦争(1963/1/23-1974/9/10)が勃発、 ソビエト連邦やキューバ、ギニアなどの支援を受けたPAIGC(1万)と、 アメリカ支援のポルトガルのエスタード・ノーヴォ政権(3.5万)の間で植民地戦争が続く 1968、11月に総督アントニオ・デ・スピノラ将軍がマルセロ・カエターノ新首相に 「軍事的勝利は不可能である」と報告 1973/1/20、PAIGCの指導者アミルカル・カブラルがギニアの首都コナクリで、ポルトガル秘密 警察(PIDE)に暗殺される、アミルカル(Amilcar Lopes Cabral)の弟ルイス・カブラルが PAIGCの主導権を握って独立闘争は激化 1973/9/24、領土の3/4以上を解放したPAIGCは東部の町マディナ・ド・ボエで、ギニアビサウ国の 独立を宣言、アフリカで唯一の独立勢力が宗主国に一定の勝利を収めた国家となる 1974/4/25、リスボンでカーネーション革命が勃発、エスタード・ノーヴォ体制は崩壊、 左派政権が誕生、以降、各植民地の独立勢力との間で独立交渉が開始され、 ポルトガル領ギニアでは既存のPAIGCの支配をポルトガルが承認する形となる 1974/9/10、ポルトガル政府が正式に独立を承認、ルイス・カブラルが初代大統領に就任 1番切手発行 1975、7月にカーボベルデがポルトガルから独立 1977、国名のギニアビサウ国をギニアビサウ共和国に改称 1980、11月にジョアン・ヴィエイラ首相がカーボベルデ系ルイス・カブラル大統領を 軍事クーデターで失脚させて政権奪取、革命評議会設置、ヴィエイラが 革命評議会議長(国家元首)に就任、 カーボベルデと統合する計画は無くなる 1984、5月に憲法改正で革命評議会が国家評議会となり、ヴィエイラが議長に就任 建国当初の親東側路線はヴィエイラ政権により親米路線に変更されたが、 国内の治安は悪く、軍に対する統制も不十分でクーデター計画が頻発 革命評議会を廃止、国家評議会を設置しヴィエイラ氏が議長に就任 1985、11月にコレイラ国家評議会副議長によるクーデター未遂 1991、05月に憲法改正(複数政党制への移行)、政党の結成が解禁される 1994/7/03、大統領選挙第1回の投票実施、ヴィエイラは過半数に満たず 1994/8/07、大統領選挙の第2回投票でヴィエイラが52.02%を獲得、 国際選挙監視団は公正と評価して、ヴィエイラが大統領に当選となる 1994/9/29、ギニアビサウで初めての民主的選挙によって選ばれたヴィエイラが大統領となる 1998、6月に一部軍人(マネ前参謀長ら)による反乱発生、クーデター未遂事件が勃発、 ヴィエイラ派軍と反政府のアンスマネ・マネ派軍との内戦が勃発(ギニアビサウ内戦) ギニアビサウ内戦で避難民30万人がビサウに流入するなど社会、経済は混乱 1999/05/7、反政府軍がヴィエイラ政権を退陣させ、サーニャ国民議会議長が 暫定国家元首に就任、ヴィエイラ大統領はポルトガル大使館へ避難 7月にヴィエイラ(Joao Bernardo Vieira)大統領がポルトガルへ亡命 1999/11/28、大統領選挙(第1回投票)、国民議会選挙 2000、01月にクンバ・ヤラが大統領に就任するも、実態はアンスマネ・マネ将軍が実権を握る 軍事政権でヤラ(Kumba Yala)大統領とマネ(Ansumane Mane)は対立、 大統領選挙(第2回投票)、クンバ・ヤラが当選 2001/11/30、マネが暗殺されるが、経済の低迷や政情不安は続く 2003/9/14、ヴェリッシモ・セアブラ将軍の無血クーデターでヤラ大統領が辞任・逮捕 後任としてエンリケ・ローザが臨時大統領に就任 10月に暫定政権発足、ローザが臨時大統領に就任 2004、3月にセアブラ将軍が死亡したものの、国民議会選挙によりPAIGCが勝利 カルロス・ジュニオル首相による連立政権が樹立される 2005、6・7月に大統領選挙 10月に大統領選挙で、亡命先のポルトガルから帰国した無所属のヴィエイラが勝利 ヴィエイラが大統領に就任、カルロス・ジュニオル首相を更迭、 アリスティデス・ゴメスが首相となる 2008、11月に議会選挙では多数派与党が勝利 選挙から一週間後には軍の不満分子による大統領官邸襲撃事件が発生、 反乱軍は撃退されてクーデターは未遂に終わり、大統領警護隊が新設される 2009、01月にナワイ参謀長が大統領警護隊の解散を命じるも、参謀長暗殺未遂事件が起きる 03/01、首都ビサウの軍司令部が爆撃を受ける 大統領と対立していたナワイ参謀長が爆殺される(2人続けての参謀長暗殺) 03/02、反乱軍兵士が大統領自宅を襲撃してヴィエイラ大統領を殺害、 政府軍は国営ラジオで反乱軍が「孤立した勢力」であり、鎮圧寸前であると発表 軍が憲法を守ることも保障、ゴメス首相とルイス・サンカ国家安全保障顧問は 大統領が死亡したことを確認、首都には軍部隊が配置され、民間ラジオ局を閉鎖 現在までビサウに大きな混乱は無いが、BBCによると軍本部の建物が爆発で 一部破壊されたと報じ、ライムンド・ぺレイラ国民議会議長が暫定大統領に就任 9月に大統領選挙、マラム・サーニャ元国民議会議長が大統領に選出される 2010/04/1、ゴメス首相が一時兵士らに拘束される事態となるも、首相は数時間後に解放される 2012/01/9、サーニャ大統領がフランス・パリの病院で逝去(64才) 04月に大統領選挙中に一部軍人によるクーデターの動きで 国連がクーデター首謀者らに制裁を課す 05月にヌハマジョ暫定大統領就任 2014、05月に大統領選挙,ヴァス大統領選出ペレイラ首相任命 2015、08月にペレイラ内閣解散 09月にジャ内閣組閣も最高裁違憲判決を受け解散 10月に新内閣、コレイア首相任命 2016、05月にコレイア内閣解散、ジャ首相任命(同年6月新内閣) 10月にコナクリ合意(ECOWASの調停のもと全関係政党が署名) 11月にジャ内閣解散 12月にエムバロ首相任命 2018、4月にアリスティデス・ゴメス首相任命、ゴメス内閣発足。 ギニアビサウの8州 (regioe) と1自治区(sector autonomo):〜
ジェバ川は、歴史的な交易路で、特にビサウとバタファ間の連絡は重要でした。ポルトガルの植民地支配に抵抗した原住民たちは、しばしばこの区間の航行を妨害。19世紀末から激化した抵抗運動を鎮圧するため、1907年からポルトガルによる本格的な軍事介入が始まり、ジェバ川に沿って数多くの戦闘が行われました。1974年まで続いたポルトガルの植民地戦争の間にも、この川は多数の軍事作戦の場所となりました。 ビジャゴス諸島(Bissagos Islands)へは、1458年にポルトガルのディオゴ・ゴメス船長が到達・発見しました。ビジャゴス諸島の、18の大きな島と12の小さな島々には、20の有人島があり、住民の多くはビジャゴス人で、ビジャゴス語が話されています。ボラマ島、ブバケ島およびカラヴェラ島の人口が多く、観光客も訪れ、ウミガメ、マナティーなどの野生動物が生息して、ユネスコの生物圏保護区に指定されています。 <ビジャゴス諸島の主な島>:〜
<ギニアビサウの世界遺産>:〜無 ギニアビサウの世界遺産条約批准は2006年のことで、暫定リストには ・ビジャゴス諸島の生物圏保護区 (Reserve de Biosphere de l'Archipel des Bijagos, 2006) が記載されています。 参考HP:〜 ・ギニアビサウの場所地図 ・ギニアビサウの地図(州区分とビジャゴス諸島有) ・ビジャゴス諸島の地図(ボラマ島の場所地図) こちらで ・サフレン提督
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 11/4/24、19/1/14、2019/9/23、 令和 R.5/1/10(2023) |